私の家族はここにはいない。 色彩独奏競争曲 家で暮らし始めて三月が過ぎた。これまでとは天と地ほどの差のある生活に私は驚き、納得し、喜び、そして疎ましさを感じていた。――疎ましさというか。少し拗ねているのかもしれない。世の中にはこんな暮らしができる人間もいるのだと確認したのである。私の、私たちの生活は一体なんだったのか。汚水を飲み腐りかけた食物を探して地に伏せ夜を眠る。屋根があっただけ私と「母」は恵まれていた方だったというのに。 「様、朝餉でございます」 「……ああ、ありがとう」 だから、変な話だが朝夕二食の習慣に少しだけ感謝する。これで三食出ようものなら一日一食摂るのもやっとだった生活との差にいよいよ悲しくなっただろうから。 卓の上に朝食――と言っても日本のように早くはなくて、朝ごはんと昼ごはんの中間くらいの時間であるが――を並べて一歩引いたところで静かに佇む侍女は、名を珠翠という。記憶のどこかに引っかかる名前なので、おそらく小説に出ていたキャラクターの一人なのだろう。それ以外は覚えていない。 何せ7年前の記憶である。人名で思い出せるものと言えば主人公の「秀麗」くらいなものだ。あとは秀麗を中心とした相関関係に当てはめてようやく思い出せる程度で、あらすじも、もはや曖昧である。 メモくらいしておけば良かったかなと少し思う。けれど、小説を読んだ印象では悪役以外の人死にはそれほどなかったように思えたから、日々を謙虚に過ごしていれば死ぬことはないだろうと楽観視してもいる。運よく、これから起こるであろう大飢饉…飢饉?いや、違うな。何といえばいいのだろうか……人災か。そう、人災。とにかくそれによって国の食料がなくなって飢え死にする人が続出するということは覚えている。だから、今いる立場を利用して食料の確保を行っておけば多分大丈夫だ。家はそこまで小さな商家ではない。 人でなし、と罵られるだろうか?私は、人々が死んでゆくのを眺めながら安全な場所でぬくぬくと過ごす、そういう算段をしているのだ。罵られるだろうな。 しかし私はまだ死ぬつもりはないのだ。故郷から離れ「母」すらも亡くした今、生きる目的もこれといって無いのだが、それでも死ぬことは私の自尊心が許さない。 ささやかな復讐なのである。私を眠らせずこの国に連れてきた何者かへ、私がこの国の人を犠牲に生きることは小さな小さな仕返しになるだろう。 「今日は何か予定ある?」 「はい。正午より、黄家との商談が入っております」 「うっわ、ついに来たか彩七家。黄家ねえ……実は『洪家』とかってオチない?」 「残念ながら」 苦笑して溜息をつくと私は箸を置いた。綺麗に空になった膳を片付ける珠翠を見ながらふと問いかける。 「父上は何だってこうも俺を商談に同行させるのかな」 「様が御子息だからでしょう」 「血、繋がってないのに?」 そう言うと珠翠は目を丸くして私を見た。あれ、これはもしかして知らなかったということなのだろうか。…まあ、初対面から「息子扱いはしない」と宣言されてしまっているし、珠翠が噂話を好まない、簡単に言えばすごく生真面目な人だということくらいは私にも分かっているから、多分話しても大丈夫だろう。 「俺、父上とは赤の他人だよ。養子ってやつ。……あ、ごめんね、仕える人間がこんなんで」 途中ではたと気付いて慌てて謝る。私にとっては何でもないことだが、「家の直系」に仕えているはずの珠翠にしてみれば、その直系が実は真っ赤な他人で、しかも「檻」の出身――これだけは彼女にも言えない――だなどと聞かされて気分が良くなるわけがない。 気まずくなった空気から逃げ出したくて私は立ち上がる。黄家との商談ならば服装を改める必要があるだろう。下位貴族ならこのままでもいいが、相手は彩七家である。こちらもそれなりの用意をしなければならない。 「……えーと」 とりあえず服を珠翠に見立ててもらわなければいけないのだが……どうも私のセンスはこちらではあまりよろしくないようなのだ。色の合わせも、私の感性とこちらの常識の間の溝が邪魔してままならない。 ただ、先ほどから珠翠が黙ってこちらを見ているのだ。何を言うでもなく、強いていうなら困惑の色が少しだけ強い目でひたすらに見つめてくる。あれ、もしかして私ってば惚れられたかしらと茶化そうにも、それを許さない雰囲気が彼女の全身から立ち上っている。正直変に怖い。 「あー……。ええと、まあそんな感じで俺は本当は家の人間じゃないんだけど、もし珠翠に爪の先程度でも『仕えてもいいかな』って気持ちが残ってたら、商談までに服見立てといてくれると嬉しいな」 そういってそそくさと部屋から出て行くのが精一杯だった。 回廊を走りぬけ、家の表側、商いをしている所へと赴く。この世界の裕福層の住居が一般的にどのような形態をしているのかは知らないが、この家だけでいうならば、まるで平安時代の建物のような形になっている。中心に大きな庭があり、それをぐるりと屋敷が取り囲んでいる。 それから多分、これは家、というより商家特有なのだと思われるが、門は存在しない。その代わりに壁を強化した建物が直接路に面する形で建っている。その部分が店になっているのだ。 家は大抵のものを扱う。食料品から日用品、嗜好品に装飾品。質の高い、いわばセレブ御用達の小規模百貨店のようなものである。下は多少ゆとりある庶民の一生に一度の楽しみから、上は王家まで、利用する層はとても幅広い。 大抵は使用人が店まで買い付けにくるのだが、例えば貴族なんかに継続して商品を流す場合――主に食品がこれにあたる――や装飾品は家の人間がその貴族の邸まで出向いて値段の交渉をする。 ただ彩七家はさすがというか何というか、その内容が何であれ呼ばれれば出向かざるを得ない。 出向いた挙句、一本の花だけを売って帰ったこともあるらしいと珠翠から聞いた。 「や、今日も賑わってますね」 一歩店に足を踏み入れれば、賑やかな人の声が聞こえてくる。広い店内には棚もなければ品物もない。ただ商品を見せて交渉する従業員と客の声が響くのみである。 「坊ちゃん!おはようございます!今日は早いですね!……あれ、お勉強の方はよろしいので?」 「んー…珠翠が心ここにあらずだったから抜けてきました。調子はどうです?」 「そんな勿体ない!あんな美人に教えてもらえるなんて、この先絶対ありませんよ?店は上々です」 屈託のない笑顔を浮かべてみせるこの男の名前を私は知らない。知らないまま、私も笑う。 年のころは多分30代前半くらいだと思う。がっちりとした体つきは商人というより武人と言った方がしっくりくるような気がする。現在この店部分を取り仕切っている男だ。 「父上が社長だとすると、副社長か常務、専務ってとこか…」 「何か言いました?」 「いえ何にも。帳簿見せてくれますか」 「良いですよ。どうぞ」 側の文机に広げてあった帳簿を広げる。巻物なので最初は慣れなかったが、コツを掴めば案外するする広げられるものである。 「うわー野菜の値上がりがとんでもないことに」 「まあ冬ですから」 「……それだけですか?」 この家に着てから一月くらい経ったとき、好奇心から過去3年分の帳簿を見比べてみた。そうしたら去年辺りから野菜は季節関係なく値上がりを続けていた。男はまたニカ、と笑う。 「それを何とかするのが商人です!」 男の株が少し上がった。 「そうですか。じゃあお任せします」 「了解です!坊ちゃんは、今日は何もない日ですか?」 「いえ、黄家と商談です。父上も何だって俺みたいな子供を連れて行くのか……」 苦笑すると男は呆気に取られたような表情をして、それから声を立てて笑った。 「そりゃ坊ちゃんが後継ぎだからですよう!今から商家のイロハを叩き込んでおこうってことでしょう?」 「後継ぎ……ですか」 思わぬ返答にどう返していいか迷い、私は愛想笑いを浮かべた。 「それはまた、難儀なことで」 軒(くるま)の中で「チチウエ」と向かい合い、私は非常に肩身の狭い思いをしていた。商談に同行させられるのは初めてのことではないが、その度にこうして重くなる空気にはどれだけ晒されても慣れることはない。 父上は――旦那様と呼ぶのは些か悔しく、「父」と呼ぶのは私のプライドが許さなかった――相変わらず顔の上半身を帽子のようなものから垂れる薄布で覆い隠したまま、今日の商談の内容だと思われる巻物を読んでいた。私はというと何もすることがないので空気に萎縮しながら存在を「空気」にするしかない。 「」 「なんでしょうか」 「今日の商談はお前がやれ」 そう言って父上は私に巻物を投げつけた。見事に額にクリーンヒットしたその痛みに、私は「だっ!」と変な叫び声を上げる。 「何てこと言うんですか!できるわけないでしょう!」 「甘露茶を月に一斤、値段は最低でも金30両」 一斤。私の感覚でだが、0.5キロとかその辺の重さだ。茶葉0.5キロで金30両。金10両で人一人が一年間楽に暮らせるらしいから、年収……まあ700万くらいに換算して1両が70万円。 金30両ということは……2100万円。 「何だその法外な値段……!!!」 思わず口調も素に戻ろうというものだ。多少の差異を考えても確実に1000万は超えている。私は頭を抱えるが、私の頭の中は更にその先と周りを映し出す。 「……茶州は乗り切れるのですか、これから先」 「乗り切るしかないだろう。それこそ死に物狂いだろうがな」 甘露茶は元々この国で最も高い茶葉である。そこに茶州から紫州までの輸送費が加わり、王都ともなると値段は現地で買うものの数倍にまで跳ね上がる。しかしそれを考えたってこの値段はあんまりだ。 となると原因は一つしかない。甘露茶の収穫量が激減しているのだろう。希少価値が高くなったのだ。可能性としては輸送費をぼったくられているとか、生産者がものすごく強欲な人に代わったなども考えられるが、ここまで値上げしたらどの商家もまず仕入れなくなる。それでも家が甘露茶を仕入れるということは、そういった向こうの非による金額の上乗せが原因ではないということだ。 「で、何でまた契約先が黄家なんですか?藍家や紅家の方が言い値でやってくれそうな気がします」 「おそらく黄家から紅家に流れる」 「コウ…クレナイ、紅家の方ですよね、ややこしい。なんだってそんな商家みたいな真似を黄家が?」 「紅家当主と黄家嫡男が馬鹿な勝負をして嫡男が敗れた」 「ということは交渉相手は黄家嫡男なんですね。ああぁ…商家が一番嫌がる人達じゃないですか」 紅家当主と黄家嫡男と藍家当主。最も契約に立ち会ってほしくない、または交渉相手になってほしくない3人として商人の間では有名…らしい。よく知らないがとても有能かつ性格に難ありな方々だと聞いた。 「自信が少しも湧いてきません」 「関係ない。やれ」 半分本気で泣きそうになりながら投げつけられた資料に目を落とす――が、多分読まなくてもある程度行ける。何だかんだで父上が先ほどから役に立つ情報を大盤振る舞いしてくれていた。 「俺、父上を恨むべきなんでしょうか好きになるべきなんでしょうか。どっちだと思います?」 「気色が悪い」 全く変わらない語調で言う父上に、とりあえず金10両になっても怒らないで欲しいと言っておいた。 ――一蹴されてしまったけれど。 結局珠翠とは顔を合わせないままに、自室の卓の上に重ねて置かれていた服装を身にまとっている私は目の前の「黄家嫡男」に対し跪拝を取った。父上が軽く私を紹介するのに続いて口上を述べる。 「家が一子、と申します。本日は私が交渉の場に立たせて頂くことになりました。若輩ではございますが、どうかよろしくお願い致します」 「――あ、ああ。顔を上げろ。早速交渉に移りたい」 おそらく私の(外見)年齢に驚いたのだろう、一瞬だけ言葉を詰まらせた「嫡男殿」は、しかしすぐに冷静になったようだった。何もなかったように促す声に、ああ、この人は人を使い慣れているのだと感じた。 顔を上げると、そこには、なんというか、ええと。 ――有り体に言えば、ものすごく美形の男の人がそこにいた。あ、この人原作キャラだ、と思い出す。 肌は陶器みたいだし、目鼻口のバランスも「これが黄金比か!?」と思わず考えてしまうほどに絶妙だし、その上一つ一つのパーツが整っているから二乗三乗の効果を発揮している……と、思う。 「………」 「………なんだ」 思わず凝視していると、明らかに落胆したような声が聞こえてきた。これから顧客になるかもしれない人の機嫌を損ねるわけにはいかないので、慌てて取り繕う。 「いえ、お美しいので見とれていました。……ああ、男性には失礼な言葉でしょうか。すみません」 「………!!」 何かこの人驚いている。よく分からない人だと思っていると、そういえば鳥がショック死するほどの美貌を持っているがために仮面を被っていたキャラがいた気がした。この人がそうなのだろうか。多分そうだ。このレベルの美形が2人も3人もいてたまるか。 ――ただ。限りなく小さな声でぼやいた。 「……髪の毛、切るか結ぶかすればもっとかっこいいと思うんだけどね…」 20年近く男性イコールほぼ短髪の世界で過ごしてきた私にとって、長髪をそのまま下ろしている目の前の人物――黄鳳珠の絹糸のごとく流れる尋常でない長さの黒髪は、免疫がないことも相まってマイナスにしかならなかった。長髪は二次元でこそ真価を発揮する。元の世界で友人が言っていた言葉が髪の声……じゃない、神の声として私の頭上に降り注ぐ。友よ、私は今、君が見た真理を垣間見ている。 どうも髪の長さにばかり目がいってしまっていることに気付き、私はなるべく自然な動作で姿勢を正した。 「……また呆けてしまったようですね。すみませ――」 ガシ、と手を掴まれる。 「あの、黄様」 「……っ友人になってくれ!!!」 「………………。もちろんです。では甘露茶は金30両で契約ということでよろしいでしょうか」 「ああ!」 「………(あれ?)」 いくら長髪が邪魔しているとはいえ、こうも顔が近づいたら私も見とれるしかない。……いや違う。待て。違う、これは私の予想していた展開じゃない。 予定では、 『こちらは甘露茶一斤につき金50両ということで契約させて頂きたいのですが』 『それは法外だろう。そもそも甘露茶の生産工程は云々、輸送経路もかくかくしかじか』 『ええ、ですが最近では生産高が非常に落ち込んでいまして、こちらとしてもこの金額が最大の譲歩なのです』 『なるほど、生産については私も聞き及んでいる。しかし………という経路を使えば輸送費をある程度抑えられるのではないか』 『ええ、ですが――』 『大体茶家の――』 『―――』 『―――』 『――!』 『―――!!』 『―――!!!!』 『――――!!!!!』 『――分かりました。では、一斤、金30両ということでよろしゅうございます』 『……ああ、それで構わない』 『流石でございますね。黄家の御子息といえば、商人の間でも難関ということで有名でしたが、これほどとは』 『いや、お前もなかなか見所があった。子供だと思って最初は油断してしまったぞ』 『ふふふふふ』 『ははははは』 ――という展開になるはずだったのだ。(できるかどうかは別として) 「……ち、父上……」 流石にわけが分からなくなって、助けてくれる可能性はかなり低いが、藁にもすがる思いで父上に助けを求める。どうやら父上はその眼前に垂れた薄布のおかげで黄鳳珠の美貌攻撃を免れていたようだ。 父上は未だ手を握られたままの私の肩に優しく手を置くと、口元だけでにっこりと微笑んだ。 「不肖の息子ではございますが、どうぞ末永く付き合ってやってくださいませ」 「父上ええぇぇっ!!!」 こうしてこの日、私は何かを失い(主に父上への信頼)、すごく巨大なものを得た。(彩七家との交流) --------------- 2008.5.28 back top next |