さて、この国の現在における上流階級の恋人同士のやり取りといったら何があるだろうか。
 女のもとへと足繁く通う――正解だ。
 高価な貢物をする――ある意味正解。
 そして、もっともポピュラーな方法が――そう、手紙のやり取りである。

 日本における平安時代の恋人達を思い浮かべてもらうと分かりやすい。といってもあの時代ほど女性に自由が無いわけではないので、あくまで手紙の形式だけを想像してほしい。
 ありとあらゆる言葉・情景・物語の知識を総動員し、和歌に己の想いを込めた、平安時代の貴族達。
 ここ彩雲国では「和歌」の部分が「漢詩のようなもの」に変わっただけだと考えればいい。そして引用されるものや例えに用いられる存在が、紅州の紅山や藍州の運河、彩八仙の皆々様だったりするだけだ。

 例えば恋人の美しさを称えるために、「紅仙が嫉妬するほどの」とか「蒼遙姫すら足元に及ばない」などという意味の言葉をやたら婉曲に綴る。文才・知識・発想力・空気の読み方が必要な作業である。

 他人が書いたものを見るのは楽しいが、自分がやるとなると面倒くさいことこの上ない。

 何が言いたいかというと、この日も私は珠翠に会うために後宮に向かい、あの室に通され、会うための口実を手紙に綴っていたのだが、疲労と面倒臭さとその他諸々の事情により、途中で投げ出してきたのである。
 退室の理由は女官達が勝手に誤解してくれるので(曰く、珠翠様の心の氷が解けるのを何も言わずに待っていらっしゃるのよ!とか)、誰から咎められることも無い。

 私はなんだか釈然としない気持ちを抱えたまま、いつものように後宮を辞した。



色彩独奏競争曲
思い出せない子守唄




 藍楸瑛を利用……いや、彼と手を組んでから早1週間。余裕があるのならという条件で後宮への手引きを始めてから4日目。留め置き中の新進士、特に期待の大きい上位及第者には異常なまでの仕事量が課せられるはずなのだが、藍楸瑛は毎日欠かすことなく後宮を訪れていた。
 私の知識にある、余裕と自信を存分に表した笑顔は無い。口元は笑っているものの、見逃さぬよう周囲に向けられる鋭い視線からはある種の必死さが見て取れる。顔色は冴えず、隠し切れない疲労が体のあちこちからにじみ出ている。それでも高い矜持で己を奮い立たせている様は女官達に非常にウケていた。

「顔が良いってうらやましいなー」

 響かない程度に呟く。鳳珠さんを筆頭に、どうして私の友人知人に彩雲国の名だたる美形が入っているのか。鳳珠さんとは商売上の不可抗力だとしても、黎深さんは向こうからやってきたのだ。藍楸瑛は……まあ、私から近づいたので自業自得だろう。
 こうまで見目麗しい人の近くにいると、どんどん自分の顔に自信が無くなっていく。いや、この体は「」のもので厳密に言えば本来の自分の顔ではないし、そもそもさほど見苦しい顔貌ではないと自負しているが。

「…………」

 考えれば考えるほど惨めな思考に落ちていくような気がしたので、溜息を吐いて思考を切る。
 例によって例のごとく、後宮のとある一室。女官が淹れた茶からは既に湯気が消えていて、飲むと微かに苦味が広がった。ふと正面の茶器を見ると、こちらも手付かずのまま冷め切っている。代わりに飲んでしまおうかと思ったが、行儀が悪いのでやめておく。そう待たなくてもすぐ帰ってくるだろう。
 果たしてその予想通り、間もなく藍楸瑛は憔悴した表情で室に入ってきた。また珠翠に振られたらしい。

 冷めているから淹れなおしてもらおうか、という私の提案に首を振って茶を一気にあおった藍楸瑛は、その苦味に眉をひそめた。

「今日も駄目でした?」
「……………………はい」
「こればっかりは私が手伝えるものではありませんからねえ……どうしたものか」
「……いえ…………」
「ん?」

 弱々しい否定の言葉に首を傾げた。藍楸瑛は茶器を両手に抱えたまま俯いている。

「ここまでして頂いたことには感謝しています。ですが……これ以上は、私自身で何とかします。彼女に……珠翠に、不甲斐ない男だと思わるのは嫌なので」
「そんなに惚れているのかい?」

 意外に素直な発言に内心驚きつつ訊ねる。いずれ李絳攸から「常春頭」と呼ばれるようになる青年の言葉とはとても思えなかった。そんな私の心情など知る由も無く、藍楸瑛は少し考えた後首を振った。

「これが恋情なのか、正直なところ良く分かりません。ただ、どうしても会いたい。会って、聞きたいことがある」
「……そう」

 私は彼に見られないよう、自然な動作で顔を背ける。多分、今の私はおかしな表情をしているだろうから。
 何故こうまで藍楸瑛と思考が被るのか分からないが、おそらく根底にある疑問は全く同じだ。珠翠って実は罪な女だよねえ、と頭の中でふざけながら気を紛らわそうとするが上手くいかなかった。
 少しイライラしだした心を静めるために一度溜息を吐く。そして深呼吸。――よし、落ち着いた。

「分かりました。――では、これが、私がして差し上げられる最後のお節介です」

 後宮への手引きについてはいつでも協力しますが、と付け加え、立ち上がり、藍楸瑛の前に立つ。

四阿(あずまや)にお行きなさい」
「……え?」
「ここから更に奥、承香殿(じょうこうでん)の裏にある四阿です。殆ど最奥と言っていいでしょう。迷うようだったら女官達に道をお聞きなさい。『水面に移る蓮華を愛でに』とでも言えば察してくれるはずです」

 ちなみにその臭い台詞は、以前私が一晩掛けて羞恥心と戦いながら生み出したものだ。案外受けが良かったのでほっと一息ついたのも、また良い思い出である。いずれ葬りたい過去になるだろうが。

「あの、それは一体どういう……」
「ただし、その先は保証しません。彼女が来るかもしれない、あるいは来ないかもしれない」
「…………!」
「それでも、ここに留まっているよりはまだ先に進める可能性のある場所です」

 視線を藍楸瑛の目から逸らさず、一息に言い切る。無駄に察しの良い国試榜眼は、それだけで納得した表情を見せた。

「――ありがとうございます」
「いいえ。最初にも言いましたが、私の方も目的あってのことですから。成功を祈ります」
「はい。……では」

 室を出る藍楸瑛の後姿を見つめながら、私は懐から一枚の紙を取り出した。
 日本語で書かれたそれは、後宮――いや、蒼明宮を含む宮城の地図だ。私の1ヵ月半の成果でもある。
 一般に「朝廷」と呼ばれている官庁街・皇城の北に位置しているのが宮城だ。宮城は、年に数回しか使われない王様のための最高のお立ち台「蒼明殿」がある、いわば政府の心臓である。
 宮城には、正面から見て左にいわゆる後宮と呼ばれる「掖庭宮(えきていきゅう)」、右に公子たちの住まう「東宮」、そして中央に王の寝所と蒼明殿・中書省・門下省・仙洞宮の入った「蒼明宮」がある。性質上どちらかというと機能性を重視させた皇城に比べて幾分華やかな印象を受ける場所である。

 また、蒼明宮内でも王の寝所である「紫宸殿」より奥は、慣例的に後宮と見なされる。これは何代か前の国王が、寵妃が離れていることに耐えられず「少しでも近くにいてほしい」と時の貴妃を蒼明宮へ移したことに由来する。それが何回か繰り返され、いつしか後宮入りした姫君のうち、正二品である嬪九員・正一品の夫人四員(貴妃は四員の一つ)・そして皇后は、本来の後宮である掖庭宮ではなく、蒼明宮の紫宸殿以北で暮らすことになった――らしい。はっきりと断定できないのは、後宮が秘密主義を貫いているからだ。

 後宮は男子禁制だが、隣接する蒼明宮はもちろん男ばかりだ。だって官吏はすべからく男子なのだから。あと護衛の兵士は別枠扱い。これは宦官が存在しないので仕方がない。笑ってしまうくらい名ばかりの「男子禁制」で、たまに羽林軍と女官のラブロマンスが噂になる程である。
 もちろん各所にある門には兵士が詰めており、簡単には中に入れないようになっているのだが、そこは私の唯一の特殊性、「メッセンジャー(ざつよう)」がものを言う。更に葵官吏に土下座して発行をもぎとった許可証が後押し。むしろ許可証があるからこそ入宮できているというか……葵官吏にこき使われる原因の一つだ。

 珠翠を理由に後宮を訪れ始めて1ヵ月半弱。ちまちま歩いて作った地図の右隅に承香殿がある。方角にして北東。掖庭宮ではなく蒼明宮にある。夜が早いこの城では比較的、月を見るのに都合の良い場所である。

「誰に会うことやら」

 薄く笑う。おそらく珠翠はそこに行かない。藍楸瑛が珠翠と会うことはない。
 けれど、もしも誰かと出会うとしたら、それは――。

「君を信じているよ、『藍楸瑛』」

 それは、きっと彼の天運だ。



 次の日、久しぶりに家に帰って寝ることができた私を待ち受けていたのは、腰に手を当て、青筋を浮かべて仁王立ちしている陸清雅だった。御史台の小部屋が狭い分、余計に威圧感が増している。
 やや遅めに出仕したことに怒っているのかと考えたが、すぐに否定する。私の出仕が遅いのはいつものことだ。これでも夜明けと共に起きているのだが、家が下町にあるので通勤に時間がかかるのだ。

「おはよう。ええと、俺、何やらかしたの?」
「分からないんですか」
「いや、心当たりが多すぎる」
「あなたって人は……いえ、ここで責めても無意味ですね。単刀直入に聞きます。
……な・ん・で! 第六公子に藍進士が目通りしたなんて噂が流れてるんですか!!」
「……噂まわるの早くない?」
「気になるのはそこですか!? 僕だって色々情報集めたりして……って、そんなことはともかく!」

 話してもらいますからね! と息巻く陸清雅を前に、とりあえず椅子に腰掛ける。

「話すって言ってもなあ。俺が前から後宮に通ってたのは知ってるよね」
「知りたくありませんでしたけどね。何が悲しくて色に狂った冗官の侍僮やってるのかと、虚しくなりました」
「ごめん。で、そのときついでに後宮の構造と第六公子の行動傾向を調べててさ」
「……まさか」
「うん、第六公子が来るだろうなって場所に藍進士を誘導してみた」

 一瞬呆けたような表情になった陸清雅は、次いで頭を抱えた。
 何だか少し気まずくなって、やや明後日の方向に視線をやる。

「ええと、『藍姓』官吏に手を出すくらいだから、敵の動機はよほど深い恨みか、あるいは藍家に中央に出てきてもらったら困るかのどちらかだってのは間違いない。で、何をしたら一番敵の怒りに触れるかと考えて」
「次期国王に引き合わせたわけですか。極端すぎるでしょう、それは」
「でも、そこまでしないと動かないと思ったんだよ」

 そもそも任務を公開したことで1ヶ月も動かなかったことが予想外だったのだ。尚書・侍郎と御史台はともかく、他の部署には簡単な回覧板を回しただけなのに。明らかに過剰反応である。
 留め置き期間というのはかなり特殊だ。どの部署にも属さず、ひとところに留まらず、一人で作業し、期待が大きければ夜遅くまでかけても終わらない仕事が与えられる。いじめやいびりが横行するのにもそれなりに理由がある。人目につかないからだ。
 つまり狙う側にしてみれば、格好の時期なのである。
 にもかかわらず2ヶ月しかない留め置き期間の半分に対する、御史裏行や茈静蘭にさえ「動きが無い」と言わしめるほどの放置振り。何か企んでいますと公言しているようなものだ。

 未来の国王に会わせた――傍から見れば藍楸瑛の将来を想像するに足る出来事だっただろう――今回のイベントに、それでも動かないのならそれはそれで良い。戦意喪失しているのかもしれない。
 だが、残りの時間が半分以下に減ってさえなお動くのならば、それはこの邂逅が相手にとってどうしても見過ごせない出来事だということだ。

「だから、相手は護衛対象が藍楸瑛だと知っている尚書・侍郎・御史台官吏、もしくはそれに匹敵する高官ってことになるね。位が高い人に箝口令敷いたところで無意味だし。並の官吏じゃ藍本家に抗うなんて本当の意味で一族巻き込んだ自殺行為だし」
「そこまで限定していいんですか?」
「まだまだ範囲狭めるよ。前3つは可能性としては正直低いんだよね。公表したとき委員会の構成には一切触れなかったから。高官になるほど衆目に雁字搦めだから誰に見られているとも分からない状況では動けないだろうし、失敗したときのリスクがものすごく高いっていう嫌な案件だから、これ。極め付けにプレゼン……じゃなくて、説明したのが葵官吏だし。回覧板も葵官吏の署名入り。古参の官吏と御史台であの人を敵に回す馬鹿はいないんじゃないの」
「つまり、侍郎以上の官吏と同じくらい高位の者を洗っていく、と」
「そういうこと」

 前回の委員会の時点で既に藍楸瑛の護衛体制の強化を茈静蘭に頼んでいる。また今日からは自腹を切っての特別手当で彼に夜間警護を依頼してもいる。こと腹の探り合いと腕っ節の両立において彼の右に出るものはいないだろう。

「じゃあ、それ裏行の皆さんにも伝えといてくれる?……ああ、敵が委員会の中にいる可能性も一応頭の隅に入れておいて。身内を疑う人間が4人もいるから、あまり心配はしていないけど」
「……4人?」
「君と、裏行代表と、護衛代表と、俺」

 私はともかく前三人がいるから大丈夫だろうと、妙な確信がある。陸清雅と茈静蘭は確か将来のレギュラーメンバーだから殊更安心できる。
 後半はさすがに口に出さなかったが、それでも陸清雅は変な顔になった。
 怒っているような、困っているような、悲しそうな、何ともいえない表情だ。

「信頼は身を滅ぼします」
「同感」
「……じゃあ、何で」

 そこまで信用するんですか、と無言で問いかける少年に対し、うまい答えを見つけることができず、私はごまかすように陸清雅の頭を撫でた。

「藍進士に会ってくるね」
「はい。…………気をつけて」

 混乱しているのだろう、初めて掛けられた気遣いの言葉に驚いて、私は陸清雅を凝視した。
 彼は頬を赤らめることも、照れることもなく、ただ私の視線から逃れるように、足早に室を出て行った。



「こんにちは。予想以上に大変な人と会ってしまったみたいですね、申し訳ない」

 壮大な白々しさを感じながら、今日も厩の手伝いをしている藍楸瑛に声を掛ける。
 振り向いた彼は、予想以上に暗かった。効果をつけるとしたら背中に暗闇だろうか。俯きがちで、心なしか顔色が悪く、髪の毛がいつもより乱れている――髪は家人が結うだろうから気のせいだと思うが。

「……殿」
「はい、なんでしょうか」
「お聞きしたいことがあります。差し支えなければ、この後お時間を頂きたいのですが」
「構いませんよ。では向こうの(きざはし)で待っていますから、お仕事が終わったら声を掛けてください」
「ありがとうございます」

 おそらく紫劉輝のことだろうなと予想しつつ、監視も兼ねて階に座る。護衛しているはずの兵士達の姿は見えない。気配を読むことが出来ればまた違うのだろうが、藍楸瑛に気付いた様子が無いのでよほど上手く隠れているのだろうと考える。彼が既に気付いていて放置している可能性がないわけではないが、その場合彼に危機感を持ってもらえるので不測の事態に対処しやすくなる。全く問題ない。

 ヒュオウ、ヒュオウと鳥が鳴いている。どこにいるかよく分からないが、鳥とはそんなものだろう。
 この仕事も同じだ。敵がいるという「事実」は分かっているのに、所在がわからない。だから私達は鳴き声を頼りに探すしかない。そして相手の残り香を見つけ、足跡を辿り、巣穴を包囲し、捕らえる。
 「正々堂々」は手段の一つ。裏道こそが正道。全く持って裏方街道を驀進(ばくしん)する職業である。

「お待たせしました」

 思考の波に揺られていた頭が、その一言で覚醒する。
 自分で思うよりも長い間考え込んでいたのだろうか。時計が無いので良く分からない。
 見上げた先の藍楸瑛は、急いで仕事を片付けたのか、若干息が上がっていた。

「……ああ、すみません。少し呆けてしまって」
「構いません。それより、あの……」
「はい」
「…………」

 一旦口を開きかけた彼は、逡巡するように視線を彷徨わせる。
 その間に私は階から立ち上がり、少し身長差のある藍楸瑛の顔を見上げた。大方、昨日出会った第六公子・紫劉輝について聞きたいが、仮にも次期国王に関する事を私のような下級官吏がはたして知っているのかどうか分からない、といったところか。反面、忍んで行った先での出来事だから、私以外に聞けないのだろう。
 藍楸瑛は意を決したらしい。

「あれが――いや、あの方が、国王なんですか」

 しかし、見た目以上に頭の中が整理しきれていなかったのか、言葉が足りなかった。

「……噂を聞く限り、貴方が会ったのは第六公子であらせられる劉輝様のはずですが」
「はい。……ああ、いや、そうじゃなくて、私が聞きたいのは」
「『あんな人間が本当に劉輝様で、未来の彩雲国国王なのか』ですか」
「…………はい」

 まあ、気持ちは分からなくもない。
 私自身、紫劉輝とは数年前に一度会ったことがあるものの本当に偶然の出来事でしかなかったから、彼の人となりは伝聞でしか知らない。けれどもその噂が結構酷いということは分かる。

『母親の身分が低い』
『何も突出した能力が無い』
『やる気が無い』
『女色家かつ男色家』
『日がな一日何もせず、宮城のどこかをフラフラしている』

 以下略。最近では、母親の血筋が申し分なく、人格者と評判だった(・・・)第一公子を懐かしむ声も聞こえてきている。ただ、国王が指名し、霄太師の支援を受けての立太子だったため、表立って反対する人間が存在しないのが現状だ。第一公子も先の王位争いで気が触れてしまったらしく、現在は亡き母親の実家で静かに療養しているらしい。
 他人に決められた将来。そこに本人の意思や能力はない。どんな官が拒んでも、国王と太師が意見を変えない限り玉座は第六公子のものだ。

 はっきり言おう。
 未来の彩雲国国王、紫劉輝の評判は、とても悪い。

「例えば貴方が後宮で出会った人物が紫の着物を着崩していたりしたのなら、間違いなく劉輝様でしょうね」
「答えになっていません」
「じゃあ答えましょう。――貴方の言う『あれ』が、この国の未来ですよ」
「そんなっ……私は……私はあんな、国政に関心のない人に仕えるためにここに来たのではありません!
それなら第二公子を流罪地から呼び戻した方がよほど……!」

 悔しそうに、藍楸瑛は拳を握り締める。彼と紫劉輝の間で何があったのか知らないが、かなりの失望ぶりだ。紫劉輝が彼の癇に障ることでもしたのか、あるいは藍楸瑛の中の「想像上の第六公子」が、現実にそぐわないくらい高評価だったのか。
 「太子としての自覚がない」「呆れるほど無用心」「人を馬鹿にしている」と、どこかで止めないかぎり無限に出てくるんじゃないかと思えるほど、藍楸瑛の罵倒には淀みがない。
 何でも良いが、ここで藍楸瑛に紫劉輝を見限ってもらっては困る。彼には将来、国王となる紫劉輝の側仕えになってもらわなければならないのだから。それに何だか――今の藍楸瑛を見ていると、過去の自分を見ているようで非常に心がざわめく。父上に会ったばかりのころの私が、本質を見る努力すらせず、ただ表面だけを見て他人の人格を決め付けていた私の姿が、鏡のように目の前に在る。

 気が付けば、右手がじんじんと痛んだ。藍楸瑛の頬が赤い。
 あ、人生終わったかもしれない。『藍』の名は、王家に次いで絶大な力を誇る。彼は、その直系だ。
 いろいろな意味で泣きそうになりながら、衝動が私の口を動かす。

「――なぜ理解しようとしないのです」

 どうして、父上のことを――そして、母上のことを、知ろうとしなかったのか。

「両親、兄弟――生まれたときから君の周りにあったもので、君が努力して勝ち取ったものがどれだけある」

 『檻』の中で、不自然なくらい教養高く、優しかった母上。
 息子として扱わないと公言したにも関わらず、死の間際に家督を私に譲った父上。
 矛盾だらけの『両親』の、何が真実で、偽りで――本当の気持ちだったのか。

 全てを失くした今、私は、彼らのことを何も知らないことに気付く。

「あれが――劉輝様が、俺達の罪だ。人として与えられるべきものを奪っていった、王宮の罪だ」

 『』の周りには確かにあって、藍楸瑛の周りにももちろんあって、紫劉輝になかったもの。
 用無しと見放され、慕っていたという第二公子を失くし、家族に命を狙われ続けた幼い頃の末の公子。

「臣下は、俺達は、一体何のためにここにいるんだ。国を支えるため――国民を守っていくためだろう!
王族一人守らずに、どの口が国民を守ると言える!!」

 ――一体、どれだけの人間が幼い彼を守る立場に立っただろう。

 初めて彼を見かけたときの、実の兄弟に閉じ込められ、周囲の官吏と、世話係の女官にすら無関心を貫かれた光景がフラッシュバックする。確かあの時も、私は柄にもなく衝動的に動いたのだった。
 「そういう場所だ」と分かってはいたが、実際目にすると、どうしようもなく悲しくてたまらなかった。
 己を重ねたのかと問われれば否定しない。私は確かに、檻にいたころの無力な時分を紫劉輝の中に見た。
 不安定な足場の上で必死に存在意義を探していた。いつ切り捨てられてもおかしくない状況に脅えながら。
 その結果が今の紫劉輝ならば――

「支えろ」
「…………え?」
「君が、支えるんだ。国王を――この国を」

 ――誰かが清算しなければならない。この国で、生きていくのならば。

「…………あなたは?」
「もちろん」

 ただし、「国」は支えない。なぜなら、私はこの国に愛着を持っていないから。
 私の祖国は死ぬまで日本だ。私は日本で生まれ、日本に生き、何故かこの国に来た「」という人間であり、それ以外には成り得ない。
 だから、官吏である私が仕えるのは、この国ではなく国王だ。それ以上でも、以下でもない。
 数年前の誓いは未だ有効である。私がこの国で生き続けることが、この世界への復讐になれば良い。

 呆然としている藍楸瑛を軽く突き放し、私は踵を返した。
 多分今の私は彼以上に混乱している。感情に呑みこまれている。

「叩いて、ごめん」

 きっと既に、藍家の「影」によって直系に手を上げた私の情報は報告されているだろうが。
 平手打ちをした事実に変わりはないので、謝罪する。
 小さく「いいえ」と、彼が呟いたような気がした。



 しばらく人気のないところをふらつくことで頭を冷やした私は、どうしようもない罪悪感に襲われていた。
 偉そうなことを言ってしまった自覚はあるし、そんなことを言える立場にもなかったことも分かっている。「そんなこと言っちゃだめだよ」と一言注意するだけでよかったのに、何て事をしてしまったのか。
 明日ちゃんと生きているだろうかと、ごく間近な将来を想像して表情が引きつるのを感じていると、後ろから声を掛けられ、一瞬にして私の頭が冷めていく。

「藍楸瑛の警護を担当している、官吏とお見受けします――」

 ――意外と反応が早いな。
 そして、ピンポイントで声を掛けてきたということは、この声の主は限りなく黒に近いのだろう。

 私は任務を公開したが、その中で、「が関わっている」ことには一切触れないようにしてきた。朝議でプレゼンしたのは葵官吏、回覧板の名義も葵官吏、護衛の代表は茈静蘭、情報収集していたのは御史裏行、連絡の取り纏めを行っていたのは陸清雅、というように。
 私は、私と言う存在が認知されないよう、最新の注意を払ってきたつもりである。メッセンジャーや御史台の仕事(という名の葵官吏に押し付けられる雑用)は、いい隠れ蓑だった。
 その状態で私に気付く者がいたら、それは、よほど必死になって警護の内容を調べたか、藍楸瑛の周囲にずっと張っていたか、だ。
 どちらにしても疑うに十分足る。

 だから、敵を炙り出すために起こした今回の行動で、私に接触してくるものがいたら、まずその人物を疑おうと決めていた。そしてそれは、間違っていないと思う。

 けれど振り向いた先にいた人物は、そんな私の考えを木っ端微塵に打ち砕いた。

「どうか、藍楸瑛から手を引いてください」

 驚きに目を見開いた私の前に、白い官服が揺れている。

「お願いします――先輩」

 李絳攸、と呟いた私の言葉に、彼は悲しそうに、はい、と返した。





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【捏造について】
 彩雲国は唐代がモデルということで、城も唐代長安のものをモデルにしましたが、まるっきり似せてしまうと原作の内容と噛み合わなくなったので捏造しています。
 唐代の長安は、官庁街のある「皇城」と、その北に掖庭宮(後宮)・大極宮・東宮のある「宮城」があります。しかし、後に宮城のほうは諸々の事情から使われなくなり、新たに「大明宮」が長安の北東に作られ、それにともない、もともと大極宮にあった中書省・門下省もそちらに移りました。
 彩雲国物語における「蒼明宮」は、この「大明宮」をもとにしていると思われますが、そうすると、府庫や吏部のある場所と蒼明宮(王の寝所もある)はかなりの距離があるということになり、色々な場面で矛盾が生じます。(例:戸部で侍僮をしていた秀麗(皇城にいる)が、なぜ頻繁に紫劉輝とニアミスしていたのか。凌晏樹はわざわざ時間を掛けて歩いて(あるいは軒に乗って)まで皇城の秀麗に会いに来ていたのか 等)
 よって、このテキストでは、大明宮の存在をまるっと無視することにしました。そして、「大極宮=蒼明宮」であると解釈しました。意外に、そうすると蒼明殿もつじつまが合いました。(大極宮に「大極殿」はありますが、大明宮に「大明殿」はありません)

 また、後宮についても捏造しています。本文に出てきた「承香殿」は、掖庭宮ではなく大極宮にあり、本来、後宮の建物ではありません。しかし、掖庭宮内の構造がまるっきり分からなかったので、大極宮の後半(文中では「紫宸殿以北」と書きましたが、これも捏造です。大極宮に紫宸殿はありません。大明宮にあります)も後宮ということにしました。これは、日本の平城宮・平安宮が長安をモデルにしたことから発想を得ています。(日本の後宮は紫宸殿の北側にありました)

 普段から捏造・解釈して書いているので今更という感じではありますが、流石に今回の捏造は度が過ぎていると考え、注釈を入れさせていただきました。この話以降のテキストも、捏造を元に描写していきますので、唐代長安に正確ではないということをご了承いただいたうえで、お読みいただけると幸いです。

2010.12.3
2014.8.27 加筆修正
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