叶うならば、全てをこの腕に抱いておきたかった。



色彩独奏競争曲
落ちる音 前編




 家はここ数日、かつてないほどの混迷の極みに立たされていた。その引き金は絶大な力を振るっていた主人の死であり、王位争いの勃発であり、大飢饉の影響が郊外のみならず城下にまで及び始めたことだった。
 私は出仕をしばらくの間控え、家の存続に全力で当たることになった。今まで一部にしか関わっていなかったからどこまでできるか分からないが、当主の印を継いだ以上、私にしか出来ない採決があるのは確かだった。あとは副社長をはじめとする家中枢の人々の力を全面的に信じることにする。

「城下街の穀物と塩、野菜の相場は?」
「はい、穀物一升が金一両、野菜はほぼ出回っておらず、塩に至っては」
「それだけ聞けば十分だよ、ありがとう。思ったより進行が遅いね、官吏も頑張っているみたいだ」
様。家々から『いつ商いを再開するのか』という書簡が届いておりますが」
「出来るだけ慇懃に、商いならばこちらから家に赴くことを伝えて。あくまで『店』を閉じているだけで商売は続けていることを強調してね。ただし食料品の話題には一切触れないように注意すること」
「かしこまりました」

 次々と持ち込まれる情報に耳を傾け、対策を打ち出していく。いつもより書類仕事が少ないことが救いかもしれない。国全体が混乱しているから、書類があまり役に立たなくなっているのだ。国に提出しても受理されにくくなっているのである。処理する官吏が減っているから仕方がないといえばそうなのだが。飢饉が終わった後を見越せば今は大変裏工作が行いやすい状況だといえる。私もその例に漏れず、片手間に王位争い終結に向けた様々な書類、帳簿を作っていた。
 ――が、流石に疲労が溜まってくる。

「……じゃあ君は引き続き城下に出て相場の確認と報告を続けて。そっちは彩七家の動向を伺いつつ、要望には装飾でも食料でも上限ぎりぎりまで応えること。食料品を七家以外に卸していないことを他の家に気取られるなよ。在庫はその都度俺か副社長に必ず報告。
仕入れ先の状況はどうなってる?……ああ、大分断られてきたね。まあいい、仕入れは強制しない。
では、各自持ち場に戻ってくれ。そこの君は、悪いが城まで行ってこの書状を葵官吏に渡してほしい」

 一息にそう言うと、近くにいた家人に手紙を渡して室を出た。あまり眠っていないせいか、ほんの少しだけ頭痛があるが気にしてなどいられない。この乱を乗り切らなければ従業員全てが路頭に迷うことになってしまう。



「坊ちゃん、坊ちゃん!」
「!……なんだ、副社長か。どうしたの?」
「前々から思ってたんですけど、フクシャチョーって何です?あ、そんなことより今後の仕入れと卸しの見積もりが立ったんですよう。すさまじく厳しく見積もったものと、ある程度厳しく見積もったものの二種類」
「ありがとう」

 回廊を早足で歩きながら見積もりを受け取る。副社長が至って普通に歩いているように見えるのが多少悔しい。歩幅が違うのは体格のせいなので仕方がないけれどやっぱり多少どころじゃなく、とても悔しい。
 見積もりに目を通して宣言通りの厳しさに頬が引きつるのを感じながら、店のある棟とは真逆、家の最奥に位置する場所に向かう。それが分かったのか副社長の表情が少し翳った。

「『裏の奴ら』はどうするんですかい、坊ちゃん」
「君はどう考えてるの?」
「……正直、これ以上雇い続けることは難しいかと。備蓄の準備がほぼ完了して、過剰労働力になってしまっています。賃金の面もそうですが、何より最近倉の穀物類の盗難が増加し始めました。正直損失だらけです」
「盗難が彼らのせいだという根拠は?」
「昨日、盗んでいるところを捕らえましたからねえ」
「……あらら」

 苦笑する。現行犯逮捕されたのではフォローできない。ただ、彼らが盗んでいることは知っていたから庇いきれたかどうかは難しいところだ。私自身、『裏』時代はよく盗んでいたから。
 賃金は雀の涙ほどもなかったし、私たちの身分だと買い物に行っても追い返されることが常だった。盗まないとやっていけなかった状況は認める。とは言っても犯罪は彼らにとって決して喜ばしいことではないので、家に入った後そのあたりに多少改善を加えたつもりだったのだが、どうやらうまくいっていなかったらしい。
 そんな思考に耽っている間に家最深部、巨大な倉が立ち並ぶ一画に至る。正規の従業員のいる建物は前面の壁をなくし開けた造りになっていて、その先の広場で粗末とすら言えないほどみすぼらしい格好をした人々が緩慢な動きで穀物の入った袋を倉の中に運んでいる。見れば持ち無沙汰の人もかなりいる。なるほど、確かに人が多すぎるらしい。

 彼らを統括する従業員――つまり管理者が私と副社長に気付いて膝を付く。それを手で制し、事務所みたいになっているこの棟の奥まったところにある棚から円柱状の帽子を取り出して被る。ふわりと垂れた薄布が私の顔の上半分を隠した。父上の気持ちが分かる一瞬だ。彼らに顔を覚えられると色々不都合が生じる。――積極的に考えたいことではないのだけれど、私の立場は彼らの恨みを一手に引き受けてしまうのである。
 裏の人々を見渡しながら管理者に問う。

「彼らの就業状況は?」
「こっちで管理している者は全員来ていますね。一月前は半分程度でしたが」
「仕事状況は」
「見ての通りです。最近は仕入れ量を抑えていますから、どうしても仕事が足りなくなってしまいます」
「……盗難は?」
「昨日捕らえたのが8人でした。我々も手は尽くしているのですが……申し訳ありません」
「あ、いや、それは、その……ごめんなさい」

 『裏』時代に散々警備の裏を突きまくって対策を周りの人に教えたせいもあるかもしれない。小さな声で謝って、思わず明後日の方向を向いてしまうと、管理者と副社長が不思議そうな表情をした。
 まさかこんな形でしっぺ返しがくるとは思っていなかった。やっぱり悪いことはするものじゃない。

 広場で働く人々を見つめる。薄布で少し薄暗くなった視界の先にいるのはかつての隣人達だ。『母』が暮らし、『』が生まれ、私が過ごした――『檻』の人々だ。
 父上が彼らを雇っていた理由は知らない。これもあまり考えたくないことだが、彼らの雇用はイメージダウンに繋がってしまうから貴族を相手にする以上存在を完全に隠しておかなければならず、人数が多い分労働力より隠蔽のコストのほうが大きくなる。正直城下の民からアルバイトを募ったほうが安上がりだ。
 けれど父上は雇い続けた。そこに何らかの意思を感じはするものの、結局のところ分からない。

 これから行おうとしていることを想像して、冷たい汗が全身ににじむ。やっぱり頭も痛い。

「…時間を取らせてすまない。俺は戻るよ」

 そう言うと管理者が驚く。ほんの少し嬉しそうだ。

「では様、あの件が決定したのではないのですね?」
「…………残念だけど今日中に通知する。最終確認するからちょっと待ってて」
「あ……左様でございましたか……かしこまりました」

 唇が震える。帽子を管理者に渡し、踵を返すと足早にその場から立ち去った。


 その後、次々に持ち込まれる案件・トラブルに指示を飛ばし、自室に戻った時にはもう夕日が沈み始めていた。だというのに机案には片付けなければならない仕事が山と積まれている。その中の一つ、書類の塔の横に広げられたものに目を落とした。
 『奴隷の解雇について』と書かれた、その言葉が私の心臓に、肺に、肋骨に突き刺さっていく。当主印を押してしまえば完了する仕事だ。けれど三日前に渡されてから一向に終わらない、難しい仕事でもあった。

「……どうすればいいのよ」

 やらなければならないということは分かっている。金銭的にも食糧事情からも、そうしなければ家は立ち行かない。――そんなところまでもう、追い詰められてしまったのだ。“風の狼”、というより国王とその側近の思い描いた道の通りだろう。
 その道を外れるために私のやるべきは唯一つ、当主印を押すことだ。けれど――

 胸が軋む。印を持つ手が震えている。こんなんじゃだめだ、私はもっと強くなければいけない。
 守らなければ。なんとしてでも。父上が守ってきた家を今度は私が!

「………私が」

 時間は待ってくれない。この瞬間、きっと街では誰かが死んで、城には暗い笑い声が響いている。
 印を朱肉に押し付ける。

「……わたしが」

 紙の真上に印を持つ。目を瞑る。一つ深呼吸をして、ナイフを突き刺すように印を叩きつけた。



 数日後、葵官吏からの書簡――というより伝言だろうか――を持った使いが家を訪れた。私が「家のことでごたついているので仕事を誰かに引き継いでしばらく休暇を取らせてほしい」と送ったのに対し、「許さない」という、酷く簡潔な返事だった。すぐに登城することを伝えて急ぎ身支度を整える。ある程度の指示と対策を飛ばしてから家を出た。軒で行くより走ったほうが速い。
 予想していなかったわけでは無いが、どうしても落胆を隠すことができなかった。

 そういえば飢饉が起こってから街を歩くのは初めてだ。
 走りながら周りを眺める。不気味なほどの静けさが辺りを支配し、家々の戸はかたく閉ざされている。時折道に面した家の壁に寄りかかっている人がいるが、皆一様に痩せこけていて瞳に生気らしきものは見られない。
 どこかで見たことのある風景だ。

「…った」

 背中に小さな痛みが走る。驚いて立ち止まり振り返ると、さっき通り過ぎたはずの男が立っていた。職業柄、街の人との関わりは出来るだけ避けたいのだが異様な雰囲気に呑まれて立ち竦む。

「どうかした――っ!?」

 今度は額を痛みが襲う。何が起こったのか考えるまでもなかった。石を投げられたのだ。

「……ちくしょう、ちくしょう、ちくしょうっ!何で俺らがこんな目に遭わなきゃなんねえんだよ!!!」
「!」
「お前ら官吏が呑気にやってるからいけないんだ!お前らのせいだ!!」
「……」
「食いもん寄越せよ!早く!――俺の、俺の娘を返せよ!!!」

 なるほど、恨まれているらしい。思ったよりも冷静に判断している自分に驚く。男の言葉から推測するに、おそらく娘を亡くしたのだろう。餓死か、はたまた騒ぎに乗じた通り魔か――。
 とにかく関わらないことに越したことはない。会釈をして歩き出す。すると、背中と頭に礫が飛んできた。
 罵倒する男の声が震えている。泣いているのだろうか。
 だが――。

「――だからどうした!!」

 思わず叫んだ私に、男が一瞬怯んだのが伝わってきた。
 自分でも何を言ったのかすぐには思い出せなくて、途方もないバツの悪さだけを感じ、逃げるように走った。

「ああもう、最低だ……!」

 人を傷つけた。



 閉ざされた宮城の門を、葵官吏の書簡を見せることでこじ開ける。早足に御史台のある建物まで行き自分専用と勝手に決めた小部屋に入ると棚の上に放置した文箱を下ろしてからくり錠を解いた。

「分析と査定は八割方終わっているから…あとは残りの部署から報告書を受け取って、それから…っ!」

 頭部が鈍く痛む。さっき石を投げつけられたせいだろう。手を当ててみるが血は出ていないようだ。

「念のために帰ったら侍医に来ていただいたほうがいいか。……あれ」

 手が震えている。背中と額からは冷や汗も出ているようだ。そのまま足から力が抜けて床に座り込んでしまい、弾みで文箱から取り出したばかりの料紙が舞い散った。手だけでなく唇にも震えは伝播していく。試しに石がぶつかった場所に手を持っていくと凄まじい悪寒が頭から尾骨を通り抜けた。

「トラウマになっているのか」

 罵倒する男に投げられる石――『』が死ぬ間際に見た光景だったはずだ。魂こそ本人ではないが「体が覚えている」ということだろうか。何にせよ厄介なことこの上ない。
 体の反応とは裏腹に私の心は酷く冷めている。そのことに安堵し、とにかくこの状態から抜け出すため両手で机案を掴むと思い切り勢いをつけて頭を角にぶつけた。



 登城して一日目は徹夜で仕事を片付けた。
 二日目も、その次の日も、昼は城を駆けずり回り、夜に灯火の下で仕事をした。その間に三度ほど家からの連絡を受け取り、指示を飛ばしていく。
 今の城には笑ってしまうくらい官吏がいない。ある者は家の存亡の危機だといって長期休暇に入り、またある人は王位争いの陰謀の中で行方が分からなくなった。こんなときに政府が機能しなくてどうするんだと思うが、しばらく休んでいた身で強く責められるはずもない。



 眠気で上手く機能してくれない頭を必死に動かしていると、正面の扉が開いて声をかけられた。

「葵官吏、何か御用でしょうか」
「お前のところの使いが来ていた。同じ御史台なら持って行けと文を渡されたぞ」
「え。申し訳ありません、家の者は叱っておきます。…あっちゃー」
「いい、今回は不問だ。人手が足りんのは承知している。馬鹿共が家を優先させているおかげでな」
「この混乱では彩七家といえど完全に安全とは言い切れませんから」

 苦笑して言葉を返し、一言断りを入れて仕事を再開する。食糧を抱え込んでしまう貴族は確かに邪魔だ。けれども長い目で見れば、この国から貴族を消すのがどれほどの損失になるのかすぐ分かる。
 経済面は当然のこと、州の自治も、ついでに言えば食糧生産だって壊滅的なダメージを受けるだろう。たとえ四民平等をうたったとしても、最低でも20年は貴族を失うわけにはいかない。
 ……まあ、彩七家が出仕を控え中流・下流貴族が王位争いに翻弄されている今、おおっぴらに貴族制廃止をうたう人などいないのが現実だが。――ただ。

 黄家嫡男が実家に帰らず職務を続けているという話を聞いている。鳳珠さんらしいが、今この城にいてほしくないというのが正直な思いだ。
 陰謀に巻き込まれていないだろうか?仕事が多くて倒れてしまわないだろうか。ちゃんと眠っているだろうか、食事は、休養は?
 ――でも、私が心配したところでどうにもならないし、彼にしてみれば私に心配などされたくないだろう。
 一度目を閉じて頭を切り替えると、再び仕事に没頭した。


 各人の仕事状況と成果、評価の分析を終え、最後の査定を終えたのは小部屋にこもって七日目の夜だった。仮眠すらろくに取ることができなかったので体がだるい。纏め上げた書簡の横に置いた、新たに届けられた家からの文を手に取る。開けば副社長の悲鳴が聞こえてきた。

「そろそろ限界か……」

 この一週間は城から指示を飛ばしていたがやはりタイムラグが消せない。送ってもらう経過報告だって量に限界がある。一旦家に戻る必要があるのは明らかだった。
 葵官吏に査定の最終チェックを依頼すると、重要書類をからくり錠の文箱に入れて駆け出した。





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2009.4.22
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