色彩独奏競争曲 「――お待ちください」 涼やか。麗らか。そんな賛辞が似合う声で制止したのは、今の今まで沈黙を保っていた筆頭女官・芙蓉だった。両手を縛られ立ち上がることもままならない状態だというのに、炎に照らされた 「おそれながら主上、劉輝殿下に次期国王はつとまりません」 「……ほう?」 「女の身ゆえ ――ご事情がご事情ですから掖庭宮に心の安らぎをお求めになるのは致し方ないことかもしれません。ですが、もともとここは主上の庭。いくら太子と言えど弁えなければならない部分がございます。また、太子としての御責務をというわたくしたちの声を無下になさり、お嫌なこと、苦手なことにも向き合わねばという側近の諫言にも姿を隠して耳をお貸しにならない。わたくしは筆頭女官として――いいえ、かつて朝廷で皆の期待を一身に集めておられた麗しい第二公子、清苑様を知る者として、今の殿下の姿に不安を覚えずにはいられないのです」 どっかで聞いたことあるなあ、と思ったら、噂されている第六公子の悪評とだいたい同じだった。実父である国王の御前だからか言い回しはややソフトだが、込められた意味は大分辛辣だ。 「清苑様は確かに流罪をお受けになられましたが、それとて御祖父様の罪で連座になったもの。清苑様ご自身にはわずかな非すらありません。寧ろ御母君の血筋がこの国に尽くしてきた功績を考えれば、当時の刑部による判断は行き過ぎたものだったのではと、そう考える方々も多うございます。そもそも次代の誰が一番に国を富ませ、より強くし、良き方向に導いてくださるかは一目瞭然ではありませんか」 芙蓉は言い聞かせるように、はっきりとした声で断言した。 「わたくしは一人の国民として、清苑公子の復権と立太子を望みます」 もしかしたら彼女はずっと、それこそ紫清苑が流罪になった時から、これを国王に伝えたかったのかもしれない。紫清苑とその母とどの程度親しくしていた侍女だったのかは知らないが、並々ならぬ決意を込めた瞳と今回の騒動からは、彼女が紫清苑のことをとても大事に思っていたのだろうことが容易に見て取れた。 そしてきっと、彼女に賛同した官吏の多くもそう思っているのだろう。 血筋がどうとか、そういう部分は私にはあまりピンとこないが、日本で名誉が命よりも重いとされた時代があったように、この国において家系が非常に尊ばれているのだということは理解している。それがここの常識なのだということも。 ――彼女が言葉を発した後、否定する声が挙がらない。 心なしかわずかに明るみを帯びた室内に焦燥を覚えながら、私は傍らの紫劉輝を見上げて――目を見開いた。 紫劉輝は、暗闇でもそれと分かるほどはっきりと、表情を強張らせていた。 ――無理もない。たかだか13の少年が、よってたかって大人から否定され、切り捨てられ、あまつさえ命の危機に晒されたのだ。 慰める言葉が必要だろうか、それとも立場をかばうほうが先だろうか。 頭は最善の一手を探している。けれど私の体は――驚くことに、勝手に動き出した。 「……っ」 誰かが息を呑んだ。 膝立ちになった私の右手は紫劉輝の頬にのばされ、その親指が目頭から下瞼をなぞり、目尻で止まった。半ば無意識に口を開く。 「……泣いてないんですね」 「…………」 紫劉輝は表情をくしゃりと歪めて、震える声で答えた。 「…………うん」 彼は自身の左手を添えて私の手を頬から離すと、目を閉じて祈るように両手で包み込んだ。 「――――」 小さく呟かれた声に私が返すより早く顔を上げた紫劉輝は、決然とした表情で国王を見た。 「主上、私からも申し上げたいことがあります」 国王は特に表情を変えることなく「聞いてやる」とだけ言った。 「もしも――清苑兄上が太子位を望まれるのであれば、喜んでこの座をお渡しします」 「……っ、劉輝! 止め――」 茈静蘭――いや、紫清苑が焦ったように制止の言葉を口にしかける。しかし、いつの間にか傍に来ていたらしい太子左庶子・陸清真が微笑みながら手で口をふさいだ。 「ですが、そうでない限り、誰にも渡す気はありません」 「――それはあまりに厚顔ではありませんか! 清苑様とご自身を比べ、国を治めるに足る能力の差をご自覚くださいと申し上げているのです!」 「自分の未熟さ、至らなさは自覚しています。精進していますが、それでも足りない部分は何とか補う方法を見つけます」 「詭弁を――!」 「それでも、私は国王になりたいのです」 「……何故だ? 言っちゃなんだが、俺は玉座の良いところなんか一つも知らねえぞ」 怪訝そうな表情を浮かべた国王が訊ねる。紫劉輝は何故か一瞬だけ私を見た。 「……一度だけ、城下に降りたことがあります」 「初耳だな」 「抜け出しました。……どうしても見てみたかったので」 「ふうん」 大勢の前で意見を言う機会が少なかったのだろう、どこかたどたどしく、しかしはっきりと、紫劉輝は話し始めた。 「大飢饉が収束して間もない頃……私に剣を教えてくださっている 「…………」 それって。 「師は断りました。その時点ですでに、出来ることがほとんどありませんでしたから。それでもその官吏は何度も訪れて、その度色々な打開策を用意してきました。師の他にも誰かに相談しているようでしたし、その『友人』のためにもう一人、動いている官吏もいるようでした。話を聞いているとどうもその『友人』はすすんで法を犯すようにも、政治をないがしろにするようにも思えなかったので……そんな人をそこまで追い込んだものは何だろうと思い、実際に見てみたいと考えるようになりました」 「で、見に行ったわけか。無謀にも。馬鹿だな」 「はい。でも、無駄ではありませんでした」 「どうだか」 「少なくとも私はそう思いました。主上――父上、陸、芙蓉。私は、食事を摂っていました」 「……は?」 唐突な話題に芙蓉は率直に侮蔑の色を浮かべ、陸官吏は少しだけ笑みを深くした。 「幼い頃は食べたり食べなかったりでしたが。ここ数年はちゃんと食べています。私は――人が、あんなに細くなるものだと知らなかった」 「何を言って……」 「動けなくなり、生きたまま虫に喰われることがあるのだと知らなかった。排泄物すら食料にすることも。空腹に耐えかねて土や自分の衣服を口に詰め込み、そのまま息絶えた人が大勢いました。石を投げられもしました。――多分、私を食べるためでした」 「お前、よく生きてたな」 「動ける民が少なかったのです。『身ぐるみはがされる』というものをされるかと思いましたが、食べ物以外への興味はないようでした。……あとは、助けて、と」 「ん?」 「民は『助けて』と言っていました。子の亡骸を抱いた女性は『何故何もしてくれなかったのか』とも。 ……あの頃、 「それで? 『かわいそうな民を僕が救ってあげないと!』とでも思ったか」 「……? 救う必要は無いと思います。この間城下に行ったら、なんだか結構元気になっていたので。皆、倒れても立ち上がる力を持っています。……ただ、進んで苦しい思いをしたい人はいないでしょうし、させたくもないので、事前に防いだり、対策を立てておいたり……皆が少しでも楽に生きられるようにしたり、困った時には手が差し伸べられるようにしたいとは思っています。誰にも見向きもしてもらえないのは結構……困るんです。あと、 「……そうか」 国王は、心なしか、少し笑ったようだった。 それに気付いたかどうかは分からない。紫劉輝はそのまま、沈黙する芙蓉に向き直った。 「……芙蓉」 「…………」 「民は、王が『誰』であるかということに興味を持たない。治め方だけで評価する」 「……っ!」 「己が最上の王になれるとは思っていないし、清苑兄上の素晴らしさはよく知っている。だから兄上が王になることに異論はない。けれどお前たちが望む王の資質に母の血筋や容貌があり、謳い文句に一切民のことが出てこない限り――私は、 「民のことは前提条件ですわ! 当たり前のことだから口上にしなかったまで!」 「ならば貴女と賛同者は、多少なりとも民に倉を開いたのだろうか」 「それは……っ」 「――芙蓉」 どこか幼子を諌めるような、それでいて凛とした声が彼女を制した。 紫清苑は一度国王を振り返り、深く頭を垂れてから、再び芙蓉に向けて言葉を紡いだ。 「私は『茈静蘭』だ。それ以上でも以下でもない。玉座は望めないし、望まない」 「いいえ! 相応しいのは貴方ですわ、清苑様! お小さい頃から誰よりも秀でていらっしゃったではありませんか! 復権がかなえば必ず……!」 「――たとえ公子に戻ったとしても、私は劉輝を王に推す」 「どうして……っ」 「芙蓉、私は――万人の幸福を望めない」 「…………え……」 「尊敬する方と大切な人、大事な家族。ほんの数人が幸福であれば、その他はどうなっても構わない」 「ですが――」 「私はそんな人間よりも、 紫清苑は――茈静蘭は、静かに紫劉輝の隣まで歩み寄り、一度その頭を撫でてから彼の前に跪いた。 「兄上……」 「いいえ」 「…………茈、静蘭」 「はい」 紫劉輝は何度かかける言葉を探したようだったが、結局なにも言わずに眼下の姿をただ眺めていた。 やがて芙蓉のすすり泣く声が聞こえた気がした――が、それは、あまりにも空気を読まない笑い声にかき消された。 物凄い威圧感を発しながら笑うという嬉しくない技能を見せつけた後、この場にいる全員に宣言するように国王は声を張った。 「――なるほど。お前らの考えはよく分かった。その上でそこのガキの奏上に応えよう」 ガキとはまさか私のことだろうか。――確かにまだ肉体的には10代だが、なんとなく釈然としない。 そんな私をよそに、国王は続けた。 「是である。余は茈静蘭を清苑と認めよう。ただし犯した罪は流罪を以て贖っているため、廃嫡は流刑地より貴陽へ戻るための条件とする。また、廃嫡と同時に紫清苑は皇籍から除外されるものとし、以降はいかなる理由であろうとも茈の籍より逸脱すること叶わぬ。太子左庶子陸清真、御史中丞葵皇毅、秘書著作郎正修士の三名を証人と――やべ、官位足りねえな。おい、いい加減出てこいクソジジイ」 一転して不機嫌になり背後の裏扉に向かって罵声を浴びせた国王の声に応じるように扉が開く。 現れたのは白ひげを蓄えた老人――忘れもしない。私を冗官に落とした張本人、霄太師だった。 「はて、どうしてバレてしまったのかのう? 何も告げてはおらなんじゃったはずじゃが」 「こういう場面でお前が出歯亀しないわけがない」 「……なぜじゃろう。信頼されているはずなのにちっとも喜べない」 「褒めてねえしな」 国王は、釈然としない表情でひげをさする霄太師を一瞥することなく裁可を続けた。 「たしかジジイは仙洞省の名誉官位も持っていたはずだな? 太師位とそれを加えた四名五官位を証明とし、紫清苑の認知および廃嫡を行うものとする。はい終わり」 ふぉふぉ、と老人特有の笑い声が響いた。 「柄にもなく急いだのう。まあこれで、外で健気に残りの傀儡を妨害している狼たちも休まるじゃろうて」 「おや、“風の狼”まで動いていたのですか」 「動かす気はなかったんじゃがのう。まったく、そろいもそろって過保護ばかりじゃ」 意外そうに目を丸くする陸官吏の問いに、やれやれと溜息を吐きながら霄太師は答えた。 私は改めて周りを見る。表扉の僅かな隙間から青白い光が細く伸びていた。ここへ来るのに随分と手間取ったこともあってか、夜明けが近いらしい。 葵皇毅と正官吏は国王の声掛けを受けて跪拝をくずし、陸官吏は相変わらず微笑んでいる。芙蓉は驚いたように茈静蘭を見ていたが、当の本人は涼しげな表情で跪いている。 そして紫劉輝は―― 「父上」 「あ?」 「大切なお話は全て終わったようなので、私は東宮に戻ろうと思います。あちらでも何か騒動があったようですし、警護のものに心配をかけているかもしれません」 「今更だろうがな。好きにするといい」 「ありがとうございます。それでは失礼します」 短い会話を交わし、するりと私の横を抜けて扉の外へと出て行った。ちらりと見えた空は、黎明までもう少し時間がかかりそうで―― ちがう、そうじゃない。 だめだ。その言葉が頭をぐるぐる回る。根拠が分からないのに確信を持っている、この感覚は『』の思考回路が強く働いている時特有のものだが、今回ばかりは流石に私にだってわかった。 先ほどの、喉に小骨が刺さったような表情で茈静蘭を見下ろす彼の姿が脳裏から離れない。 引き留めなければならない。けれど彼はもう出て行ってしまった。じゃあどうすればいい? 落ち着くために一度息を吸い、顔を上げる。国王は私を見ていない。またあの鋭い眼で見降ろされるのかと思うだけで心臓が破裂しそうになる。だけど。 後悔など、やりたいことをやった後いくらでもすればいい。 ――何もしないまま迎える結果ほど忌々しいものはないのだから。 「主上。発言をお許しください」 「なんだ?」 許可が得られた瞬間に叩頭した。勢いをつけすぎたせいで強く打ちつけた額が鈍く痛む。 「この2か月間、なべて十分な成果を挙げられたとは思っておりません。多少の不手際もありました。けれども結果だけを見るならば、太子、藍進士、そして茈静蘭殿の御身に異常はございません。 つきましては――褒賞を、いただきたく」 「……は?」 国王は目を丸くし、次いで呆れたように溜息を吐いた。 「お前……意外とがっつくんだな」 「恥を忍んで申し上げております。金銭も玉もいりません。ただ一つだけ、お聞き届け頂きたいのです」 「ほう? 言ってみるがいい。叶えられるもんだったら叶えてやるよ」 その言葉に、私は両手を握りしめた。 「時間をください」 「……時間?」 「一日……いいえ、半日、それがだめなら三刻ほどで構いません。――清苑公子の皇籍除外を待ってください」 「……委員長?」 どこかぼんやりとした口調の茈静蘭が私を呼ぶ。 しかし私はただひたすら国王の目を見つめ続けた。 ややあって、聞き覚えのある静かな声が上がった。 「それは許されない」 葵皇毅だった。 私が願いを口にしてから異様にひっそりとしていた空間の中において、彼の言葉はひときわ響く。 「第二公子の廃嫡は謀叛鎮圧の必須条件だ。暗殺傀儡が動いている以上、一刻たりとも猶予はない」 「では二刻」 「値切るな。お前は人の話を聞いているのか」 「聞いておりますし、無茶を言っていることも理解しています」 「ならば」 「――それでも!」 張り上げた声に葵皇毅の言が止まる。 「時間が必要なのです。廃嫡が鎮圧の必須条件ならば、私の求める時間は――」 ――『 「『国の存続』とは随分大きく出たものだな」 「……ご無礼をお許しください。ことが終われば官位を返上し、一国民として尽くすつもりにございます」 興味の色を帯びた国王の言葉に、思ったより印象は悪くならなかったらしいと判断する。説得力を追加するために仮初めの忠誠を誓ってみたが、この様子だといらなかったかもしれない。 「国にも官位にも執着していない癖をして」 ぼそっと呟いた葵皇毅には今だけでいいので口チャックをお願いしたい。 「…………あっはっは! 何だか混沌としていますが面白い人ですねえ、貴方! うちの清雅が懐くわけです!」 「……え?」 「主上、私は反対しませんよ。必要ならば随行しても構いません」 「……!」 いきなり笑い出した陸官吏に面喰らったが、その提案は非常に魅力的なものだった。時間内にトラブルが生じた場合に太子左庶子――実質的な侍従長たる彼がその場で紫劉輝の太子位を保証し、茈静蘭こと紫清苑の廃嫡を証明する意義は非常に大きい。 「霄太師はいかがでしょう? 主上の言葉をお借りするなら、『貴方が賛成しないわけがない』願いだと思うのですが」 「ふぉふぉ、ほんにお主は賢しくて困るのう」 「ふふふ、ありがとうございます」 「褒めてない」 「ですよね」 笑顔もペースも崩さず応じる陸官吏の姿に、霄太師は溜息を吐いた。 そうして主上に向き直り――跪拝する。 「太師としての立場から申し上げるならば、官吏の求める褒賞は叶えるに足るもの――いえ、『叶えなければ後々面倒なことになる』ものでしょうな」 「そこはてめえで何とかしろや、と思ったんだが」 「まあ、健気な下官が請うた最低限の支援程度に考えておいてよいやもしれませぬ」 刺々しい太師の言葉に眉間がひび割れそうになる。が、概ね事実なので何も言えない。 国王はガシガシと頭を掻いて、手慰みなのか剣で肩を叩いてから応えた。 「じゃあ、是。この宮から出た時点から半刻に限り、紫清苑が第二公子として振る舞うことを許す。ただし行動する際は常に太子左庶子を伴うこと。また害意ある存在および暗殺傀儡、その他あらゆる有害事象の出現に遭遇した場合、その瞬間に王家から除外される。おまけに“風の狼”もつけてやろうか」 「……っ! ご厚情、有り難く受け賜ります!」 もう一度叩頭し、それから私は茈静蘭――紫清苑に駆け寄った。 「と、いうわけです。行ってください」 「…………。……え」 「『え』って。どうみても話題の中心は貴方だったでしょう」 「え、あ、はあ」 珍しく目を丸くして本心から困惑しているらしい紫清苑は、私の呼びかけにぞんざいに返す。 それでもしつこく繰り返すと、ややあって少し不機嫌そうに返事をした。 「行けと言われたところで……今更、どこに行くというんです」 「……? 質問の意味が分りかねます」 「だから、私はもう公子を降りたんですよ! 半刻の猶予って、貴方なにがしたいんですか……」 彼の返答に、今度は私が首を傾げた。しかしやがて原因に思い至る。 そう言えば彼は『知らない』のだった。 「清苑公子。それでも私は、行くべきだと思います」 「……どこに、ですか」 「弟君のところに」 紫清苑は少し目を丸くした。間が空いたのを良いことに私は言葉を続ける。 「私、少し前に偶然太子と会ったのですが」 「は? 運で会えるような立場じゃないでしょう」 「そうなんですが。会いましたよ、ここで……後宮で。――それで」 ――暗殺傀儡について教えてくださったのも、太子なんですよ。 そう告げると、紫清苑は顔色を変えて「まさか」と言った。 太子・紫劉輝について官吏が向ける関心は、その地位とは裏腹にさほど高くない。病床にあるとはいえ未だ辣腕を振るう国王の類まれなカリスマ性が大きく影響しているというのが一番の理由だが、それとは別に、たいていの場合において太子が所在不明となっているからでもあった。 といっても本当に行方知れずになっているわけではなく、掖庭宮のどこかの宮が太子専用になっているだとか宮城奥の しかし、さすがに側近である東宮左右春坊は太子の行動を把握しているらしい。行き過ぎた行動をとらない限りは物陰から見守るのみであるともっぱらの そんな、「フラフラしているようでいて実際は傍付きに行動を読まれている」状態の紫劉輝に暗殺計画が持ち上がっていて、かつ侍従長の陸太子左庶子がこの場にいる、つまり左右春坊――もしかしたら東宮内坊も――が王太子暗殺計画の情報を掴んでいたということは、間違いなく『ある行動』が真っ先に行われたはずである。 藍楸瑛が言っていた「ここ2か月ほど太子は東宮にいるようであり、東宮内の護衛数も増えている」という情報が嘘でないのなら。 2か月前――つまり藍楸瑛護衛委員会が発足したのと同時に、太子は『保護』されたのだ。 隔離先が普段から太子の居住宮として定められた東宮なのは、おそらく彼の母親たる第六妾妃がすでに亡く、第一公子のように宿下がりできる家がないからだろう。あとは、女官の多い後宮で護衛するより太子一人しかいない東宮の方が護りやすいという理由からか。 「つまり?」 傍らで話を聞いていた陸官吏が、心底面白そうな笑みを浮かべて続きを促す。私は、何も答えず拳を握りしめている紫清苑に向かって推測を話し続けた。 『暗殺傀儡が動く』と言われていたのは今日だが、この状況を考えるとどうもあれは暗殺傀儡が動く日というより『謀反が予定されている日』であったように思う。謀反の目的が第二公子の復権で、その障害となる紫劉輝を排除したいと思っているのなら、暗殺と謀反の決行日を同じにするのはあまりに不自然だ。謀反当日に『何者かに太子が弑された』とあっては疑惑の目は避けられまい。加わった官吏たちは悉く弑逆者のレッテルを貼られて処刑コースへ一直線。二度と陽を見ることは叶わないだろう。 であれば、暗殺傀儡への依頼がなされてから今日この日まで、紫劉輝は常に暗殺者の凶手に晒され続けていたと考えるのが自然だ。 そして――私が紫劉輝に会ったのは10日前。 先ほど聞いた「最初から分かっていた」「だからここにいた」という言葉。あれに偽りがないのなら。 「太子は“暗殺傀儡”が動いていると知っていて……それが自分の命を奪うものだと理解したうえで、安全域である東宮を離れていたことになります」 「――馬鹿な!!」 着物の 「劉輝は、あの子はそんなことをするような人間ではない!! 自分の死を望むなど……!」 「ですが実際そのように動いておられた。なによりこの日、 「それは――だが、そんなことをする理由が――」 「本当にそうでしょうか」 「――っ!?」 驚いたせいか緩んだ手から体の自由を取り戻すと、乱れてしまった袷を申し訳程度に直す。 「……太子は掖庭宮に頻繁に出入りしていたそうです。それこそどこかの宮が『専用』と称される程度には。神出鬼没と言われる王太子……これは私の想像でしかありませんが、謀反についても――すでに知っておられたのではないかと思われます」 「まさか」 「でなければこの場での出来事に対しあれほど表情を変えないのは聊か不自然かと。あの方はまだ御年13でいらっしゃいます。それもはじめから太子としての教育を受けていたわけではない。熟練した感情制御の賜物でないとするならば――」 「――『初めから知っている情報だった』という可能性が出てくるわけですね」 ぽつりと漏らしたのは黙ってやりとりを書きつけていた正官吏だった。陸官吏は先ほどまでの飄々とした表情を消して、眉根を寄せている。 紫清苑も俯いて両の手を堅く握りしめる。 私は目を閉じた。もともと薄暗い広間だ、閉眼すればなおのこと真っ暗になった。 ――『物語のはじめ』が記憶の底から泡のように浮かび上がる。 今よりも成長した彼は その根源はなんだったか。 彼は――国王・紫劉輝は、『待っていた』のではなかったか。 「――あなたを、待っていた」 「……え?」 「太子は、貴方を待ち続けていたのではないでしょうか――清苑公子」 第六公子であった紫劉輝は、それは不遇な幼少期を過ごしたと聞く。異母兄弟に疎まれ、身体的・精神的に危害を加えられる日々。周りにあるほとんどすべての存在から傷つけられる毎日の中で、ただ一人護ってくれた兄・紫清苑の存在が彼にどれほどの影響を与えていたのかは想像に難くない。 けれども母親が亡くなり、父親からはほぼ無関心を貫かれ、唯一の支えであった兄公子は流罪になった。貴族の後ろ盾もなく、2年前の王位争いを生き残ったのがむしろ不思議なくらいである。 陥れ合い、殺し合っていく兄弟たちを目の当たりにしながら、『残っていた』という理由で太子に祭り上げられた彼が何を思ったのか。 「不敬を承知で申し上げます。太子は、貴方のために、貴方を『国王』にするために、御自ら――」 ――殺されようとしたのです。 その言葉を言い切る前に紫清苑は駆け出した。勢いよく開け放たれた扉の向こうの空は白んでいて、間もなく日の出の時間なのだと分かった。一拍おいて後を追った陸官吏の背中が見えなくなると、誰ともなく息を吐いた。 「……お前、武官に転向したらどうだ? 頭脳労働専門の」 凶悪犯罪の検挙率上がるんじゃねえの、と言った国王に対し、私は再び叩頭した。 「勿体なきお言葉、有り難く。ですが私は事が終わった後にしか知ることのできない暗愚です。本当に優れた人間ならば全てが始まる前に防ぐことができましょう」 そう。私は結局、何一つ防ぐことができなかった。紫劉輝暗殺だって、私が10日前の時点で気付くことができていれば――。 頭を下げ続ける私に何かを思ったのか、それとも何も思わなかったのか、国王は小さく鼻を鳴らすと「仮定に興味はない」と言い、姿勢を改めるよう告げた。 「ふん。……だが、自殺まで考えた洟垂れがまさか玉座を望むようになるとはな。なにがあったんだか。お前は分かるか」 「……それは、分かりかねます」 「本当にか?」 「…………」 ――あのとき。 紫劉輝は小さく呟いた。 ――『ごめんなさい。……ありがとう』 何に対しての謝罪で、どこへ向けた礼だったのか、私は――多分、これから先も、考えない。 あの言葉は、存在しない方が良いものだと思うから。 「あー、疲れた。帰る。そもそも病人だしな、俺」 「ここまでやっておいて今更な気がしますがのう、陛下。お供いたしましょう」 肩をゴキゴキと鳴らしながら裏扉をくぐる国王と、呆れながらもすんなり着いていく霄太師、正官吏の姿を眺めながら、何度か口を開く。けれどかけられる言葉などなくて、結局黙って彼らを見送った。 そうして朝日の差し込む広間には、私と葵皇毅と――謀反の首謀者である芙蓉だけが残された。 --------------- 2015.6.1 back top next |