乱が一応の収束を見てからしばらくの後、果てしなく思えていた残務整理にようやく目途がついた、そんな時のことだ。仕事の合間に二言三言雑談を交わす余裕のできた官吏たちの間で、ある噂が流れた。
 それは、その存在を知らぬものはないと古参の官吏にさえ言わしめるほどに強烈な印象を備えた官吏が二人、あろうことか朝廷三師が一、太師のもとへと怒鳴り込みに行ったという、にわかには信じがたいものであった。しかもその理由が「後宮の女官に手を出して冗官に落とされた官吏の処分に異を唱えるため」というのだから周りの疑問はますます増していく。
 彼ら二人はいずれもあくの強い官吏であったが、その実力は誰もが認めるところだったので、明らかに処分された官吏が悪いと分かるその状況に反対するなど考えられなかったのである。

 けれども流れていたのはあくまで噂、ある程度の時間が過ぎてしまえば、傾きかけ続ける国を立て直すのに必死な官吏たちは忙しさの波に再び立ち向かうため、与太話など頭の片隅にすら残すことなく、黒々とした書類を両手に広い宮城を駆け回る日常へと戻っていかざるを得ないのであった。



色彩独奏競争曲
コーダ




 たとえ乱が収束したといっても、民の生活がすぐに良くなるわけではない。霄太師の采配によって城の倉が開けられ、食物を溜め込んでいた貴族が警告を受けて不承不承ながら民に分配していくことになったことで、飢饉がこれ以上酷くなることはないようだったが、食糧不足に伴う栄養失調をきたし抵抗力が落ちるところまで落ちた民の中で、あるものは原因不明の熱病にかかり、あるものはどこからか疫病を運んできた。
 当然だ。彼らは動いているものは何でも食べた。鼠や害虫の類であっても、飢えた者の前には等しく「食糧」としてしか映らなかったのである。普段は決して食卓に上がらないそれらが菌を持っていてもおかしくない。
 けれどもそれは私が「私」であるから考えられることだ。この国の文化・医療水準では病気が何から来るものであるか具体的に突き止めるところまで至ってはいないだろう。
 だから国民は嘆いている。まだ乱は終わっていないのか、と。事実終わっていない。
 霄太師が「紫劉輝」を見つけたから――「王」と認めたのかどうかはともかく――取りあえず飢饉が収束したのであって、いまだ宮城では昼ドラも真っ青な、内乱という名の後継者争いが行われているのだろう。

 奇しくも冗官に落とされたことで時間的な余裕を手に入れた私は、大飢饉の間に色々と無理をしてしまったせいで歪んでいた家の経営と財政を整えることに集中した。
 ただ、今まで私がやっていたのは先読みに重点を置いた流通の調整だったから、いざ経営体制を立て直すとなると出る幕はほとんどないのが現実だった。なのでそこは餅は餅屋、副社長ら家幹部にほぼ全てをゆだねることにせざるを得ない。彼らの働きは素人目に見ても尋常でなく、恐ろしいスピードで家は元の形を取り戻していく。私はそこで改めて家が人材に恵まれていることを――父上がどれだけの労力をかけて人材の登用と育成に臨んでいたのかを知ることになった。

 自室で呆けていても家は回復していくだろう。だけどそれでは働いてくれている皆に申し訳が立たない。なのでできることだけのはやりたいと思い、従業員はおろか家人すら走り回っている家の中、水差しと菓子器を抱えて糖分の補給を促すことにした。出来る仕事は行うと提案したのだけれど、「坊ちゃんは手出ししないでください」と怒られた。経営能力が皆無だと自覚はしているのでぐうの音も出ない。

「副社長も容赦ないよねえ。何もそこまで拒否しなくてもさ……」

 思い出して苦笑すると、菓子を頬張る従業員が不思議そうに首をかしげた。
 といっても、それが副社長の本心全てであると考えているわけじゃない。明るくて屈託がなく、仕事に対しては真剣でどこまでも冷静、それでも情けない私の側にずっといてくれた優しい人だ。乱の最中に倒れてしまったこともあったから、心配してくれているのではないかと思っている。願望に過ぎないかもしれないけれど。

「あ、水もっといりますか?」
「いえいえ!十分です!ありがとうございます、様」
「いや、俺のほうこそ手伝えなくて申し訳ない。ありがとう」

 本心からの感謝の言葉を伝えると、従業員は感極まった様子で頭を下げた。ただ、これは私一人に対するものではなく私を通して父上を見ているのだろうと思う。私は父上が作り上げた土台の上に胡坐をかいて座っているに過ぎないのだ。そうでなければ碌に顔を合わせたこともない従業員からこうも感謝される理由がない。
 そう思うと何となく寂しくなって、けれど感謝を向けられることは素直に嬉しくて、結局笑っているのか困っているのか分からない表情になってしまった。

 頭を下げながら仕事に向かう従業員を見送り、休憩の時間を取っても差し支えなさそうな人物を選定していると、不意に声をかけられた。振り向くと家人が膝をついていて、何事か問えば恭しく料紙を差し出してきた。
 首をかしげながら、急いで書いたのだろう、走り書きの文面をなぞって目を見開く。
 いてもたってもいられず、菓子器と水差しを家人に預けると衣の裾をつかんで走り出した。



 切り刻まれた無残な木の門、周囲の柵にはところどころ黒く変色した「何か」や襤褸布が垂れている。酷い腐臭がして思わず袖で鼻と口を覆った。点在していたはずの小屋ともいえない小屋は総じて地震でもあったかのようにつぶれており、人の気配は全くない。
 驚いたことに、以前住んでいたときよりすっきりしているような気がした。違和感――物が消えている?

「ええと……井戸のとこの桶はないよね。あとは………」

 正直なところ、何があったのか覚えていない。ただ、無くなったことだけが分かる。
 飢饉の間に何が起きたのか――嫌な想像しかできなくて身震いした。意を決して門の内側に踏み込む。
 久しぶりに感じる「檻」の空気は、あの頃よりずっと寒々しいものだった。

 とりあえず住民の安否を確かめるべく潰れた家々の周りを確認していく。けれど生存者はおろか人がいることはなかった。ただ、ところどころに蟲がたかっているので確かに「居た」のだということは分かる。だんだん心細くなって、一歩進むごとに背後を振り返りながら震える足を勧めていく。
 受け取った文をもう一度読む。心を奮い立たせる。
 走り書き――最後の署名でかろうじて副社長だと分かる――には、恒が檻にいるらしいと書かれていた。

 なにがどうあってそういうことに至ったのか受け取った時にはさっぱり分からなかったが、考えてみれば恒は裏の従業員、つまり檻の住人と共に倉を暴いて姿を消したのだ。あの後すぐに恒の家に家人をやったが不在だった、あの時は貴陽から逃亡したものとばかり思っていたが、自分の身を犠牲にしてまで檻の住人と食糧を持ち出した人間がそんなことをするだろうか。寧ろ檻に留まり、飢饉を乗り切るため多少なりとも彼らの力になろうとしたのだと考えるほうが自然ではないか。
 従業員を含めた家の人間を生かそうとし、そのために檻の住人を切った――それは私の判断であり、私の罪であり、決して後悔してはいない、家当主として後悔してはいけない決断だった。
 けれど恒には辛かったのだろう。檻の人々と日頃から接し、街の住人を憎む彼らの信頼を得る程に親しかった恒にとって、檻の人々を事実上見殺しにする決定を受け入れることがどんなに難しいものだったのか。

 今なら彼の気持ちを考えることが出来る。
 今なら彼の話を聞くことが出来る。
 今なら――

 ――全て今更だ。時は過ぎたし、飢饉はこれ以上進まない。
 私は恒の気持ちを考えられず、話も聞かず、そして彼は姿を消した。
 暗澹たるものが胸に去来する。


 そんなことを考えながら歩いていたら、いつの間にか、檻の奥――小さな川のそのまた傍流の流れる場所まで来ていた。そう言えば「」は檻の外のこの川のほとりで事切れたのだったなと思い出して憂鬱になる。
 ふと、自然のものではない音が耳に入ってきて顔を上げる。周りを見回すと、左手の、川から少し離れた場所に一本の大きな木が立っていて、その下に何かをしている人が見えた。
 初めて見つけた「生きている人間」に私の心臓は跳ね、気付いたら駆け出していた。
 ――そして、後悔した。

 おびただしい数の墓標が木の下を埋め尽くす勢いで天に向かってのびている。老爺が墓穴を掘り、老婆が小さな子どもの遺体を優しく抱いて穴に寝かせる。傍らにはかき集めたのだろう布を被せられた遺体が3人分。
 微かな腐臭と土の臭いが漂う。
 一番手前の布からはみ出た衣を見て、思わず声を上げた。

「恒!」

 掛けられた布と明らかに違う上質な衣――たったそれだけのことだったが、それで十分のような気がした。
 老爺と老婆が揃って私に振り向く。やせ細り骨と皮ばかりになったその姿に、犯した罪を実感する。

「……恒様の、お知り合いの方ですかな」

 老爺が手を止めて尋ねる。頷くと、「こちらへ」と言って私を恒の側へと促した。

「状態が酷く悪いので、お会いするのはお止めになったほうがよろしいでしょうな」
「彼は、いつ」
「一週間ほど前でしたか。最期まで私達のことを案じてくださいました」
「……ここの人たちは?」
「皮肉なものです。真っ先に子どもが飢えて死に、次に老人が。多くの若者らは食糧を求め町へ出たきり戻っていません。結局、何の因果かこんな老いぼれ夫婦二人が残ってしまいました」

 きっと墓穴を掘るために、八仙が現世に留め置いてくださったのでしょうな。
 そう言って老爺は顔を伏せ、ずれた墓標の位置を直した。

「私は……っ」

 出かかった言葉を飲み込む。
 謝罪して、許してもらえたらどんなにか楽になれるだろうと想像したことに嫌悪した。
 拳を握り締め、老爺の隣をすり抜け恒のところまで歩み寄り、一つ息を吐いて声を搾り出した。

「…………辛い思いをさせてしまって、ごめんなさい」

 ――今回のことを謝ることはできないけれど。
 眉間にしわを寄せ、顔の筋肉を固めて、これ以上表情が崩れないようにする。
 老夫婦はその様子を黙って見ていたが、ややあって、老婆が静かに声をかけた。

様でいらっしゃいますか?」

 驚きはない。元々家と檻は関係が深かったし、恒から話を聞いていたのかもしれない。
 だから冷静に返事をすることができた。

「そうです。憎んでいらっしゃいますか?」

 老婆は小さく首を横に振った。

「憎まなかったと言えば嘘になります。実際に、あなたを恨みながら死んでいった者が大半でした。
ですが、家は街で唯一私たちを受け入れてくださっていたところです。飢饉の最中にあって、その気になればすぐに私たちを切り捨てることができたのに、それもしませんでした。ずっと瀬戸際で留まってくださった。
私たちはそのことに感謝しています」
「でも、結局見殺しにしたじゃないですか!」

 気がついたら叫んでいた。
 憎んでいないという老婆が憎憎しかった。隣で頷く老爺が酷く恨めしかった。
 ――だけど何よりも、許されようとしている自分自身が許せなかったのだ。

「ずっと雇っていても、最後に切ってしまえば何の意味もない。そのせいで皆死んでしまったんです。
さっき埋められた子どもも、恒も、もしかしたらあなた方のご家族だって、皆私が殺したんです!
だからあなた方は私を――!」

 恨んでください。
 そう続けようとした私の手を、老婆がやさしく握り締めた。

「――では、許しをもってあなたへの断罪とします」

 老爺が老婆の言葉を受けて口を開いた。

「恒様から様へ、言伝がございますよ。
様の苦悩を理解して差し上げられず申し訳ない。己を育て、慈しみ守り続けてくださった家を裏切って申し訳ない。今まで受けてきたご恩を返すことが出来ず、申し訳ない。願うことが許されるならば、どうかこれからも、家が安泰でありますよう』――と」

 やっぱり後半は父上に向けられるべきものじゃないか。冷静に考えるが首が空気に締め付けられていく。
 老婆は枯れ枝のような指で私の頬を撫でた。

「私たちにとって、ここの子ども達は皆孫のような存在でした。それは、あなたも例外ではありません。
孫を恨む爺婆がどこにおりましょう。こんなにも愛おしく、必死に生きているというのに」

 土と黒ずんだ血液に汚れたその手はお世辞にも綺麗とは言えなかったが、そんなこと気にならなかった。

「知っていたんですか」
「ええ。私たちは元からの檻の住人ではありませんが、それでもあなたがいた頃にはすでにおりましたから」
「私こそが檻を裏切ったのではないですか」
「いいえ」
「……今回のこと、謝ることはできません」
「あなたの立場を考えれば、当然のことです」
「……謝りません」
「ええ。悼んでくだされば、それで構いませんよ」
「なんで……っ!」

 何故この老人たちは私のような人間を許すことができるのだろう。
 純粋に分からない。理解できない。
 彼らの窪んだ眼窩の奥にある瞳はどこまでも優しくて、非難など欠片も見当たらない。けれど土と腐った肉にまみれ、肋骨の浮き出た今にも餓死してしまいそうな体が私の行ったことを如実に表している。

「ほら、涙を拭いて」

 どうしようもなく悲しくて、辛くて、けれどそれを言葉に表すことはできず、私はその場に崩れ落ちた。





 筆を置くと、カタンと軽い音が響いた。
 書き上げた文書で、家復興の9割が終わったことになる。
 傍らに控えて待っていた副社長にそれを渡せば、彼は複雑そうな表情を浮かべた。苦笑して口を開く。

「どうしたの?もう少し喜んでくれたら俺は嬉しいんだけどな」
「……俺だって今すぐ踊りだしたいくらい嬉しいですよう。ですが、あの、坊ちゃん……」
「家、できた?」
「………………はい」
「ありがとう。建て方に注文多かったから大変だったよね。すまない、忙しいのに負担をかけてしまった」

 そう言って立ち上がり、机案の上を整理する。硯を丁寧に箱にしまい、筆も要らない料紙で墨を拭き取って毛先を綺麗に整える。
 下書きやら草案やらを一纏めにして、燃やすべく家人に渡したところで、意を決したらしい副社長が普段より少し大きな声で説得の言葉を口にした。

「やっぱり止めませんか。坊ちゃんの家はここです。そりゃ、俺も、他の奴らも、家族の代わりになることはできないかもしれません。でも、俺は坊ちゃんのこと弟みたいに思ってましたし、皆飢饉の中での坊ちゃんの姿を見て、旦那様がいらっしゃらなくても家は大丈夫なんだって安心してるんですよう!だから……。
……どうして、家から出るなんて言うんですかぁ………」

 項垂れる副社長を見て、罪悪感が頭をもたげる。
 けれど、ここで負けるわけにはいかない。胸を刺す痛みには気付かない振りをする。

「その気持ちは嬉しいよ。……とても。だけど俺が官吏であり続ける限り、ここに居ることは家にとって損失にしかならない。官吏は商いに手を出しちゃいけないんだ。飢饉の時が異常だったんだよ、本来なら家は今頃何らかの処罰を受けていてもおかしくない。
だからさ、俺が家を出て『今までの処理は当主として家を存続させるためにやむを得ず行ったことだ』って主張すれば取りあえずの言い訳になるんだよ。余計な面倒を起こさないためにも俺はここを離れるべきだ」

 本当に家の利益と安全を考えるのなら官吏になった時点で出るべきだった。出なかったのは、そもそも官吏になった理由が、情報収集を行って飢饉が起こる時期を特定し、対処するためだったからだ。
 ――いや、単にこの揺りかごから出たくなかっただけなのかもしれない。
 ふと視線を下ろすと、副社長の拳が震えていることに気がついた。

「……坊ちゃんは家当主です」
「うん」
家は、商家です」
「そうだね」
「どうして商人じゃいけないんですか!坊ちゃんは商人じゃなかったんですか!官吏なんて辞めて――」

 彼が言葉をつむぎ終わる前に、背伸びをして手を伸ばし、高い位置にある彼の口を塞いだ。

「これからも、俺は家当主の責務を放り投げたりしない。商いには手出しできないけれど、法律かいくぐってできることは協力する。……我侭だって分かってるよ。言い訳しない。本当にごめんなさい」

 頭を下げた。結局のところ私が官吏を辞めたくないばかりに彼を悲しませているのだ。
 彼が息を呑むのが分かった。
 お互いに無言になる。私は手を離して副社長の目を見る。ややあって、副社長が小さな溜息を吐いた。

「もう、何を言っても聞かないんですね。…………分かりました。坊ちゃんのお好きなようになさってください」
「ありがとう」
「でも!ちょくちょく様子見に人遣りますからね!俺も行きますからね!あ、何なら俺、家人として」
「それはダメ。君に全権委譲するんだから」
「うぅ……じ、じゃあ家に長く仕えている人を………」
「もう家人は決めてるから問題ないよ。家の人は連れて行かない」
「あ、そうなんですか……って、ええぇ!?」

 驚く副社長に努めて笑顔を作った。

「俺の、おじいちゃんとおばあちゃんなんだ。血は繋がってないし初めて会ったのも最近なんだけど」



 最後の荷物を整理し終え、「よし」とばかりに手を腰に当てて頷いた。

「そちらは終わりましたか、様?」
「はい。そっちはどうです?今までと勝手が違うと思うんですが、大丈夫ですか?」
「ええ。庖厨なんかは以前お仕えしていた邸と変わりませんから」
「それなら良かった。住みにくいところがあったらできる限り改善しますから、おっしゃってくださいね」

 そう言うと、老婆は困ったように「十分ですよ」と笑った。老爺が笑って「敬語は使わないでください」と言う。

「分かりまし…分かった。あ、じゃあ出来れば名前を教えてもらえたら呼びかけやすいんだけど……」

 今までは「すみません」「ちょっといいですか」で呼びかけていたので名前を呼ぶことはなかったのだが、敬語を止めるとなると名前を知っていたほうがやりやすい。今まで聞くタイミングを逃し続けていたのでどうも聞きにくい状況ができあがってしまっていたのだが、自然な流れで聞けたじゃないかと自分を褒める。
 老婆がやっぱり困っているような笑顔で答えた。

「名は捨てました」
「……?えっと、つまり、名前がないということ?」
「ええ。ですから、様のお好きなようにお呼びくださいな」

 元々檻の人間ではなかったということは聞いていたので何か事情があるのだろうとは思っていたのだが、名前を捨てるほどの事情があったということだろうか。
 考えても想像だけでは到底分からないので、とにかく名前を考えることにした。

「ええと……では、トメさん、タロウさん、というのは……だめかな」
「いいえ。しかし不思議な名前ですな」

 老爺が感心したように頷く。

「俺が生まれたところの名前なんだ。響きが優しいので二人に合うんじゃないかと思って」

 言って、何だか照れくさくなった。老夫婦は穏やかに微笑んで名を受ける。

「それじゃあ、これからよろしくお願いします。……ん?」

 コツ、コツと叩く音が後ろから聞こえる。
 振り返ると、どうやら引越しを祝いに来たらしい友人が両手一杯に何かを抱え、立っていた。
 城で混乱の続く国を支えるため奔走しているとばかり思っていたのに、この、不器用で心優しい友人は、どうやらわざわざ引っ越したばかりの私に土産を持ってきてくれたらしい。
 胸が熱くなる。

 小走りで近寄ると、抱えているものを半分受け取る。トメさんとタロウさんも手伝ってくれて、そこでようやく彼の顔が見えた。
 ふと、以前より顔が近づいていることに気付く。いつの間にか背が伸びていたらしい。
 意外な事実に、つい目の前の顔を凝視すると、友人は居心地悪そうに眉間にしわを寄せた。慌てて謝り、身長のことを話せば「気づかなかったのか」と指摘される。
 そんな他愛のないやり取りがとても嬉しい。
 彼を含めた友人達や副社長達がいなかったら、私は今ここに生きていないんじゃないかとすら思えてくる。

 最後の土産をそっと受け取ると、それは今まで見たどんな宝石より尊いもののように見えた。
 一度目を伏せ、そして顔を上げると、微笑んで歓迎を言葉に表す。

「ようこそ、いらっしゃいました」

 あなたが友人で、良かった。





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2009.6.30
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