貴陽城下、彩七区内紅区に居を構える紅本家貴陽別邸。門構えから壮大かつ荘厳なその邸を見るたび、格の違いを嫌になるほど実感する。 どこまでも大きく、すべからく優美で、何にもまして厳格だ。 それはまるで紅家の地位と、他者と己に厳しく身内に甘いプライドの結晶であるように見えた。 色彩独奏競争曲 「知らん」 黎深さんはほとんどの感情を三文字に込めて言い捨てた。紅家の中に藍本家を害そうとしている動きはないかと馬鹿正直に尋ねた結果である。「藍」と言った辺りで室の温度を氷点下にまで下げきった黎深さんはその直後、黙っていれば綺麗な顔を修羅に変え、烈火のごとく怒り狂った。 「大体いまさら何をのこのこ国試に送り込むんだあの三馬鹿は私から兄上を一瞬でも奪っただけでなくあまつさえ隙あらば兄上に取り入ろうとしてきてああ腹立たしい死ぬまで藍州に引き篭もっていればいいものを誰がやろうとしているのか知らんが私がやってやる忌々しい藍家のクソガキなんぞ私がこの手で」 「『私はそのような事実は知らない。もし紅家が関わっているのであればすぐ知らせよう』と言っています」 百合姫が本能のまま流れ出す黎深さんの言葉を素敵な解釈でまとめる。そうですか、よろしくお願いしますと言えば「こちらとしても見過ごせることではありませんから」と微笑まれた。百合姫は今まで会った貴族の中でも鳳珠さんと魯官吏に次ぐほどの人格者である。傍若無人な黎深さんとフォローの達人・百合姫。とてもバランスの取れた夫婦である。 「そういえば絳攸殿は帰っていないのですか?」 「ええ。仕事が終わっていないのでしょう」 「……提案した身としてはとても心苦しいです」 「人間最初が肝心ですわ。今厳しい思いをすれば後々が楽になるでしょうし、あの子ならきっと大丈夫です」 どうかお気になさらず、と言って百合姫は茶と点心をすすめる。ちなみに黎深さんはまだブツブツ呟いている。 その何とも言えない光景に乾いた笑いをこぼし、言葉に甘えて喉を潤した。 ――黎深さんと百合姫が知らないのなら、紅家の人間が関わっている可能性は低いだろう。黎深さんは当主としての仕事はしないが少ない情報から全てを把握してしまう人だし、百合姫はフォローのために東奔西走する傍ら、何かと暴走しがちな紅家を本家三男・紅玖琅と共に引き締めていると聞く。 藍家と紅家は確かに仲が良いとは言い難いが、それだって大部分は当主同士の超個人的な不仲からきているものだし、領地経営の観点から見ればむしろ、お互いこれ以上ないほどの上客なのである。藍州は塩湖、紅州は山地と、領地の特性が見事に正反対なので需要と供給が被らない。もし片方の家を乗っ取ったとしても、それぞれ相手領地のノウハウが少ないので成り立たない。無駄にプライドが高い二家だから知識の伝達がほとんど行われていないためだ。姻戚関係も滅多にない。 ――紅家の可能性は一旦除外してみるか。 そのほうが掴みやすそうだ。家が卸している甘露茶を複雑な思いですすりつつ、最初の手がかりでつまづいたらしい私は、次はどこからアプローチしよう、と溜息をついた。 壁に向かって呪詛をはき続けていた黎深さんが、急に言葉をピタリと止め、くるりとこちらを振り向いて扇子を勢いよく開き、顔の下半分を隠してふんぞり返った。 「どうしたんですか、黎深さん」 「帰ってきた」 誰が、と聞き返そうとして、この邸に「帰ってくる」人間が三人しかいないことに気がついた。 長男・紅邵可は下町近くに邸を構えているし、三男・紅玖琅とその家族は紅州住まいだ。ならばこの邸は黎深さん一家のもので、この場に夫婦がいるのならば、いないのはたった一人だけ。 にわかに室外がバタバタと騒がしくなり、扉が大きな音を立てて開いた。 「――先輩!!!」 「え、俺?」 残業を終えて帰ってきた養い子・李絳攸の開口一番の言葉に、黎深さんは無言で扇子を投げつけた。 白い官服のところどころを汚し、乱れた髪のまま室に入ってきた李絳攸は、まず百合姫の温度のない笑顔に言葉を失くした。そのまま家人に両脇を抱えられながら強制的に退室させられ、戻って来たときには、表情以外の疲労は綺麗に消し去られていた。朱を基調としたシンプルな礼服が彼らしいと思う。 「改めて、再びお会いできて嬉しく思います。何度か家に伺おうとしたのですが、何故かたどり着けず……」 きっと道に迷ったんだろうなあと思いつつ、立礼したまま落ち込む李絳攸の頭をポンポンと撫でる。 「俺もまた会えて嬉しいよ。城で無視するような真似をしてしまってごめんね」 「あ、いえ。先輩の判断は当然かと。あの場で話しかけようとした俺…私も迂闊でしたから」 「ありがとう。……ところで、どうして『先輩』なの?」 家柄的に、私は紅家当主の養い子である李絳攸の足元にも及ばない。官吏の経験年数というハンデはあるが、以前出会ったとき、彼は私に対し敬語など使っていなかったように思う。 不思議に思って尋ねてみれば、李絳攸は視線を彷徨わせ、やがて照れたように言葉を紡いだ。 「それは……やはり、尊敬している人には相応の態度を取るべきだと物の本に……」 「尊敬!?」 驚きに満ちた言葉は、私ではなく黎深さんのものだった。黎深さんの顔にはっきりと「こいつのどこに尊敬できる要素がある」と書いてある。あんまりだと嘆きたくなるが驚いたのは私も同じなので何も言えない。 しかし本当にどうしたことか。彼と初めて会った時に何かしただろうか。いくら記憶を掘り起こしても、彼が文献で見たという「お守り」を一緒に作った覚えしかない。 まさか私の縫い物の腕を尊敬しているのか。……いや、いくらなんでもそれはありえない。 悶々としていると、照れたままの李絳攸が答えを告げた。 「家当主として数多の商談を成功させ、資蔭ではありますが、かの有名な師官吏の推挙によって入朝。官吏としては家柄にとらわれない公平な査定をする御史として名を馳せ、何より黎深様や、敏腕と評判の戸部尚書と対等な友人関係を築いていらっしゃる。尊敬するなというほうが無理な話です!」 「…………いやあの、初めて聞くことが多すぎるよ。公平な御史って、なにそれ?」 「冗官でいらっしゃることは黎深様からお聞きしていますが、それも何か理由があるのでしょう?例えば先輩の才能を妬んだ誰かの陰謀とか、公にできない任務でやむなく冗官に身をやつしているとか!」 怒涛のように溢れ出る賛辞の奔流に圧倒される。人の話を聞いていない――それが故意なのか無意識なのかは分からない――李絳攸は、着々と苛立ちを溜めていく黎深さんに気付かないまま言葉を重ねていく。 李絳攸が私を一つ褒めるたび、黎深さんは順調に青筋を増やし、こめかみをひくつかせていく。目尻はだんだんと釣りあがっていき、阿修羅のごとき形相とはこういうことをいうのだと言わんばかりだ。扇子で隠した口元にはきっと牙がのぞいているに違いない。 「それで、俺も先輩のような官吏になりたいと……」 「――ストップ!あ、いや止めて。ちょっと待って、俺君のテンションについていけてない。あ、違うええとテンションじゃなくて興奮……もう何言ってるか分からなくなってきたけど、とにかく黎深さんがまずい」 「え?」 李絳攸の気が逸れた。話題を変えるなら今だ。 「ところで、『先輩』や『お守り』なんて珍しい言葉が載ってる物の本って何?すごく興味あるなあ!」 「え、え?……あ、ええと、『日本史』です。邸の書庫にあったもので、遥か東の『日本』という国についての本なんですけど、以前先輩にお願いした『お守り』の形や効用も載っていて……」 「へえ!そうなんだ、日本……。…………………は?」 ちょっと待て、何故日本についての本がここにある? 日本がこの世界に存在しないことは家に入った時点で確認している。彩雲国や周辺国の文化レベルを考えても、日本が――少なくとも『先輩』なんて言葉を使う時代の日本が――存在することはあり得ない。 時折流れてくる異国からの交易品の中にも、日本を示唆するような品物はなかったはずだ。 ならば何故、『日本史』などというふざけた本が存在するのか。 「…………まさか」 仮説が二つほど浮かんだ。 一つは、私以外にも21世紀の日本から彩雲国に来た――いや、生まれた人間が存在する可能性。こんな奇妙な現象が私一人だけだという証拠などない。現に以前、ある人物から、その可能性を示唆する言葉を受けている。だから他に日本の記憶を持った彩雲国民がいたっておかしくはない。その『もと日本人』が、郷愁か誇示かは分からないが日本についての本を書いた。それで話は終わりだ。 二つ目は、あまり考えたくないことだが――私や、もしかしたら他にいるかもしれない『もと日本人・現彩雲国民』という存在に意図的に関わっている『誰か』が存在する可能性。そしてその誰かが何らかの意図を以て、あるいは冗談半分に、日本についての情報をこの国に落とした、夢のような可能性だ。そんな人物がいるのなら、私は是非とも会ってみたい。会って、日本に帰ることができるか尋ねたい。 帰れるのなら――帰りたい。 けれど。 「先輩?本が気になるのなら、お貸ししますが」 「いや、いいよ」 まだ、帰れない。 しかしその本を見てしまえば、そんなに強くない私はきっと帰りたくなるだろう。だから――見ない。 今はただ、李絳攸が日本のことを知っていて、もしかしたら元日本人がこの国にいるかもしれないという、それだけで十分だと自分を無理やり納得させる。 「ありがとう」 「……?いえ、読みたくなったらいつでもおっしゃってください」 「――うん」 なんだか気が抜けたような、心のどこかに凝っていたものが少しだけ流れたような、そんな不思議な感覚で私は椅子に腰掛けた。自然に笑いが出てくる。李絳攸はそんな私の行動に首を傾げたあと、つられたのか、それとも笑わないといけないと思ったのか、へらりと笑った。 百合姫が「仕様のない子ね」と言って苦笑し、黎深さんは私の脳天を扇子で軽く叩いた。 うっかりほのぼのハートフルな情景が作られてしまったが、それはそれとして、もともと仕事の用事で来た以上、情報収集という目的は果たさなければならない。 その後黎深さんに再びいくつかの質問をして、少なくとも紅家が藍楸瑛の件に関わっている可能性は限りなく低いとの結論を固めた私は、軒を借りて邸を辞した。去り際に百合姫から、この件に関して『個人として』情報を集めてみること、気になる情報があった場合、『個人的に』私に教えることを約束してもらった。その代わり、私は得た情報を元に、紅家にできるだけ火の粉がかからないよう配慮した働きをする。 つまりこの件が、本家として動くことが難しいのにも関わらず、はっきりと無視することができない噂だということだ。火のないところに煙は立たない。火種に紅家が一欠けらも関わっていない可能性なんてものもまた、否定できたわけじゃない。早めに対処できるよう体制を整えておきたいのだろう。 黎深さんよりよほど当主らしいのではないかと思う。 余談だが、「見ていてください、先輩に追いつけるよう全力で職務を全うしてみせます!」と、やけに輝いた瞳で宣言した李絳攸にどう反応して良いか分からなかった。一体なぜこんなことになっているのだろう。 「ただいま」 城下と下町の境にある門で軒を降り、その先も同行するよう命じられていたらしい家人に送られて、私は自分の邸に帰ってきた。周りは既に真っ暗で、明かりが点いている家はほとんどない。というより下町で夜に明るい場所など花街くらいのものだ。明かりに使う油が勿体無いので大抵の家では暗くなったら就寝である。 「お帰りなさいませ、様」 タロウさんが手燭を手に出迎えてくれた。ちなみにこの国で蝋といえば蜜蝋のことである。蜜が原材料なわけだから、大量生産することができない。この時点で蝋燭が高価なものだと分かる――が、油に紙縒りの灯火より若干明るいので、あまり気にせず使用している。そういう意味では私も庶民ではないのだろう。 邸が小さいから維持費がそれほどかからないし、家人もタロウさんとトメさんだけ。冗官でも俸禄は出るので――そういうところが冗官リストラという思想につながるのだろうけれど――十分賄えるのだ。むしろ余る。 何かあったときに備えて貯金することは確かに必要だと思うし、実際ある程度蓄えてもいるのだが、金は使わなければ経済が回らない。その点で、金子を湯水のごとく使う貴族は彩雲国経済にとても貢献している。それは商人時代にものすごく実感した。 「湯は沸かしてございますが、すぐに湯浴みなさいますか?」 「ありがとう、そうしようかな。そうだ、明日は少し遅く出仕するから、タロウさん達もゆっくりしてていいよ」 「お心遣いいたみ入ります。しかしこの年になると、どうしても朝は早くなるものでして」 まるで年々ニワトリになっていくようですなあ、とタロウさんが笑う。私もそれに笑い返して、ならば湯浴みの後始末は自分ですると提案した。 「朝早いのなら夜も早く休まないと。今日は……というか今日も遅くなってしまってごめんなさい」 「いいえ。様のお体に障りがないのなら、どれだけ遅くなってもよろしゅうございます。ただ――」 「『無理はしないように』、だよね。うん、大丈夫。俺、もともと人より怠惰だから」 「存じております。しかし、一旦集中すると休憩を疎かにしてしまう癖をそろそろ自覚なさってくださらないと」 このままでは心配で寿命が縮みます。そうタロウさんが言うものだから、私は何も言い返すことができない。これからはできるだけ早めに仕事を切り上げようと密かに決めて、小さな湯殿に向かった。 小さな邸の、さらに小さな離れの中。四角く組んだ大きな桶から湯気が立ち上る。その光景は懐かしきヒノキ風呂を模したものだ。お湯を沸かすのに信じられないくらい手間のかかる世界だが、何も沸騰したお湯を入れるわけじゃないので意外とやっていけている。風呂の外で体を洗い、湯につかると溜息をついた。 ――日本人の心だね。 何とはなしに呟くと、途端に虚しさが襲ってきて、私は頭のてっぺんまで湯に潜り、息を吐き出した。 4日後、いつもより太陽が昇った時刻に城の門をくぐった私は、まっすぐ礼部に行って魯官吏に挨拶し、朝廷の庖厨(だいどころ)――大袈裟な名称がついているはずだが忘れてしまった――へと向かった。無論、新進士・藍楸瑛の様子を見るためである。今日の仕事は皿洗いらしいが、おそらく下膳もしたことがないであろう彼に勤まるのか大分心配だ。 新進士の目付け役だと庖厨長に告げれば、難色を示しながらも中へと――しかし、庖丁(りょうりにん)の邪魔にならない位置へと通される。 水場において新進士の真白な官服はとても目立つ。他の人間が、汚れが目立たないような濃い目で、なおかつ袖口の狭い作業着だからだ。険しい表情で真剣に洗っているらしい藍楸瑛の手際は悲しくなるほど悪い。隣の人間が10枚洗う間にやっと1枚。すすぎを担当する人に手渡す際も思うところがあるのか変な戸惑いを見せ、そのせいで更に作業が滞っている。苛々が頂点に達した庖丁が怒声を浴びせ、またそれに藍楸瑛がむっとした表情を隠さず見せるものだから、雰囲気は中々に最悪だ。 「正直に言わせてもらいますがね、ものすごく邪魔です。置物の方がまだマシですよ」 料理長とも言うべき人物が顔をしかめて苦々しく告げる。いわゆる「はじめてのおつかい」状態だからなあと苦笑すれば、「それにしたってアレは酷いもんです」と返ってきた。彼が藍家だということは伏せているし、事前に、留め置き中は家格に関わらず平等に扱う旨を各家に伝達しているらしいので庖丁の言葉も遠慮がない。 一応、今後の方針だけ伝えておこうと思う。 「そもそもが貴族だから色々未経験なんですよ。――とはいえそれは理由になりませんね。容赦なく接していただいて結構です。よければ、なるべく官吏が来る場所に配置していただけますか」 「となると配膳ですか。……できますかねえ」 「できないでしょうねえ」 「…………」 「まあ、皿洗いでも水汲みなどで外に出れば、他の官吏とも会うでしょう。暫くはこのままで」 「はあ」 「それに――」 周囲に人がいるところでは、藍楸瑛を害そうと狙う『誰か』も手を出しにくいだろう。続く言葉を飲み込んで愛想笑いを浮かべ、庖厨を見渡しながら周囲に目を向ける。私は武術を習ったことなど無いし、もちろん気配を読むなどという芸当もできない。だから本当に『見た』だけだ。 「……ん?」 目の端に映った人影に声を上げる。 通り過ぎるかのように自然に去っていったので断定することはできないが―― 「正官吏?」 あの猫背と、心配になるほど白い顔色は、探花・正博士ではなかっただろうか。 「どうしましたか」 庖厨長が怪訝な顔で聞いてくる。 「最近、庖厨周辺で『意外な』人を見かけたことは?」 「……はあ。特にありませんが。それが何か」 「十分です。……さて、そろそろ戻ります。あと2ヶ月ほど、よろしくお願いします」 「王の判断ならば是非もありません」 肩をすくめて笑った庖厨長に私も薄い苦笑を返し、踵を返す。 ――今日はもう一つ、大事なイベントがある。 いかに有能な官吏でも、一人で全てをこなすことはできない。雑事に追われれば本質を見失い、本質にのみ執着すれば思わぬところで綻びが生じる。 だから朝廷には官位が存在し、女官があり、侍僮がいる。信頼の置けるものをそばに置こうと腐心し、抱えきれないものを一緒に支えてくれる「誰か」を欲する。求める様は恋にも似て、しかし限りなく打算的だ。 今回の仕事だってそうだ。私に護衛は務まらない。「武力」を持っていないのだから。監視にしたって藍楸瑛だけでなく、他の二人――李絳攸と正博士のフォローアップも行い、なおかつメッセンジャーとしての仕事と御史台の雑務も同時進行だというのだからキャリーオーバーである。 そのため事前に葵官吏にお願いして、御史裏行(みならい)数名と十六衛の武官15名、それに侍僮を一人借り受けることにした。御史台の雑務は貸与の条件として出されたものである。 「侍僮」とは得てして名のある家の子息がなるものだ。女官が良家の子女の花嫁修業を兼ねているのに対し、侍僮は官吏になるため、あるいは当主になるための研鑽と人脈作りの場であると考えれば大体問題ない。葵官吏から紹介された侍僮も例に漏れず貴族の嫡男らしい。 しかし、御史裏行とは調整の段階で顔合わせを済ませてあるが、侍僮には未だ会っていない。どうやら実家が騒がしくなっているようで、嫡男として放っておくわけにもいかず帰省している……と、聞いたのが4日前。葵官吏から私の仕事を手伝わないかと打診を受け、驚くべき速さでゴタゴタに片をつけたらしい弱冠12歳の跡取りは、本日復帰する。 その子に今から会うのだ。 馴染み深い、しかし今となっては無縁の御史台、その一角。半開きの扉と閉じられた扉が混在する不思議な空間を通り過ぎ、最奥――までは行かず、その3歩ほど手前にある一室の前に立ち、声を掛ける。 「、参りました」 「――入れ」 返事を待って室内に入り、一礼する。中には葵官吏と一人の子供が立っていた。子供は私を見ると、迷ったような、困ったような視線をめぐらせる。しかし葵官吏は反応しない。そのまま所在無さげに私と葵官吏を交互に見ていたが、やがて納得したのか表情を引き締め、一礼を返した。 それを待っていたのか、葵官吏が子供に向けて口を開く。 「だ。任務終了まで御史台より人員の貸与と若干の権限を与えている。――」 「はい」 「無為の使用は許さん」 「承知しております」 つまり貸し出されたものに頼る前に、それに足るだけの情報と根拠を自分で集め、考えろということだ。 相変わらず葵官吏は甘くない。 一気に肩が重くなったのを感じつつ、私は子供に向き直った。 「だ。冗官だけど、今は一時的に礼部官吏として動いている。君の名前を聞いてもいいかな?」 子供は一瞬驚いたように目を見開くと、フ、と小さな嘲笑を浮かべた。 せつないことに、その表情には見覚えがある。「冗官」に好意的でない官吏がよく浮かべるものだ。 「侍僮の陸清雅です。よろしくお願いします――さん」 さっそく壁に当たった気がしなくもない。 --------------- 2010.7.2 2014.8.27 加筆修正 back top next |