私は、あの人に何を求めていたのだろうか。



色彩独奏競争曲
私の第1楽章<始まりの>




 薄っすらと空が茜に染まっていく。この空が見えるということはその日の行動時間がもうすぐ終わると言うことだったからいつも少し残念な気持ちで見ていたのだが、今日だけはどんなに暗くなっても目的を果たさなければならない。街灯なんてものがないこの世界の夜は本当に暗くて怖いけれど、それでも足を進めていく。
 ある一つの商家の裏門の前に立つと傍に立つ門兵を見上げた。彼は私を見下ろす。

です。旦那様にお取次ぎを」

 門兵は「入れ」とだけ言って裏門を開けた。ある程度の広さを持った広場が姿を現す。隅のほうには木箱や麻袋が積まれている。今日は何が入っていたのだろうと考えて、考えても仕方の無いことだと苦笑した。
 2、3日前まではここで働いていたのだなあと思うとふと懐かしくなった。「彼女」の弔いに休みを願い出たら容赦なくクビを切られたし、労働も決して楽なものではなかったからあまり良い思いはないのだが。

 どうも私が来ることを予想していたらしく、裏門をくぐると家人と思われる女性が立っていた。女性は私を一瞥すると明らかに不快感を露にし、袖で口元を覆う。そういう反応には慣れているので構わず言葉を待った。
 不承不承といった様子で女性は言う。

「……旦那様のもとにお連れします」

 お願いしますと言って、返事も聞かず歩き出した彼女の背を追った。



 通された客間にはこれでもかというくらい主人の好みが出ているような気がした。豪華すぎる装飾の施された調度品、煌びやかな色調の壁・柱・その他。一目見てお金がかかっていると分かるものだが、幸運なことにある程度の人生経験を重ねてきた(といってもこの国での人生ではこのような品々にお目にかかったことは一度もなかったが)私は、この状態に疑問を持つことが出来る。概して高級品とセンスは幾らかのシンプルさを内包しているものであると思うからだ。とどのつまり主人は趣味があまり良くないのだなと結論付けた。

 部屋の――いや、こちらでは「室」というのだったか。どうにも混乱する。モノローグと独り言でくらいは日本人でいたいものだ。私はこの国に生きているが、私の心は日本で生まれたのだから。
 話が逸れた。私は部屋の奥に置かれた長椅子にもたれている人物を見る。働いていた時は本当に数回、それも遠目にしか見たことはなかったけれど、そのやたら光っていそうな鬱陶しい服装で分かる。この商家の主人である。金糸に銀糸にごてごてした装飾類。重くないのだろうか。室内だというのに暗い金色の帽子のようなものを被っていて、正面に垂らされた薄布に顔の上半分が隠されている。

「来たな」

 主人が口を開いた。思っていたよりも少しだけ低い声だ。威厳は感じないが、その代わり声だけで嫌悪感を感じることも無い。何をしていいか分からなかったので、とりあえず土下座してみる。職場で嫌というほど叩き込まれた「挨拶」だ。もう退職したのだからしなくてもいいかと思っていたが、体が反射した。

「ふん。一応礼儀は弁えているとみえる。檻の住人にしてはまあ、幾分マシな方か」

 何となくムッとするも、下げた頭を上げることはしない。この場で私から何かを言うことは禁忌である。

「顔を上げろ。お前はここに来た理由を理解しているのだろう?」

 ゆっくりと上体を起こして背筋を伸ばして正座する。一度目を伏せると「彼女」の姿が瞼に浮かんだ。
 懐から木簡を取り出し、音を立てないように床に差し出す。

「州試の受験札です」
「それがどうした」
「裏書きによると俺…私の後見は、旦那様ですね。聞けば私に姓を与えてくださったのも旦那様だと」
「よく分かったものだ」
「問い合わせました。随分怪しまれましたが…受験札は思った以上の効果を持っていますね」

 そう言うと目の前の元・主人は愉快そうに口角を吊り上げた。自分から話す気はないらしい。

「何故です。私は旦那様にとってただの他人…いえ、それ以下ではないのですか」
「分かっているではないか」
「だからこそ分からないのです。私のどこにこうまでする価値がありましょう」

 元・主人の男はさも興味がないといった風に顎を撫でる。トントンと卓子を叩くと家人の女が杯を持ってきた。杯を数回揺らして、その中身を一気にあおる。そして一息つくと私の方を向いて、面倒くさそうに話し始めた。

「先日お前の母親がこの邸に来た」
「母が…?」
「あろうことかこの私に取引を持ちかけてきたのだ。お前の後見となり姓を与え、受験資格を寄越せと」
「………」
「代償は己が身だったな。まあ、他にも色々と役に立ちそうなものを持っていたが。まず受験資格を得なければ何もやらぬと言ってきおった。お前一人の受験資格などさして問題にもならなかったので了解したが」

 私は混乱していく頭を何とか鎮めようと拳を握り締め、「」の部分を呼び起こそうとする。本来の私の分析能力は彼に遠く及ばない。しかし、その一端を借りることはできた。7年の歳月で得たものの一つだ。
 そうして一つの結論に辿り着く。

「母は旦那様にとってよほど魅力的なものを持っていたのですね」
「お前の考えが及ばぬくらいにな」

 その返答に予想が当たっていることを確信する。ここに私がいることこそが最大の証拠だ。
 今、目の前の男は私を切り捨てようとしていない。しかし母親を失ったことで社会との一切の繋がりを失くした私は現在、いつどこで死んだとしても誰にも気づかれないだろう。そして死ぬことで周りに影響を与えることもない。檻の中の親しい幾人かは悲しんでくれるかもしれないが、おそらくそこで終わる。
 だからこの男はこの邸に私を入れたところで何を得るわけでもない――普通ならば。
 多分、私あるいはは『何か』を持っているのだ。それが取引の中身なのだろう。それが何なのかは知らないけれど。
 とにもかくにも、私にはどうしようもないことのようだ。流れておくのが吉か。

「私から発言する無礼をお許しくださいますか」
「……なんだ?」
「母親の代償の木簡は、今の私には活用する術がありません」

 木簡の意味は流石に分かる。国試受験をしろということだろう。ただしそのためには多額の費用がかかる。国試自体は国が行うものなので基本的に受験料は無料なのだが、受験に関わる雑費が多い。州試にしても国試にしても受験の数日間は拘束されるので、まずその間の生活費が要る。また解答用紙は各自が用意しなければならないからその購入費用もだ。この世界というか文化水準の関係上、紙は高級品である。
 私はこの身以外何も持っていない。しかし木簡を渡された以上受験は今年だ。金を貯めるには遅すぎる。
 つまり私が受験するには金銭面での援助が必要不可欠なのである。
 私が考えていることが分かったのだろうか、男は皮肉げに笑った。

「ほう…『檻』の生き物には人の感情はないらしい。母親の仇にこうもあっさり縋るとはな」

 感情の篭っていない侮蔑に喉が詰まる。震える空気を感じながら口を開く。

「母の死は悲しいです。ですが、彼女が私に残してくれたものは、もう、失いたくありません」

 やはり少しだけ震えてしまった声に、言葉に、男の肩が一瞬だけ動いた。待機していた家人に杯を渡し、何かを考えるように沈黙する。ややあって静かな声で私に告げる。

「受験費用と衣食住は保障する。お前は戸籍上は私の養子となり、今後この邸で生活することになる」
「………」

 返ってきた答えのあまりの大きさに思わず呆ける。一体誰がここまでの処遇を予想しただろうか。
 しかしすぐに、何となく予想がついた。

「――了解いたしました。私の身が旦那様のお役に立ちますよう」

 床に額づく。男は装飾を揺らして立ち上がる。装飾をつけてなお、さらりと柔らかな衣擦れが耳に届いた。

「室(へや)は用意してある。衣類もな。まずはその身なりを整えることだ。
――養子にするとは言ったが、私はお前を息子だと思う気はない。他の者同様に働かせる」
「この体と、糧。それ以外に何を望みましょう」

 そう言うと、男は口元を少しだけ動かした。一瞬眉を顰めたように思ったが、顔の上半分は見えないので錯覚だったのかと首をかしげる。家人に「あれを」と言う口の動きを見た。

「息子扱いはせん…が、戸籍が私の息子である以上、それなりのものは求める。『檻』の人間に期待はしておらぬし、また過大評価もせん。侍女を一人つけよう。その者から礼儀作法と教養を学べ」
「侍女…ですか?」
「下手な家人よりはよかろう。その者は礼儀作法は男女の別なく修めている」

 去ろうとする男を思わず引き止めた。

「もう一つだけお聞きしたいことがあります」
「手短に言え」
「母が…母は、おそらく旦那様にお目通りした夜、亡くなりました。そのことはご存知ですか」

 男は私の方を振り向くことなく答えた。

「長くないだろうとは思っていた」
「……。そう…ですか」



 そして男は去り、室内には私と仄かな蝋燭の明かりと静寂だけが取り残された。ガラス…玻璃(はり)の入った窓の外はもう真っ暗だ。私は先ほどまでの会話を思い出し、整理する。

 この破格の待遇の理由――これはもはや確信に近いのだが、おそらく「母親」が取引の材料として差し出したのが自身だったからなのだろう。そのものに利用価値があるから男は私を傍に置き、逃げないように周りを固める。母親の判断はある意味本当に母親らしいのかもしれない。理由はどうあれ、私は安全と衣食住の保証を手に入れたのだから。
 そして「」の利用価値であるが――彼について私が知らないのは、私がになる以前の過去と出自、能力の全貌だ。「私」として生きてきた中では取引材料になり得るものはなかったから、私の知らないその辺りに何かがあるのだろう。たった4歳で死んだ男の子。檻にいながら教養深かった母。ものすごく怪しい。

 可能性としては実は血筋がやんごとないとか、実は思っていた以上の天才で4歳にしてすでに知る人ぞ知る存在だったとか、突き抜けてしまえば、ファンタジーの王道として魔法が使えるとか、彩雲国に魔王みたいな敵がいてそれを倒さなければ帰れないとか。

 ――馬鹿な。いくらなんでも現実的ではない。もしそんなことが起こったらどこかに隠棲してしまおう。

 しかし考えたところで答えを知っているであろう男は何も言わないだろうから、まあいいやと思う。
 とにかく今問題なのはこの木簡なのだ。そういえば州試はじきに始まるのではなかったか。

「…うわ、結構やばいなあ」

 今更ながら自分の置かれた立場を自覚する。本当に時間がない。どのくらい難しいのか、国試の難易度を知らないので分からないのだが、故郷の某最高峰国立大受験くらいのイメージがある。

「失礼します」

 頭を抱えてうなっていると、部屋に凛とした女性の声が静かに響いた。驚いて振り返ると、部屋の入り口に背の高い女性が燭台を持って立っていた。飾り気のない衣は暗くて色が分からないもののとても綺麗なシルエットを作っていて、結い上げた髪も乱れ一つなく綺麗だ。蝋燭の小さな光に浮かんだ相貌は遠目にみても美人だと分かる。一つ一つのパーツが整っている上にバランスがすごく良いのだと思う。少し切れ長の目はキャリアウーマンを連想させた。

「お初にお目にかかります。今後、様の身の回りのお世話をさせていただきます、珠翠と申します」
「え、あ…ああ、そっか。あなたが」
「ええ。よろしくお願い致します。――湯浴みの準備が整ってございますので、まずは冷めぬうちにそちらへ」
「ありがとうございます。ええと…すみません」
様はお謝り頂くようなことはなにもなさっておりませんが」

 淡々と、表情一つ変えずに言うものだから私は少し困って頬をかく。

「いや、何というか。自分で言うのもなんですが、俺はそんな、世話される側の人間ではなかったので」
「……伺っております。大変なご苦労をなさったとか。でしたら尚更、身の回りのことは私どもにお任せになって、ごゆっくり御休養なさいませ」
「ありがとうございます」

 何だか嬉しくなって、自然に笑みが零れる。
 しかしそんな私の幸せも、次の言葉で一気に突き崩されるのだった。

「これからお勉強もしていただくのですから、体調は万全にして頂かないと」

 小さく悲鳴を上げた。彼女が厳しい人だったらどうしよう。





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2007.3.7
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