そして「その日」はあまりにも突然に、素晴らしい用意周到さを以てやってきたのだった。



色彩独奏競争曲
全てをのみこむレクイエム




 御史台で働き始めて一年半ほど経っただろうか。とはいうものの正直なところ配属されてからこっち、「忙殺」という言葉を思い知る生活をしているので時間の感覚がどこかずれている感が否めない。――いや、葵官吏に比べれば私の働きなどそれこそ侍僮の方がよく動くのではないかと思うくらい微々たるものなのだけれど。少し落ち込む。
 朝廷のだだっ広い廊下を新官吏の真っ白な官服でなく黄土色の地味な衣を風に遊ばせながら走り抜ける。行儀が悪いと分かっているが、そうでもしないと間に合わないので妥協してしまう。指摘してくる官吏がいるときは謝り、御史台であることを伏せた上で理由を述べる必要があるので見つからないよう人影に注意し、庭院に降りて駆けることもしばしばだ。しかし今日はどうやら運がいい。話し声も私以外の足音もない。
 抱えている書簡を落とさないように持ち替え、私はある扉の前でブレーキをかけた。呼吸を整え、名乗り上げてから室内に入る。

「失礼致します。戸部の監査結果をお持ちいたしました。戸部尚書はおられますでしょうか」

 そう言うと大抵の官吏は表情を強張らせる。最初はこうやって結果を持ってくる度に似たような反応を返す官吏の様子に「御史台って嫌われてるんだろうか」と落ち込んだりもしたものだが、徐々にどうやら違うらしいことが分かってきた。単に結果が気になるだけのようだ。
 やがて穏やかな微笑を浮かべた一人の官吏が進み出た。戸部に結果を持ってくると対応するのは大抵この人なので名前は覚えている。確か「景柚梨」さんだったはずだ。廊下などで会うと必ず挨拶してくれる優しい人で、私の中で勝手に、忙しい官吏生活の清涼剤になっていただいている。

「ああ、官吏、お待ちしておりましたよ。差し支えなければ私がお渡ししておきましょうか?」
「ありがとうございます、景官吏。ですが今回は上からの言伝がありますので直接渡すように、と」
「そうでしたか。それでは案内いたしましょう。こちらへどうぞ」

 そうやって案内されたのは戸部尚書の執務室だった。扉の脇で一礼すると、戸部尚書は白く長い髭を一度梳いて手招きをした。尚書は極端に言葉が少ない。けれど話せないわけではなく、寡黙なだけらしい。
 執務机の前で跪拝する。

「御史台から参りました、にございます。戸部の監査結果をお持ちしました。
――それではご報告します。予算運用、査定方法等多数の項目に渡り監査を行った結果、いくつかの問題点が見つかりましたが特に緊急性を要するものは見られませんでした。詳細は書簡に記してありますのでご参照ください。それから、これは監査に当たった上官からお伝えするようにと」

 尚書は無言で先を促した。

「『恐れながら、年々用途不明金の額が増加しています。現在は問題になるほどの規模ではないものの、このままだと監査上の問題として挙がることが予想されます』とのことです」

 後ろで景官吏が息を飲んだ。私は過去の戸部の監査報告や対処報告を思い出して少しやるせなくなる。

 配属されて私が始めに手をつけたのが、過去の監査記録だった。国試の勉強はしても政治、特に仕事の具体的な内容に関して恥ずかしいくらい無知だった私は御史台の仕事を――「監査」がどのようなものであるのかを知らなければならなかったのだ。
 もちろん全ての記録に目を通す時間はないので朝廷内のものに限定して目を通していったのだが、その中で印象強かったのが戸部の実直さだった。とにかく監査結果を受け取ってからの対処が早い。戸部は金銭の管理をする上で精密な計算を求められるから計算間違いも出るし、そもそも他の所からきちんとした決算報告が来なければ正確な計算ができない。だからこれまでも用途不明金は監査でも指摘されていて、その度に戸部は対策を打ち出し、実行してきた――が。
 戸部の懸命な努力とは裏腹に、用途不明金の額は減少するどころか年々微細ながら増加していった。努力が報われていないのだ。景官吏でなくともため息を吐きたくなるだろう。

「御史台からは以上です。何か言伝等があれば承りますが」
「………よい。ご苦労だった」

 尚書が重々しく口を開いた。その言葉に微かに疲れの色が見えたのを私は目敏くキャッチした。「」になってからというもの、人の様子を敏感に感じ取る人間になってしまったようだ。
 たまには気付きたくないこともあるんだけどな、と心の中で呟く。

 もう一度礼をし、景官吏の先導で退室する。軽い音を立てて閉じた扉がやけに寂しげに思えた。



 その調子で工部、礼部、兵部を回り、吏部と刑部の結果を取りに一旦御史台へと戻る。――御史台、というのは少し語弊があるかもしれない。朝廷のある宮殿はそれぞれの建物にややこしい名前がついているから、当然御史台が入っている建物にも名前がある。覚えなくても損はないから忘れたけれど。だから実際には、「外朝の○○にある御史台」というべきだ。でもやっぱりややこしいので単に御史台としか呼んだことがない。
 そんなことはともかく、御史台に戻ったその足で御史大夫の執務室に程近い、ある部屋に向かう。声をかけて名乗ると低い声で返事が返ってきて、私は報告することを頭の中でまとめながら扉を開いた。
 葵皇毅さん――今の私の直属の上司、葵官吏は相変わらず物凄いスピードで書類を繰っていた。

「吏部と刑部以外が済んだので報告に来ました。工部と兵部は概ね予想通り、戸部は対処が実らないことに気落ちしている様子でしたが近日中に対策会議を開くとのことです。礼部は……」

 そこまで言って言葉を区切る。言うべきかどうか迷った。

「言え」
「は。礼部は監査にて挙がった問題について対処の必要なしと判断、通常通りの業務を続けることのことです」

 葵官吏の眉間に皴が寄った。書類の検分を一旦止めると怪訝そうに私を見た。

「言伝は伝えなかったのか」
「お伝えしましたが尚書殿が一笑に付されたのみでした。また、私の独断で報告の際に今後の展開予想を提示しましたが、関心は示されませんでした」

 思い出すと苦いものが蘇る。礼部尚書はいつも笑っていて、物事に対しゆったりと構えている人だ。そのこと自体は決して悪いことではないものの、どうもゆっくりしすぎて現状主義になっている部分がある。今上手く行っているのだから多少何かあっても大丈夫だろう、と。ただ、このままだと数年後にはとんでもないことになるんじゃなかろうかと、葵官吏と、不肖ながら私も危惧している。……状元及第者が落とした俸禄銀一両、発注数が少しだけ多い備品類、礼部主催の祭事の決算、その他いろいろ。確かに問題に挙げるには微妙なラインのものが多いが私の感覚――イコール感覚――と葵官吏が疑問に思う程度には大問題なのだ。

「……まあ、いい。官吏監査の方はどうなっている」
「既に他の御史の報告を纏める段階に入っています。今後御史台内で最低三回の校正を行いますが、その後の諸事を考慮しても新年の除目には余裕を持って間に合わせることができるかと」
「校正前のものを一部私のもとへ持って来い」
「了解しました。――それから私が監査を担当している鴻臚寺なのですが、二、三の問題点が見つかりましたので後ほど報告書にて提出します。では、失礼します」



 その後順調に二つの部署に結果を届け、鴻臚寺から先月の決算報告書を受け取り、数人の御史に官吏の監査結果を受け取りに行ってから私専用と決めた小部屋に戻ると、すでに空が茜色に染まっていた。これから結果に目を通そうと思っていたのだけれど、この分だと今日はもう止めておいたほうがいいだろう。この国、いや、この時代は明かりといえば電気ではなく火である。油に浸した紙縒りに火をつけるものが多い。つまり、それほど明るくない。
 早々に仕事を諦めて書類をからくり錠の付いた文箱に仕舞うと本棚の一番上においた。無用心だ。本当は持って帰りたいところだが、如何せん量が多く重すぎる。警護の人々を信じよう。
 黄土色の官服の上に薄い草色の上衣を羽織る。飾り帯を腰に巻きつけ、懐に入れた財布を確かめた。

 小部屋を出て、仕事をする他の御史に挨拶をして嫌そうな顔を投げつけられ苦笑しながら――御史は基本的に実力主義、秘匿主義的な面が強いので、他人と関わりたがらない人物が多い――物陰で含み笑いの談笑をする官吏達に気付き、門番の衛士が交代のため持ち場を離れているのを見咎めて、思いのほか「御史」という仕事に染まってきた自分の姿を自覚する。
 案外、御史台の仕事は性にあっているのかもしれなかった。物の流れをよく観察し先を読む商人のやり方と、人と物の動きに注意しなければならない監察は意外と共通点が少なくない。一年余り何とかやってくることが出来たのもそのおかげのような気がした。

 大抵の官吏が軒を使って帰宅する中、私は場違いに徒歩だった。家のある市が宮城からそれほど遠くないというのもあるが、一番大きな理由は城下の人々の様子と物流を観察しながら帰るためだった。
 今は晩夏。暑い盛りも過ぎ去り、心地よい涼風が街を駆け抜け、じきに実りの秋が訪れる――はずなのだが、家の見解はこれ以上ないくらい苦々しいものだった。
 道行く人々の表情に大きな変化は見られない。道端の行商に声をかけると笑顔を向けられた。

「どうだい、坊ちゃん。藍州から運んできた混じり気なしの塩だよ!」
「あなたが運んだんですか?」
「そうさ。本家が藍州の塩問屋でね、俺たち分家は行く先々の州で売り歩いてんだ。貴陽が最後だな」
「というともしかして、あの有名な行商問屋でしょうか。それはさぞかし上質な塩でしょうね」

 藍州の塩問屋といえば三つほど有名どころがある。家もそのうちの一つと取引があったはずだが、目の前の行商人の本家とやらではない。許可を得て塩山に触れると粉砂糖のように細かな粒子が滑った。

「な、良い塩だろう!」
「……驚きました。頂きます」
「まいど!」

 小さな麻袋に塩が詰められるのを見ながら、提示された金額に反応する。

「あれ、また値上がりしましたね」
「藍州を出たときはそうでもなかったんだがな。こりゃあ今年も豊作ってわけにはいかねえんだろうなあ」

 二言三言雑談を交わし、麻袋を抱いて家路を急ぐ。

 知らず緊張に指先が震える。家に迎えられた頃から現れていた物価の上昇は、おそらく今年でピークを迎える。追い討ちをかけるように、彩雲国全土に広げられた商家・家の情報だと今年は絶望的なまでに不作とのことだった。過ごしやすい夏のせいで作物の生長は遅れ、黄砂と害虫が畑を荒らす。貴陽には農家がいないからいま一つ実感がわかないが、近郊や他州は今頃頭を抱えているはずだ。
 今年だな、と思う。薄れた記憶の作中で言われていた大飢饉。朝廷で入手した王家、特に太子のきな臭い情報と合わせてみてもその可能性が高いだろう。しかし私たちに直接影響するのは飢饉の方だ。「檻」で暮らしていたときには飢えは日常茶飯事で、餓死する人も少なくなかった――けれど。
 私は「母」だけを守ればよかった。私の世界は私と「母」の二人しかいなかった。でも、今は。
 家の一員として、息子ではないけれど「息子」として。守るべき家の従業員と家人と――父上がいる。

「おかしな話だよねえ」

 笑った。
 父上のことは決して好きではなかった。母を母と思えなかったように、私にとって父上は「父」ではない。それでも、家を与え、室を与え、仕事を与え将来への選択肢をくれたことはとても感謝しているし、その仕事ぶりを尊敬してもいる。先を読むことに関しては父上に勝てる気がしない。
 副社長や店の従業員、姉のような珠翠。何となく、幸せなのかもしれない。

 仕事は――好んで始めたわけではないけれどやりがいがある。
 家は私に多くを与えてくれた。
 父上は厳しいけれど、最近は時々優しい。
 鳳珠さんと黎深さんとは仲違いしたままなので、それが心残りといえばそうだけれど。

 充実している。私は生きている。それが何だかうれしい。



 だから、油断した。



 帰宅の報告をしようと父上の室を訪れ、返事がないことを不思議に思いながら、ただならぬ気配を――後から考えるとこれはおそらく「虫の知らせ」というものだったのだろう――感じ、悪いと思いつつ扉を開いた。途端に、何か液体のようなものが頬と衣に勢いよくかかった。

「え?」

 思わず間抜けな声を出して暗い室内を見やると、血の海に伏せる父上の姿があった。開け放たれた窓から月光が差し込んで室を照らしている。

「父上っ!!!」

 咄嗟に駆け寄ろうと身を乗り出すと、首筋に氷のような冷たい何かがあてられるのが分かった。その温度と連動するように私の頭から熱が少し引く。一つ息を吐いて姿勢を正した。

「どちらさまでしょうか。商品を買いに来られたわけではなさそうですが」
「……」
家に恨みを抱いていらっしゃる方でしょうか。それとも他にお望みのものがおありでしょうか」
「…………」
「俺は聞かれても答えない人はあまり好きじゃないよ、珠翠」

 そう言うと、首に当たっているもの――おそらく刃物の先が一瞬震え、一切物音を立てずに珠翠が父上の傍らに降り立った。身のうちが様々な感情でぐちゃぐちゃになっていくのを感じながら、拳を強く握り締めて沸騰しそうな体を必死で抑える。

「父上の側に立つな……珠翠!!」

 けれども溢れ出た思いは自分でも驚く程の怒りを持って現れた。
 無言で、そして逆行でよく見えないが多分無表情で、珠翠は父上から距離をとった。とにかく父上の安否を確認しようと駆け寄る…が、再び珠翠に止められた。平たいドーナツのような刃物が私の鼻先に突きつけられる。

「俺は…いや、父上はお前の主人だったはずだ」
「……私に命令することができるのは三人だけです」
「最初からこれが目的だったのか、『風の狼』。まさか一介の商家にまで及ぶとは思わなかったな」

 さすがにここまで状況がそろえば嫌でも思い出す。……どちらかといえば思い出したくなかったけれど。珠翠の名前に覚えがあったのも当然だ。彼女は物語りでも重要な役目を担っていた人物なのだから。
 「風の狼」――少し前まで活動が活発だった最強の兇手の名だ。けれど私はそれが個人の名でないことを知っている。彼らの手にかけられ消えていった家の数が半端じゃないことも。

 風の狼が現れたということは、家は取り潰しということだろうか。貴族ではないのだが。まあその辺は何かしら理由があるんだろうが、今まさに命の危機に瀕している身としてはそんなこと関係ないと言いたい。
 だが珠翠に私を殺す気があるようには思えなかった。殺すつもりならこの室に入った瞬間に刃物を引けばいい。もしかして、と一つの仮説を立てる。そして証明するために問いかけてみた。

「さて、俺は殺されてしまうのかな」
「…………」

 珠翠の目を見つめたが、私の姿どころか本当に見えているのか疑いたくなるほど底知れぬ暗さだった。
 だが、その目が問いかけた一瞬揺らいだことを見逃さない。次の言葉に仮説は事実になった。

「あなたは家の人間ではない」

 晩夏の冷たい風が吹いた。
 それに紛れて鋭い風切音が聞こえたかと思うと、金属が弾かれる甲高い音が反響し、珠翠は一瞬にしてその姿を消した。

「坊ちゃん!!!大丈夫ですか!?」

 ほとんど叫ぶような副社長の声に我を取り戻すと、赤い海に飛び込んで父上の体を抱き上げた。その拍子にいつも父上の顔を覆っていた薄布が落ちる。

「父上!!」
「………う………」

 これが人の顔色かと思いたくなるほど血の気の引いた顔。冷たい体と床に出来た湖に脳が絶望的な治癒の確立を叩き出す。父上は薄く眼を開けると、わずかに震える手で私の手を取り、何かを握らせた。

「あと…は……お前の……好きにしろ」
「…っ、冗談じゃありませんよ!!14の子供に何言ってるんですか!……私はっ!!」

 堰を切ったように、隠し通したかった想いが溢れ出る。

「お父さんが恋しいんですよ!お母さんに会いたいんです!!何が悲しくて気付けば子供で、家族も友人もいなくなっちゃって、食べ物ないし労働三昧だし馴染みのない文字に知らない勉強ばかりでっ……」

 ぼろぼろ涙がこぼれてきた。止めようと思うが口が好き勝手に言葉を紡いでしまう。

「あなたが!居場所も未来も何もかも与えてくれたから!私はあなたを」

 私の声は唇にそっと押し当てられた父上の手のひらによって、それ以上漏れることはなかった。
 そして同時に、私の中に留められたこの感情だけは、決して表に出してはいけないのだと理解した。

「……血生臭いですよ、父上の手。商人がそんな不衛生でどうするんですか」

 どうしようもなくて、力の限り父上の体を抱きしめる。失われていく体温を補うようにきつく、強く。
 父上が私の頭を撫でる。驚くほど弱弱しいその手が、時間が残されていないことを示していた。

「じき……に……」
「喋らないでください。喋るくらいなら私……俺の頭を撫でてください」
「………乱、が……」


 そして父上は事切れた。


 騒々しい足音と共に、父上の室に侍医を呼びに行った副社長と幾人かの家人が駆けつけた。

「坊ちゃん!!だ、旦那様は!?旦那様のご様子は!?」

 多分、項垂れる私と、腕の中にいる弛緩した父上の遺体を見たのだろう。背後で誰かが床に崩れ落ち、やがてすすり泣く声が聞こえてきた。
 なんだ、人望あるんじゃないか。てっきり家人や従業員にも無愛想なままだと思っていたのに――私にそう接していたように。思えば父上が誰かと触れ合う姿はほとんど見たことがなかったな。

 右手を広げ、父上が渡したものを見る。綺麗な、透き通るような薄い青色をした鉱石の指環だ。父上がいつも肌身離さず付けていたことを知っている。何を意味するのかも――知っている。

「坊ちゃん……あの……」
「最期の言葉すら先を見通す商人らしかった。適わないね、父上には」

 気遣わしげに声をかけてくる副社長に、振り向かないまま笑って返事する。語尾が少し震えたかもしれない。
 そっと、父上の体を赤い海に横たえた。本当は寝台に横たえたかったが腕力が足りなかった。初めて見る父上の顔は、憎らしいほど「」に似ていた。
 指環を左手の中指に嵌める。子供の手には少しだけ大きいようだった。
 彼女が消えたのであろう窓から強い月光が差し込んでいる。私は立ち上がり、家人たちに振り返った。何人かが息を呑む。きっと赤く染まりすぎた衣が恐ろしいのだろう。

「父上は何者かに弑された」
「だ……旦那様が……」

 侍従長の女性が顔を真っ青にして慄いた。それを見下ろして、努めて冷静に言葉を発する。

「遺言だ。じきに乱が起こる。病床の玉座の周りに血が流れるだろう。予想通り飢饉も起こる」
様……」
家の蔵を閉じよ。食料品、特に保存食の仕入れに全力を挙げろ。仕入れに関しては損得勘定無用」
「……お言葉ですが、様。貴方は官吏です。いくら実家とはいえ、官吏が商業に関わってしまえば貴方の立場が……!」

 副社長の言葉に、黙って左手を挙げた。薄青の指環に、彼が息を呑んだ。

「構わないよ。俺が官吏になったのはこの乱を乗り切る確立を上げたかったからだ。結果として朝廷の情報からある程度乱がいつ起こるのか絞ることが出来たし、君に頼んで備蓄も増やすことが出来た。十分だよ」

 左手はそのままに、集まった家人を見回す。

「当主が亡くなり、皆も知ってのとおり俺は仮子だ。けれど、俺は父上からこの指環を託された」

 風の狼は――主上は、真実、家を取り潰そうとしたのだろう。父上に子はおらず、いても私のような「檻」出身の孤児だけだ。私は官吏になったから商いに手を出すことは出来ないし、そんな状態で乱が起これば放っておいても家は滅亡する。そう踏んだのだろう。だが、思い通りに動いてなどやるものか。
 私はこの国の人間ではない。官吏という職業がどれほどの名誉で価値あるものであっても、私にとってこの家を失うことに比べれば瑣末なものでしかない。商人は官吏になれない。官吏は商いができない。その道徳観念を壊すことだってやってみせよう。
 だって、私の祖国は日本で、そしては――


「――俺が、家当主だ」


 血に染まった私の服は、まるで禁色の衣のようだった。





---------------
2009.2.12
back  top  next