広間の中央に人影が3体。 一番小さな影は太子・紫劉輝。大きな影は茈静蘭――第二公子・紫清苑。 そしてもう一つ、体のほとんどを黒い布で覆った何者かがいる。その人物は細長い刃物らしきものを紫清苑の首元に合わせたまま動きを止めていた。 強張る体を叱咤しながら視線を横に逸らす。 四隅の光が届きにくい部分、 「……やめて、やめて……お願い、止まって……」 先ほどの叫びが嘘のように、弱弱しい声で同じことを何度も繰り返す。 「……その方だけは殺さないで……!」 せいえんさま、と。 妙齢の女性でありながら、はばかることなく涙を流す姿はどこか幼い。 黒衣の影は静かに切っ先を下げ、室内には嗚咽だけが残ってしまった。 私は間抜けな音を立てる素足で彼女のもとに歩み寄り、5歩の距離をおいて立ち止まる。 「芙蓉様」 「――っ、あぁ……!」 呼びかけた声に、とうとう彼女の全身はくずおれた。 色彩独奏競争曲 人口密度が圧倒的に低い広間では衣擦れの音すら耳に届く。だから、俯いている筆頭女官・芙蓉の表情はともかく、泣き声だけははっきりと聞こえていた。 視線を戻せば、紫清苑が だが、いつまでも暗殺者と対峙させておくわけにはいかない。 私は膝をついて筆頭女官と目の高さを合わせた。 「 「……っ」 暗殺傀儡の任務を終了させる条件は大きく分けて4つある。任務の完了、または失敗、あるいは彼らを統括する縹本家の指示、そして――依頼主からの取り下げ。この場合選べるのはたった一つしかない。 芙蓉はいくらか逡巡したのち、震える唇で権限を発動させた。 「――――――」 彼女が依頼取り下げの 広間の再奥、裏扉の暗闇に紛れるように、暗殺傀儡は姿を消した。 思わず詰めていた息が漏れる。紫劉輝は太子だし、紫清苑だって何だかんだ言って第二公子なのだ、もし害されようものなら私の首が飛ぶどころの話ではない。無策だったわけでもないが―― 「……何故お分かりになったのですか」 思考に沈みかけた私に、芙蓉が小さく問いかけてきた。 「分かったというか……貴女だと確信していたわけではないのです、実は。強いて言うなら、そうですね……きっかけは貴女の嘘でした」 「嘘……ですか」 「はい。――貴女が吐いた嘘は小さなものでしたし、本来嘘だと見破ることは困難だったのだと思います。女官の所在を誤魔化しただけですから。ですが……私はその嘘が『あり得ない』ことを知っている側の人間だったので」 「え……」 「この状況と結びつけることはできなくても、貴女へと目を向けるには十分でした」 はじまりは、彼女が珠翠について「宿下がりしている」と――実家に帰っているのだと言ったことだった。他の女官についての言葉だったならば疑問にも思わないが、珠翠に関してはそうもいかない。 なぜなら珠翠は実家を出奔した身であり、現状城下にも地方にも家族がいない――つまり、自宅を構える必要がない身だからである。 まあ、だからといって年中無休で働いているわけではないだろう。現に簪姫は「女官は交代で休暇を取っている」と言っていたのだから。 次に疑問に思ったのがその期間だ。 この世界で「宿下がり」――奉公先から実家に帰る、というのは実は結構な規模のイベントだ。交通機関が発達しておらず連絡手段も人力が主。たとえ首都内でのことであったとしても、人々はまず実家に帰省を知らせるために1日を費やし、実家は準備に数日を使う。帰省の道中に再び丸1日、帰りも同様。それだけのことをするからには実家で気のすむまでゆっくりしなければ割に合わない――と思っているかどうかはともかくとして、ひと月ふた月くらいは平気で滞在するのが普通である。 さて。私は短くもない期間珠翠と共に過ごしたことがある。その時に受けた彼女の印象は「真面目」「勤勉」「職務に忠実」といったものだった。朝廷を駆け回る中で聞こえてきた彼女の噂から、ここでも勤務態度は同じらしいことも知っている。 では――真面目な彼女はそんなに長い期間、どこへ行こうというのだろう? 「最初は、貴女ではない人物を疑っていたのですけどね」 「…………」 「正直、ここで貴女の姿を見るまでは――というより本来の『標的』に気付くまでは、一つの可能性として考え続けていました。結局あの人、いくら探しても見つかりませんでしたし」 「何故……」 「はい」 「何故、ここへいらしたのですか」 「……?」 「貴方は……藍楸瑛様の護衛だったはずです」 「ああ、知っていらっしゃいましたか。先ほど言った通りです、この件、本当の標的は――いえ。そういうことではないのですよね」 言いかけて気が付いた。芙蓉は私の稚拙な推理など求めていない。私を見る目は険しく、それでいて怯えを存分に含んでいる。私はこの目を見たことがある。少し前――いや、もう少し昔。 『お前らのせいだ』 そう言って私に石を投げつけた男が持っていたもの。……私を非難する目だ。 お前さえ来なければ、と。 何度もお世話になった人にそういう目で見られてしまうのは結構辛いものがあるが、頭はどこか冷静なままだ。この状況が日常とかけ離れているからだろうか。 「そうですね、この行動はどう考えても職務放棄です。私は藍楸瑛の護衛を全うすべきだったのでしょう。ですが」 もし時間が巻き戻せたとしても。いくらでもやり直せる権利を与えられたとしても。 藍楸瑛に命の危険が無い以上、私は何度だってここに来るだろう。 何度でも―― 『そなたの力くらいには』 「未来の国王を死なせるわけにはいきませんから」 私は、彼を、選ぶ。 両目を見開いて唖然としている芙蓉に向かって、雰囲気を変えるように努めて陽気に笑いかける。いろいろ余計なことを言ってしまったような気がして気恥ずかしい。紫劉輝と紫清苑が会話に乱入してあれこれ文句の一つでもつけてくれればまだマシなのに、彼らもこちらを見たまま黙りこくってしまっている。 「なーんて。実際は、暗殺傀儡が東宮に来なかったことで藍楸瑛が偽りの対象だと判明したので、考え得る限り『最も最悪な場合』を想定してここに来たんです。太子が害されたら大変どころの話ではありませんからね! 貴女こそ何故来たのです? この場に居さえしなければ疑われることはなかったでしょうに」 「それは…………」 「……そうまでして『会いたかった』のですか?」 「…………!」 本当は紫劉輝が暗殺されたあとに紫清苑がこの場に現れるのが一番良かったのだろうけれど、残念ながら私達が来たタイミングは彼女にとって最悪なものだったようだ。 「貴女は――」 言いかけたところで、彼女の姿が僅かながらよりはっきり見えることに気付く。四隅の松明は特に変化していない。扉を見ると、隙間から漏れる明かりが強くなっていた。 夜が明けたのではない。 時間切れだった。 扉が開かれていく。赤い光は掲げられた数多の松明、熱に揺らぐ景色を背にして扉を押し開けたのはこの件――『藍楸瑛暗殺未遂』改め『太子暗殺未遂』の本当の委員長である葵皇毅と、見知らぬ男性。 彼らは紫劉輝の姿を目にとめると目を丸くした。普段感情を現さない葵皇毅までもがわずかながら驚いていることに首を傾げるが、疑問に思ったときにはすでに平静の表情に戻っていた。 「御苦労」 開口一番にそう言って、男性を伴った葵皇毅は堂々と広間へ入ってきた。続くようになだれ込んできた武官が私を、紫劉輝を、紫清苑を、そして筆頭女官・芙蓉を取り囲んでいく。 葵皇毅は人口密度が激変した広間を迷いのない足取りで進み、紫劉輝の前まで歩み寄ると傍目から見ても非の打ちどころのない作法でもって跪拝した。倣うように次々に芙蓉を捕える武官以外の人間すべてが叩頭していく。 立っている人間の中で唯一戸惑いも困惑も見せなかった紫劉輝が口を開く。 「発言を許そう」 「は。まずは、御無事で何よりで御座います。太子に置かれましてはかような刻限に東宮を離れていらっしゃること、何らかの理由あってのことと存じます。しかしながらこちらに控える太子左庶子が相当にご心配申し上げておりました。また、現在この場は多少込み入っております。御身の無事を護るためにも、叶いますればどうか警護の行き届いた場へとお移り願いたく」 「そうか。ではまず、この場の整理を行え」 「……御意に」 断りを入れて立ち上がった葵皇毅が武官に指示を出していく。私は散々世話になった芙蓉があっけなく縄をかけられていくのをただ黙って見つめていた。 芙蓉は一切弁明しなかった。私の指摘など証拠も根拠も不足している言いがかりのようなものだっただろうに、それでも彼女はこの状況を受け入れていた。 藍楸瑛を巻き込むほどの大掛かりな計画にしてはあまりにあっさりとした幕引きだった。 このまま彼女は連行され、私には戒厳令と謹慎、あるいは退官処分が下るのだろう――と考えていたら、何があったのか武官がどんどん広間から出ていき、この場に残ったのは紫劉輝と紫清苑、葵皇毅、見知らぬ男性、そして私と、後ろ手に縛られている芙蓉だけとなった。 「この状況は一体――いえ、それよりも彼女のそばに武官を残しておかないのですか」 芙蓉の縄を持っていた武官すら室外へ下がってしまったのを見届けて、葵皇毅へと問いかけた。どう考えても太子暗殺を企てた重罪人への扱いではない。 「お前が知る必要は無い」 返事は相変わらずにべもなかった。こんなことなら素直に「何故連行しないのか」と聞いておけばよかった。視線を逸らし、気付かれないように溜息を吐く。 顔を向けた先にいる芙蓉はひどく戸惑っているようだった。けれど何かを言うことは無く、広間は再び薄暗い静寂へと引き戻される。葵皇毅が理由なく動かないことはあり得ないから、多分機を窺っているか、もしくは単純に時間の経過を待っているかのどちらかなのだと思うけれど。 戻れと言われたにも関わらずこの場にとどまり続けている紫劉輝の意図を掴むことも難しく、結局私はまた口を開いた。 「そちらの方は……太子左庶子、と伺いましたが」 「……ああ」 「…………」 投げかけた言葉は受け止められることなく、さりとてブーメランになることもなく、葵官吏の足元に落ちてしまったようだった。話題の対象となった太子左庶子はというと、のんきにクスクス笑っている。色素の薄い髪に中肉中背の体躯とややつり上がった双眸を持つ、全体的に整った容貌の男性――20代後半くらいだろうか――である。馬鹿にされているのか単にやり取りがツボに嵌ったのかは知らないが、笑われていい気分はしない。結局誰だか分からないのも釈然としない。 「あの、あなたは――」 しかし、言いかけた言葉は新たに響いた音に遮られてしまった。 ギィ、と木製の扉が軋む。それは葵皇毅の後ろにある正面扉ではなく奥の扉の方で、私は男性に向けていた視線を外した。武官が出て行ったことで室内はまた小さな松明の明かりだけになっていて、その中で開く扉というのは中々に恐怖を煽ってくる。鼓動が早まり体も強張るが目は吸いつけられてしまっていて動かせない。 まず始めに入ってきたのは、痩せぎすの官吏だった。 官人は大抵貴族出身か、そうでなくとも俸禄によって懐が潤っている者がほとんどなので、その体型は肥満体3割、中肉中背6割といった塩梅なのだが、彼の頬は見るからにこけており、首は筋と骨が浮き上がるほど細い。官服の色を判別することが難しいので彩七家であるかどうかは分からないものの、装いと佩玉からはそれなりの官位を戴いている人物らしいことが見て取れる。 芙蓉の息を飲む音がやけに大きく聞こえた。 官吏は扉の横に控えて膝をつく。どうやらもう一人いるらしい。 誰も言葉を発しない中、暗闇の奥から沓の音が響く。 呆けていると、背後で空気が動いた。 「――」 「はい」 かけられた声に条件反射で振り返る。葵皇毅と青年が跪拝していた。横を見れば芙蓉が手を縛られたまま叩頭していて、立っているのは紫劉輝と紫清苑、そして私だけだった。 何を求められているのか察すると、私も倣って跪拝の礼をとる。 薄暗い広間の中、沓音が一つ――二つ。重なって反響する。 それはどんどん近づいてきていて、距離を測るたび背筋に悪寒が走る。 やがて立ち止まったらしく静けさに安堵していると、突如、ドン、という大音が鼓膜を震わせた。 「面を上げろ」 知らない声がする。 低い声。命令することに慣れきっているのだと嫌でも分かる。人が声を荒げずに怒るとしたらこういう風になるのだと思えるほど厳しく、眼下にいるだろうこの身がただただ辛い。 人はそれを、威圧感と呼ぶのだろう。 「この場の全ての権限を俺に委ねよ」 御意に、と葵皇毅が返した。 「何やら面白いことをしていたようだが――」 顔を上げる。男性が、立てた剣に両手を乗せたまま私たちを見下ろしている。先ほどの音は剣の鞘が床に当たったことによるものだったらしい。 幾重にも重ねた絹衣と、それを彩る鮮やかな佩玉。背に流した髪の頂を飾る冠。 「 ちちうえ、と。抑揚のない声で紫劉輝が呼びかけた。 ――彩雲国当代国王、紫戩華。 紫劉輝と紫清苑によく似た風貌の王は、その双眸で誰よりも強く、鋭く、この場の人間を制圧した。 今まで、空気が重い場面に遭遇することはいくらでもある。商談中にそうなったこともあるし、官吏になってからは――とくにメッセンジャーとしてあちこちに出入りするようになってからは――意見や派閥の違いから討論中に一触即発、なんてところに出くわすこともあった。さっきだってそうだ。 それなのに。 国王の醸し出す雰囲気と、そこから派生する空気が尋常じゃない。 まるで頭の上から容赦なく押さえつけられているかのような錯覚を感じる。顔を上げろと言われたものの視線を合わせることなどできず、冷や汗をかきながら斜め下に目を逸らすので精一杯だ。 「さて」 そんな中で発された言葉は、そりゃあもう心臓に悪い。たった一言なのに。 分かりやすく跳ねただろう肩を誤魔化すようにゆっくりと元の位置に戻していく。 「いくらかの報告は俺にも届いているが、なにせ病床で聞いただけなんでな。説明してもらおうか」 それを聞いてハッとした。そうだ、確か病に臥せっているのではなかったか。 国王の顔――以外を見るが、立ち居振る舞いに関しては特に問題ないようにみえる。薄暗いので顔色を見たところで分からないだろうが、もしかして明るいところだと青白かったりするのだろうか。声音を聞く分にはどうしてもそうは思えないのだが。 「あー……じゃあ、まずはお前」 「え」 突然の指名に虚を突かれ、思わず素の反応を返してしまうがそこはそれ、数年とはいえ体に叩き込まれた官人としての礼儀がなんとかプライドを護ってくれたらしく、漏れた声は小さかった。 おそれながら主上、多分この場には私よりよほど説明に適した人間が――と言いたいが、王の命令は絶対である。意見など許されない。 まあ、『まずは』と言うからには結局他の人間にも問うのだろう。 無知を晒すのも存外きついんだけどなあ、と思いながら、跪拝したままの姿勢を正座に変える。 「お恥ずかしいことに私めの知る事情は核心とは程遠いものばかりですが……仰せのままに、知り及んだことについては全てお伝え致します」 そう言って一度叩頭し、許す言葉が聞こえたところでもう一度顔を上げた。 相変わらずとことん重量感のある空気に息が詰まりそうになりながら口を開く。 「私から見たこの件の始まりは、新進士入朝式でした――」 疑問しか残らない配属先決定の後に藍楸瑛の護衛を命ぜられたわけだが、思えばあの時点で不自然な点はいくつもあった。いくら隠密任務であっても冗官に任せることではないだろう、とか、紅家が藍家を狙ってるってそれもう完全に内乱じゃないか、とか。今でさえ貴族間の小競り合いが絶えないというのにこれ以上争いの種を持ち込まれてはいよいよ国の存続が危うい上、その余波はほぼ全て国民が受けることになる。迷惑だとかそういうレベルじゃない。 しかしながらこれらを考えもしなかったあたり、2か月前ではあるが私も大分青かったというか、まあ単純に混乱していたのだろう。 それでも御史台に官吏を借りたりしてなんとか護衛の体裁を整え、実働は茈静蘭――紫清苑に丸投げして原因検索に奔走した一月。なんの成果も挙げられず焦った挙句に藍楸瑛が『もっと狙われやすくなる』よう紫劉輝と面会させてから更に一月。 その間に様々なことがあったし、いろいろと考えもした。 李絳攸が何故か助言してきたことで、あからさますぎて逆に除外しかけていた『紅藍両家の喧嘩説』について再度疑ってみたり。 かと思えば百合姫から「それはない」と言われたり。 探花及第の正博士が現場をウロチョロしたことで委員会と私の頭に疑問符が大量に湧くし。 正進士の生家が紅家ゆかりの史書編纂一族だったことで『正博士犯人説』が出るし。 よく分からない事態になっているうちに暗殺傀儡が動いているらしいことを知り、いつのまにか私に対して一定以上の信頼を抱いていたらしい侍僮・陸清雅から具体的な行動日も教えられて。 (そういえば、あの時に気付いたんだっけ) 陸清雅は明らかに、暗殺傀儡が関わっていることを知っていた。そうでなければ『その場で与えられた』はずの情報に対して補完するような事は言えない。では、彼はどこから情報を得たのか。 彼がどこにでもいるような侍僮だったのなら疑わなかった。けれど、彼を推薦したのは葵皇毅だ。天下の御史中丞が関わっている以上、そこに何らかの関係性を見出してしまうのは2年間の御史生活で培った条件反射のようなものだ。 あとは時系列を遡って考えていけば、どう足掻いてもこの件は私の手に余る、むしろ絶対に私――冗官に任せてはいけないものであり、そもそも始まりである『書類への毒物付着事件』の発覚すら進士式監査である葵皇毅の指示によるものだったことに行きつく。 全ては葵皇毅の手のひらの上。 さすがに良い気分はしなかったが、自ずと陸清雅の情報源も予想できた。 それに、本当の意味での委員長が葵皇毅だと分かったことで安心してもいた。責任を一身に背負う葵皇毅には申し訳なかったが、背負えるだけの力を持つ人だと知っていたから。 だからあとは、彼の無言の指揮に従って踊らされていれば良かった。 名前を伏せたり私情や心情を除外したりして説明していると、国王はどこか呆れたような、哀れむような目で私を見下ろしてきた。周りを見れば紫清苑も苦虫を噛み潰そうとして失敗したような表情をしている。 「お前、それでいいのか?」 「それで、とは」 「いや……本人が承知したうえで踊っていた事実に驚いた」 「結果的に解決へと向かうのなら否やはありませんので」 「……。まあそれでも、ここへ来たからには何か思うところがあったということだな? 話せ。俺はそれが聞きたいんだ」 「……かしこまりました」 ――葵皇毅が真の委員長だと知った私の精神的負担は、思っているよりずっと減ったのだと思う。それこそ、藍楸瑛との友好を深める機会にしか使っていなかった後宮通いを復活させるくらいには。 それでも時間は容赦なく過ぎていき、暗殺当日となった本日。私は再び焦ることになる。 藍楸瑛の隔離先兼下手人の捕獲場所に選ばれた東宮に、葵皇毅――というよりは彼の痕跡が見当たらなかったのだ。 最初は、うまく隠れたものだと思った。けれど実際に襲撃を受けても介入する気配がない。いるのは藍楸瑛と私と侍僮と御史裏行、それに紫清苑含む借り受けた十六衛の者達ばかりだった。葵皇毅が指揮を執っているというのなら藍家の影を引っ張りだすくらいはやらかすと思っていたのだが。 けれど、そんな状況なのにふたを開けてみれば私は藍楸瑛の護衛に成功しそうになっていた。 暗殺傀儡がいなかったのだ。 もちろん混乱に乗じて寝首を掻く作戦だという可能性はあった。だがよくよく考えてみれば万里大山脈の頂より高いプライドを持つ縹家が暗殺傀儡を2か月も待機させられて黙っていられるのか。 ここに葵皇毅がいない以上、私は単なる囮に過ぎず、どこか別の場所で『本来の事件』が――暗殺傀儡を待たせても問題ないくらの事件が――発生しているのではないか。――いや。 むしろ『藍楸瑛暗殺事件そのもの』が大きな隠れ蓑なのだとしたら。 実際は葵皇毅配下だったということでほぼ確定した侍僮・陸清雅。 とりわけ紅家至上主義を強く掲げているという史書編纂一族・正家と探花・正博士。 謎の忠告をして混乱を誘った状元・李絳攸。 最近、珠翠のもとへ訪れることが多かったという、後宮の奥で出会った太子・紫劉輝。 宿下がりという名目で行方不明になっている女官・珠翠。 第二公子の侍女をしていた第七妾妃・簪姫。 簪姫の元同僚で、御子付きだった彼女と違い、その母親の侍女だったという筆頭女官・芙蓉。 後宮の前庭で討論を交わしている官吏達。 東宮へと運ばれる料理。 私はこの件についてほとんど知らない。けれど、この『世界』については知っている。 珠翠が縹家の出身で、城下に帰る家など無いことを『知っている』。 今いるところが朝廷で、 紫劉輝がたびたび後宮に現れていることを、。私のような一般の官吏が後宮に入るには誰かの手引きが必要だという事を、『彼女』が討論会を黙認しているということを知っている。 ――嘘を吐いていたのは誰か、知っている。 「主上が仰ったとおり……ここは主上の庭です。女官に懸想する官吏があの手この手を駆使して思いを遂げようとすることはあったようですが、討論会が開かれるなど聞いたことがありませんし、それなりの人数が数年前から参加しているらしいのにも関わらず、朝廷では噂ひとつ立っておりません」 「お前の耳に入らなかっただけだという可能性は?」 「ございます。……が、不肖ながら2か月前まで朝廷内の至る所に行っておりましたから」 「変わった仕事をする奴がいるらしいことは聞いていたが。耳聡くもなるか」 「はい、多少。……この討論会、『誰か』が意図的に作り、秘匿していたものと思われます」 そうしてあらゆる可能性を考え、除外し、シミュレートした結果、『』は嫌な可能性を拾い上げた。 「――『私』は、筆頭女官・芙蓉……いえ、元第二妾妃であらせられる鈴蘭の君付きの侍女・芙蓉と、その庇護のもと秘密裏に集まった官吏たちが第二公子の復権を狙った謀反を企て、暗殺傀儡に太子の暗殺を依頼した可能性が高いと判断し、この場へ参りました」 言い終えると、私は再び叩頭した。 誤りだと、間違っているのだと、誰かが声を上げてくれるのを卑屈な気分で待ちながら。 --------------- 2014.11.27 back top next |