もういいや、と思った。
 受け入れ、そして諦め、決めた。
 今度こそ――今度も。二回目ならば尚更のこと。

 諦めない。



色彩独奏競争曲
小序曲




 軋んで嫌な音を立てる縄を手に食い込ませながら、重い箱を所定の位置に運び終えた私は一つ息を吐き出した。ポタ、と汗が薄い茶色の地面に落ち、染みて消えていく。
 そのまま休憩する暇もなく野太い男の怒声が響く。

「休んでんじゃねえ!さっさと運べ!!」

 思わず胡乱な表情を出してしまいそうになるのを抑えながら、赤紫の痣が付いたてのひらをさすりつつ次の箱を運ぶべく、来た道を引き返す。なるべく小さい箱を探そうとするが、箱はどれも同じに見えて、そして実際同じくらいにどれも重い。心中で溜息をついて括り付けられた縄を両手で掴んだ。
 小さなこの体は、肉体労働には向いていない。



 ――あの日、私の世界は一旦壊れ、そして強制的に再構築された。
 端的に言ってしまえば、頻繁に夢に見ていた子供の体を持っていると、まあそういうことになる。非常に滑稽な話ではあるけれど――悲しいことに、哀しいくらい私にとっては確かな現実だった。何がどうしてこうなったのか、そんなことは分からない。ただ、もうこれは受け入れるしかないのだろうなと、「母」に会ったときに思った。
 この世界での「母」。

「――ただいま戻りました、かあさん」

 粗末な小屋の、入り口と呼ぶのも抵抗がある襤褸布を片手で上げる。中には床板もない剥き出しの土の上に茣蓙のようなものを敷き、その上に上半身を起こしている女性が一人。私が声をかけるとゆっくりと振り向いた。みすぼらしい衣服の成れの果て。自分も似たような服装なのに、彼女を見るのは自分の姿を見るより辛かった。読書をしていたらしい女性は微笑んで、ゆっくりと口を動かした。

「おかえりなさい。早かったわね」
「はい。今日は…その、雇い主の機嫌が思いのほか悪く」

 強制的に帰されたのだと、はっきり言うことは憚られた。おかげで稼ぎはスズメの涙ほどもない。今日の食事は諦めなければならないだろう。せめてこの「母」には何か食べて欲しいと思うのに。
 「母」はやんわりと頷き、手招きをして私を家の中へ迎え入れる。彼女の前の土間に正座して、申し訳なくなって俯いた。彼女の膝にかかる掛け布も黄ばんで元の色も模様も分からない。誰かが捨てたものを拾ってきたものだから、どんな色だったのか、何の模様だったのか、実のところそれを知ってすらいない。

「……ごめんなさいね、あなたはまだ小さいのに………」
「いいえ」

 「母」は寂しそうに微笑むと、膝に置いていた本を私に差し出した。

「……お勉強、しましょうか」
「はい」

 私は頷いて、小屋の隅に積み上げられた大量の書物に目を向けた。



 多少、酷い話だという自覚はある。この状況に対してではなく、その、私の心情が。目の前で私に勉強を教えてくれている(らしい)女性は確かにこの「体」の母親であるらしいし、実際彼女を目にすると胸の辺りがほんのり暖かくなる気もするのだが、しかし私は彼女を「母親」とは思っていない。この辺の温度差はちょっと酷いのかな、と思うのだ。…彼女に対して。
 だが、私の母親は今までも、多分これからもずっと、私が「私」である限り今はもう会うことのできないあの人だ。私が「」だったときの母親こそが唯一。代わりなど誰にも出来ないし、私自身が認めない。

「――良い?つまり、ここの解釈は……」

 声が遠い。
 こうして向かい合って座っているのに、距離は近いのに、果てしなく遠い。ここは一体どこなのだろう。私はどこにいるというのだろう。見慣れない人達の中で見知らぬ道を歩き見ず知らずの人を母親と呼んでいる。訳の分からぬまま母親だという人に見つけられ保護され手当てされ、そうして生活のために労働に勤しむのだ。
 急に哀れになった。自分ではなく、この体の本来の持ち主であった子供を哀れんだ。
 そうして憤った。何故だか分からないが、いろいろなことに怒鳴りたくなった。ちょっと混乱している。

 本に目を落とす。不思議な装丁の書物。経文の装丁に似ていて、それより二周りほど大きい。これも理由は知らないが、今の自分はこの本の内容を全て理解し、あまつさえ暗唱すらできる。いや、この本だけでなくほかの本についても多分同様だ。それはこんな変な状況に陥った私をカミサマが哀れんでスーパーな力をお与えになったとかそんな荒唐無稽なことではなく、単に――これは予想だが間違っていないと変な確信を持っている――その知識を、この体の子供がもともと持っていたからなのだろう。
 なんというジーニアス。天才。それともこの「母」の教育の賜物か。
 しかし悲しいかな、私は天才ではないのだ。点検されぬ記憶はどんどん抜け落ちていく。それは少々この子供に申し訳ない気がするので、勉強が特別好きではない私は黙って「母」の講義を受ける。

 本当にここはどこなんだろう。
 ――まあ、生きていれば嫌でも分かるときはくるんだろうさ。





 月日が経つのって本当早いよね。今日も今日とて肉体労働に勤しみ、汗水流しながら糧を得る。
 この世界に来た当初は分からないことばかりで混乱し続けていた毎日も、今となっては多少遠い記憶になる。そこそこ長く暮らしていれば、何故ここにいるのかというちょっと道を踏み外せばとたんに哲学やら物理学やらの専門分野のお世話になってしまいそうになる疑問については分からないままにしても、とりあえずここがどこでどんなところでどういうところに自分は暮らしているのかということは大体分かる。
 この子供がまだ小さく、発達段階的に知識に関しては私と大差なかったことが幸いして挙動が不自然に見られることもなかった。実際この子供はとんでもないジーニアスみたいなのだが、それは追々考えるとしよう。
 ――まあ。子供というか。

「――オラ!そこの坊主!!!サボってねえで働け!!!」

 そんな耳慣れた怒声にもいいかげん愛着が…湧くわけはない。三回に二回の割合で怒声イコール暴力だ。ははは、と哀愁漂うニヒル(だと私は思っている)な笑いを浮かべつつ仕事に戻った。今日の仕事は麻袋っぽいものに入った何かの運搬。感触的に粒っぽいから米とか小麦とか塩とかの、穀物か粒子系だろう。
 よいしょ、と袋に伸ばした腕は細く、栄養が足りていないことが一目で分かる。ただ筋肉の付き方は見慣れたものとは少し違っていて、なんというか、がっしりしている。うーん。ちょっと違うか。
 見るからにひ弱なのだが、もとの自分よりはしっかりした筋肉が付いていると言うほうが分かりやすいか。

 ぶっちゃけた話。

「坊主、監督に目つけられてるもんな」
「せめて誰か他のヤツに監督が鞍替えするまで大人しくしておけよ」
「やー、やっぱそのほうがいいですねー…目立つ行動をした覚えがないので大人しくしようがないんですけど」

 そう言って袋を肩に担ぎ、開いているほうの手をひらひらと振った。意外に袋が軽く感じられるのは魂に染み付いた性別との違いからなのだろうか。

「女の子って素晴らしかったんだなー……」

 特に男性を差別するわけではないのだが、やはり女性としての時間が長かった私にとって、女という性の存在は大きい。失くして初めて気付くものや、別の視点から見て分かることも多い。
 男性と女性を見てどっちがより和むかと聞かれれば、それはやはり女性なのだ。

 ――つまるところ、今の私の性別は「男」である。

 身体の形態的な違いも生理的な違いも何もかもが衝撃だった。混乱の後に冷静になった頭に襲ってきた衝撃。なんの悪夢か。思わず破壊衝動に身をゆだねそうになったのは仕方がないと思って欲しい。未遂だし。
 ただまあ、こうやってヒエラルキー最下層の人間になって、暮らし…というよりももっと根本的な、生命維持のために毎日労働していると男性(この場合は少年、あるいは青年か)という体のありがたさも知る。力は強いし体力あるし、あと哀しいことだが女性に比べて賃金が少し良い。世界的に仕方がないか。

「こっちに来てからえーと…7年くらいか…早いねーもう、まったく」

 もしも私以外の誰かが私と同じような目に遭っていたらどう思うのだろう。混乱するだろうか。抵抗するだろうか。帰りたいと思って嘆くのだろうか。実際のところ選択肢として考えはしたのだが、考える時点でもう無理だと思った。もはや選べなかった。
 本当に生きることで手一杯だった。今も精一杯であることには変わりないが、幼い分余計大変だった。
 しかし死ぬという考えはなかった。なんとなく――新しい命に間接的に触れていたからなのかな、とか考えている。感覚的に感じた「死」の後、こうして「生」を得ているのならば、折角なので生きようとも考えた。前回はわけの分からぬまま20にも満たない生を閉じることになってしまったが、2回目ならばどこまでも足掻いてみよう。

 ちょっとした「ふっきれた」感。考えた瞬間奴隷のような労働(実際奴隷に近いみたいだけれど)にも明らかに貧民街な自らの住処にも鮮やかな色が刷かれた。7年の間で私が行ってきたことの中で、おそらくこれが一番の功績ではないかと今では思っている。ポジティブシンキング。何と良い響きか。

「さっさと運び終えねえと旦那様に言いつけるぞ!!!」
「うわ、分かりました、今やります!!」



 そうして今日も小屋、もとい家に帰る。

「ただいま戻りました」
「――お帰りなさい……

 儚く微笑む女性の線は文字通り消えそうなほどに弱弱しい。「初めて」会ったときからこの人は、少しずつ、だが確実に衰弱し続けているようだった。と呼ばれることにも慣れた。慣れたが、この女性を「母」と呼ぶことだけは今でも心からは出来そうにない。

「今日は少し顔色が良いみたいですね」
「ええ…あなたが採ってきてくれる薬草のおかげかしら。疲れているだろうに…ごめんなさいね……」
「気にしないでください、大した労力じゃないんです。かあさんが元気だと俺も嬉しいんですよ」

 採取場所の植物の分布と、対象植物の生育条件・季節・その他諸々を知っておけば、別に希少種でもないのだから見つけるのは意外と容易い。そう言うと「母」は少し困ったように微笑んだ。

「本当に賢いこと……」
「あはは」

 思わず明後日の方向を向いて笑ってしまう。確かに知識は持っているが、それは私が理解して得たものではなく、「」がもともと持っていた知識だ。この国のことや彼の記憶やなんかは残っていなかったくせに、文字や植物のことなど、後天的に得たのであろう知識だけはしっかりと残っていた。しかし放っておけばボロボロ抜け落ちていくのでたまに反復学習をして留めている。何故かこの小屋…違う、家には本だけはたくさんある。
 ――まあ、それでもかなり抜け落ちているのだろうが。仕方がない、仕事の方が大事である。

 気付けば女性は俯いて、胸の辺りで握った手をじっと見つめていた。「母」の伏せられた目にかかる睫毛は長く、こけた頬や落ち窪んだ目のことを考慮に入れても、あ、この人美人だな、と思えるような雰囲気と容姿に今更気が付いた。気が付いたところで何を思うわけでもなかったが。

「かあさん?」
「…あ、ごめんなさい、ぼんやりしてしまって……なんでもないのよ」
「そう?ならいいけど。かあさん溜め込む性格だから、その前に俺に言ってね?」
「ありがとう。はいい子ね……」

 彼女が微笑む。「俺」という一人称を使う私も微笑む。それでもごめんね、女の人。かあさんかあさん言ってばかりいたから7年経った今でも名前も知らない、女の人。やっぱりあなたは私のお母さんではない。
 だけど、「」は確かにあなたの子なのだろうから。せめて私は精一杯あなたを慕う。慕っているのは嘘ではない。胸に広がる暖かさは間違いなく親子の情というものだろう。
 それでも「」はもうすでに、唯一の母を心に抱いている。それは私が「私」として考えて行動している限り変わらないし、多分、変わることはできない。



 何か作るよ、と言って小屋の裏手にある簡単な炊事場のような所に足を向けた。わずかに夕焼けに変わり始めた青空。早くしないと、光源のないこの生活では日の入りはそのまま就寝の時刻と等しい。

 顔を上げて、そして下げる。泥と土にまみれ、汚れた足が目に入った。
 ――7年。
 7年かかった。
 長い時間をかけて、アイデンティティを築き上げてきた。私は私でありである、それを何度も確認する。

 。この国の首都で最下層の人間として生まれ、生き、そして死んだ子供。4歳だったようだ。
 彼は間違いなく天才だった。それはその恩恵を受けている私がよく知っている。4歳にして家にある全ての書物を理解・暗唱し、様々な知識を蓄えていった。よく働き母を助けた、鑑のような子供。

「影の出来ないものはないか……。あーもう、やるせないね……」

 彼の死因は暴行、もっと端的に言えば投石の当たり所が悪かったことによる。私にはそういう歴史の中の社会情勢の知識はないが、日本にだって奴婢という存在があったのだから、この国でも似た存在としてあるのだろうと考えることはできた。疎まれ虐げられ、蔑まれるために生まれた人々。
 のような、しかるべき場所に落ち着いたら間違いなく国を潤す人材であっても関係ないのだろう。そう思ったら、少し遣る瀬無くなる。

――この国は、じきに揺らぐ。

 「」としての知識に則ったものなのか何となくの感覚なのかは分からないが、そう確信する。
 時期は「今」なのだと、刺すような感覚が全身を支配する。

「彩雲国……」

 もはや記憶の木の葉は殆ど落ち、太い幹が残るのみ。しかし、それで十分だと思った。
 この身体と知識が私を生かすか殺すか。

――足掻いてみようじゃないか。

 一度は失われた生。しかし再び与えられ、今ここに立っている。
 与えられた。私はそれを受けた。ならば、あとは生きていくだけだろう。

 遠い過去になってしまった友人の顔と、膨らんだお腹が一瞬だけフラッシュバックしたような気がした。



 拝啓、もう名前も思いだせない紫の王様。
 あなたは箱庭の外から世界を見ているのかい?

 それとも自分のいる場所諸共地面を揺らしているのだろうか?

 教えてくれないか。もう――


 何年も前に読んだ小説の内容なんて、詳しいことは何にも思い出せないんだよ。





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2007.10.28
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