いつだって、一番欲しかったのは人のぬくもりだった。



色彩独奏競争曲
英雄と愚者の賛歌




 さて、こちらでの「母親」が私に唯一残してくれたものは何だっただろうか。――州試の受験札である。その心は「官吏になって幸せな生活を送れるように」というものである、と私は思っている。けれど彼女は既にこの世の人間でなくなっているので、真意が分かる日は永遠に来ないだろう。

 そして現在、私は文机に向かってこれから仕入れる予定の品物を厳選しているわけであるが、格子窓の外の景色はどうだろう。木々の葉は紅く色づき、柔らかな中に冷たさを含んだ風が時折頬を撫でていく。影は長く長く伸び、夕日が落ちる様はまるで地平の彼方が燃えているようである。
 つまり、現在の季節は秋である。晩秋。もう冬といっても通じるかもしれない。ちなみに州試は夏で国試は新年明けてすぐ、そして新進士任命式は春だ。
 また、私が母から受験札を受け取ったのは去年の国試開始数ヶ月前だということを付け加えておく。

 これらの情報から何が分かるだろうか。

「まさかまた受験生になるとは思わなかったなあ……」

 思わず愚痴を零し、文机に突っ伏した。文机といっても椅子が備え付けられた学習デスクのようなもので床に座るタイプではない。だから足を前後に大きく揺らしてストレスの発散を試みた。
 呻きながら筆に墨を付けると、明らかにあり得ない品物だけに修正を入れていく。判断に迷うものはきちんと調べなければならないし、そういうものが殆どだから2つ3つに×印を付けると手持ち無沙汰になった。

「坊ちゃーん、終わりましたー?」

 副社長(名前を覚えていないので便宜上そう呼ぶことにする)がヒョコ、と顔を出して問いかける。私は後ろを振り返ると料紙を折って飛行機にしてから飛ばす。しかし折り方がまずかったのか、1メートルも飛ばずに床に落ちてしまった。

「うわ、ちょっと坊ちゃん、商売道具で遊ばないでくださいよう」
「……そこに書いてあるやつ、全部却下していいと思うんだけど」
「ええ?でもこれ、結構話し合って決めたんですよ。……他のやつらが」
「まさにそれが原因だと思うな、俺。キミ出張中だったんだっけ」
「はい。買い付けに行ってたもんで」

 そう言って朗らかに笑う副社長に苦笑を返す。目の前の男に毒気は全く感じられない。しかし商売のことになると途端に厳しくなることを私は知っている。そうでなければ家でここまでの地位にはいない。
 敬語は要らないと言われて取り払ったのはいつだっただろう。

「じゃ、俺の意見言うね。まず甘露茶は、値段が上がりすぎてこれ以上仕入れても利益出ないからいらない。黄家に回す分だけを琥珀と榮石とまとめて仕入れること。月に一回なんて馬鹿なことはないと思うけど一応言っておくよ。あと、何で全体的に食物の仕入れを減らしてんのさ。却下却下!」
「最近甘露茶人気なんですよー?あーでも、そうですね。確かに先月大量発注したんで今運んでる分で十分でしょう。あ、食物については、今年豊作だったんで余っちゃってるんですよう」

 値上がりし続ける甘露茶は、いまや彩七家クラスの貴族にしか手が出せなくなっている。それでも買う家が絶えないというのが貴族の貴族たる所以である。もう私の金銭感覚では理解できないところまで来ている。

「食物は、長期間保存の利くもの・保存食への加工ができるものを中心に仕入れ先と経路をを確立させること」
「豊作だったのに、ですか?………様」

 ス、と目を鋭くする副社長に、いつ見てもこの豹変振りは面白いなあと思う。多少怖いけれど。
 椅子の背もたれに肘を置いて掌で頬を支えながら私は笑った。

「半年とか1年とか、生半可な保存じゃだめだよ。っていってもそんなに保存が利くのって滅多にないんだっけ。あー…じゃあ、乾物、塩漬け、木の実類を常に一定の量確保してくれる?加工は『裏の人』達に任せて、技術力の向上も同時進行ね。で、あとは食物の仕入れ経路を少しずつ強化・拡大していくこと。当面はこれで大丈夫だと思う。というよりこれくらいしかすること思いつかない」
「……旦那様には俺から話をしておきます。おそらく許可されるとは思いますが……毎度のことながら、一体坊ちゃんはどれくらい先を見てるんですかねえ……」
「えーと……今回は多分2年くらい」

 頭の中で勝手に組みあがっていく予想を振り返りながら私は答えた。これだけ聞くと私がとんでもない天才のように見えるのだけど、実際はそうじゃないから少しだけ寂しい。
 私がここまで頭を回すことができるのは――メカニズムはさっぱり分からないけれど――「」という本当の天才がベースにあるからであるし、今回の提言は反則ともいえる知識があるおかげだ。これまでも簡単な先読みを行ったが、それは本当に些細なものであったし、多分の頭脳を以ってしても、活用する人間が私では2年後までの先読みなど到底不可能だろう。

 けれど周りの人々はそんな事情は知らない。だから勘違いして、私の評価はどんどん上がっていく。
 それが心地良いとは思わないし、思えない。寧ろそんな人々に対して申し訳なくすらある。だが、今回のこの提言をするためだけに、私はこれまで狡い工作を続けてきたのだ。

「ほんっと、坊ちゃん何でまだ12歳なんですか?早く元服して店に出てくださいよう」
「……店にはキミがいるから大丈夫。俺は裏にいるのが好きだよ」
「だーめーでーすー。絶対出てもらいますからね!」

 そう言って料紙を握ると、父上に話を通しに行くのだろう、少しだけ軽い足取りで部屋を出る副社長を見送りながら、私は椅子の背もたれにしな垂れた。

「父上が簡単な仕事しか回さないから何とかできてるのに、私が店に出たら家、倒産するんじゃないの」

 はあ、と思わずため息が出る。……いけない。幸せが逃げてしまう。
 信頼を得るのも実績を作るのも評価してもらうのも、必要だから頑張ったけれど、頑張るたびに虚しいし寂しいし切ないし悲しい気持ちになる。だって私が「私」のままだったら出来ないことだらけなのだ。

「あ、そういや坊ちゃん」

 突然、先ほどいなくなったはずの副社長の声が聞こえた。驚いて、私は半ば反射的に起き上がる。出損なった涙が引っ込んで逆に目が乾いて痛くなった。

「黄家の方がいらっしゃってますよ」
「……それは先に言うことじゃないのかなあ」
「あはは、すいません」

 困ったような笑みを浮かべて頭をかく副社長に少しだけ呆れながら、私は友人に会うために部屋を出た。



「お待たせして申し訳ありません、鳳珠さん」
「いや、さほど待っていない。忙しいのだろう?」
「そうですね、品物の総入れ替えの時期ですから。準備は前々からしていましたが、やはりそのときにならないとできないことというのも多いので。少し甘く見過ぎていましたね」
「まあ、秋から冬へは生産物の差が大きいからな。……ところで」

 鳳珠さんは少し目を細めると、卓に両肘をついて顔の下辺りで両手を組んだ。美形は何をしても様になるなあと思いながら、私は黙って先を促す。

「州試はどうなった」
「あー……」

 丁度私の分の茶を持ってきた家人に礼を言いつつ――余談だが、この世界でこういった行動を取ると、大抵は驚かれるか評価が上がるか下がるか変人認定される――視線をあらぬ方向へ向けると、頭を鷲掴みされて強制的に鳳珠さんの方を向かされた。

「お前は……!!結果はすぐに報告しろとあれほど言ったにも関わらず……!!!」
「ゴタゴタしてたのでそれどころじゃなかったんですよ」
「友人と仕事のどちらが大切なんだ!」
「この場合生活かかってますし、仕事ですね」
「………まあ、そうだな」

 墓穴を掘ったことに気付いたのか、鳳珠さんはバツが悪そうな顔になってフイ、とそっぽを向いた。いじめているつもりはないのだが、どうも私の方が悪いような気がしてきたので謝る。

「でも報告しなかったのはすみません。おかげさまで無事、合格しました」

 そう言うと鳳珠さんは表情を緩ませて「そうか」と言った。

「といってもギリギリでしたが。まったく、鳳珠さんの頭を分けてほしいです。そういえば朝廷はどうです?確か戸部に配属されたんでしたね」
「ああ……充実しているが、何しろまだ新人だからな。簡単な仕事や雑用ばかり回ってくる」
「多分それ新人だからじゃなくて、怖がられているからじゃないですか?『悪夢の国試組』でしたっけ」
「………………」
「そんな悲しそうな顔しないでくださいよ。いいじゃないですか、鳳珠さんが人の美醜に惑わされる人を落としまくったおかげで、合格した人達の平均能力値が高くなかったんですから。出世した後の強みになります」

 蒸しあがった饅頭を運んできた家人に再び礼を言いながら、私は蒸篭で湯気を噴いているうちの比較的小さなものに手を伸ばした。小さいほうが冷めやすいのだ。さらにそれを二つに割って熱気を逃がす。

「……そういえば、父上殿はどうされたんだ?あの方が挨拶に来られないのは珍しいな」

 ふと気付いたように鳳珠さんが呟いた。父上は客に対する態度がとてもとてもよろしいので、こうして上客が自ら訪ねてきたときはそれが誰であれ挨拶をしに来る。しかし今日はその父上の姿はない。

「ああ、藍州まで交渉に行っています」
「藍家か」
「はい。州試の合格発表前に出ましたから……あと半月くらいで帰ってくるんじゃないでしょうか」
「合格は知らせたのか」
「知らせてませんけど」

 質問の意図が読み取れずに首を傾げて返すと、鳳珠さんの顔が途端に険しくなって両手を私の顔の横に持ってきた。あ、やばいビンタされるのかなと思い身構えていたら、予想に反して頬を引っ張られた。

「痛い痛いあいたたたたた」
「何をやっているんだ!!息子の州試合格だぞ!?今頃藍州で心配していらっしゃるだろうが!」

 言い返そうにも頬が伸びているためハ行以外の声を出せずにフガフガ言っていると、あんまり私が痛そうだったのか、それとも呆れたのか、脱力したように肩を落として鳳珠さんの手が離れた。
 助かった……本気で痛かった。

「今からでも間に合う、文を出せ」
「帰ってきてから言いますよ。そもそも国試に合格しなければ報告する意味もありませんから、州試に合格したところで、言っても『ああそうか』で終わると思います」

 母と父上が交わした約束は『が官吏になること』だ。州試に合格しても国試に合格しなければ官吏にはなれない。成果主義の父上は、州試合格に興味はないだろう。
 ただ官吏になるためならば国試よりも比較的簡単な準試を受け、どこかの州の地方官吏になるという道もあったが――生憎と母がくれたのは紫州州試の受験札で、戸籍があるかどうかも危うく、そもそも手続きの方法を知らない私としてはわざわざ地方に行って受験札をもらうなんて手間はかけたくなかった。
 だから州試の合格を聞いたときも、私には嬉しいよりもこれからの勉強の方が気が重く感じられたのだ。

……」

 幾分沈んだ声で鳳珠さんが私を呼ぶ。何だと思って鳳珠さんの目を正面から見つめると、何ともいえない微妙そうな顔をした彼がそこにいた。

「……父上殿とうまくいっていないのか?」
「え?」
「事情もあるだろうし話せとは言わないが……どうしようもないようだったら、黄家(うち)はいつでも開いている」
「……いや、結構良好な関係を築けていると思うので大丈夫です」

 あ、そうか、と、この時に気が付く。鳳珠さんは私と父上が本当の親子だと思っているのだ。実際は血の繋がりがないどころか「息子扱いしない」と初対面10分で宣言されてしまったのだけれど。そもそも私は魂と心だけは女なので微妙に息子扱いされているような現状にも違和感を感じているのだが。
 私はそんな現状があるから、たとえ父上に親愛の情を感じ始めていても――まあ、何だかんだ言って父上は、商談に連れて行く程度に私を信頼してくれているようだから――親子の情を感じることはこれから先も絶対にないと断言できる。何故なら私には、7年間一緒にいた「母」でさえ最期まで母と思えなかった実績がある。

「心配してくださってありがとうございます。でも、本当に大丈夫なんですよ」
「そうか……」
「はい。確かに多少事情はありますが、そんなに深刻なものではありませんし」

 そこまで言って、私は思わずフフフと笑う。

「どうした?」
「いえ。この状況、傍から見たらさぞ可笑しな光景なんだろうなと思いまして。普通は俺と鳳珠さんの立場、逆でしょう。年の差10歳近くありますから。……前々から聞いてみたいと思っていたのですが」
「……何だ?」
「10も年下の子供を、どうして友人にする気になったんです?鳳珠さんならこんな子供より、知謀知略に優れた方の方が話が合うのでは?」

 言うと鳳珠さんは一瞬だけ驚いた表情を見せ、それからまた呆れたような顔をした。あれ、何だか今日は呆れたり呆れられたりばかりだ。

「そんなことは、中身と外見を一致させてから言うんだな」

 その言葉を聞いて、私はすぐには意味を理解することが出来ずにきょとんとしてしまう。しかしすぐに、言外に、確かに私と鳳珠さんは友人なのだと言ってくれたのだと分かり、嬉しくて微笑んだ。
 実は鳳珠さんは、私にとってこの世界で初めて出来た友人なのだ。

「とても嬉しい言葉をありがとうございます。お礼に、うちの帳簿付けを手伝って帰りませんか」
「それは礼ではないだろう……」
「鳳珠さんの計算能力が欲しいんですよ。あ、夕食も是非一緒に」

 朗らかな笑顔(だと私は思っている)で誘うと、鳳珠さんは一つ息をついて口を開いた。

「仕方がな………」

 変なところで言葉を切った鳳珠さんを不思議に思い、私は首を傾げる。どうも私を――いや、私の後方を凝視しているようだ。何かあるのだろうか。

「鳳珠さん?どうしまし――だっ!?」

 声を掛けるのと同時に、後頭部に鈍い痛みが走る。どうも何かがぶつかった、というより何かを投げつけられたらしい。何だこれは。父上といい今といい、私の頭部は物を投げやすい形をしているとでもいうのか。
 これは文句を言うしかないと、痛みに少し涙目になりながら私は振り返った。

「何するん……だ…………?あの、すみません、どちら様でしょうか」

 振り返った先には知らない男の人がいた。長いストレートの黒髪を高い位置で一つにまとめ、「紅」を基調とした服装をしている。顔は――何か怖い。すごく怒っている。何故か知らないけれど怒っている。
 はっきり言って美形だ。鳳珠さんには敵わないけれど、それでも並みの男性の比ではない。というより鳳珠さんが規格外だから、この人は間違いなく「いい男」の部類に入る。ただ、目が釣りあがっているし口はきつく結ばれているしで、ありありと怒りが読み取れるから今は顔を見たくない。本当に誰だろう。紅家の人だというのは服装で分かるのだが、こんな人顧客にいただろうか。
 ふと視線を床にやると扇子が落ちていた。どうやらこれを投げつけられたらしい。とりあえず拾っておく。

「黎深!貴様、何をするんだ!!!」

 鳳珠さんが激昂している。レイシン、と確かに言った。レイシン。紅家のレイシン。……紅黎深か。
 確か紅家当主の名前だ。そしてキャラクターの一人。それもメインキャラクターに近かったはず。えーと…後は何か思い出せないだろうか。商談に付いていったことは無いけれど上客の一人だから名前くらいは知っているが、その他の情報は「紅家当主」「新進士」「関わりたくない交渉相手」の3つくらいである。役に立たない。
 とにかく挨拶をしておいて損はないはずだ。私は椅子から立ち上がり、紅黎深に向かって跪拝する。

「紅黎深様、お初に御目文字仕ります。わたくしは家が一子、と申します。先ほどは紅家御当主とも知らず失礼を申しましたこと、どうかご容赦くださいませ」

 扇子を差し出す。ふわりといい香りが漂った。
 しかし紅黎深はそれを受け取ろうとはせず、無言で私の横を通り過ぎて鳳珠さんの方へと向かう。何となく予想はしていたがいざやられると非常に寂しい。
 仕方がないので立ち上がって鳳珠さんと紅黎深のやりとりを見つめることにした。

 未だ怒っている鳳珠さんの前まで来ると、紅黎深は袖から何かを取り出して鳳珠さんに投げつけた。……物を投げるのが趣味なのだろうか。父上と気が合いそうだ。
 顔の前でそれを受け取った鳳珠さんは目を丸くした。

「……お前、また仮面を作らせたのか」
「……………」

 紅黎深は無言だ。鳳珠さんは怒りを通り越して呆れている。手には変な仮面を持ったまま。

「しかも無駄に凝った細工を施して……。こんなもの作らせるくらいならその分朝廷に寄付しろ」

 そこで「民に寄付しろ」とは言わない辺りが古代中国(みたいなところ)なのかなと思う。紅黎深は黙ったままフルフルと肩を震わせている。

 今までの会話を見るに鳳珠さんと紅黎深が友好関係にあるのはまず間違いなさそうだ。確か作中でもそんな感じだったように思う。で、私と紅黎深は面識がないわけだから、紅黎深がここに来たのは十中八九鳳珠さんに会うためとみていいだろう。仮面を渡しに来たのだろうか。
 ではなぜ紅黎深は怒っているのか。彼の行動を、彼の目線に立って振り返ってみる。その一、家に来る。その二、私と鳳珠さんが談笑しているところを見る。その三、扇子を私に投げる。簡単じゃないか。
 この人。
 私に嫉妬している。

 それが分かった瞬間、私は爆笑した。


「坊ちゃーん、さっき紅家の方が黄様を訪ねていらっしゃったんでお通ししたんですが――ってあれ、自力で辿り着かれたんですねえ。よかったよかった。……ところで坊ちゃん、何か面白いことでもあったんですか?」


 その後、私が笑い転げるのを見て冷静になったらしい紅黎深の冷ややかな視線と、扇子をぶつけられたせいで私がどこかおかしくなったのではないかと心配する鳳珠さんによって私の笑いが沈静化するまでしばらくの時間を要した。

 気付けば紅黎深は私を睨みつつも冷めた饅頭を頬張り、家の家人に命じて勝手に茶を飲んでいた。





---------------
2008.5.29
back  top  next