国王に告げた直後、猛烈な勢いで後悔の波が押し寄せてきた。
 さすがに分を弁えない行動だという自覚はあるのだ。万一芙蓉(かのじょ)が無実だったら、これは言いがかりというレベルじゃない。葵皇毅が現れた時点で逃げておけばよかっただろうか。
 所詮私が言ったことは証人もなければ物的証拠も少ない、8割方推測でしかない考えだ。……間違っていないと思ったからこそ口に出したのだけれど。『』を過信するのは私の悪い癖だ。

 冷や汗を隠すように叩頭し続ける私の拳に、誰かの手のひらが重ねられた。

「……だいじょうぶ。だから、顔をあげて」

 どこか幼げな物言いに思わず顔が上がる。
 膝をついた紫劉輝と目が合った。薄暗いせいか、光の感じられない瞳が私を見ている。
 違和感を感じた。以前出会った時、この広間で会いまみえた時、そして『私』が知っている紫劉輝、そのどれにも当てはまらない。

「そなた一人の力くらいには、なれるから」

 いつか聞いた言葉。それは私がここに来ようと決心した理由でもある。けれど。


 『紫劉輝』は、こんな人物だっただろうか。


 ただ驚きを浮かべることしかできない私をどこまでも凪いだ瞳が見つめ返す。けれども、やがて静かに逸らされた。
 少しだけ――本当に瞬き程度の時間、『兄』の方を見たような気がした。

 その言葉がどれだけ大きな感情と覚悟を乗せたものだったのか、今更ながらに理解する。
 本当は誰に手を差し伸べたかったのかも。

 ただ一人の帰還を信じて伸ばされ続けた小さな手のひらが届くことは、きっと、もう――。



色彩独奏競争曲
ひとりぼっちのグエルリエーロ




「次はお前だ」

 次いで国王・紫戩華が指したのは葵皇毅だった。しかし『氷』の異名をも持つ御史中丞は跪拝したまま事もなげに応じる。

「この件が収束し次第、口頭よりも詳細な報告書をお届け致します」

 暗に「この場で言う必要は無い」と告げた葵皇毅に、国王は率直に不快感を示した。

「この場で聞かせろ。そうすれば報告書は免除してやる」
「いえ、紙面でなければ処理できませんので。必ず提出します」
「そうか、ご苦労。じゃあ話せ」
「……。…………承知致しました」

 思わずやりとりを凝視してしまったが仕方ない。国王相手に毅然と意見を述べた葵皇毅もすごいが、その葵皇毅相手にここまで我を貫ける人間を見たのも初めてだ。……いや、私が知らないだけかもしれないが。不承不承ながらも折れた葵皇毅は、頭を切り替えたのか不満などおくびにも出さず話し始めた。

「私が此度の件を知ったのは、新進士入朝式のふた月前です。そこにいる正官吏……主上をお連れした官吏のことですが」
「思わず二度見したんだが、飢饉的な意味で」
「……体質だそうです。話を戻しますが、その男からの報告で発覚しました」

 その言葉を聞いて面白そうに傍らへ顔を向けた国王に対し、痩せぎすの男――正官吏は心得たように跪拝のまま一礼し、促しに応じて口を開いた。

「畏れ多くも百官の末席を頂戴している(しょう)修士(しゅうし)と申します。常は府庫の奥で資料と格闘している身にございますが――」
「聞いたことがあるな。討論会と名の付くものがあれば嬉々として国中飛びまわる『変人』」
「性分なのです」

 見た目の鋭さに似合わぬ朗らかな笑顔と口調で以て返された言葉に、空気が少しだけ軽くなる。

 正家当主、正修士。探花及第にして藍楸瑛暗殺における容疑者疑惑のあった正博士の父親だ。
 そして、紅家の史書編纂を担う一族の長でもある。
 彼は表情を崩さぬまま続けた。

「それでも今回は私の困った性質が役に立ちました。掖庭宮で夜毎盛んな討論が催されているらしいと聞き、居ても立ってもいられなくなりまして」
「後宮にまで乗り込んだか。いい度胸だな」
「正確にはあくまで『掖庭宮』……いえ、今となっては申し開きのしようもございません。ただ、第七妃とお会いしていないことは蒼玄王と七仙に誓って申し上げます。会は門近い前庭で行われていましたから」

 正官吏は謝罪のために一度叩頭してから、説明を再開した。

 有力者の機嫌を損ねることが自身の死と同義だった大業年間。その中で議論や討論が淘汰されていくのは自然の流れだった。けれども当代国王・紫戩華の粛清によって体制が激変してからは徐々に復活し始めたらしい。とはいえそれでもなるべく人の目に触れないよう、ひっそりと行われていたのだとか。
 掖庭宮前庭で行われていた討論会も同様に、内容に興味を持った人間にだけ伝わるよう主催者と参加者が慎重に輪を広げていたのだという。
 本来自分は呼ばれる筈ではなかったのだ、と正官吏は寂しそうに言った。

「私に声がかかったのは本当に偶然と幸運が重なった結果でした。内容は判例から地方の政策まで多岐に渡っており、実り多いものだったのですが……。その討論会の本当の趣旨は――」

 討論の結びには必ず――第二公子の復権と謀反の必要性が説かれていたのだという。

 それを聞いた国王はさして驚いた風もなく「まあ太子は中々のボンクラ振りだと評判らしいしな」と至極平静にのたまった。私は横目で紫劉輝と紫清苑の様子を窺う。
 紫清苑は特に取り乱すこともなく、表情も冷静さを保っているように見える。状況的にはいきなり渦中に放り込まれたようなものだろうに、さすがと言うべきか。
 紫劉輝はといえば、こちらも実兄と同じように静かに佇んでいた。

(……あれ)

 わずかな違和感があったが、それが形になる前に正官吏が言葉を続けた。

「……くれぐれも誤解なさいませんよう。正家はその性質上、紅本家を至上としておりますが、当主が主上に仕えている限り謀反の意思が生じることはありません。私も何とかその場をやり過ごした後は事の次第を奏上申し上げるべく、まずは御史台次官である葵皇毅殿へと伝えました」
「ああ、その辺りは報告が上がってきていたな。……で、お前は何故こんなところにいる?」

 国王が訝しげな眼を向けたのは、葵皇毅の隣で悠然と微笑む青年だった。
 たしか太子左庶子といったか。
 太子左庶子と言えば左春坊の長官だ。実務を担う東宮官のなかでもとりわけ位が高い。たしか正四品上――あ。

(つまり葵皇毅さんより位が高いのか……)

 御史中丞は正四品下だったはずだ。なるほど、青年が立ったままでいるのに葵皇毅が跪拝を崩さないわけである。なんとなく葵皇毅は誰よりも高い位置にいるようなイメージがあったので意外だった。
 改めて青年に目を向ける。この場にそぐわない柔らかな笑みが不思議な貫禄を出していて年齢を推し量ることができない。誰かに似ている気がするのだが、なにせ薄暗いのでぼんやりとした外観情報しか得られなかった。
 彼はどこか楽しそうに口を開いた。

「僕も関係者だからですよ、主上。なし崩しに関わってしまっただけですが」

 そう言って、青年は――私を見た。

「初めまして、ですね。といっても君の評判は前から聞いていたので初対面という気がしませんが」
「そうでしたか……お初にお目にかかります。と申します」
「ああこれはご丁寧にありがとうございます。僕は太子左庶子の(りく)清真(せいしん)です」
「……貴方は」

 陸官吏は微笑んだ。

「いつも清雅がお世話になっています。頼りない叔父ですが、これでも一応後見人です」
「……いえ、寧ろこちらがお世話になっています」
「ふふふ」

 どこまでも笑みを崩さない陸官吏の姿はおよそ私の知る清雅君と被らないが、『猫をかぶっている時の清雅君』には似ている。きっと清雅君が真似している側なのだろう。
 陸官吏は国王に向き直る。

「正官吏が葵皇毅殿のもとを訪れた日、僕も彼に会う用事があったんです」
「できすぎた偶然だな」
「そうですね。でも本当にたまたまですよ? 甥の殿上が決定したので知己である彼に後見を頼みにいったんです。僕のところはいろいろと例外的なので」

 苦笑した陸官吏は身にまとった空気を全く崩さないまま告げた。


「それで、御史中丞の執務室に向かう途中で耳にしたんです。
『“暗殺傀儡”に依頼するにはどうしたらいいか』……っていう内緒話を」


 つまり4か月前、御史中丞である葵皇毅は二人の人間からほぼ同時に報告を受けたわけだ。
 一つは第二公子復権を目論む討論会が後宮で開かれていること。
 もう一つは、“暗殺傀儡”に依頼したがっている人間が朝廷にいること。

「ちょうど執務室にいた正官吏の報告を聞いていて『あれっ』と思ったんですよ。それでためしに僕と彼とで討論会に潜り込んでみることにしたんです。あ、マネするわけじゃありませんが、もちろん本心からじゃないので誤解しないでくださいね。
それで調べてみたら案の定、第二公子復権の一環として暗殺傀儡を使おうとしていたんですよね。余人の立ち入りが許されない筈の後宮で何故討論会が開かれているのかもわかりました。まあふたを開けてみれば答えは簡単です。後宮の人間に協力者がいたというだけのことでした。
 肝心な、『なぜ第二公子が生きていることを知ったのか』については結局分かりませんでしたが。

……ね? 芙蓉殿」

 急に話を振られた芙蓉は、後ろ手に縛られたまま顔を上げた。

「あの日は貴女の協力者に方法を教えて差し上げることができず、申し訳ありませんでした。後日ちゃんと『正しい方法』を教えたってことで許してくださいね」

 芙蓉は顔を伏せた。ここまで聞いて悟らない方がおかしい。
 ――彼女が“暗殺傀儡”への依頼方法を知ったとき、すでに全ては『氷』と揶揄される御史中丞の手のひらの上だった。

 陸官吏と正官吏の二人を謀反の発起人に紛れ込ませ、葵皇毅は全てを裏から操ることで騒動を収束させることにしたのだ。
 大業年間の終結から十分な時間がたったとは言い難い現状、国は見た目以上に不安定である。国王は病に臥せ、残されたのは『無能』と名高い第六公子一人きり。国試を受けに来ることさえ困難なほどの貧困、粛清により減った官吏の補充もままならず、同じように兵士も減っている。都の警察機能は低下し、それは朝廷における監察機構――御史台も同様だった。
 謀反が明るみに出れば国は再び乱れる。なんとしても水面下で事を治めなければならなかった。
 本当は暗殺傀儡への依頼を防ぐことができればなお良かったのだろうが、何せ数年前まで頻繁に利用されていた存在である。葵皇毅たちが口を閉ざしたところで別の誰かから聞き出されるのは必至。
 ならば敢えて依頼方法を教えることで動きを把握しておいたほうがよほどいい。

 だいたいこんなところだろう。
 もちろん私は葵皇毅ではないので間違っている可能性も大いにあるけれど。それでも御史だった頃は手本も目標も、進むべき道すら葵皇毅で構成されていた。
 ――考えていることがなんとなく分かる程度には、傍にいたのだ。

「……つまり」

 ふと、感情を押し殺した声がぽつりと届いた。

「暗殺傀儡の標的が劉輝だと知ったうえで……依頼方法を教えたという事ですか」

 私は紫清苑を見た。先ほどまでの冷静さが嘘のように、その表情は怒りに満ちている。限界まで握りしめられた拳から皮膚の擦れる音がする。
 彼にしてみれば、自分のあずかり知らぬところで勝手に祭り上げられた上、実の弟が復権のための障害として殺害されそうになっていたのだ。怒りもするだろう。

「なぜ謀反を知った時点で劉輝を保護しなかったんです! 藍家を敵に回すような真似まで……。隠れ蓑に藍家を選びさえしなければ、私は……! ……っ」

 紫清苑は口を噤み、それ以上は言葉にしなかった。
 ――藍家が、藍楸瑛が囮として選ばれていなければ?

 紫劉輝の護衛に就けた?
 暗殺傀儡の襲撃を防ぐことができた?
 謀反を阻止することができた?

 ――違う。
 できないのだ、何も。
 たとえ暗殺について知っていたとしても、『茈静蘭』には何もできなかった。
 それが――

「それが、今の君と太子の距離だ」

 憤怒にぎらつく目が私を刺す。けれど怯むわけにはいかなかった。――少なくともこの場では。

「落ち着きなさい。主上の御前だ。君は発言を許されていない」
「……っ」

 悔しさに唇をかみしめながらも、紫清苑――茈静蘭は(こうべ)を垂れる。
 その姿を見届けてから、国王は組んでいた腕をほどいた。

「……つまりもともとの原因は流罪にしたはずのバカ息子が生きていると『何らかの理由』でバレたことか。で、それに便乗した誰かさんが六番目のバカ息子じゃなくそいつを王位に就けようと考えて、せっせと仲間を集めた結果があの松明軍、と。明るすぎて眠れねえよ」

 もしかするとこの宮に来る前に見た明かりは、葵皇毅の手勢ではなかったのかもしれない。

「軍部には事前に根回ししていましたし、思ったより人が集まらなかったんじゃないですか? だからって大量の松明持って焼き討ち作戦というのも極端ですよねえ。……まあでも」

 本命は第二公子の確保ですしね、と陸官吏は言った。

「炎なんてただの囮に過ぎません。十六衛に紛れ込んでいる第二公子を見つけ出して神輿に乗せてしまえばそれで終わりです。皇城外に第一公子もいらっしゃいますけど……流石に無理でしょうし」

 気が触れているという第一公子に王位は継げない。傍系王族は国王によってほとんどが粛清されており、第二公子が現王の直系である以上、復権すれば王位継承権上彼が太子になる。

「さて」

 どこか楽しげに国王が周りを見渡した。
 座り込んでいる芙蓉。跪拝したままの葵皇毅と正官吏、立礼している陸官吏。叩頭した後なので座り込んでいる私と、その傍らに立つ劉輝公子。二歩ほど離れたところで立ち尽くす茈静蘭。
 扉を締め切った広間の中を、壁に掛けられた蝋燭と持ち込まれた小さな松明の火だけが照らす。
 そんな中威風堂々と立っている国王の姿に、まるで裁きを待つ罪人になったような感覚を抱いた。

「おい、お前」
「――はい」
「この場で奏上してみろ」

 下ろされた視線をゆっくりと見上げて、途端に体が凍りついた。
 視界の良くない室内でも分かるほどに鋭く、冷たく、有無を言わせない双眸が私の上にあった。

「なに、を」
「二つ許そう。それでこの状況を打開してみせろ。でなければ俺はもう手出ししない。この場にいる全ての人間はこの件から手を引くこととする」
「……っ」

 ――やめてください。
 そう叫びたくなる気持ちを必死で押し殺した。
 
 『病に臥せている』はずの国王がここにいることや、私が“風の狼”である珠翠に藍楸瑛を託して職務放棄したこと。
 この件が全て非公開の状態だったなら、表ざたにできないそれらも水面下で処理できたのだろうが。

(最初の方で護衛計画について思いっきりプレゼンした結果がこれか……)

 今更ながら自分の行動が悔やまれる。まさかここまで大変な案件だとは思っていなかった。葵皇毅も止めてくれれば良かったものを――いや。
 非常に性格の悪い話だが、むしろ、こうなることも予測してたのかもしれない。

溜息が出る。自分の不始末は自分でカタをつけろということだろう。

「大丈夫だ」
「!?」

 突然掛けられた声に反応して大げさなくらい体が跳ねた。紫劉輝が首を傾げながらこちらを見てくる。

「……大丈夫か?」
「あ、はい。というより、貴方のほうこそ……」
「私はいいんだ」
「……?」
「分かっていた。最初から。だからここにいたのだ」
「…………それって」

 言いかけたところで、もう一度国王から声がかかった。

「いつまで待たせる気だ?」
「…………」

 正直、混乱していることは否めない。
 それでも――


『そなた一人の力くらいにはなれる』


 ――あの日出会った末公子の姿が脳裏に浮かんだ。差しのべられた手と優しい言葉。
 供も護衛も女官の姿すら周囲にない、一人ぼっちの後継者。
 伸ばされた手を眺めながら、あの時確かに、太子を、この、目の前の彼を――


『だから、顔をあげて』


 ――守りたいと、思った。



「――礼部特別臨時官が一、が奏上申し上げます。主上におかれましては、十六衛内左金吾衛所属、紅邵可家人の茈静蘭を流罪となった第二公子、紫清苑様とお認めになり、その上で――」


 一旦言葉を切る。もう後戻りできそうにないが、一度だけ、茈静蘭の顔を見た。
 目を丸くして私を見る彼の表情に、一瞬だけ心が揺らぐ。そういえば2か月間一緒に仕事をしていたのに、結局無表情か呆れ顔か怒った顔しか見ていなかった。
 最後まで不甲斐ない上司で本当に申し訳ないと思う。
 ごめん。伝えられそうにないけれど。


「――その上で改めて罪状を詳らかにしたのち、廃嫡を以て刑とし、朝廷の混乱をお治めください――」



 誰よりも威厳を(たた)えた低い笑い声が耳に届いた。





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2015.6.1
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