桜の花びらが、冷めた茶に浮かんでいた。



色彩独奏競争曲
フューネラル・オラトリオ




 表情の固まった鳳珠さんを見て、私は不謹慎にも面白いものを見たと嬉しくなっていた。視線を黎深さんに遣れば、こちらはまるで全て分かっていたとでも言わんばかりにふんぞりかえっている。だが彼が偉そうにする理由が分からない。……元々こうだ、と言われてしまえばそれまでだけど。
 しかしいつまでも固まったままでいられては話が進まない。私は黎深さんに目配せした。黎深さんは面倒くさそうな顔をしたが、立ち上がって鳳珠さんの前に立つと、両手を彼の顔の前でパン、と鳴らした。
 すると音が鳴った瞬間、鳳珠さんの目に光が戻る。黎深さんはさっさと椅子に戻った。

「正気に戻ったか馬鹿が」
「馬鹿……っ、黎深、貴様そこに直れ!」
「気功をくらうのは御免だ。おい、こいつが納得するように説明しろ」
「説明といっても、そんなに大した理由は無いんですけど……」
「お前は大した理由が無いことの方が大したことだということに気付け」

 黎深さんの珍しく真っ当な意見に私は苦笑した。そして私が理由を言うのを待っているらしい鳳珠さんに向かって頭を下げる。

「折角勉強を見てくれたのに落ちてしまったことは申し訳なく思っています」
「……謝罪はいい。理由の方が聞きたい」
「本当に理由はないんですよ。強いて言うなら勉強不足でしょうか」
「何故だ?あれ程勉強していたではないか」

 その言葉に、気まずくて私は視線を鳳珠さんから逸らした。ごまかすという選択肢を選ばなかったのは私の彼に対する友情の証だと思って欲しい。鳳珠さんは何かに気付いたように体を小さく震わせ始めた。

「……まさかとは思うが、お前………」
「……………」
「家業の負担は減らしていたんだろうな?」
「……服飾を担当していました」
「………出した宿題は自分でやったんだろうな?」
「…………すみません、たまに間に合わなくて、親切な小人さんがやってくれていました」

 ちなみに小人は多分父上だ。

「…………っ。………まあ、いい。お前がそれくらいで落ちるとは思わない。他に思い当たることはないのか」

 何かを堪えるように膝の上で拳を握りしめた鳳珠さんに、流石に身の危険を感じる。――が、嘘をついてもその横の『天つ才』に見破られることは目に見えているので正直に話す。

「いえ……特には。ただ本当に、所々分からないところがあったので受かる自身はありませんでした。国試はやはり、一年勉強したくらいでは到底通ることの出来ない遠い存在ですね。……あ、思い出しました。詩がさっぱりでした。韻とかぜんっぜん思いつきませんでした。鳳珠さん、出世したら詩の試験なくしてくれませんか?」
「待て。どこに突っ込めばいいのか分からない」
「はい。ゆっくり考えてください」
「……とりあえずお前の頭を叩いていいか?」
「だめです。これ以上頭悪くなったらどうするんですか」

 笑顔で言うと鳳珠さんは降参したと言わんばかりに肩を落とした。そして諦めたように卓に突っ伏す。

「お前、一年で国試に受かろうと思っていたのか」
「一年で、というか……国試受験を決めたのが一年前でしたから。それまでは思いつきもしませんでしたね」

 そういえばどのくらい下位だったんですか、と黎深さんに尋ねる。この人のことだ、きっと官吏を騙すなり脅すなり影を使うなりして結果を見たに違いない。そうでなければ私の結果を知ることはできないだろう。

「最下位合格者の下、2356番目」
「うわ、それだと国試は絶望的ですね。気合入れて文を書かないと」

 よし、と気合を入れる。頭の中で、この一年で繋がりを作った貴族・官吏を思い浮かべ、その中でも地位が高い、あるいはそれなりの権限を持つ家出身の人間を選んでいく。
 数人に絞り込んだところで鳳珠さんの声が耳に入った。見れば卓から頭を上げた鳳珠さんと目が合う。
 ……しまった。口が滑った。

「文、だと?」

 信じられない、とでも言うようなその声色に、今更なかったことにもできず私は再度苦笑した。おそらく、今から私がやろうとしていることに対し鳳珠さんは良い感情を抱いていないだろう。その必要性については認めていても、国試及第を目指していた人間がやることとしては納得しがたいのではないだろうか。
 だから私は少しでも彼の感情を穏やかな方へ誘導できるように、静かな声で言葉を紡ぐ。
 『今の関係』を失うことを、覚悟しようとして――できずに、曖昧なまま口を開いた。

「……はい。資蔭制で入廷しようと思っています」

 すると、今まで口を挟もうとしなかった黎深さんが忌々しそうに呟いた。

「2年後か」

 やはりこの人はすごいな、と思う。私が元々持っている知識との推測能力――ただし思考の主体が私なので精度は極端に悪くなっているだろうが――を合わせても未だその結論に自信が持てずにいたのだが、黎深さんがそう言うのなら、本当に2年後なのだろう。

「そうですね。だから、来年には入廷しないと間に合わないんです。勉強しなおすにもその順位では間に合いそうにありませんし」
、お前……」

 どうやら鳳珠さんも分かっていたらしい。何故ここまで賢いのだろう。私も元の世界に比べれば天才補整がかかっている分、多少頭の回転が早まったと思っているのだが、この二人にはこれからも敵わない自信がある。

「まったく迷惑な話です。内乱をするなら国民に関係のないところでやってほしいですね。……王家と国民はある意味一蓮托生だから仕方ないと言えばそうなのかもしれませんけど」
「だが、家ほどの商家であればそれ程……民ほどの影響は受けないのではないか?」
「臆病者なので生存確率は少しでも上げておきたいんです」

 ――2年後。おそらく内乱が起きる。交渉に行く家々で拾う断片的な情報と、交渉相手の官吏の感情をつなぎ合わせて出した結論だ。そしてその時、物価上昇もピークを迎えるだろう。グラフに起こせば、物価はいっそ綺麗だといえるほどに上昇の一途を辿っていた。
 その時に官吏になっていることは強みとなる。寧ろ、彩七家の保護を受けることの出来ない紫州だからこそ、官吏であることが大きな意味を持つ。

「私は手を出さんぞ」

 黎深さんが言った。鳳珠さんも苦しそうな顔をする。おそらくこれは「資蔭制に」ではなく、「内乱が起こったときに」ということだろう。新進士が資蔭に関わるほどの権限を持てるとは思わない。黎深さんは色々別だが。

「はい、それでいいと思います。私が言うことではありませんけど――州をお願いしますね」
「…………」

 なるべく明るい声で言うが、二人から反応は返ってこない。――なんとなく、分かってはいたけれど。
 気を抜くと口角が下がってしまうような気がして、私は無理矢理笑顔を作った。
 ……だめだ。顔が引きつる。なんとか踏ん張って、最後の言葉を口にする。

「……すみませんが、今日は、お帰りいただけますか?」

 言ってしまうと、もう駄目だった。慌てて後ろを向く。二人が無言で立ち上がるのを音で察した。そのまま、来たときとは正反対の足音と衣擦れの音が聞こえ、やがて小さくなっていった。
 何かの衝動に突き動かされて、私は急いで振り向く。

「待っ……!」

 けれど、もう誰もいなかった。
 それを認識した瞬間に力が抜けて、私は床にへたり込んだ。

「………馬鹿は、私だよなあ……」

 黎深さんが鳳珠さんに言った「馬鹿」という言葉は、今の私にこそ投げつけられるべきだ。



 家は大きい。それこそ内乱も無事にやり過ごせるくらいの力を持っているはずだ。だから本当は、私は官吏にならなくても家にいれば内乱で餓死することはない。
 そして鳳珠さんは、私が勉強しさえすれば国試及第を成すだけの能力を有していると思っているだろう。私もそう思う――いや、やっぱり思わない。記憶力が段違いに上がっているから暗記が大丈夫なので、他の文献からの引用やそれを交えての考察にはかなり余裕ができる。しかしそれにしたって限界はあるし、子供の頃から勉強してきている人達と比べたらかける時間も情熱も努力の量も段違いに少ないのでやはり無理ではないかと思う。さらに最大の問題は詩文だ。以前「母」から教えてもらっていたときは仕事が忙しかったので勉強もそう頻繁なことではなかったから、大抵は経典の勉強だったし詩文についてはほぼノータッチだった。
 そして私は著名な詩人たちの功績を見て思うのだ。無理だ、と。

 話が逸れた。つまり鳳珠さんは私を「頑張れば国試に及第する人」だと思っているが、私は自分のことを「頑張ってもやる気・根気・勇気とセンスがないので受からない人」だと確信しているのである。

 鳳珠さんの評価は妥当なものだと思う。『』の能力を少しでも間借りできている限り、時間はかかるだろうが自力で及第できる可能性はある。けれど私に、そのために必要な要素――それこそ努力などの――がごっそりと抜け落ちてしまっているから、私は国試に及第することができないのだ。
 元々この世界の人間でないというのが大きいかもしれない。どうしても、この国に愛着が一定以上持てない。

「………文、書かないと」

 沈んでいく考えを振り払うように、卓に手を伸ばし、それを支えに立ち上がる。しかしまたすぐに力が抜けてしまって、手だけ卓の上に置いたまま、私は膝をついた。

「失言が多いのは、私の短所だね……」

 言うべきではなかった。人よりも多くの努力を重ねて官吏になったのであろう鳳珠さんには特に。「国試に及第できませんでした、だから偉い人に取り入って官吏になることにします」では、彼だけでなく全ての国試及第者が報われない。
 彼との間に折角築くことの出来た友情を壊したくないのなら、黙っているか嘘を突き通せば良かった。多分黎深さんは嘘だと気付いても言わない――というより、興味を持たなかっただろう。その場合は官吏になった後に資蔭制だと知られることになるのだろうが、少なくとも今、こんなことにはならなかったはずだ。

 誰よりも努力する彼は、可能性があるのに楽な道へ逃げる者を厭う。
 私は彼の信頼を、彼が一番嫌う形で裏切ったのだ。

 それでも、内乱が起きる前に官吏になりたかった。
 勉強しても間に合わないのだ。

「……生きたい」

 生きたい。生きたい。――生きたい。それだけを呟き続ける。
 耳に、ゴポ、と水中に空気が排出される音が響いた。私は咄嗟に耳をふさぐ。聞きたくなかった。

「もう、死にたくない」

 胸が痛い。肺が痛い。床に倒れこんで体を小さく丸めた。
 なんて嫌な現象だろう。自分の死の間際の痛みを幻覚するなど。

「………いやだ……」

 私は生き汚くなった。安全な道があればあるほど両手を伸ばして得ようと足掻く。
 そして同時に生きることに頓着しなくなった。安全である間は生をどこか遠いものとして考えてしまう。

 一度知ってしまった『死』は、『生きている』私に矛盾を与えた。

 その痛みと、死から逃れようともがいた己の行動で、私はかけがえのない友を失ったのだ。



 繋がりを持った貴族・管理と頻繁に文を交わし、時には金のミルフィーユ――いわゆる賄賂を携えて家々へと赴く。へらへらと笑ってご機嫌取りをし、相手を持ち上げ約束を取り付けていく。
 文机の前に開いた窓の外では、木の葉がもう硬くなっている。
 私は額ににじむ汗を手ぬぐいで拭うと、筆を置いて伸びをした。

「……この、金の亡者が」

 書きかけの文に毒づく。もちろんそんな貴族や官吏ばかりでないことは鳳珠さんや黎深さんと接してきたからよく知っている。しかし資蔭で、という事情からいわゆる「あまり人格の良くない人々」を選りすぐって接触しているものだから、ここのところ私の中で貴族と官吏の評価がどんどん危ういものになってきている。
 どこかで軌道修正しなければ本当に政治家嫌いになってしまいそうだ。

「……でもなあ。そういう人と交流ないんだよね……」

 自業自得だ。文を脇に避けて文机の上で頭を抱えていると、ささくれだった私の心とは正反対な、明るく陽気な声がかかった。副社長だ。

「坊ちゃん坊ちゃん。ちょっと一息入れませんか?さっき、馴染みの家の方から珍しい菓子を貰ったんです。折角だから一緒に食べましょうよ。あ、あとこれ旦那様からの預かり物です」

 そう言って私の返事を聞くことなく部屋に入り、片手に乗せた茶器の盆を置くと、反対側の腕で抱えていた包みを開く。父上からの手紙らしい「預かり物」を受け取けとり、何だろうと卓の上の包みを覗き込むと、細かな刺繍の施された絹にくるまれた幾つかの唐菓子が入っていた。

「梅枝(ばいし)だね。でも何だか菓子より布の方が値が張りそうだ」

 梅枝はその名の通り梅の枝を模した唐菓子――とどのつまりカリントウである。
 正直な感想を口にすると、副社長は得意げに笑った。

「ふっふっふ。見破れないなんて、坊ちゃんもまだまだですね!これ、実は砂糖が使ってあるんですよ!」
「匂いで分かれと?……いいけどさ。でも、砂糖か。それは珍しいね」

 唐代、砂糖はまだ薬としての側面が強かった。この国はそれに近いらしく、砂糖の存在は知られていてもそれを菓子に使うことは殆どないといってよかった。通常は蜜や、植物の煮汁を甘味料として使う。
 副社長はニコニコと笑っている。よほど嬉しいらしい。
 私はそれを一つつまむと口に放り込む。懐かしい甘さが口の中に広がった。

(……あ、やばい)

 ちょっと危険なものを感じて、私はなるべく自然な動作で、副社長が入れたお茶を急いで飲む。そして父上の手紙を広げると「あとはキミが食べてよ」と副社長に言い、椅子に腰掛けた。

「ええー?坊ちゃん、甘いの嫌いでしたっけ?」
「いや大好きだよ。ただ、今は油もの食べたくないだけ。昨日の夕餉のせいかな」

 適当な理由をつけて手紙に目を落とす。副社長は少し不満げな表情をして梅枝を食べる。しかし一口食べればすぐにまた笑顔に戻って、パクパクと口に入れていった。
 私はもう一杯お茶を飲む。さっき感じた味を忘れたかった。
 ――ふとした瞬間に元の世界を思い出すと、後から鬱々としてしまうから厄介だ。

「父上も、わざわざ手紙にしなくても俺を呼べばいいのに……」

 郷愁から意識を逸らそうと呟いて文字に目を走らせる。そして、目を見開いた。
 椅子から立ち上がると文机の上に広げたままの書きかけの文に大きく×印をつける。

「坊ちゃん?どうしたんです?」
「珠翠を呼び、急いで衣装を見立てるよう伝えてくれる?すぐに出かけたい」
「――承知しました」

 ス、と表情を消した副社長は、部屋を出るとその辺りにいるらしい家人に指示を出していく。その声を聞きながら私はもう一度父上からの手紙に目を落とした。

 ――私の家庭教師だった『元官吏』の老人の、唯一の肉親だった孫が、死んだ。

 付け入るなら、今しかない。



 あの後、文字通り飛んでくるように衣装を携えて部屋に戻ってきた珠翠の補助のもと、着替えを済ませた私は副社長が用意してくれた軒に家人を一人伴って乗り込むと老人の下へと急ぎ参じた。
 そうしてたった一人の家族をも亡くし嘆く老人を宥め、家人に指示を任せながら葬儀の準備をする。私はこの国で葬儀に関わった経験がないのでこのような形にしたが――本当は指示も全て私が出した方がより効果的であったのは言うまでもない。それは残念だが、知らないのだから仕方がなかった。

「……さ、師(せんせい)。ご覧下さい。皆様がお孫様のために慟哭していらっしゃいます」

 老人は涙を流しながら孫の柩を見つめている。その肩を抱いて、私は周りを見回した。
 官吏時代に親交のあったもの、近所の者、そして親族――。葬儀は多くの人が集まり、盛大に執り行われている。儒教的側面が強いらしいこの国の葬儀は、盛大であればあるほど良い。
 父上からの無言のゴーサインをもらった私は、老人が差し出してきた、孫のためにと貯めていたらしい貯金と家の財を合わせながら出来る限り大きな葬儀を開いた。……といっても私がしたことといえば資金繰りくらいで、具体的なことは家人が調整したのだが。

「お孫様の魂魄も、きちんと天地に向かうことができましょう」

 優しい老人は、泣き続けた。

 そうして3日に渡る葬儀も無事に終わり、最後に残っていた親族が引き払ったところで私は老人のために茶を淹れた。今は少しでも刺激を減らした方が良いと判断し、少し薄めに調整して出す。老人はそれを両手で包み込むように持ち上げると静かに口をつける。一口ほど飲んだところで器を離し、小さく息を吐いた。

「……色々と、すまなかったね。君を及第させてやれなかった私に、本当にすまない」
「いいえ。及第できなかったのは私の力不足です。師のお役に立つことが出来て嬉しく思います」
「そうか………」

 儚げに笑って、老人は卓に器を置く。

「……もう、遅い。君も、今日はお戻りなさい。家の仕事もあるのだろう?」
「ですが……」
「私なら、大丈夫だよ」

 微笑んで私を見つめる老人の瞳に逆らえず、頷く。

「では……せめて、彼を師のおそばに」

 言って、傍らに控えていた家人を呼び、老人の世話をするように――誰も、師を傷つけることのないよう――指示を出す。小さな声で葬儀の礼を言えば、家人は驚いたように目を丸くし、次いで笑顔を見せた。

「それでは――」
君」

 老人の呼びかけに、私は内心首を傾げつつ老人の前に立つ。老人はか細い腕を伸ばして私の両手をそれぞれ掴むと、重ね合わせて両手でそっと包み込んだ。

「ありがとう」
「―――っ!」

 その声に、私はどんな顔を返したのだろう。



 老人の邸を出ると、待たせていた軒の側に副社長が立っていた。

「お疲れ様です、坊ちゃん」
「…………」

 場にそぐわない明るい声に眉を顰める。今は誰とも話したくなかった。
 しかし暗いせいか私の表情に気付かなかったらしい副社長は軒を指して続ける。

「中で旦那様がお待ちですよ」

 その言葉にいよいよ眉間に皺が寄っていく。今、最も会いたくなかった。しかしそういうわけにもいかないので、私は無言で軒に乗り込む。
 薄暗い軒の中に明かりは灯っておらず、仄かに香る香と人影で確かに父上がいるのだと分かった。堪らずに私は語調を荒くする。

「どこまで読んでいたのですか」

 ――切り捨てられるのだと思っていた。
 国試に落ちたと分かった瞬間に、家にいる理由がなくなったと思ったのだ。けれど父上は私を追い出さず家に留め置き続けた。すると誂えたような、『元官吏の孫』の死。それも私の家庭教師だった者の。
 全て読んでいたというのだろうか。孫は以前よりの病気が元で亡くなったと聞いた。もしそれを知っていたのだとしたら――

「最低だ……!」

 暗闇の中で顔を覆う。
 父上の示した道を利用し、人の死を利用し、老人の優しさを利用した自分自身に対する言葉だった。

 さら、と人影が動くのに合わせて衣擦れの音が軒に小さく聞こえる。でも車輪の音より大きかった。ふわり、と私の周りを微かな香が包む。そして、まるで壊れ物を扱うようにそっと、柔らかな布に包まれた。
 抱きしめられているのだと気付くのに思考はいらなかった。

「――あなたは、『誰』なんですか」

 知っている。父上だ。鳳珠さんでも黎深さんでもない。それでも問わずにいられなかった。
 何故私を受け入れた。何故母と約束を交わした。何故、官吏への道を幾つも拾い上げてくれた。
 あなたは誰だ。私にとって、あなたは誰だ。あなたにとって、私は――何だ。

 それでも、問いかけの先にある答えを知りたくなくて、私は父上にもたれた。――酷く疲れていた。
 そして誘われるまま、睡魔に全てを委ねた。



 その年の冬、国試が開かれる二ヶ月前、「」の、資蔭制による任官が決まった。

 ――師の口添えによるものだった。





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2008.6.1
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