幸せをずっと抱きしめていられたのなら。



色彩独奏競争曲
オブリガート




 黙々と明日の私の衣装を見立てていく珠翠の姿を、椅子に座った私は何をするでもなく眺めていた。私がこの家の真実の子でないことを明かした日から、どうも珠翠がよそよそしくなったというか、なんというか。
 今まで一番近くにいた侍女だったから、その態度が余計に悲しく思える。ただ、これは私の軽率な言動が原因であるからどうすることもできなくて、ソワソワと話しかけるタイミングを計るしかなかった。

「……で、鳳珠さんと話していたら紅黎深さんが来たんだ」

 今日の出来事を話しながらそう言ったとき、今まで生返事しかしなかった珠翠が初めて反応した。

「黎深さんは紅家の御当主で、鳳珠さんとは前から友人だったみたい。及第したのも同じ年なんだって。……珠翠、黎深さんのこと知っているの?」
「………質問の意味が分かりませんが」
「さっきちょっと反応したみたいだったから……って、ああ、今のなし。気にしないで!」

 質問するだけしておいて勝手に撤回した私に、珠翠が怪訝な視線を寄越す。だからその目をやめてほしい。

「これ以上余計なこと言って珠翠に嫌われたくない。……俺が家の血を引いていないのは本当だから仕方ないし、変えられないけど……ごめん」

 もうどうしようもなく悲しい、というより罪悪感で堪えきれず、私は珠翠から目を逸らした。部屋に沈黙が落ちる。……逃げたい。こういうときにどうすればいいのか、私は知らない。だって言ってしまったことをなかったことにできない以上、言った側としては相手が許してくれるのを待つしかないのだ。
 どうしてあの時あんなことを言ってしまったんだろう、と過去の己の失態に苦悩していると、くす、と小さく笑う声が聞こえた。その声の出所に驚いて目を向ける。

「珠翠?」
「ふふ、すみません。……ふふふっ」
「…………」
「まさか様、私が嫌っていると思って最近よそよそしかったんですか?」
「よそよそしかったって、それは珠翠の方が先に……!」
「……そうですね。すみません。あの時は流石に動揺してしまいました。でもすぐに反省して、もとの態度に戻ったんですよ?そうしたら今度は様の方が私を避けるようになってしまっていて」
「………だって、絶対嫌いになったと思ったから……」

 ああもう。嬉しいんだか後ろめたいんだか分からない。珠翠が笑う気配がして、フ、と私の上に影が被さる。微かに衣擦れの音が聞こえて、珠翠の体が小さくなっていく。私の目線に合わせるように屈んでくれたのだ。

「たとえ出自が何であろうと、様は私にとって大切な主ですよ」

 微笑んで言うその姿を、私は少し見つめて目を閉じた。そして珠翠に腕を伸ばすとまだ17かそこらの少女の体を抱きしめる。

……様?」
「……………」

 ぎゅ、と腕に力を込めた。

「……珠翠は、お姉さんみたいだね」

 その言葉に、また珠翠が笑うのが分かった。その声すら聞きたくなくて私はますます強くかき抱く。目を閉じて暗闇を享受し、全ての音を遮断するように珠翠の衣に顔を埋める。そうしなければ耐えられなかった。
 鳳珠さんも黎深さんも、そして私に成り代わる前の「」も。賢い人達は、こんな感情にずっと晒されていたのだろうか。

 気付きたくなかった。珠翠の言葉の奥に優しく優しく隠された、嘘になんて。



 さて、珠翠とそんな切ない…切ない?まあいいや。変なやりとりをした一ヵ月後、私は藍州から帰還した父上の自室に呼び出されていた。ちなみに鳳珠さんがあんまり強く勧めるので、州試及第の文は出してある。
 目の前には立派な椅子に座って肘掛に手を置く父上の姿。やはり顔は薄布で隠されている。傷があるのか、はたまた鳳珠さんみたいな事情があるのか未だにさっぱり分からないから反応しようがない。


「はい」
「食物の仕入れについて、何か言うことはあるか」
「いえ。特に思い当たることはありませんが」

 とは言うものの、心当たりはかなりある。何か言われるだろうとは思っていたが、何もこんなに早くなくてもいいだろうに。

「言え」

 そして父上は私が気付いていることを見透かしているらしい。思い当たらないと言っているのにおかまいなしに追求してくるその強引さが少しだけ恨めしい。

「……ええと。何で急に保存食の仕入れを増やしたのか、とか、2年後に飢饉でも来るのか、とか、お前絶対格安で庶民に卸すつもりだろうとか、そんなところですかね」
「…………」

 父上は無言で傍らの文机に広げられた料紙を細く折りたたむと、文鎮にくくりつけて投げた。寸でのところでそれを受け止める――なんて鳳珠さんみたいなことは出来ないので避ける。ゴトン、と鈍い音がした。

「流石に文鎮は当たったら血がでると思うのですが!床もへこみましたよ!」
「読め」

 相変わらず人の話を聞かない父上に本気で黎深さんと引き合わせる算段をしつつ、私は文鎮を拾い上げ、料紙を広げる。わざわざ投げなくても言えば受け取りに行ったのに。
 料紙は私が作った仕入れの草稿に父上が更にチェックを入れたもののようだった。保存食の割合が軒並み上がっている。そして注釈として、『ただし一定の規模の家にのみ卸すこと』とあった。

「他の人々はどうするんです?『裏の人』達は?」
「自分達で何とかするだろう」
「……っ、何とかできないから商家があるのではないのですか!?」

 思わず声を荒げた私に些かも動じることなく、堂々とした態度で父上は言った。

「商人が利益を考えなくなるのは、店をたたむ時だけだ」
「……!」

 息を呑んだ。

 私はやはり、完全に割り切ることができなかったのだ。人が死んでいくのを横目で眺めながら家という巨大なゆりかごでぬくぬくと暮らす、そう決めたのに、起こした行動は逆だった。
 ――内乱が起これば真っ先に全滅するのは、私が7年間を過ごした「檻」である。
 そして『裏の人』。私がそうであったように、この家の裏で働く人々は殆どが檻の住人だ。その人達も無事では済まない。それでも家にとって痛いことではないのだ。ただ、働く人が変わって、少し賃金が上がる程度である。それでどうにかなるほど家は小さな商家ではない。

 家が庶民向けの商家でないことが最大の障害だった。一般の人々と貴族を天秤にかけるなら、簡単に貴族に傾くだろう。――傾けなければ、いけない。

 辛い。しかし、頭のどこかが冷めている。私がただ綺麗事を述べているだけなのだと理解している。
 息をギリギリまで吐き出して、大きく吸った。頭を下げる。

「勝手なことをしました。――申し訳ありません」
「……お前を食品の流通から離す。今後は服飾に回るように」
「承知しました。………御前、失礼致します」

 震える体と足に力を入れる。くるりと踵を返せば一瞬、世界が反転するような錯覚を起こした。



 呼び止める声に振り向くことが出来ず、ただ足を止める。

「州試及第、ご苦労だった」
「―――!!!」

 堪えていたものが瞬時に溢れ出し、私は何も言えずにその場から走り去った。



 すれ違う家人達が、皆一様に驚いて私を振り返っていく。それに構わず一直線に自室に戻ると勢いよく寝台へとダイブした。絹の柔らかな感触が頬をくすぐる。それが何だか途方もなく優しく感じられて、両手で強く握りこむ。顔の部分の布が濡れていった。

 ただ悔しく、悲しかった。檻の人達に何もできないからではない。今このときも街で笑っている、普通の人々を見殺しにするからではない。私に力がないからでは――ない。
 自己愛の涙だった。
 何も出来ない自分が情けない、しかしそれを冷静に受け止めている私がいる。多くの人々が死んでいくだろう、貴族は門戸を閉ざすだろう、商人は裏口だけを開け放すだろう。その事実が淡々と頭の中に流れていく。考えることは出来るくせに行動することができない、行動しようとしない自分自身が嫌だった。
 私の体は小さすぎて、私の姿は誰にも見えない。掌に載せられるのはほんの一握りのものだけなのだ。

 何も出来ない。
 おそらくある程度の食品なら今の私でも扱えるだろうが、焼け石に水をかけるよりよりもっと意味がない。寧ろそのせいで市民に混乱を引き起こす可能性のほうが高い分、軽率な行動は逆効果だ。

 私は切り捨てた。檻の人を、秀麗を、あの日出会った彼女の家族を。

 キシ、と寝台がきしむ音がした。顔を上げぬまま、誰かが寝台に座ったのだと悟る。そのまま存在を無視して布団で顔を隠し続けていると、不意に頭に大きく温かな手が置かれた。驚いて体が跳ねる。
 少しの間置かれ続けた手の体温に心地よさを感じていると、やがてそれは穏やかな速度で髪を梳く動きに変わった。その感触にだんだんと落ち着いていき、まぶたが重くなっていく。

 手探りでその人の服を掴んだ。一瞬だけ止まった手は、すぐにまた動き始める。

「………おとうさん…」

 それが手の主への呼びかけだったのか、それとも元の世界への郷愁だったのか、分からない。



 それからまた一月は何事もなく過ぎた。……平穏だったという意味ではない。国試受験を控えた身には、やることなど次から次へと湧いてくるのである。
 てっきり珠翠に勉強も教えてもらうものだと思っていたら、

『私は礼儀作法を教えることは出来ても国試受験のための勉強は教えられません』

と、きっぱり断られた。では独学しかないかと思っていると、父上がどこからともなく家庭教師を雇ってきた。元官吏だという老人は優しく、怒ることもなければ宿題もあまり出さなかったから結局独学に近くなったが。
 それでも鳳珠さんと友人になってからは彼が暇なとき――新人というのはどこの世界でも忙しいもののようで、鳳珠さん自身も休みを取れる日は滅多になかったのだが――にたまに勉強を見てもらえた。黎深さんも時々(鳳珠さんにくっついて)来ていたが、こちらは茶と菓子を要求するだけだった。

 そして、国試受験を迎えた。



 さらさらと、どこからか花びらが風に乗って運ばれてくる。私は文机に座り、静かに茶をすすった。こうして大きなしがらみから解き放たれるというのは何とも言えない快感である。充足感すら湧いてくる。
 蒸篭に入った桃饅頭に手を伸ばすと、程よく温度の下がったそれを一つ取り上げる。二つに割ると生地に練り込まれた桜の花びらの香りが漂ってくるような気がした。
 口に入れると甘さを控えた小豆餡の風味がいっぱいに広がる。思わず笑みがこぼれた。

「春だなあ……」

 しみじみと呟くと、そんな穏やかなひと時を台無しにするくらい荒々しい足音が耳に入った。誰だろう。犯人が分かったらあとで注意しておこう――

「………!!!!!」

 突然響いた怒声に驚いて桃饅頭を文机の上に落とす。振り返ると、部屋の入り口で鳳珠さんが全身から怒りのオーラを噴出して立っていた。……もちろん比喩だ。けれど、今の鳳珠さんなら黄金色のオーラを身にまとっていたとしても驚かない。
 鳳珠さんの横には黎深さんがいた。顔が引きつっている。どうやら鳳珠さんのあまりの怒りっぷりに引いているようだ。珍しいものを見たなと空気を読まない私はそちらの方に注目する。

「こんにちは、鳳珠さん、黎深さん。お久しぶりです。今日はどうしたんですか?」

 しかしこうまで不穏な空気を醸し出されては無視するわけにもいかず、私は椅子から立ち上がって、来客用にと部屋に設置した卓と椅子を二人にすすめた。もう少ししたら家人が茶と茶菓子を持ってくるだろう。
 黎深さんは溜息を付いて、我関せずというように椅子に座った。だが鳳珠さんは動こうとしない。

「鳳珠さん?」

 そんなに怒ることをしただろうかと不安になる。だが今のところ、何も思いつかない。
 鳳珠さんは無言で私の前に来ると私の頭を掴んだ。あれ、前にもこんなことがあったような。嫌な予感が胸をよぎる。身をよじって逃げようとするが、鳳珠さんの手はびくともしない。
 フ、と一瞬だけ手の力が抜けた。そして次の瞬間、ギリギリという擬音が聞こえそうなくらい強く掴まれる。

「いたたたた痛い痛いちょ、ほんと痛」
「……胸に手を当ててよく考えろ!!!」
「さっき考えましたけど、分かりません!」

 そのまま私が痛みに悶えていると鳳珠さんは私の頭を掴んだまま椅子の方へと歩き、私を椅子に座らせた。そしてやっぱり頭は掴んだまま、私を見下ろす。
 加えられていた力が幾分弱まったので、観察する余裕が出来た。美形は怒っても様になる。しかし怖い。

 フウ、と黎深さんが溜息を吐いた。そんなに溜息ばかりしていると幸せが逃げると言おうとして、やめる。

、お前こいつに国試の結果の文を送っただろう」
「え、ああ、はい。送りましたが」
「いつ送った?」
「いつって――ああ、なるほど」

 ようやく分かった。

「すみません、多分今日くらいに届くと思いま――」
「何故そんなに遅いんだ!!!」

 再びの怒声に身を竦ませる。「……すみません」ともう一度素直に謝ると、ようやく鳳珠さんの手が頭から離れた。鳳珠さんは脱力したように椅子に腰掛けると、幾分疲れたような表情で私を見る。

「……本当なのか」
「というと?」
「…………文の、内容が」
「あ、届いたんですね。はい、本当です」

 気付けば黎深さんも私を見ていた。私はなるべく明るく言おうと笑顔を作る。


「国試、落ちました」





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2008.5.30
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