色々な世界を見てきたとは言わない。人生経験が豊富だと偽ることもしない。19歳まで生きた『私』は驚くほどあっけなく死んでしまい、4歳から始めた新たな生活は、未だ死ぬ前の年齢に達していない。二つの人生を併せればそれなりの年月を生きたことになるのだろうけれど、どうも達観できているように思えない。 平たくいえば未熟であるということだろう。 少し腑に落ちないところもあるが、だからこそ見えてくるものがある。 初々しい志を胸に抱いてやってくる若者と、ほんの少しだけ、同じ目線で在ることができる。 色彩独奏競争曲 書類という名の書簡を傷つけないように注意を払って、しかし速度は緩めずに手製のかごに詰めていく。戸部に届ける予算申請書、工部に預ける工事の発注依頼、吏部と御史台に持っていく官人の監査報告書。おおまかに分けつつ入れていけば、あっという間にかごからはみ出る山になった。 これ以上入れると持ち上げることができなくなるので、近くにいた官吏に一言断って室を出る。 扉を軽く閉めてそのまま回廊に立っていれば、官吏たちが噂をする声が聞こえてきた。 『――冗官のくせに』 『吏部尚書と戸部尚書のお気に入り――』 『稚児――』 『商家などという卑しい身分の出――』 『後宮に手を出した恥さらし――』 一つ、溜息をつく。人の噂も75日なんて言うけれど、絶対に嘘だ。でなければ私の噂はずっと前に消えて然るべきである。朝廷は陰謀と策略、揚げ足取りと裏工作で成り立っている部分があるけれど、2年前の内乱で後ろ暗いところのある官吏の大部分が姿を消したから、今はさほど薄暗いわけではない。もっとも裏返せばそんなことをしている暇がないほど忙しいのだとも言えるし、だからこそ私の些細な噂が娯楽として長く愛され続けるようになってしまったのだが。 全く気にしていないといえば嘘になる。 けれど、噂に真実が混ざっている限り、否定するわけにもいかないので仕方がないとも思う。 後宮に行ったのは事実で、表向き冗官に落とされた理由はそのことになっているし、商家出なのも確かである。吏部・戸部尚書のお気に入りというのは何か違う気がするけれど友人だとは思っているし――最近は吏部尚書の方も、肯定しない代わりに否定もしなくなってきた――こうしてメッセンジャーまがいのことをしているのは二人の口添えによるところが大きい。コネがないと何もできないという、いまだ貴族主義が根強い朝廷で自由に動くための代償だと思えば安いものである。 溜息と共に陰鬱な感情も吹き飛んでしまえばいいのにと思う。 ――アルバイトもどきの身だと仕事場が選べないから尚やりにくい。 ことの始まりは今から2年前、内乱勃発時に家当主として好き勝手やっていたことに端を発する。 「官吏は商いに手を出せない」という縛りに後ろ足で砂をかけた私は当時の上司である葵官吏によって処分を受けることになっていた。 あの時は本気で退官になると考えていたから、チャンスは今しかないと思ってなんの考えもなく珠翠に会いに後宮に行ってしまっため、運悪く鉢合わせた霄太師によって冗官へと落とされたのだった。 後日会った葵官吏いわく「何事もなければ本当に退官処分にするつもりだった」そうなので、霄太師の措置はある意味で減刑とも言える。 太師は私の周りでは黎深さんを筆頭に散々「狸」と言われている人物なので、この処遇に何らかの意志を感じるものの、今のところ噂以外の実害はなく、霄太師と会うこともあれきりないので特に気にしないようにしている。私の方も「実は精神だけ異世界人」「じつは昔『檻』にいた家の仮子」ということ以外に隠していることはなく、それは太師にとって利用価値のある情報ではないだろう。仮に『檻出身』であることを大っぴらにして家を潰そうとしたところで、家のことは副社長に全権委譲して隠居したためあまり効果がない。 あれから一時は新たに建てた私個人の邸――とは言えない大きさの、下町に立てた日本家屋――に引きこもり、畑仕事をする傍ら巾着や財布用の袋を縫って、トメさん・タロウさんと共に細々と暮らしていた。だが、ある日連れ立ってやってきた鳳珠さんと黎深さんに「人手が足りない」と駆り出され、なし崩し的に仕事を手伝い、目が回るほど忙しかったが不覚にも楽しいと思ってしまって――。 冗官の身では政務に関われないので、書類や情報を各部署に届けるメッセンジャーとして動くようになった。 仕事量は官位を持つ官吏に比べると圧倒的に少なく、かつ、色々な部署を回るので噂や情報はほぼリアルタイムに仕入れることができる。冗官ゆえに警戒されることも少ない。比較的良い仕事である。ただし冗官なので正規の官人とは見なされず、有体に言えばアルバイト扱いをされている。 「……あ、梅が咲いてる」 ふと、庭院に植えられた木を見て呟く。立ち止まって初めて香りに気がついた。仕事に不満は少ないものの、たまに、自分が何をやっているのか分からなくなることがある。 人に嘲笑されて罵倒されて噂されて、それでも朝廷から離れられない理由はなんだろう。 官吏でなくとも生きていけるのだ。官吏時代に溜めた貯金は慎ましく暮らせば一生もつし、たまに副社長が大量の食料と保存食を送ってくるから物資に不自由はしていない。 たぶん、官吏を辞めたほうが幸せになれる。人の視線にストレスを溜めることなく、日々の糧を自ら作って。 「…………」 それなのに朝廷に留まり続けているのは――。 「……やめた」 考えても仕方がない。それよりも今はこの書類を届けるほうが先だと思考を切り替え、一通り梅を愛でるとまた回廊を走っていく。人が来れば歩くが、いなければ走る。人に見られぬ礼儀よりも仕事の効率向上がいい。 時は春。朝廷の至る所に植えられた花々が綻ぶ季節。 同時に、白い官服に身を包んだ新進士が、戸惑いがちな表情を浮かべてやってくる時期でもある。 「今年度の新進士は礼部留め置きとする!」 偶然通りかかった奉天殿(ほうてんでん)の前で、私は足を止めた。防音などという発想自体が存在していないこの国において、室内で出す大声は大抵回廊まで届く。 いわゆる朝廷の中枢、蒼明宮(そうめいきゅう)の中央に位置するこの建物は、重大発表や祭事、任官、除目等の大規模な行事に必ず使われるところである。普段から会議が行われることの多い広間だが、そういえば新進士の入朝は今日だったかと、先ほどの声とこれからの予定を頭に思い描いて納得する。明日から暫く礼部の手伝いをすることになっているのだが、確かに「礼部預かり」になるのならば人手が必要だろう。 留め置かれるのは国試及第者の中でも上位20名のみだが、20人全てをしっかり査定するのは想像以上に大変だ。なにせ現役官吏一人一人の仕事量が多いため、上司による査定はどうしても片手間すらかけられなくなってしまう。そんな状態で個々の実力が正確に報告されるとは考えにくく、今回のような「預かり」の場合、査定は礼部と、要請を受けた御史台の官吏数人によって行われる。 私が御史台にいたころに留め置き処置が行われることはなかったので実際どうなのかは知らないが、大体そんな感じだと葵官吏に聞いたことがある。国試制度は歴史が浅いため、過去の事例が少ないのだ。 私が手伝うのはおそらく、査定結果を礼部の担当者に届けるとかそういう雑用なのだろうけれど、どんな人達が及第したのかを見ておいて損はない。 扉の両脇に立つ衛士に問えば、官吏ならば入っても差し支えないだろうとの返事が来た。正確には彼らの言う「官吏」とは「官位を持つ者」の意であり私には当てはまらないのだが、言わぬが花ということにしておく。 中に入ると新進士と数人の官吏以外に人影がなく、正式な式典は既に終わってしまったようだと知る。 「――では、追って配属が担当の者より言い渡される。なお、今回の措置の責任者は礼部侍郎である。最終日提出の論文は吏部へ提出されるため、気を抜かず日々の業務に励むように」 ずらりと並んだ及第者の見つめる先に、巻物を読み上げる官吏と厳しい視線で皆を射る壮年の官吏が立っている。たしか壮年の方が礼部侍郎の魯官吏のはずだ。音を立てないように入ってきたつもりだったのだが、私に背を向けている新進士達と違って魯官吏は扉の方を向く形になっているため、一瞬だけ目が合う。 会釈をすると魯官吏は軽く目礼を返してくれた。その些細な心遣いに胸が温かくなる。 魯官吏は巻物を仕舞う官吏に目配せをすると一つ頷き、口を開いた。 「状元および榜眼、探花及第者においてはこの場で配属を決める。――官吏」 「はい」 「先の三名について、配属は貴殿に一任する。何処が最も適切か」 突然話を振られたことで肩が一瞬跳ねる。――今、何を問われた? 確か礼部預かりになる年というのはいわゆる『アクが強すぎて配属先が決めにくい』人が集まってしまった時だったはずだ。将来有望な新進士が入朝する際、能力を見極めるため扱きに扱くのだと。つまりここにいる20人くらいの人々は極めて優秀な新進士であると同時に、これからとても辛い仕事を任される人々でもあるということになる。 で、さっき私に「一任する」と言われてしまったのはこの中のトップ3だから、他の人より気持ち過酷な仕事でないといけない……というよりそうしないと反発が起きる。きつい仕事って何があっただろうか。大変だというのならどの仕事も大変かつ重要だし、優劣は付け難い。――ああ、『官吏の仕事』にこだわらなくてもいいのか。 「調理場の皿洗い、厩の管理、宮城の掃除、羽林軍鍛錬場の整備など如何でしょう」 「良い考えだ。では状元は皿洗い、榜眼は厩番、探花は宮城の掃除とする。それ以外にも新進士に任せられるような仕事は全て回すため、どれも疎かにしないように」 原作でもそういう感じだった気がする、という不思議な確信とともに言った案はすんなりと採用された。 しかし、たまたま通りかかった冗官にそういう決定を委ねられるとこちらの心臓がもたない。新進士たちに私が冗官であると知られていないから良かったものの、もし知られれば『冗官ごときが仕事を決めるな』と睨まれ、家格の差から社会的にジ・エンドだ。今の私は経済力こそあるものの所詮しがない一市民でしかない。悲しいことに、新進士の中に多数いるであろう貴族の誰からも蹂躙される可能性を持っている。 魯官吏が何を思って私に話題を振ったのか知らないが、本当に驚いた。 挙げられた仕事の内容に動揺しているのだろう新進士の後姿を見つつ、取りあえず振り向かれ顔を見られたらおしまいだと本能で察知する。この分だと動揺はやがて怒りに変わる。少しずつ後退りして扉に手を掛け、それに気付いた魯官吏が無言で頷いたのをいいことに、広間を出た私は一目散に逃げた。 面倒なことになるのは遠慮したい。 しかし一度任されてしまったものはどうにもならず、そう時間の経たないうちに礼部に呼ばれた私は、魯官吏と共に三人の進士と対面していた。言わずもがな、状元・榜眼・探花の方々である。 探花の方に見覚えはない。……が、目の下の凄まじい隈に青白い肌、痩せ型かつなで肩で俯きがちの視線を彷徨わせている様は、赤の他人にあまり興味がない私でさえ無償に手を貸したくなる何かがある。 榜眼の方は一見非の打ち所のない好青年である。引き締められた表情は初々しさというより真面目さゆえのものであるように見え、立ち姿にも隙がない。整いすぎた顔立ちと併せて存在感抜群である。しかし、商談や御史台、バイトで色々な人を見て培われた(ような気がする)勘が、何となく、猫かぶりじゃないかと告げてくる。 状元の方は知っている。何年か前に会って以来、黎深さんの邸に遊びに行く度に見かけている顔だ。といっても彼の、邸内で道に迷うという珍現象を黎深さんと共に観察していただけなので、彼にとって私は数年ぶりに見る顔だろう。もしかしたら忘れているかもしれない。 名前は状元が「李絳攸」、榜眼が「藍楸瑛」、探花が「正博士(しょうはくし)」と名乗った。探花の人は日本に生まれていたらあだ名は確実に「ハカセ」だろうなと、きわめてどうでも良いことを考える。 魯官吏が三人にとんでもない量の雑用を追加で言い渡しているのを聞きつつ、彼らの表情を観察する。李絳攸は年相応に幼い顔立ちをしているが真剣そのもの、藍楸瑛は真剣に聞いているように見えるが非常に胡散臭い、というよりどこか違和感を感じる。なんだろう。正博士にはもういいので休んでくいてださいと言いたくなる。――なるほど、主観だが確かにアクが強いと思う。 「では持ち場に行くといい。明日からの仕事は大堂(おおひろま)で他の者と同じく申し渡す」 はい、と三者三様の声色で返事があった。礼部を出る際に一度だけ李絳攸が伺うように私を見たが、この場で思い出話に花を咲かせるわけにはいかない。努めて無表情を作れば、彼はハッとしたように目を少し開き、次いで唇を固く結んだ。その察しの良さに感動を覚える。 「……さて、官吏」 三人が出て行って暫く経ち、やおら魯官吏が口を開いた。 突っ立っているのも礼儀に反するので体ごと彼の方を向いて膝をつき、跪拝する。 「君にあの三人を頼んだ理由に察しはついているかね」 「いえ――ああ、いや」 思えば最初からおかしかった。国試及第者の中でも上位三名は特別だ。状元・榜眼・探花の栄誉は冠しているだけで高官への道が容易になる代物だし、それを取れるだけの実力も持っている。そんな有望な若者を冗官などという無位の官、それも誤魔化しようのない汚名にまみれた人間に任せるなど、普通はしない。 そして魯官吏は、厳しいが常識から外れるようなことは決してしない方だ。 つまり『普通でない何か』が起こっている、もしくは起ころうとしているのだろう。それこそ私のような立場の人間を駆り出すほどの。 「監視か、護衛。少なくとも相談相手ということは無さそうですが」 「護衛だ。状況次第で捕縛も任務に入るだろう」 「なるほど、『もと御史台』かつ『暇人な冗官』という立場が役に立つのですね。前者に関して実権はありませんが――葵官吏に伺ってみます」 では、当事者は誰か。素直に考えれば李絳攸か藍楸瑛のどちらかだろう。 李絳攸は紅家当主・紅黎深の養い子であるというだけで、以前から嫉妬と羨望の的になっていた。それに加えて16歳という史上最年少での状元――トップ合格。50代60代の人間でも失敗する国試において、まさに奇跡の体現者と言える。合格発表後の酒宴で高官の鬘(かつら)を払い飛ばしたという噂も聞いているし、恨み以外にも様々な感情を抱く者は多いだろう。 しかし、それだけだ。嫌がらせの対象にはなり得るが、紅姓を持たない養い子のことは皆口に出さずとも内心軽んじ、蔑んでいる。能力が低く役に立たないから『李姓』なのだと。それは状元を取った今でもあまり変わらず、むしろ紅家の家庭教師の腕が良いと、的外れな部分の評価が上がっている。 だとしたら―― 「藍楸瑛ですか」 魯官吏は目を細め、溜息をついた。 「そうだ」 魯官吏の話は次のようなものだった。 現在の藍家当主が官吏を辞してから数年間、朝廷は『藍姓官吏のいない時代』に陥っていた。そこに現れた『藍姓の国試及第者』藍楸瑛の存在が今、大変な問題になっているという。 彩雲国の貴族ヒエラルキー上層に位置する彩七家の中でも筆頭といわれる藍家は、名前だけで大きな影響を周囲に与える。朝廷では官人のモチベーションを上げ、軍人として立つだけで士気を高める。 なにより、朝廷、ひいては国王に藍家が仕えるという事実が人々に安心感を与える。筆頭の藍家が国に従っている限り、国は彩七家を抑止力として貴族たちを抑え込むことができる。つまり反乱の抑制だ。 だから藍家は重宝される――と同時に、国に不満を持つ貴族にとっては大きすぎる目の上のコブでもある。 先のセン華王の強攻策で大半の貴族は牙を折られたが、彩雲国という大きな竹林では、何処に手負いの虎が隠れているか分からない。実際に不穏な噂も流れ出しているらしい。 紅家ほど苛烈ではないが、藍家の矜持も折り紙つきだ。その上家族愛が強すぎるという厄介な属性も持つ。――ちなみに紅家も似たような性質を持つが、あっちは家族愛ではなく、いってしまえば『本家信仰』だ。 この状態で藍姓官吏に危害が加えられでもしたら、きっと藍家は今後一切自家から官吏を出さないだろう。 彩雲国のパワーバランスは崩れ、最悪、藍家と国が対立することになるかもしれない。藍家の次に格式高い紅家でさえ官吏は出すものの国に完全な忠誠を誓っていないのだ、そんなことになったら彩雲国は滅ぶ。 どれだけ貴族が力を持っているのだと頭が痛くなるが、それが現状なのだからどうしようもない。 魯官吏と共に額に手を置き、空笑いしながら息を吐き出した。 「まるで国が砂城のようです」 「その通りだ。だからこそ王と朝廷が善政という名の水を与え、崩れぬよう支えていかねばならない」 「そのためには今、藍楸瑛に何か起こってもらっては非常に困ると――そういうことですよね」 「うむ……しかし、すでに動き出している者がいるという話もある」 「例の『噂』ですね。……しかし、あれが本当となると相当に厄介なのですが」 一筋縄ではいかないんだろうな、留め置きの2ヶ月やっていけるかな、と遠い目をした私に、魯官吏は気遣わしげな視線を向けた。それだけで少し回復する。 戸部侍郎の景官吏と礼部の魯官吏は御史台から冗官になった今でも変わらず、「挨拶をすると必ず返してくれる方々」として私の心の清涼剤だ。ちなみに黎深さんは必ず無視し、鳳珠さんは室外に出ない。 「官吏の仕事振りは見ていた。冗官に落とされても尚、自らのやるべきことを認識して動いている。 御史台であったころの功績も申し分ない。私は貴殿になら――いや、貴殿にしか頼めないと思っている」 魯官吏が言う。後半大分買い被り過ぎているが、どんなに大変でも厄介でも正直面倒くさくても、好感情を抱いている人にそこまで言われて断ることなどできない。感情抜きにしても、どう見たってこの場合一番適任なのは、非常に残念なことに私である。知人に紅家当主と黄家嫡男、もとの上司は御史台長官秒読みと評判の葵官吏。実務に携わっていない冗官で、割く時間はいくらでもある。 そしてなにより下級官吏である以上、上官の命令は絶対だ。実力的に不可能なことは何が何でも避けるが、それ以外はイエスマンを貫くのが官吏・商人としての私の信条だ。 改めて立礼を取り、宣言する。 「やりましょう」 ほっとしたように頷く魯官吏を見て、その表情が見れただけで嬉しさににやけてしまう私は、きっと自分で思っているより疲れている。 夕暮れ時の城下町、宮城側と下町を隔てる門の隅に腰を下ろして、沈む夕陽をぼんやり眺める。 今日1日で色々と仕事が増えてしまったことに少し落ち込むが、よく考えればメッセンジャーの仕事もかなり減らしてきたのでプラスマイナスゼロだ。魯官吏には準備期間を4日もらい、その間に体制を整えるようにと言われたが、正直なにをどうしたら良いのか混乱していてうまくまとまらない。原作の裏側にこんな出来事があるなど予想していなかった――いや、もう何年も前から思っていたことではあるが。 「しかも紅家が絡んでるなんて……本当に厄介だ」 『噂』が肩にズシンと乗っかる。 紅分家がどこかの貴族と結託して藍楸瑛に危害を加えようとしているらしい、という信憑性に欠ける噂だ。そんなことは紅本家が許さないだろうと思うが、当主が黎深さんである以上、そして相手が藍家である以上、噂を完全に否定しきれないのが痛い。礼部のごく一部にしか流れていない噂なので各家の耳に届いていないのかもしれないし、紅家嫌いかつ藍家嫌いの黎深さんは、むしろ面白がって放置する可能性がある。 「とりあえず紅家に行って黎深さんに聞いてみようかな……。あ、そのとき絳攸くんに挨拶すればいいし」 私は懐から料紙を、膝の上の風呂敷包みから携帯用の筆と墨壷を取り出した。墨壷はひょうたんに墨を入れただけの手作り品だが、今のところ漏れることがないので重宝している。 紅家に行くので遅くなる、迎えは軒を借りるので不要、という旨を記し、近くにいた人に多少の貨幣を渡して配達を頼む。よっこいしょという掛け声で立ち上がり、出てきた門を再びくぐった。 こうして私にとって非常に面倒な、しかし重要なターニングポイントとなる2ヶ月間が幕を開けたのだった。 --------------- 2010.5.5 2014.8.27 加筆修正 back top next |