帰ると、副社長が真っ先に出迎えてくれた。 色彩独奏競争曲 「ぼ、坊ちゃん!」 「長く空けてしまってすまない、状況の報告を頼む」 「はい!……でも坊ちゃん、随分顔色が悪いですよ」 「気にしなくていいよ」 副社長に上衣を預けると各部署を巡り情報収集と現状把握に努める。状況は思わしくない。倉の貯蔵は加速度的に減り、従業員も心なしか痩せてきている。まずいと思い、自室に簡単な食事を持ってこさせると無我夢中でそれを貪った。――が、仕事中にほとんど何も食べていないせいですぐ吐きそうになる。 「無理して食べないでくださいよう」 「明日からまた商談に出かける。相手に弱みを見せちゃいけない、痩せるわけにはいかないよ。…ぐっ」 そのためには無理くらいしてみせると言えば、副社長が悲しそうな表情になった。 目を閉じればそんな顔を見ないで済む。 「坊ちゃんお一人が全てを背負う必要はありませんよう」 「……うん、ありがとう。その言葉だけで十分嬉しい」 優しい言葉に自然と表情が緩む。副社長も呼応するように「へへへ」と笑った。 そのとき誰かが大きな音を立てながら廊下を走る音が室内に響いた。何事かと、副社長と顔を見合わせる。 息を切らせて駆け込んできた侍女は真っ青な顔をして叫んだ。 「様!!あ、あの、あの……!!!」 「落ち着いて。何があったの?」 「恒(こう)様が!!恒様が、倉の食物と財を持って……!!」 皆まで聞かずとも血の気が引いた。最悪だ。 恒は「裏」を統括していた。名前をあまり覚えない私は専ら「管理者」と呼んでいたが、勤勉で能力も高く、家では高評価を受けている人物だった。 「裏の人々」に対する態度も家の中で一番親切だった。だからこそ管理者だったのだ。 急ぎ倉へ行くと、壊された門と麻袋からこぼれた穀物が散乱していた。片付けをしている家人以外に従業員は見当たらない。さすが父上が育て上げた人たちだけあって、あまり動じていないらしい。 家人に声をかけて被害状況を尋ねると、どうやら穀物を少しと塩を大分やられたらしい。金品はどうやらついでのようで盗られた金額はそう多くない。穀物と塩という選択を考えるに盗難の目的は生きることなんだろう。 ――こんなことしなくても絶対死なせないのに。 信用されなかったということだろう。それがとても悲しい――いや、悲しんでいる余裕などない。 後ろに控えていた副社長に指示を出す。修正をかけて減った分をカバーしなければならない。 「様、これ以上の商売は採算が取れません!」 「茶家から至急食糧を運ぶようにとの書簡が!」 「門の前に人々が殺到しています!倉を解放しろと……!」 訴えられる言葉に耳を傾ける。いっそのこと耳栓をしてしまえばどんなに楽になれるだろう。 めまいが酷い。最近では息切れもするようになってきた。 「坊ちゃん、寝てください!このままじゃ坊ちゃんの体が!!」 「大丈夫だ。次の書類を持ってきて」 「様、顔色がお悪うございますわ、どうかお休みくださいませ!」 副社長と侍女がかわるがわる自室に来ては休憩の催促をする。けれど休んでいる暇が惜しい。状況は刻一刻と悪くなっていて、一度でも立ち止まってしまえば何が起こるかわからない。 常に目を光らせて、データを頭に叩き込み、微調整を行いながら商いをしていく必要がある。 「――そろそろのはずだ」 「え?」 私の――「」の頭脳での読みが正しければ、乱はじきに終わる。すでに大部分の太子が廃され、先日第六公子が主上のもとを訪れたと聞く。それに、これ以上飢饉が続けば半年以内に国民の数は三分の一程度まで減少するだろう。そうなれば国が立ち直るのに十数年はかかる。 この国は滅びない。そして、数年以内に元通りになるのだ。――私は「私」の記憶を信じている。 「きっと、もうすぐ……なんだ」 頭が痛い。世界が回る。体が床に引っ張られて膝をついた。まだだ、まだ倒れるわけにはいかない。 最後まで立っていなければならない。私が家を守るのだ。父上の代わりに、あの人が守ってきたものを。 ――私を守ってくれていたものを。 城で高みの見物をしているであろう箱庭の王と唯一神を抱く側近の思い通りになどなってたまるものか! 「死なせない」 「坊ちゃん…?」 「絶対に生きるぞ」 椅子を杖がわりにして立ち上がる。ふらつきなど気にしなければいい。 「――乱に振り回されるな!官吏どもの思うつぼだ!家は商家だ、ぎりぎりまでその矜持を貫け!!!」 「はっ!!」 「倉の解放などしない。食糧が欲しいのなら相応の対価を持ってこいと伝えろ! だが言っておく。彩七家より主上より、私は家にいる全員の命の方が大事だ!それを覚えておけ!!」 「はい、様!!!」 ああ、意外と気力でなんとかなるものなんだなあ。 従業員を鼓舞し、言いたいことを言って指示を飛ばし終えた後――どうも限界が来たらしい。 言うことを聞かなくなった体を副社長が受け止めたところで意識が途絶え、そのまま翌朝まで眠り続けた。 ――乱が終結したのは、それから約一ヵ月後。 雷がひっきりなしに鳴り響く、いつまでたっても止まない大雨の日のことだった。 「さて、。お前はどういうことをしたのか分かっているか?」 「承知しています」 「官吏が商売に関わることが法的に禁じられていることもか」 「はい、それも」 「知っていて手を出し続けたということだな?」 「…………」 乱後数日と立たないうちに、私は葵官吏の執務机の前に立っていた。やっぱり外は雨で、室内も薄暗い。そんな中で見る葵官吏の顔は、いつも以上に厳しく、険しく、どんなものよりも怖かった。 この一年弱で色々と法を犯してしまったので追求されているのだが、あることないこと話してしまいそうだ。 いつものように凄まじい速度で処理されていく書類の山に久しぶりの感動を覚えつつ、ふと、乱が起こったにしては山の高さがそれほどないのに気付く。 「質問をお許しいただけますか」 「言ってみろ」 「御史台は乱の影響を受けていないのですか?」 「受けているとも。ただし元々使える官吏がごく少数しかいなかったうえ、休職したのが役立たずばかりだったおかげで仕事に差支えがなかっただけだ」 それはつまり「ほとんど影響がなかった」ということじゃないか。私も家の仕事の暇をぬったり睡眠を削って御史台の仕事を仕上げたりしていたはずだが、果たしてどれほどの貢献になっていたのやら。 葵官吏の書類を捌く手が止まり、鋭い視線がまっすぐに向かってきたので居住まいを正す。 「処分は追って沙汰する」 「はい」 「今日はもう下がれ」 「…御前、失礼致します」 執務室を出ると、ため息が一つこぼれた。 退官か、あるいは葵官吏がとてもとても考慮してくれていたら官位降格というところだろうか。 それよりも―― 「……今が最後のチャンスだ」 呟き、一度拳を握り締めて解くと、空を睨んで歩き出した。 思ったよりも各省の損害が酷い。官吏たちは溜まった書類の処理に追われているが、乱が起こる前とでは人数にかなりの差がある。捕らえられたか、あるいは闇に葬られでもしたか――いくつかの柱にある微かな切り傷がよくない想像をかきたてる。 紫宸殿のそのまた奥、政治の場から少し離れた場所へ。主上だけの女の園――後宮。本当なら官吏が入ることは許されない建物だが、警備が手薄な今ならば行くことができる。 絢爛豪華な装飾の数々、調和よく配置された調度品、そして、そこに住まう美しい女官たち。まるで王位争いなどなかったかのように優雅にかしずく人々。 「……どなたかお探しなのですか?」 鈴が転がるような声で尋ねられる。にっこり笑ってそれに答えた。 「ええ、珠翠という女官を探しています。ご存知ありませんか」 「まあ。もちろん存じておりますわ。有名な方ですのよ、ついこの間までは廊下に求婚者が列を成していて」 「それはすごい。私はそれとは別件で用事があるのですが、どちらにいらっしゃるでしょうか」 「あ……それが、珠翠様は今、あるお方とお会いになられていて……」 「では待ちましょう。室だけ教えて頂けますか、美しい方」 そう言うと女官は微かに頬を染めて室の場所を教えてくれた。 室の前まで来ると特に待つこともなくノックをして勝手に室に入る。 「『珠翠さん』は誰かと会っていると聞いていたんだけどなあ」 「誰です!!…………っ!?」 意外にも室には珠翠しかいなかった。予想通りの驚きを見せてくれた珠翠に満足げに笑いかけると、一歩足を踏み出す。すると彼女が後ずさりしたので、それを繰り返し長椅子へ追い詰めて押し倒した。 「様……!?どうしてここに!!?」 「官吏だもの。いるよ。君に言いたいことがあってさ」 「な、なにを……」 「あのね――」 「そこまでじゃ」 突然第三者の声が響き、言いかけた言葉は喉の奥に消えていった。振り返ると予想通りというか何というか、珠翠がらみでこの時期に彼女を訪ねるとしたらこの人くらいだろうな、と思っていた人がいた。 白く長い髭をたくわえ、質素ながらも随所に最高級の装飾と刺繍が施されている上品な絹衣をまとい、これまで何千人もの官吏が御前に膝を折ってたのだろう威圧感を迷惑なほど辺りに振り撒いている――霄太師。この国で最も名誉ある官職を戴いた、往年の英雄である。 とにかく無礼にならないよう跪拝をとる。珠翠が立ち上がる気配がした。 「珠翠はわしと会っておったのじゃがのう。他の女官にもそう言ってあったはずじゃが、はて?」 「……」 「ああ、発言を許そう」 「女官から確かにそのように聞いております。しかし逸る気持ちを抑えきれず、訪ねてしまいました」 「ふむ、若いのう。じゃが、このわしの前で働いた無礼、よもや見逃されるとは思っておるまい?」 「はい。この処罰はなんなりと」 そう言うと、霄太師がわずかに笑った。 「しかしのう。君の評判は聞いておるよ、。御史に任命されて以来、中々の働きぶりだそうじゃな。除目の査定にはわしも目を通したが、実に素晴らしかった。そんな官吏を失うのは忍びない」 どうも太師の笑いに「にやにや」という効果音がついているような気がしてならない。交渉で鍛えられた観察眼がこの人は狸だと警鐘をならしている。それもただの狸じゃなくてとびきりの古狸だ。 古狸は長いあごひげを手で梳きながら言い放った。 「今、この時から君は冗官じゃ」 「……退官処分ではないのですか」 「言ったじゃろう、失うのは惜しいとな。ただし位も実権もない」 「…………」 「せいぜい長すぎるほどの休暇を、針のむしろの上で楽しむことじゃな」 そして、さっさと出て行けとばかりに手を振られ、私は一礼をして室を後にした。 建物の外はまだ雨が降り続いていた。 御史台に戻るわけには行かず、けれど家に帰る気にもなれなくて、何となく庭院を散策する。 乱が終わった日のような雷は鳴っていない。けれど空は同じように暗い。 「……あーあ」 全てが終わって振り返ってみれば、何だか色々なものを失くしてしまったような気がする。 近くの回廊の階に座り込んだ。周りには誰一人いなくて、塞ぎこむには調度いい。 「なにしてるんだろ」 体が震えてくる。今更こみ上げてくるものがあるなんて思わなかった。涙なんてとっくの昔に枯れてしまったと思っていたのに。嗚咽なんかきっと一生縁がないと。 「泣くな、泣くな、泣くな……っ」 涙なんか流れて欲しくない。泣きたくなどない。目を腫らして帰れば従業員に不安を与えてしまう。私は当主なのだ、あの指環をはめたときに父上から家を受け継いだ。それは自分の意思だったはずだ。 人の弱みに付け込んで、友人を失くして、父を亡くして、姉のような侍女を失って。 それでも選んだ「生きる道」だったはずなのに。 気付けば大事なものばかり失っていた。 両腕をかき抱く。寒いし涙は止まらないし気持ちはちっとも晴れないし、最悪だ。 「主上の馬鹿、霄太師の馬鹿、葵官吏の馬鹿、公子の馬鹿、恒の馬鹿、父上の馬鹿、珠翠の馬鹿」 みっともないくらいボロボロ泣いているので、後半は言葉になっていない。 「帰っちゃった官吏の馬鹿、飢饉の馬鹿、……………黎深さんのばか。鳳珠さんの……ばか」 「馬鹿はないだろう」 「……確かに、一番馬鹿なのは私だと………っ!?」 驚いて振り向く前に、視界が布で遮られた。ほのかに香る懐かしい香りに目を見開く。 どうやら上衣を被せられたようで何とか顔だけ外に出すが、肩を掴まれて強引に前を向かせられると背中に軽い衝撃を受けた。寄りかかられているらしい。 「お前は本当に馬鹿だ、」 「あ……あの……」 「だが私もお前の言うとおり、馬鹿だ」 その人は――鳳珠さんは、苦々しく呟いた。 「お前を理解することができず離れてしまったが……今なら、あのとき何を思って資蔭制を選んだのか解る。乱の中でも家がいつもと変わらなかったことはかなり驚きだったぞ。――お前も必死だったのだな」 「……いえ、鳳珠さんと黎深さんを突き放したのは俺です。時間がなかったし、何よりお二人に失望されるのが怖かった。乱の中でいろんなことをやりました。法だって、片手じゃ足りないくらい犯しました」 「………」 「助けを求める国民を見殺しにしました。懸命に生きていた貧民街の人々を……切り捨てました……っ」 けれど、それが家存続のために必要なことだと判断したのはこの私である。そのことに後悔などしていない。――きっとこれから先、それだけはしてはいけないことだと思う。 それでも涙が止まってくれない。胸が苦しくてたまらない。喉が空気に締め付けられていく。 「強くなりたい……強くなきゃいけないのに……!」 「……」 膝を抱いて背を丸め、顔をうずめた私の背中で、鳳珠さんはどうやら上を見上げたようで、さっきよりも寄りかかられる重みが増した。 「お前に来る気があるのなら、黄家はいつでも開いているぞ」 「……以前にも、そう言ってくださいましたね」 「そうだったな。……それから」 ポン、と衣の上から頭に手が乗せられる。これは鳳珠さんの手なのかと一瞬考えたが、鳳珠さんは私と背中合わせに座っているのだ。こんなふうに手を添えられるはずがない。 ――では、この手は誰だ? 疑問を抱く私の耳に、鳳珠さんの声が優しく響いた。 「お前が売りつけた甘露茶だが、よく考えなくても高すぎる。もう一度交渉のやり直しがしたい。 もちろん、そもそもの原因である紅家当主立会いのもとで」 その言葉に、頭に置かれた手が反応した。 驚いて、何だかとても悲しくて、でもそれ以上に嬉しくて、ぐしゃぐしゃになった顔が更に変になっていく。 私も鳳珠さんの背に寄りかかって、わずかに目の端に見える濡れた紅衣の裾をつかんだ。 「構いません。家はいつも、お客様のご要望にお応えいたします」 気付けば雨は小降りになっていた。 背と頭からじんわり広がる温もりに、きっと鳳珠さんと黎深さんも濡れてしまったのだろうなと、意外なほど小さな罪悪感を感じながら、暗い空を見上げる。 雨雲の向こうに青空が広がっていることを、この時だけは何の疑いもなく信じることができた。 -------------- 2009.4.22 back top next |