あの人は私に何を望んだのだろう。



色彩独奏競争曲
彼女の第4楽章<最終章>




 今日も今日とて労働に励み、最低限とすら言えないような賃金を得て家路を急ぐ。少しずつではあるが上がってきた物価とは裏腹に私たち――いわゆる被差別階級に属する人々の賃金はゆっくりと、しかし確実に減っていた。今はまだ何とかなる程度に留まっているが、少し先の未来に私達がいることはないのだろうとは予想できた。真綿で首を絞められるとは正にこのことかと実地で教わる。

 ただ、そんな状況において私の頭は妙に冷静だった。「」の知識を多少なりと得ていたことも要因の一つであろうが、一番大きいのはやはり、私が「私」であったことだろう。
 「私」は19歳で死んだ。そしてその後に彩雲国で7年――いや、今年で都合8年暮らした。精神年齢だけでいうならば私は27歳なのだ。外見年齢に比例したのかそれとも死んだときのままなのか、例えば22歳の人を年下扱いする、なんてことはできそうにないが、それでも人生経験は少しずつ堆積されている。

 私達の生活は地を這うよりも多少酷い。汚水を飲み、半端に調理した腐りかけの食物を食べ、全身に垢を纏ったまま暮らす。もちろん汚物を処理する場所なんてものはない。
 だからその不潔が原因で傷口が化膿して亡くなる人も病気になって亡くなる人もいた。むしろこの7年間、感染症(このくらいの時代だと疫病というのだろうか)の流行が無かったことの方が私にとっては驚きだった。

 もはや壁も腐って落ち、茣蓙のようなものを四方に垂らしただけの四本柱の粗末な家に私は帰宅する。

「かあさん、具合はどう?」
「…?大丈夫…今日は大分気分が良いのよ」
「うん、顔色は良いみたいだね。でもまだ寝てなきゃ。風邪、治ってないでしょう。こじらせてしまうよ」

 女は困ったように微笑むと、手にしていた本を閉じた。私は複雑な気持ちになるのを抑えることができない。彼女が私に勉強を教える、8年間指導を受けて、その意味が薄々ながら分かるような気がしていたからだ。
 少しだけ苦笑して口を開いた。

「もうすぐ州試の受験受付開始だね。仕事場の外の空気が少しだけ浮き足立っていたよ」
「ええ、そうね。………」
「どうしたの?」
「……、あなたは………」
「うん?」

 何でもないわ、とゆるく首を振る彼女に小首を傾げてみせる。この確信犯的な行動が酷く滑稽だった。



「…おい、聞いたか?旦那の話」
「ああ、また妾を囲うとかっていう」
「羨ましいこった。ま、俺たちにゃ縁の無い話だな」

 諦め混じりの溜息をついて、男たちは再び各自の仕事に戻る。それを横目で見つつ、麻袋を肩に担いだ。その重みに少しだけ眉を顰め、所定の位置に運ぼうと足を動かす。努めて何でもない風に振舞ったのを見咎められたか、娯楽の少ない(というより絶望的に無い)彼らは鼻を鳴らして標的を移してきた。

「そういやあ、、お前の母親も中々の上玉だったよなあ」
「しかもオツムの方もいいときてらあ。その気になりゃどっかのお貴族様の愛人にくらいなれるんじゃねえか?」
「ばーか。誰があそこに住んでるやつを嫁にするかよ」
「ははは!違えねえな!俺だったら絶対にゴメンだ!」

 そう言って下品に笑う男たちをキッと睨む。いくら本質的な血の繋がりが無いとはいえ、生物的に血が繋がっている人を悪く言われると不快にもなる。しかしそこは幼い体である。威厳も迫力も何もない。男たちは嘲ったように笑うと、興味を失ったように麻袋を軽々と担いで背を向けた。

 悔しい。その言葉と己の考えが一致する部分があったから余計に。

 彼女は何故本を読める。彼女は何故教えることが出来る。「あそこ」に住んでいるものは概して学問以前に読み書きすらままならない者のほうが圧倒的に多いというのに。
 ――違う、本当は。
 少しだけ、気付いている。でもそれは自分にとって苦い思いつきだから、目を閉じて蓋をするのだ。




 今日もまた昼に仕事が終わり帰宅する途中で、不思議な光景に首を傾げた。
 街の人々――つまるところたちが住んでいる場所から見て外界にあたる部分の――と自分たちを隔てる境界、集落の入り口、「檻」などという不名誉かつ不愉快かつセンスの欠落した俗称まで頂いている、腐った木材で作られた門のところに小さな人垣が出来ている。
 集まっているのは集落の中でも幼子に属する、いわゆる未だ働くことの出来ない者達だ。普段は飢えから家でじっとしていることの多い子供たちは、珍しくその剣呑な目を外に向けていた。

「どうしたんだ?」

 子供たちの中では一応年長者に分類される者の権力…と言っていいのかは分からないが、まあそういう類のものを使うように声をかける。子供たちは大儀そうに視線を上げ、そしてまた戻した。ますます分からなくなって、半ば覗き込むように腰を曲げる。

 そこには、一人の子供がいた。
 ――それだけなら、良かったのだが。厄介なことに、その子供はどう見ても普通の――こういう言い方をするとまるで自分たちが普通ではないように聞こえるのだが、それ以外に思いつかない――いや、かなり良い身なりをしていた。年のころは3つか4つくらいだろうか。可愛らしく二つに結った髪を丸くまとめて、そして、一番悪いことに、「赤色」を基色に使った衣服を着ていた。

「……うわ、不味い」

 思わず顔も引き攣る。この子供の身分は特に此処では限りなくマイナスだ。

「…………ね、兄ちゃん……」

 子供の一人がくい、と服の裾を引く。少しだけ裾がほつれた。

「この子……食べ物くれる?」

 唇を噛んだ。同時に、この不都合極まりない侵入者を早いところどうにかしなければならないと思う。
 幼子に手を差し伸べる。多少青ざめた表情に更なる怯えが加わった。もう苦笑するしかない。

「ごめんな。ちょっと臭うのは勘弁してくれ…これでも昨日水浴びしたから」

 優しく微笑む(そういう表情をしたつもりだ)が、幼子は泣きそうな顔で私の手を振り払った。

「……ふ、…ぇ……っ」

 その泣く寸前の声に一瞬目を丸くするが、気を取り直して強引に抱き上げる。少し泣きそうになった。

「あーもう…泣いてもいいからさ、とりあえず状況分かって……」

 あやすように背中をポン、ポンと軽く叩いて、そうして妙な体温の高さに気付く。どうも熱を出しているようだ。溜息を一つついて、上衣という名の襤褸布を脱いで子供に掛けた。こういうとき体が男だと都合がいい。

「とりあえず俺、この子を街まで連れて行くから。誰か余裕あったら、俺のかあさんに遅くなるって伝えてくれ」

 小さく頷いた子供たちに「よし」と笑って、帰ってきたはずの私は厄介ごとを抱えて踵を返した。



 何となくも何も表立って歩くことは憚られたので、裏道を通りつつ街へと向かう。といってもあの門の内側以外は「街」だから、正確に言えば街の中でも限られた部分…貴族たちの住む高級住宅地へと。
 ところでこの国には絶対に、メインに使ってはいけない色がある。準禁色の「藍」「紅」「黄」「碧」「白」「黒」「茶」、そして禁色の「紫」。色の三原色も光の三原色も含んでいるという出鱈目さだ。
 そしてこの幼子はそのうちの一つ「紅」を身にまとっている。いくら記憶が薄れているとはいえ根幹くらい覚えている私の頭は、この子を貴族の中でもかなり高位の「紅家」の子供であると判じた。

「さてと。お兄ちゃんはっていいます。良かったら君の名前も教えてくれると嬉しいな?」
「………」
「教えてくれなきゃ君の家、探せないんだけどなー」
「………」

 子供は黙ったままだ。

「……まあ、いいけどさ。紅区に行けば何とかなると思うし。その場合君は置き去りにされるわけだけど、そこはごめんね。俺、まだ死にたくないから」

 置き去り、という部分で子供の肩がピクンと跳ねた。

「大丈夫、なるべく良い人そうな人の近くにするから。あと、その服だったら何とかなると思うよ。あーでも」

 あはは、となるべく軽めに笑う。

「誘拐とかされちゃったら、ごめん――」

 ね、と言う前に首筋に何か冷たいものが触れた。驚いて周りに注意を向けると、いつの間にか黒衣の人影が五つほど、自分の周りを取り囲んでいた。不思議と、刃物を向けられているのに心だけは妙に冷静だ。

「あー…ほら、君、守られてるみたいだし。大丈夫だいじょーぶ。……えーと。………お返しします」

 無言の圧力に確かな要請を感じ取り、子供を黒衣の人々の一人に渡す。と、同時に激しい泣き声が響いた。子供が泣いて、自分を抱いている人影を必死に押しやろうとしている。

「……」
「………」
「…………やっぱり俺、送りますよ」

 人影は何も言わず、私に幼子を押し付けた。



 黒い人々の手引きで上手く隠れながら、いつの間にか紅区に来ていたらしい。人がいないのを確認したのか人払いをしたのか、兎にも角にも人がいない隙に路に出る。そうして空気と雰囲気の違いに驚き、次いで少し寂しくなり、最後に嫉妬し、諦めた。羨んだところで得るものは何も無い。

「この家?」

 姿の見えない人々に問いかける。「そうだ」と短い返事が返ってきた。目の前には立派な門、おそらくその向こうには更にすごい屋敷があるのに違いない。別世界だと割り切って、子供を門の柱に寄りかからせるように座らせた。額に手の甲を当てると先ほどより熱が上がっているように思えて眉を顰める。このまま置いていくのは忍びないが、かといってここに長く留まるわけにもいかなかった。被せていた上衣を着る。

「じゃ、またね。早く誰か見つけてくれるといいね」

 無責任だとは自覚している。だが、この状況ではやはり自分の身の方が優先事項の上位だった。くるりと背を向けてまた路地裏に戻ろうと足を踏み出した時――


「シュウレイ!!!」


 切羽詰ったような、女性の声が聞こえた。

 驚いて振り返る。開いた門の向こうに、豊かな黒い髪を結うこともせずに垂らした、美貌の女性がいた。女性は幼子を見つけると顔をくしゃりと顰めて抱き上げ、きつく抱きしめた。その後ろから優しげな雰囲気の男性と少年が追ってくるのが見える。その組み合わせからある程度彼らの正体に当たりをつけた所で、自分がその光景に見入って呆けていることに気が付く。小さく舌打ちして、今度こそ去ろうとした。
 しかし不運にも、女性が私に気が付いてしまった。

「待つのじゃ!!」

 残念、生憎、しかしながら、もう待てない。振り返って愚痴だけ吐き出すことにした。

「別にその子がどこに行こうと自由なんですけど、『檻』には近づかないよう、ちっちゃいんだからそこは家族が気をつけてあげてください。でないと色んな意味で危ないですよ」

 そう言い逃げして、私は路地裏に飛び込んだ。



 そうして再び突きつけられた刃物に肩を落とす。

「……もう、ごめんってばさ。でもそっちの大切なお嬢さん?一応助けたってことになるんだから見逃してくれたっていいと思うんだ。感染とか破傷風とかあとはまあ…ご想像の通りってことで。ね?」

 なおも引き下がる気配の無い黒々しい奴らに辟易する。この人達は貴族の「影」、日本でいう御庭番のようなものみたいだが、こうまで任務に忠実でなくてもいいのにと思う。全く詮方ないのは分かっているが。
 と、これもまた突然現れた追加メンバーが何やら仲間に耳打ちする。するとさっきまでの緊張感が嘘のように人影は消え、後には静寂と、遠い街のざわめきだけが残った。それが何故かを考える前に私は足を動かす。いなくなったのなら丁度いい。今のうちに帰るのだ。

 「主人の厚意に感謝することだな」という声は、聞かなかったことにした。




 疲れた。
 今日は色々なことが起こりすぎた。
 もともと栄養不足で体力が無いのに無理やり体を動かしたから、その疲労は普段の比ではない。今日の夕飯は少々手抜きしてしまおうと思ったが、手抜きをするほど凝った物を作ったことはない。

「ただいま。ごめんね、かあさん。遅くなっ…て?」

 普段ならば私が帰ってくるときにはいつも家の中にあるはずの影がない。薄暗い室内で、上体を起こした彼女のシルエット。訝しんで視線を下げると、横たわる人影はあった。

「かあさん?」

 返事は無い。

「……かあさんっ!?」

 眠っているのにしては寝息も気配も感じられない不審さに、否応なしに異常に気付く。慌てて駆け寄って抱き起こすと、だらんと垂れた腕から何かが落ちた。カラン、と軽い音がしたのに一瞬気を奪われる。と、抱いた彼女の口が限りなく細い息を吐いた。

「……う………」
「かあさん!!」

 女は目を開け、濁った目でこちらを見上げる。その視線に息を奪われた。しかし焦点が定まっていないらしくすぐに逸らされる。見えていないのだろうか。

「一体どうして」
「……?」
「なにがあったの、かあさん」
「…………取り引きを……したの……」
「取り引き?」

 角度が変わったのか、夕日が差し込む。照らされた「母親」は青褪めて、ぐったりとしていた。思わず昼の幼子と様子をダブらせる。

「あなたは……官吏、に………」
「…っ!!」
「……どうか………幸せに………」

 それから先、「母親」の口が開くことも、瞳が何かを映すことも、もうなかった。



 とんだ茶番である。母親は子の幸せを願って官吏にしたがり、そのために「取り引き」をして命を落とした。取り引きの内容がどんな物だったのかは彼女の手からこぼれた物を見ればすぐに分かる。州試の受験票の木簡――大方、戸籍と受験費用が取り引きの目的だろう。
 子供を官吏にと思う気持ちは分かる。任官すれば三代先まで安泰と言われるほど、官吏は地位も給料も高い。つまり生活に困窮しない。しかし受験で官吏になるためには並々ならぬ壁が立ちはだかる。

 まず、そもそも身分が問題である。あまりこういうことは言いたくないが、私たちの身分は本当に被差別階級なのだ。由来は自然発生的なもので、制する前に王が病に臥した。だからいわゆる第二世代、のようにその中で生まれた者は出生を受理してもらえない。だから受験が認められない。官吏に出自不明な者がいてはいけないだろうから当然と言うべきか。それから官吏になるための試験――こちらでは国試というのだったか――を受けるための受験料も到底稼いで溜まる金額ではない。
 絶対的な溝が、私たちとそれ以外の人々の間にある。だからこその「取り引き」だったのだろう。

 彼女が自分に勉強を教える、その意味を考えなかったわけではない。ただ、できるならその可能性は捨ててしまいたかった。利用されているのではないか、ただ自分が楽になりたいから子供を官吏にしようとするのではないかと、考えそうになる自分が嫌だった。



 檻の中の集合墓地に母を埋めて後、ちっぽけな木簡を片手に、私は門の外に出た。

 全てを放り投げてしまいたくて、同時に、これ以上手放したくはなかった。

 「 」と書かれた木簡を、叩き割ろうとして――結局、できなくて泣いた。





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2007.11.25
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