足を踏み入れた瞬間、緊張で吐きそうになったことを覚えている。



色彩独奏競争曲
メゾ・フォルテの憂鬱




 慣れた手つきで、珠翠が官服の着付けを済ませていく。真っ白な衣は白家からの許可を得て着る制服だったが、たとえこちらの世界の事情がどういうものであっても、私にとっては初々しさを感じさせるものに他ならない。特別望んで仕官するわけでは決してないのだけれど、それでも汚れ一つ無い新しい衣装を身に付けていると思うだけで心が躍った。

「ね、珠翠。やっぱり髪が短いのっておかしいのかな?」
「そうですね、伸ばしていらっしゃる方が大半ですから、珍しいと思いますが」
「短いのって、下賤なんだっけね」
「……ええ、まあ」

 肯定の返事を聞いて少し残念に思う。髪の毛は伸ばしておくもの、ということが常識としてあるこちらの世界において、短髪を貫いている私は人々の目に奇異にしか映らない。もちろん全ての人が長髪というわけではないが、短髪なのは往々にして貧民、あるいは奴隷身分の人々だった。カツラの材料などに髪の毛が高く売れるという馴染みのない事実も関係しているのだろう。

 私が髪を伸ばさない理由は単純で、単に短髪と長髪の男性だったら前者が好みだからである。長髪は嫌いではないが、元の世界の友人に受けた教えの通り、やはり長髪は二次元においてこそその真価を発揮すると思っている。これは魂に染み付いた文化の差だろうから仕方がないのだが、私の故郷は何があっても21世紀の日本以外に有り得ないので修正するのも気が進まず、今では開き直って押し通すことにしてしまった。
 しかし仕官するとなればそうも言っていられない。これから先はいざしらず、現在の朝廷はその大半が貴族の人々だ。短髪は不要な誤解や偏見を受けやすい――そう主張して譲らない副社長と珠翠に妥協する形で、私はカツラを付ける道を選び、髪の長さをごまかすことにした。外見年齢14歳にしてカツラ。なんてことだ。

「まあ、家も師(せんせい)の家も庶民ってわけじゃないし、仕方ないか……」

 資蔭制は『親の位』に応じて子や孫に位階を与える制度である。官吏の家系でない家ではそれが不可能だったため、資蔭制を利用するに当たり私は師のところに仮子――いわゆる養子――として迎えられた。
 しかし、では家を放逐されたかといえばそうではなく、そんなことは関係ないと言わんばかりにいつも通り、家で寝起きし暮らしている。仮父子関係は名ばかりだ。誰の反対も受けないので多分それでいいのだろう。

「できましたよ」
「ん、ありがとう。そろそろ出ようかな……ああ、気が重い」
「またそのようなことを……。仕官なさるのですから、胸を張って入朝なさいませ」
「入朝はいいんだ。でも部署が……一番苦手なことなのに」
「御史台は官吏の不正を暴くもの。民のためになくてはならない存在です」
「分かってる。俺にそんな細かい観察が出来るとはあんまり思えないけどね」

 珠翠が溜息をついた。それを見てバツが悪くなる。駄々を捏ねているだけなのは十分に分かっていた。
 師が元々御史台の高官だったことから私も御史台の位を与えられたが、不正を見つけたり監視したり……後者はともかく前者は細かい違和感に気付かないことには成り立たないだろう。そんな繊細さが私にあるとは思えなかった。きっと業績はゼロに違いない。出来れば一番なりたくない部署だった。

「そう塞ぎこんでいては何も始まりません。今はとにかく入朝することが大事です」

 気付けば珠翠が茶を淹れ、差し出してくれていた。おとなしくそれを受け取り飲むと、仄かな甘みが口の中に広がった。気持ちが少し落ち着いたような気がする。

「少しずつ慣れていけばよろしいのです。様は最初から完璧を目指そうとなさる癖がありますが」
「う……」
「初めは出来なくて当たり前です。大切なのは、その後努力するか、しないかですよ」

 情けなく眉尻を下げた私に、珠翠は優しく微笑んで言った。

「行ってらっしゃいませ。私は、この家で様をお待ちしています」

 ――どうせ、もうすぐいなくなってしまうくせに。
 日に日に強くなる珠翠の「嘘」への不安からそう口に出しそうになったが、寸でのところで飲み込むと、できるだけ自然な笑顔になるように、私も笑って返事をした。



 新進士が入朝するに当たってのオリエンテーションはつつがなく進み、終わった。記憶にあるような特別試験は課せられず、各々が事前に発表されていた配属先へと赴き、そこでまた部署ごとに異なった説明を受ける。そんな流れのようだった。
 私はというと勿論御史台のある建物に足を運んでいた。ただし説明を受けるためではない。御史台にそれはないのだと通知されていたから、とりあえず明日からの仕事場を見て回ろうと思ったのだ。
 そもそも元の世界では就職活動すらまだだった私がいきなり政治の中核に入り込んでいることが問題だ。バイト経験があるとはいえここではほとんど役に立つまい。そもそも御史台の仕事とは何なのだろうか。
 監査する、摘発する、――他には?

「一応公務員だし仕事ができないからってクビにはならないはず……あ、冗官があるのか」

 溜息を付いて肩を落とす。しばらくは仕事を覚えることに全力でかからなければ。
 その時、向かいの回廊を歩いてくる人影をみとめたので、私はとにかく仕事場がどうなっているのかを尋ねようと思い声を掛けることにした。

「あの、すみません」
「ん?」
「今年から御史台に配属された、と申します。申し訳ありませんが、皆様が普段どちらにてお仕事なさっているのかをお教えいただきたく」
「ああ、新進士ね。そうだな…仕事はここが拠点だ。資料庫がこの先にあって、あとは大中小の部屋で皆それぞれやっているな。北側に離れみたいな建物があるんだが、そこが長官の執務室だ。
今年御史台に入った新進士はお前一人らしいし、大変だと思うが頑張れよ」

 丁寧に教えてくれた官吏に感謝の意を伝えつつ、私は凍った表情を溶かすことが出来なかった。固まった笑顔のまま官吏を見送ると、突っ込むに突っ込めなかった事象を反復する。

「一人って……」

 理由が想像できないわけではない。御史台は高い観察眼と判断力が要求される、いわば警察のようなものだ。今までひたすら文学しかやってこなかった進士には荷が重いだろう。
 そう考えると資蔭制は結構有用なのだ。確かに金にものを言わせて入廷する人々が多いのだが、逆に言えば貴族が多いので生まれた時から「貴族の考え」を知っている人物ばかりということになる。その経験をうまく活かすことができれば貴族の裏のつながりを辿ることも、もしかしたら不正のメカニズムを打破することだって簡単にできてしまうかもしれない。更に言えば資蔭制は試験で学舎を共にしない分顔を覚えられることが少ないので覆面官吏になりやすい。
 資蔭制、いいじゃないか。
 ――たとえ「経験」を活かせない人が大半なのだとしても。

 今年は見込みのある進士が少なかったのだろう。そして私は師が元とはいえ御史台の高官に任じられていたほどの人物だった。だから御史台、それだけの話なのだ。私の事情は芥子粒一つほども入っていない。

 溜息を付いて、気分を変えるべく歩き出すことにした。改めて建物を見ると、なるほど先ほどの官吏の言うとおり扉の数が多い。これら全てが仕事用の個室ということだろう。この国の建物の特徴として、扉は両開きのものが一般的であり、一つの部屋もそれなりの大きさを持っていることが多いのだが、ここの扉はどことなく懐かしかった。あれだ、ドアに近い。片側だけの扉なのだ。部屋もそれほど大きくなさそうで、間隔から予想すると、おそらく8畳かそれ以下だろうか。奥行きが分からないからそれより狭い可能性もある。

「失礼します」

 扉は「閉まっている」ものと「半開き」の二つがある。どうも閉まっている部屋は誰かが使っているものらしい。半開きの部屋には誰もいない。つまり使用中かそうでないかの目印なのだろう。
 閉まっている部屋が圧倒的に多く――これはただの考えだが、人がいなくても、官吏が「自分専用」と決めた部屋は恒常的に閉まっているのではないだろうか――、建物を半周した辺りでやっと半開きの扉を見つけた私は、声を掛けながらおそるおそる部屋――もとい、執務室の中に入った。

「うーん、四畳半くらい?」

 部屋は思いのほか狭かった。四畳半といっても本棚と机が大半を占めているので本当に狭い。ただ、ずっと使われていなかったわけではないようで、埃もそんなに溜まっていないしくもの巣が張っているわけでもない。
 新米には丁度いい広さだろう。そう納得して、まずは掃除をするべきだろうかと部屋を見回した。

「家から雑巾持ってこようかな。資料庫の場所も見ないと。じゃあ掃除は明日から……あ!」

 スケジュールを組んでいると、突然衝撃を受けて、気付いたら叫んでいた。

「長官に挨拶……」

 説明はないと言われているものの、挨拶くらい行かないとまずいだろう。というより、真っ先に行くべきだったかもしれない。
 資料庫は挨拶の帰りに探すことにしようと決めて、私は部屋の扉を閉めると回廊を駆けた。



 さて、なんとか長官に挨拶を済ませたわけだが。何だかもうわけがわからなくなってきた。混乱している。
 ちなみに長官は姿にも名前にも覚えがなかったので多分原作に出ていない人だと思う。それよりも困ったのが仕事の説明だった。

『基本的に指導官吏はつけない。自分で仕事を見つけてくるように』

 しがない新米の身分で異を唱えられるはずもなくその場は頷いたが、よく考えると、いやよく考えずともこれは由々しき問題だ。こちらでの幼少時には生きるために結構色々なことをしたけれどそれだって肉体労働だから頭は使わなかったし、家での仕事は商売なので御史台とは勝手が異なっている。仕事経験が多少なりともある分助かったと思わなければならないだろうがそれにしても少しくらい教えて欲しかった。
 ただ、向こうが欲しい人材が「即戦力」であるのは確かなようで、会話の節々にその考えが透けて見えた。そう考えると習うより慣れろの教育法は手っ取り早いのだろう。
 仕事とはそういうものなのだ。こちらが雇ってもらっている身分である限り、上の期待に答えねばならない。

 不正の証拠は資料庫なり他の部署なりに隠れているのだろうし、それを探すには覆面官吏になればいい。御史台権限で書類の閲覧もある程度可能だ。だから仕事を探すのはそれほど難しくない。難しいのは、膨大な資料の中から誤りを見つけることだ。何だか自信がなくなってきた。
 まずは地道に雑用でもして他の官吏を観察しながら仕事を覚えるしかないかとぼんやり思った。

「まあ、まだ監察御史になったわけでもないしねー。見習い兼雑用係でも手一杯だろうなあ」

 ははは、と苦笑しながら私の占有スペース(と勝手に決めた)部屋の扉を開ける。資料庫は長官――御史大夫の執務室へと続く回廊のすぐ近くにあった。この部屋は資料庫から比較的遠い場所にあるが、同じ建物なのだしそう距離があるわけでもない。さて、仕事をしているだろう他の官吏に何と言って取り入る――いや、雑用させてもらうか考えなければ。

 頭の中で今後の身の振り方を考えながら部屋に入ると、明らかな違和感に気が付いた。というより、気付かない方がどうかしている。誰かいるのだ。椅子に座って机の上で何かを見ている。
 部屋を間違っただろうか。いや、自分で言うのもなんだがこの世界に来てからジーニアス効果で記憶力には自信がある。ちなみにジーニアス効果は効果と言い換えてもいい。どうでもいいことだけれども。まあつまり部屋を間違えた可能性は低い。では、なぜここに人がいるのか。

「……どちら様でしょうか」

 反射的に尋ねていた。明らかに先輩である官吏に対しあまりに不遜な態度であると気付くには、目の前の光景が現実離れしすぎていた。その場の空気を変えることの出来る人なのだろうか、一瞬にして飲み込まれてしまったような錯覚を覚えた。
 ――なんか黒い。
 それが率直な感想だ。勿論着ている官服は黒じゃない。でも色が濃すぎて黒く見えた。その人は私の不躾な質問に何の反応も示さなかった。あれ、とちょっと困って頬をかく。自己紹介しなかったのがまずかったか。
 床に膝を着いて跪拝をとる。

「私は本日より御史台に配属されたと申します。差し支えなければこの室を使わせて頂こうと考えておりましたが、こちらは貴方がお使いになっているのですか?」

 今度はこちらを向いてくれた――らしい。頭を下げているので衣擦れの音でしか判断できない。

「――顔をあげろ」

 言われるままに顔をあげて、その人の顔を見る。……見なければ良かったと思うのは失礼だが本音だ。鋭い目に眉間の皺は深く、硬く結ばれた口に柔らかさの欠片もない顔全体が合いすぎて怖い。絶対厳しい人だ。

「この室を使う分に何ら問題はない。私はたまたま立ち寄っただけだ。しかし、お前に仕事ができるのか」

 淡々と紡がれた言葉には何の感情も篭っていなかった。無関心……なんだろうなあ。最後の言葉も侮蔑や心配とかではなくて、本当に言葉通りの意味みたいだった。ここまで平坦に言われたら私も気付く。

「入朝したばかりで右も左も分かりません。ですので当分は皆様の雑用をして仕事を覚えようかと」
「役に立たない官吏は必要ないが」
「そこは容赦していただきたく。雑用でも何かしらお役に立ちましょう」
「具体的には」
「……回転率の向上など」

 なんだろう。これは遠まわしに辞めてしまえと言われているんだろうか。しかし仕事を知らないのだから仕方がない。雑用でも何でもいいから皆の仕事をみてやり方を盗むしかないのだ。

「回転率か」
「成果の向上にも繋がりますし、無用な時間を減らせるのですから雑用がいて損はないと思いますが」
「一理あるな」
「ありがとうございます」
「では、せいぜい腑抜け達の世話をしてやるといい。己の扱う仕事くらいは完遂するようにと」

 吐き捨てるように言われた言葉に首を傾げる。

「腑抜…ですか?御史台は官吏の中でも監察に長けた精鋭方が集まっている部署だとお聞きしました」
「本来そうあるべき所だ。しかしここ最近ロクに仕事も出来ない輩ばかりがくる」
「………それは、ええと、なんというか」

 あれ苦労人なのか、と思ったが、すぐに違うと気付いた。眉間の皺が少し深くなっているような気がしたからだ。イラついていると言うほうが正しいのか。見た目で判断するのはあまりよくないが、この人の場合見た目が全てを物語っているだろう。
 絶対に無表情・無感動で仕事をバリバリこなすタイプだ。そして仕事が出来ない人には容赦しないんだ。
 どこかで聞いた覚えのある性格に直感した。もしかして原作に出てきた人じゃないのか、この人。

「あー……」

 少し思い出してきた。10年近く前の記憶、カムバック。

「なんだ」
「では貴方が昇進した際に教育しなおすなり一掃するなりなさったらよろしいのではないでしょうか」

 だって絶対偉くなるだろう。原作で重要ポジションにいる、すなわち私が覚えていそうな登場人物は概して地位の高い人だったはずだ。黎深さんと鳳珠さんはたしか尚書になるはずだし。

「……それは私が高官を蹴落とすという意味か」
「蹴落とすといいますか、遅かれ早かれ貴方はいずれ結構な地位までいくと思います。そんな気がします。むしろ、そんな気しかしません」

 原作にいた人だと分かると、途端に警戒心が薄れていく。ああ、まずいなと思う。この癖のおかげで鳳珠さんとは大分打ち解けられた(と私は思っている)が、仕事場で出す癖ではない。敬意を忘れちゃだめだ。
 軌道修正しなければ。

「失礼を申しました。どうか私の言はお気になさらず」
「………」

 しかし黙り込んでしまった目の前の人物を見るに、やりすぎてしまった感が拭えない。
 ――いや、待てよ。これってチャンスなんじゃないのか。ここで、たとえ付け焼刃かつ反則的なものだとしても「先見の明」でも何でも示すことができれば、この先楽になるんじゃないのか。

?ああ、仕事は出来ないな。先見の明があるからいいけど』
?ああ、役に立たないな。先見の明に才能もっていかれたんだろうな。仕方ない』
?てんで駄目だな。先見の明が以下略』

 うふふふふ、と脳内で笑った。いける。いやだめだと思うけれど、何か特化した才能があれば他のことが人よりできなくても多少優遇されるのではないだろうか。特技を活かすという道が残るからだ。
 残念ながら私に先見の明はないし、出来ることといったら既存の知識をのジーニアス成分で裏づけすることくらいだ。最近はその知識も危うくなって、実際に直面もしくは情報を得なければ思い出せなくなってきている。もう完全に忘れてしまった記憶もあるだろう。でも忘れない記憶だってある。例えば現在進行形で黙ったままのこの人が偉くなるだろうこととか、厳しい人だということとか。……見れば分かるけれど。
 よし、決めた。私の評価は「たまに未来を予想できるけど仕事が出来ない人」だ。たまに、というのが大事。

「これは私の独り言ですけど、貴方は昇進なさいます。それこそ……あ。そう、御史大夫まで」

 言いながら思い出した。この人が長官だ。ただし未来の。道理でさっき挨拶した長官に見覚えがなかったことを不思議に思ったのだ。名前はすっかり忘れたけど、この人だ、絶対。…多分。
 一つ思い出したら連鎖的に他のことも少しだけ思い出した。確かこの人の友達で桃っぽい印象の人がいたようなきがする。あとはえーと、思い出せない。
 黒っぽい人はやはり無表情で答えた。

「そうか」
「……興味はないのですか?」
「ない。私は仕事をするだけだ」
「ああ、そうですね。結果はあとから付いてくるといいますから。失礼致しました」

 出すぎてしまったかもしれないなと思いつつ、再び頭を下げる。すると黒い人は立ち上がり、部屋から出て行った。残されたのは私と、机に広げられた巻物と、そして残り香だけだった。いい匂いがする。

「今度、香焚いてみようかな……あ、名前聞いてないや」

 まあ同じ職場なのだからいずれ会うことも聞く機会もあるだろう。そう思った私は、とりあえず机の上の巻物を読んでから家に帰ることにした。書かれていたのはただの建国物語で、特に興味が引かれることはなかった。



「で、まあ遭遇率が高いと思うわけなんだ」
「遭遇率……でございますか。朝廷なのですから、官吏の方々にお会いするのは当然では?」
「そうじゃなくてね、将来有望な人にあう確立。何だか10年後が楽しみになってきちゃってさ」
様……失礼ながら、貴方も十分将来有望な年齢です」
「俺は無理」

 珠翠が困ったように「まあ」と言う。

「『俺』は天才だけど天才じゃなくて、この国の人間だけど国に愛着を持っていない。守りたいものもないし、全てを捧げるほど大切な人もいない。生きていられれば、生を楽しめればそれでいいんだ、申し訳ないことに」

 官吏としては失格だよねえ、と笑うと、珠翠が泣きそうな顔をした。きっと珠翠には大切な人がいるんだろう。
 だから私はこんな話題を出した。珠翠の心に深く突き刺さるように何度も何度も考えた言葉を使って、ゆっくりと彼女の心に近づいていく。それが彼女にどんな感情をもたらすものであっても構わなかった。
 最初からそうだったけれど、珠翠はこの頃、以前にもまして必要以上に家の人間と口を利かないようになっていた。住み込みで仕えているのに身の回りの物を増やそうとしなかった。珠翠の性格に合っていると周りは逆に納得していて、私の中の『』だけが異を唱えた。小さな小さな違和感を感じ取ったらしい。
 そして最近、薄ぼんやりともう長くは無いのだろうと思うようになってきた。この体で生きて10年近く、正確には8年と少し、この手の直感は滅多に外れない。きっと私が扱えない部分の知能で判断しているのだろう。

 彼女のことが好きだった。優しくてしっかりしていて、心地よかった。
 全てを捧げられる人はいないけれど、大切な人ならたくさんできた。鳳珠さんも黎深さんも副社長も珠翠も大好きだ。だから、離れられると寂しかったし、きっとこれからも寂しい。

「珠翠」

 でも、好きだから、迷惑をかけたくないと思う。
 理由は分からないけれど、珠翠が弼家を出る決意をしたというのならば、それを妨げてはならない。

「何でございましょうか」
「君の目に俺はどう映っている?一人前に近づけているかな」

 その言葉に、珠翠は困ったような表情を小さな驚きに変え、そして笑った。

様は、もう十分にご立派ですよ」

 ならば、お別れだ。





---------------
2008.9.15
back  top  next