滑らかな絹の衣装に身を包み、上品に揃えられた宝飾具を散りばめる。笑みの形を作った小さな口元に持っていった扇子さえもが気の遠くなるほどの額でしつらえられたものだと知っているから。だから。 女は悲しくなって、惨めになって、それでも表情だけは崩すまいと何とか頑張って―― 逃げ出すようにその場を後にした。 色彩独奏競争曲 入院して1週間。そろそろ病院での生活にも慣れてきた。両足と左腕を骨折していて、体中のいたるところに擦り傷やら切り傷やら打撲やらがあるため入浴が禁止されていることが残念といえば残念で、両足を吊られているためベッドから出ることが出来ないのが難点といえば難点だろうか。それ以外はいたって健康…の、はずだ。正直なところなんとなく、じっとしているため健康なのかそうじゃないのかあまり分からなくなってきている。これが入院マジックか。いかん。何とか気を持ち直さなければ。私は窓を見る。青空を見たくなった。 ああ、抜けるような青空!体の奥に染み渡るような重い木肌の茶色!そしてその木に残った一枚の葉。 「……あの葉が落ちるころ私は……いや違う…それは違う……」 空回っている。溜息をついて、私はベッドの上に投げられているリモコンを手に取りテレビを付けた。無表情のニュースキャスターが淡々と事件を伝えている。曰く、コンビニに強盗が入った、曰く、相撲力士の誰それが横綱になった、曰く、どこかの田舎の小学校でユニークな授業が行われた、曰く―― 何の変哲もない日常。心地の良い日本の風景。 突如ある光景が蘇る。 腐りかけた木の小屋。まばらに点在するそれらの真ん中に横たわる土が剥き出しの大路。骨と皮ばかりの痩せこけた人々の死んだような目。ボロボロの衣服。もはや服と呼んでいいのかすら判断に困る。 嘔吐物と汚物のすえた臭い。どんよりと沈殿した空気。雑草の生えた川べり。水面に映った知らない顔。 石を投げる子供たち。逃げる。転ぶ。足がもつれる。 知らない手。足。指。体。――知らない、自分ではない『自分』。 あれは夢だったのだろう。私は今、確かにこうして生きている。ただ、やけにリアルだったのも確かだ。今でも後頭部が微かに痛む気がする。胸を締め付けられるような悲しみも覚えている。 夢の中で、あの子供は私だった。でも、私ではあり得なかった。私はあんな光景を、生活を知らない。 てのひらを見る。年相応に大きくなった、子供らしさがどんどん抜け落ちていっている手。もうすぐ成長も完全に止まるときがくるだろう。そうして停滞期を迎え、終焉にむかってゆるやかに老いていくのだ。 老いを怖いとは思わない。疎ましいとも思わない。だから―― あの子供が無事に老いることの出来る世界ではなかったなと、少しだけ同情した。 ――どうか、お許しくださいまし―― ――ああ、旦那様、旦那様!お慈悲を、どうか……どうか……!―― 女の悲壮な叫びは聞き入れられない。両手を家人に押さえられ、なす術もなく目の前の光景を凝視する。零れんばかりに溢れた涙は間もなく次から次へと頬を伝った。どうにか片手だけ抜け出した、伸ばした腕さえ届かない。取り戻すには、あまりに短すぎて。距離がありすぎて。 ――お願いします!返して…!返してくださいまし!!―― 涙は途切れることなく流れ続ける。女は叫び続ける。声が嗄れようが咽喉が潰れようが厭わない。ただただ、返して欲しい、それだけを訴えた。家人の、腕を掴む力が強くなった。 ――児を―― 女は呪った。目の前の、この家の主の所業と、自分の愚かしさを。 ――わたしの児を返してください!!―― こんなことになるのならば。 最初から、この家になど来なかったものを。 やはり、呪うべきは自らの愚かさなのだろう。 入院して2週間目。結婚したばかりの友人たちが見舞いに来てくれた。新婦のほうは心からの心配を、新郎のほうは半分心配の揶揄をくれた。新婚で色々と忙しい最中だろうに、来てくれたことは思いのほか嬉しかった。家族も休日には見舞いに来てくれるし、きょうだいは結構メールしてくるようになった。 点滴につながれていない左手を見る。何の変哲もない手。変わらない、変わりない。 事故に遭ってから、同じような夢を時々見るようになった。どこか中華風の夢。内容は良く覚えていないが、雰囲気だけは何となく感じ取れる。想像力が逞しくなったのか、はたまた、そういう変わった設定の妄想をことのほか気に入ってしまったのか、まあとにかく夢を見ること自体は嫌ではない。寧ろ楽しい。 今日も眠ったらあの夢を見るのだろうか。 必ず見るというわけではないから、もしかしたら見ないかもしれない。 それは少し残念だな、と思う。 ピ、ピ、と、相変わらず動いている医療機器を不思議に思う。 SpO2という、わけの分からない言葉を疑問に思う。 酸素飽和度――80%。私は医師でも看護師でもないのでそれが何を意味するのか分からない。ただ、最近やけに息が詰まることが多くなったとは思う。胸が苦しい。それが何故なのか、聞こうとして――やめた。 父と、母と、きょうだいと。友人と、親戚と、知り合いと。訪れては帰り、帰っては訪れる。その表情がどんな思いを表しているのか、分からない振りをするには少しあからさま過ぎた。 ゆっくりと、落ちていく。ベッドさえも突き抜けて、背中から堕ちていく。 落ちて、堕ちて、墜ちて。どこまでも、どこまでも。 ――病室のドアが開く。 ゴボ、と水泡が発生する音を聞いた。 「……う…」 何か温かいものを感じて、次に体中に痛みを感じて、呻いて何とか体を起こす。両手を突いて霞む目を幾度か瞬きさせながら慣らしていく。少しずつ目の前がはっきりしてきて、そうして最初に見たのは赤だった。 両手を見る。土と赤黒いものにまみれている。 地面を見る。一面が赤かった。 ――血。服も真っ赤に染まっていて、ところどころ傷ついているからおそらくは自分の。 緩慢に、目を見開いていく。この手にも、服にも、足にも指にも全て見覚えがあった。夢の子供。貧民街に生まれ、虐げられ続けていた児。私であって『私』ではなかった子。 何が何だか分からなくて、今の状況も何もかも理解しがたいことばかりで、何一つ知ることがない。 ――いや、ただ一つだけ分かることがあった。 『患者の容態が悪化しました!』 『SpO2が80%切っています』 『すぐに処置を――』 『ききょう?』 『外傷性気胸です。事故の際に骨折した肋骨が肺に損傷を与えたようで――』 『治るんですよね?』 『ええ』 『なんで』 『申し訳ありません』 『何故ですか』 『―――』 『どうして!』 ――たすけて 顔に、足に、腕に、胴体に。礫が降る。倒れこんだ己に容赦なく襲い来る暴行に目を開けることもできなくて、防ごうと思うのに、この手は小さすぎて、ただ丸くなることしかできない。 ――たすけて 痛い。痛い。木の板のようなもので殴られている。体が悲鳴を上げる。板が折れるほど強く打ち付けられて、折れた板の鋭いささくれがいくつも傷をつくっていく。 ―――たすけて 生理的な涙が出る。痛みが先行して悲しみに届かない。 何故なのだろう。何故こんな仕打ちを受けなければならないのだろう。何もしていないのに。どうしてだろう。 痛い。痛い。痛い痛い痛い。たすけて。だれか。だれか。 「――か…あさん」 ――たすけて、 もう、傷口から血は流れていない。むしろ体の中に血があるのか少し疑問に思う。こんなに流れ出てしまっているのに果たして残っているのだろうか。ぎゅ、と自分を抱きしめると、微かに冷たく、暖かかった。 背後に川の流れの音がする。早いところここを去らないと危険だ。また誰かに見つかったら。『自分』はまた傷つけられてしまうのだろう。そういう位置にいるのだ、『私』は。 両手に落ちた水が血を溶かし、赤を蘇らせる。 他に何も思わない。ただ、悲しかった。 ――そうか 「死んでしまったんだね」 ――『きみ』も。 --------------- 2007.10.14 back top next |