王宮の隅、階(きざはし)に腰掛け、目の端に映る光景をそれとなく観察する。
 彼はどうやら庖厨の皿洗いをついにクビとなったようで、最近は厩舎の手伝いをしているらしい。毎日見ているわけではないが、馬の世話をする手つきがまだどこかぎこちないのが分かる。

 彼が――藍楸瑛が礼部留め置きとなって早一月。その間トラブルらしいトラブルは一切起こっていない。あとは残りの1ヶ月を無事に乗り切るだけだが、前半に何も無かった以上、これからの後半に何らかの事態が待ち受けている可能性は非常に高い。
 膝に広げた報告書をまとめ、簡易文箱に入れる。静かに立ち上がり、気付かれないように場を後にする。

「ここにいらしたんですか、さん」

 聞こえた声に視線を向ける。憮然とした表情を隠す努力など一切しない、とてもいい性格をしている侍僮が腕を組んで立っていた。

「どうしたの、清雅くん」
「会議が始まります。主宰がこんなところで何をしているんですか。資料には目を通しているんでしょうね」
「大丈夫。一通り見終わったよ」
「それは結構です。ほら、さっさと行きますよ」

 聞いた割にはさほど興味を示さず、陸清雅は歩き出す。
 この1ヶ月ですっかり見慣れてしまった姿に少しだけ苦笑して、私はその後に続く。
 ヒュオウと、どこかで鳥の鳴声が響いた。



色彩独奏競争曲
嘘と真実のデュエット




 会議、それは私が主宰する「藍楸瑛護衛委員会」において不定期に行われる、いわゆる報告会である。もちろん私自身は口頭や書面で経時的に報告を受けているが、ある程度委員会内で情報の共有を行わなければ、いざというときに個々の判断に狂いが生じる。藍楸瑛を狙う人間――便宜上「相手」もしくは「敵」と称しているが、その相手がいつ・どこで・どんな方法で攻撃を仕掛けてくるのか正確に把握できていない以上、どうしたってアドリブの介入は避けられない。
 ちなみに委員会は私を筆頭に、補佐として侍僮・陸清雅を置き、「相手」が誰なのかを探るための御史裏行(みならい)が3名、直接の護衛を担う十六衛の武官が15名の計20人で構成されており、会議は私と陸清雅、御史裏行から代表1名、武官から代表1名の4人で行っている。
 場所は私の執務室、御史台おなじみの小部屋である。四畳半なので狭いが仕方ない。

「それでは、会議を始めます」
「まずは私からよろしいでしょうか、官吏」

 もはや様式美となった陸清雅の言葉を合図に裏行代表の若者が口を開く。余談だが、去年の国試に及第したのだという彼は、貴重な「国試及第の御史」として一時期噂になったことがあった。秘匿性が求められる御史台ではどうしたって顔の割れる国試よりも資蔭で入る人の方が多いから、彼のようなタイプは珍しい。
 逆に言えばそのハンデを乗り越えるくらいに能力が高いということなのだが、どういうわけか未だに裏行である。

「どうぞ」

 促せば、彼は頷いて手元の資料から1枚を手に取った。

「先日の会議でもお伝えした通り、この1ヶ月、藍官吏の周辺を探っておりましたが……驚くほど、何もありません。藍官吏に接触しようとした者も皆無――いえ、今でも野次を飛ばしに来る者はいるのでしたね」

 そう言って彼は武官代表に視線を向ける。
 突然話を振られた武官はうろたえるでもなく、至極冷静に言葉を返した。

「ええ。勿論、最初の頃と比べれば野次も妨害も格段に減っていますが」

 言葉を切って目を伏せるのに合わせて、色素の薄い髪がさらりと肩を撫でる。本当に武官なのかと問いたくなるくらいに整った外見と、どこか優雅さを漂わせる雰囲気の持ち主――平たい話が、茈静蘭である。

 武官の選定は、話を聞いた時点で既に葵官吏が行っていたため、何がどうして一介の米倉番人がこの委員会に抜擢されたのか私にはさっぱり分からないのだが、それは彼にとっても同じだったらしい。顔合わせを終えて解散となり、他の武官が皆いなくなった頃を見計らって、僅かに不機嫌さを滲ませつつ、

『私は米倉番人なので護衛能力は期待しないでください。あと、夕食までには帰らせていただきます』

と言ってのけた。
 この国の常識を重んじるのならばその時点で「礼を失している」として何らかの処罰を与えるべきだったのだろうが、生憎と私は生粋の彩雲国民ではないし、彼とは出会いが出会いだったため好印象を持たれていないことは予測済みで、それを見越した上で発言したのだと何となく分かったため、切り返しは『了解した』の一言という、至極簡単なものだった。

 まあそんな思い出話はともかく、夕食までに帰りたいのなら24時間交代制の護衛任務は難しいだろうということで代表に就けたのだが、これが良い選択だったらしい。もともと元第二公子という素晴らしい出生の人物なので統率力は高いだろうと踏んでいたのだが、私の期待以上に護衛14名をまとめ上げてくれた。
 十六衛は貴族や豪族の多い羽林軍とは違って血気盛んな人間が多いから、本当に助かっている。
 心の中で惜しみなく感謝の言葉を述べつつ、しかし目の前の問題に溜息をつく。

「何も無いのは良いことなんだけど……ここまで静かだとそうも言っていられないな」

 事態が膠着することは解決にならない。
 どうしようかと悩んでいると、陸清雅が呆れたように口を開いた。

「最初にあれだけ派手に動けば当然のことだと思いますが?考えていなかったのですか」
「大人しくなるとは予想してたけどねえ。まさか1ヶ月持つとは思わなかった」
「読みが甘いですね」
「うん。申し訳ない」

 直球で繰り出される皮肉に返す言葉も無い。
 日頃から「貴方の行動は派手すぎる」「無駄」「上手い動き方はいくらでもあるのに」と精神攻撃を仕掛けてくる陸清雅は、そんな私の様子に小さく鼻を鳴らす。本当に貴族嫡男なのかと言いたくなる仕草だ。

 彼がこうも不機嫌そうなのは、この仕事が発生した直後……委員会メンバーとの顔合わせを終えた翌日に私がとった行動が原因である。準備期間が短く、他のメンバーどころか藍楸瑛の周辺すら満足に調べられない状態でどうにか護衛対象の安全を一時的にでも確保しなければならない、というとんでもない状況で私が起こした苦肉の策――それは、この仕事を「隠さない」ことだった。

 まず葵官吏に頼み込み、侍郎以上の官吏のみが出席できる朝議でプレゼンした。次いで御史台の官吏全員へ通達し、最後に新進士に接する機会の多い礼部を除いた全ての部署に知らせた。ちなみに朝議と御史台には護衛対象が藍楸瑛であることを発表したが、各部署には「不特定の新進士」としか言っていない。
 少しでも時間が稼げればいいなあくらいの気持ちだったのだが、予想に反して効果は高く、留め置きから1ヶ月経った今でも藍楸瑛の周りに不審な動きは見られていない。

 嬉しい誤算だった。けれど同時に、それが一番厄介な問題でもある。
 動きが無い中で調査するのは、もはや限界にきている。調べられるところは調べ尽くしたのだ。私達には新しい動き――相手の情報、手がかりが必要だ。

「どうするおつもりですか」

 陸清雅の言葉が私を責め立てる。茈静蘭と裏行代表もこちらを見て、言葉を発さない。
 私は一度目を瞑る。そして心の中で頷き、まぶたを持ち上げる。

「私が動く」

 こうなったら、無理やりにでも動かしてみせる。



 というわけで私は今、藍楸瑛の目の前にいる。ちなみに場所は厩舎の陰だ。

「…………」
「…………」

 しかし藍楸瑛は立礼したまま顔を上げない。そういや留め置き期間はどの部署にも配属されないから無位なんだっけな、と今更ながら認識する。下位の者は上位の者に頭を下げる――朝廷では官位こそが絶対だ。実質的に冗官である私も無位なので彼とは対等なのだけれど、誤解してくれているみたいなので言わないでおこう。
 家格では足元にも及ばないから、その代わり朝廷では偉ぶっていたい……というのは冗談だ。
 私をどのくらい上位に見ているのかはさておき、この誤解は非常に都合がいい。とても動きやすくなった。
 その嬉しさが顔に出ていたのか、陸清雅が表情を僅かに引きつらせて脇腹を小突いてきた。言葉にしないのはこの少年が外面的には「侍僮の鑑」だからである。

「…………」
「顔を上げて良いですよ」

 とりあえずこの状態では話もできない。声をかければ、藍楸瑛は素直に立礼を解いた。

「藍進士で、あっていますか」
「はい。何か御用でしょうか」
「いえ、噂を聞いたもので」
「噂……ですか」
「ええ。私は仕事柄、あちこちの部署に出入りすることが多いのですが、何でも、貴方が人を探していると」

 これは半分本当で、もう半分は嘘だ。
 噂があるというのは真実だが、それは、『藍家の新進士がよく後宮の近くを通るらしい』『目当ての女でもいるのではないか』『新進士のくせに生意気だ』というひねりの無い三段論法のような難癖に過ぎない。
 「人を探している」の部分は、その噂を聞いた私の、『そういえば藍楸瑛は珠翠と過去に会っていたような気がする』という曖昧な記憶によるものだ。だが、彼が珠翠に固執しているような記述があったこと自体は記憶しているものの、両者の初対面がいつだったかまでは覚えていなかった。
 不確実なことについてカマをかけるのは好きじゃない。しかし違っていたら「所詮噂だ」と言うだけだ。総合的にみて不利益は少ないと判断したのだが、どうやら合っていたらしい。
 驚きに目を見開いた藍楸瑛に、私は殊更優しく(見えるように)微笑んだ。

「留め置きの新進士は1日の仕事量も尋常ではないと聞きます。それなのに探しているということは、よほど大切な方なのでしょう。少しでもお手伝いできればと思いまして」
「……ありがたいお話ですが、新進士の私事にお手を煩わせるわけには参りません」
「まあ、そう言われると思っていました」

 はあ、と一瞬気の抜けた表情になった藍楸瑛は、すぐにそれを打ち消して凛々しい顔を作った。私が知る『小説の中の藍楸瑛』より大分若いこの青年には、まだまだ青さが残っているらしい。しかし、そんなことを言ったら横の陸清雅から、「では貴方は全身真っ青ですね」と言われかねない。どこまでも厳しい侍僮だ。

「さっきのは建前です。実を言うと私、閑職なんですよね。だから何かしたくて」

 これは思い切り嘘だった。実はここ3日ほど家に帰っていない。主に葵官吏から渡される御史台の仕事のせいで。

「色々な部署に出入りするのは本当ですけど、それだけでは時間が余ってしまうんです。何もしないでいるのも一官吏として在るべき姿ではないと思いますし、なにより――」
「なにより?」
「私、後宮に会いたい人がいるんですよ」
「……っ!?」

 真実を混ぜた嘘は見破られにくい。よく知られた事実だが、官吏になってから今まで、そのことを再認識したことは一度や二度じゃすまない。

「聞けば、貴方の探し人も後宮の人間らしい……。ね、利害が一致していると思いませんか?」

 ――さあ、頷け。
 そう念じるが、藍楸瑛は表情を固めたままうんともすんとも言わない。おそらく疑問や何かが胸のうちをぐるぐる回っているのだろう。その状態は好都合だ、迷いが解けないうちに最後の一手を投じなければ。

「私の目的はもう一つあります。あなたから絳攸君の近況を聞かせて頂けると嬉しいのですが」
「……絳攸と、知り合いですか」
「あれ、聞いていませんか?ついこの前も家に遊びに行ったんですけど」
「いえ……何も」
「そうですか。やはり彼も忙しいんですね。かくいう私もこの1ヶ月、全く話せていませんし」

 李絳攸が藍楸瑛に私のことを話していたらもう少し私の信用性を高められたのだが、そこは仕方ない。
 だが、李絳攸の名前は予想以上に効果があったらしい。藍楸瑛と私の目が合う。

「留め置きが終わったら三人でお茶でもいかがでしょう」
「……信用してよろしいのですか」
の名にかけて。家名は絳攸君と会ったときにでも」
「分かりました」

 その言葉を聞いて、私は意識して微笑みながらゆっくりと頷く。任せておけと言わんばかりに。
 そして彼の背を押した。

「さ、仕事に行ってください。時間をとらせてしまいましたから、探し人の詳細はまた明日聞きます」

 一礼して去っていく藍楸瑛の後姿を眺める。
 後ろに控えていたはずなのに、いつの間にか隣に来ている陸清雅がポツリと言う。

「詐欺師」

 心外だ。策士と言ってほしい。



 何とか『藍楸瑛を後宮に誘導する』という第一段階への足場を作った私は、その足で件の後宮に向かった。陸清雅は御史台で委員会の残務整理をしてくれるらしい。侍僮らしからぬ有能さだ。

 広大な朝廷の奥に位置する女の園。建物、柱、床、調度、そして勤める人々――どれもが一級品で固められた、王に夢を見せるための箱庭であり、しばしば世継ぎ争いの中心となる惨劇の場でもある、それが後宮だ。
 すれ違う女官が次々とかしずく。とはいえ筆頭女官よりも官位の低い宝林の妃が一人いるのみで、実質的には妃がいないも同然という現在の後宮に人はそう多くないから、私は一人一人の女官に挨拶と笑みを返していく。女官は優雅に口元を隠したまま笑んで、どうぞこちらに、と一つの室の扉を開く。
 妃のために誂えられたはずの室、しかし誰も使うことのない室。細かな模様が施された花瓶に活けられた花は瑞々しい。梁の金細工も美しい。奥にちらりと見える寝台には色とりどりの掛け布、天蓋から垂れる薄絹が波打つ。頭が痛くなるほどの豪華さに一般人として辟易するが、正直心が躍る。奇麗なものは好きだ。
 十代前半くらいの若い女官が茶を運んでくる。甘い香りが室に満ちた。

「頑張ってくださいね、様」

 そう言って彼女はにっこりと笑う。こちらも「ありがとう」と言えば、「応援していますから」と返される。

 うん、誤解されるのも意外と良いかもしれない。これから狙って誤解されてみようかなと思うくらいには。
 というのも2年前、私が珠翠に会うために後宮を突撃訪問して霄太師に降格された一件が何故か伝説になっているらしく、『が後宮に来る目的は珠翠を取り戻すため』だと思われているようなのである。

 彼女ら女官の中で私と珠翠は、珠翠が後宮入りする前からの幼馴染で恋人同士なのだそうだ。貴族と商人という身分の差に苦しみながらも、男(私)が仮子になって官吏となることでそれを乗り越えようとした矢先、あわよくば珠翠を妃にせんとした彼女の親が勝手に後宮入りを決めてしまう。それに対し、私と珠翠は諦めず、彼女は妃の座を固辞し続け、私は官吏として名を上げようとする。いつか彼女を貰い受ける日を夢見て。
 けれど現実は残酷で、珠翠を妃にしようとした霄太師によって二人の想い(仮)は再び引き裂かれてしまう。
 男は冗官に落とされ、珠翠は次期後宮筆頭女官候補に。身分差はどうしようもないくらい開いてしまった。
 それでも二人は悲観しない。だって、信じているから。――何を?

「そう、互いへの想い……それこそが二人を繋ぐ真実の絆……って、なんだこれ……」

 初めてこの話を聞かされた時に叫びたくなった私の気持ちは、きっと間違っていない。
 前言撤回。誤解とは諸刃の剣だ。誰が好き好んでリスクを背負うものか。
 ただ、その誤解によって後宮に入りやすくなったことは事実だ。霄太師をある意味敵視する彼女らのおかげで、あの狸とも会わずにすんでいる。
 そして――


「もう恋人でもなんでもいいから……早く会いたいよ」


 偽りの物語に含まれた、私の気持ちの一欠けらは、紛れも無い真実だ。





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2010.11.3
2014.8.27 加筆修正
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