その時、確かに聞いたのだ。
 苦しみと悲しみの慟哭、そして歓喜の産声を。



小説―彩雲国物語より― 色彩独奏競争曲
ある人物のエピローグと、ある少年のプロローグ




 口から息を吐き出すと水泡の発生する音が辺りに響いた。
 ゆらゆらと、不安定にたゆたう世界に意識を散じ、その温かさに全てを委ねる。
 『自分』の瞳は開いているのだろうか、それとも閉じているのだろうか、それすら判じかねる真っ暗な世界にしかし恐れを抱くことはなく、ただ、不思議な安心感だけがそこにあった。

――護られている

 己と――とをつなぐこの一本の管だけで『自分』は存在を、命を保っている。そのことが酷く心細く、酷く嬉しく、未だ見ぬ世界に思いを馳せた。

 突如、ゴボ、という音を立てて体が揺らぐ。
 温かさが急速に流出していって、代わりに強く締め付けられた。
 締め付けは一定のリズムを伴い『自分』はぐんぐんと、ある方向に押し出される。排除されていく。

――止めて

 口は開かず目も開けられず。動くことも何故だか無理で。
 ふと、真白な何かが『自分』に注ぐ。
 温かさを失くし世界から排除され、細い糸すら我が手を離れる。そのことが苦しくて悲しくてたまらない。
 やがて強い冷気が間欠的に皮膚を撫で、そうしてついに落とされる。

―――

 その冷たさに、温度を失くした寂しさに、つながりを断ち切られた悲しさに。

―――かあさん

 それでも『自分』は手を伸ばし、歓喜と生理の啼き声をあげた。




 そこまで見て目が覚めた。
 なんともいえない目覚めだと思う。何が悲しくて出産経験のない私がよりにもよって「生まれてくる児の視点」なんてマニアックな夢を見なければならないのか。あれか、昨日みたドキュメンタリーの影響なのか。
 もぞもぞ動くとやたら肌寒いことに気付く。不思議に思って体を起こすとタオルケットが床に落ちていた。

「……」

 夢で感じた冷たさの原因はこいつか!
 自分の寝相にやや不毛な呆れを抱きつつ、しかし寝相矯正なんて面倒くさそうなことをする気もないので溜息一つついてタオルケットに手を伸ばした。きっちり6つ折りにしてベッドの足元に置く。

 さて、起きたからにはやらなければならないことがある。
 着替えて、朝食を食べて、そして出かけなければならない。
 今日は友人の結婚式だ。10代での結婚、しかし相手と付き合っている年数は今年で7年目という、急いでいるのかゆっくりだったのかいまいちよく分からない彼らに喜びと賛辞と祝福を贈ろう。
 お腹にいる児が健やかに育つように新郎に厳重な注意もして――ああ。こっちも原因だったのか。


 母親に朝の挨拶をして、新聞を読んでいた父親に何故いるのかと首を傾げたら若干哀しまれた。「日曜だぞ…」という父の言葉に物悲しい響きを感じた私は、結婚式の帰りに煎餅を買ってくるという約束を取り付け機嫌を取ることにした。ついでにビールもという要求にはメタボリックシンドロームなんて言葉が横行する現在、体に悪いので即・却下である。家族には長生きしてほしい。
 バターも何もつけない焼いただけのトーストを牛乳で流し込んでサラダを食べ、部屋に戻って正装する。裾がひらひらしたマーメイドラインの黒いドレス。ポイントポイントに銀色の糸でシンプルな模様が描かれている。普段かしこまらなければならない場にはリクルートスーツで行くのだが、今回だけはとバイトで貯めた貯金を崩した。小学生のころから付き合っている彼らを見ていたから、この結婚の感動はかなり大きいのだ。

 タクシー会社に電話して、母に髪の毛を整えてもらい、行ってきますと言って家を出た。


 結婚式はつつがなく進行し、そして終了した。今頃新郎新婦は二次会に行っているころだろう。
 私はというと結婚式の場で散々祝った(と自分では思っている)ため二次会は辞退し、帰ることにした。
 約束どおりその辺のコンビニで煎餅を買い、駐車場で待っていてもらったタクシーに乗り込んで住所を伝える。細かい部分は当然道案内だ。ドレス姿で煎餅を買っていった客に店員が興味を示しているようでちらちらこちらを伺っている。気恥ずかしくなって、やや早口で「出してください」と運転手に言った。

 過ぎる街並みを横目で追いながら、時折交わされる運転手との会話に緊張をほぐしていく。気付かれないよう息を細く吐いて背もたれに体重を預けた。横においている引き出物の紙袋を撫でる。
 彼らが結婚するのは素直に嬉しかったし、むしろ遅いような気もしていた(彼らは10代だが)。ただ、友達をやっていた年月は思いのほか私の中で大きいものだったらしく、なんというか――正直、寂しかった。
 友達を取られてしまったような、置いていかれてしまったような、なんともいえなくて地団太を踏みたくなる。
 それでも、彼女らが幸せならばそれで良いと。
 自然に思うことの出来る、そのことは嬉しかった。


そして幕が降ろされる。


 突如響くブレーキ音、強く背中側に押される衝撃、思わず目線をあげた先にはフロントガラスの向こうに見える大きな何か。影。車。――トラック。何が起きようとしているのか一瞬で理解した。ぶつかる。
 運転手が懸命にハンドルを回しているのが目に入る。無理だろうなと感覚で思った。もう考える暇もない。
 ああ――


暗転。




「……え?」

 ハッと意識を取り戻すと、足の裏に懐かしい感覚を覚えた。次いで皮膚に慣れない感触を覚え、不思議な風の匂いを嗅ぎ取り、最後に目の前の光景に目を瞬いた。
 瞬間的にフラッシュバックしたのは小学校の平和教育くらいでしか見たことのない戦時下の風景。道と呼べなくもないような剥き出しの地面の脇に、木造の、簡素と言うのも憚られるほど粗末な小屋がまばらに並ぶ。
 襤褸のような布切れを申し訳程度に扉のない入り口に垂らし、所々腐ってひしゃげた家の横。
 あちこちが破れた、服というよりもはやただの布を纏った、やせ細り骨と皮だけとしかいいようのない人々が無気力な顔で点々と座り込んでいた。頬はこけて眼窩はくぼみ、ぼさぼさの髪が不潔な印象を与えた。

 怖くなった。思わず一歩下がる。
 そのとき、もう一度足の裏に奇妙なものを感じて足元を見る。そして私は自分の目を疑った。
 裸足の、骨と血管が浮き出た貧相な足。薄汚れた爪は黒くて、そして――全体的に小さい。

 子供の足。

「…あ……ぁ……っ!?」

 思わず声を出して再び驚く。声が違う。高い。まるで子供のような声。咽喉に手を持っていく。
 頭が混乱する。なんだ、これは。何が起こっているというのか。何が起こったというのか!周りの人々は私が見えていないのかそれとも見ようと思っていないのか、態度を崩さない。
 わけが分からない。分からなくて頭が痛い。気持ちが悪い。

 私は後ろを向いて逃げ出した。その場から一刻も早く離れたかった。


 走って走って、どのくらい走ったのか分からないくらい我武者羅に逃避して、川に行き当たったところで私は座り込んだ。息を切らせる声が聞きたくなくて息を止め、しかし苦しいのでやはり呼吸を荒くしてしまう。その声が不自然で不安でどうしようもなく憎らしく思えて、咽喉を掻き毟りたい衝動に駆られて必死に留める。
 地面を爪で引っかいて水面を滅茶苦茶に殴る。何も分からず何も思えず、ただただ混乱した。
 涙がボタボタとこぼれた。

 何が起こっている。
 何が起きた。
 ――私は、誰だ。

 足が違う。手が違う。着ている服がさっきの人達と似ている。破れている。汚れている。

 後頭部に鈍い痛みが走った。

 コロ、と手にぶつかったものを目の端に捕らえ、もはや驚くこともなく私はそれを手に取る。灰色で硬い、石。頭に温かいものが流れるのを感じた。粘性を伴ったそれはやがて首筋にまで届く。振り向いて。
 ――酷く悲しくなって、顔が歪んだ。

「なんでお前みたいなのがここにくるんだよ!」
「あそこから出てくるなよ!街が汚れるだろ!?」
「消えろ!!」

 数人の子供。身なりは――少なくとも、今の自分よりは良いだろう。両手に石を持ち、こちらを怒りにも似た形相で睨んでいた。それが何故なのかを考える間もなく投石が襲いくる。とっさに両手で頭をかばった。

「帰れ!」
「帰れ!!」

「―――!!!」

 最後の言葉に目を見開いた。
 体の奥から恐怖がせりあがって全身が震える。
 逃げなければ。逃げなければ。逃げなければ!でないと――

 動こうとしない足を無理やり動かして、転げるようにその場を離れようとする。その間にも石は容赦なく飛んできて、背中や足がズキズキと痛んだ。足がもつれて地に伏せ、力の入らない腕で起き上がろうと這いずりまわって、転びすぎて土が口に入って酷くむせて、もうわけが分からない。
 どのくらいの時間だったのかもどのくらい走ったのかも分からないまま、目の前には一番最初に見た光景が広がっている。あちこちが痛く、至るところから血を流すその姿のままで私は手を伸ばした。

――か

 『私』でない『自分』が口を開く。その瞬間後ろに引っ張られ、目の前が暗くなった。




 そしてまた、同じように目を覚ます。

 伸ばした手には包帯が巻かれていて、点滴のチューブが繋がれていた。ピ、ピ、と心臓の鼓動に合わせた電子音が耳に響く。大きく上下する胸とそれに見合う大きさの乱れた呼吸を自覚しながら、なんとかそれを整えようと数回深呼吸をして、最後に長い息を吐いた。
 走るような足音が聞こえて、引き戸を開けるような音が聞こえ、何人かが入ってくるのを感じる。現れたのは2人の看護師と医師らしき人物、それに家族で、ああ、ここは病室なのかとその時に思った。

 母が無言で横たわる私の体を抱く。
 父が安心しきった泣きそうな笑顔で私の頭を撫でる。
 きょうだいがボロボロ泣きながら私の名前を連呼する。

 頭に子供の『自分』の声が蘇る。

――かあさん

 石を投げた子供の、最後に聞いた言葉がリフレインする。

――死んでしまえ




 あの児の伸ばした手は、何かを掴めたのだろうか。
 あの子の伸ばした手は、母親に届いたのだろうか。


 不意に、お腹の大きな友人に会いたくなった。





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2007.10.8
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