額を押さえてうずくまりそうになった私を支えたのは陸清雅だった。 小さな手の微かな温度に暗転しかけた意識が呼び戻される。 「どうしたんですか!?」 一向に動こうとしない私の様子を訝しんだのだろう、陸清雅はいつになく感情を露わにした声音で私を呼んだ。そこへ藍楸瑛が近づく。 「とにかく落ち着きましょう、何が起こっているのかわかりませんが護衛の兵はいるようですし、逃げるあてがあるのならそこへ――」 陸清雅を宥めながら状況判断を行っていく藍楸瑛の言葉を聞きながら、私は、おそらく一番に言うべきだったことをようやく口にした。 「裏行、藍進士と陸侍僮を連れて予定の場所へ向かえ」 「委員ちょ――さん、貴方もですよ」 私が自分の名を挙げなかったことに不審を抱いたらしい裏行代表が反論する。私は首を振った。 「俺はやることがある」 「どういう――」 「頼む。時間が立てばもっと暗くなる、その前に」 「――わかりました」 瞬時に取捨選択をした裏行代表が二人の背を押すが、陸清雅は動こうとしなかった。大きな瞳をいっぱいに開いて私を凝視している。ああ、やっぱり。 君が一番、真実に近かったね。 背後に斬り合いの音を聞きながら、腰をかがめて陸清雅の両肩に手を置く。 「死ぬつもりで残るんじゃないから。――行っておいで。君の役目を果たしなさい」 そう言って、少年の反応を待たずに体を反転させて背を押す。たたらを踏んだ陸清雅の手を藍楸瑛が掴んだ。その際に物言いたげな視線を投げられたが残念ながら返す余裕はない。御史裏行へと指示を残さなければならない。 「例の場所に着いたら、東宮護衛官に『太子の食事が運ばれている室』を聞いて。そこに珠翠という女官が控えているはずだから、彼女に全て話しなさい」 「分かりました」 「珠翠!? ちょ、さん、貴方――」 「聞きたいことは後で聞く。今は逃げることに専念して。ごめんね、こんなことになってしまって」 「ええ、さっぱり事がのみこめませんが! 絶対に話してくださいよ!」 最低でも五体満足でなければ許しません、と言い捨てて去っていく藍楸瑛と裏行代表、そして陸清雅の背を見送って、私は振り返った。何人か地に伏しているが十六衛の兵服ではないので襲ってきた男たちの方だろう。空の大半が夜に染まってしまったが、あらかじめ遅くなることを想定して松明を備えていたし星や月も出ているのである程度視界は保たれている。その中で彼らの動きを観察していく。 逃げた彼らを追うものは誰もいない。 「茈武官!」 私は声を張り上げた。その場にいる人間の注目が集まる。 「制限はない。やりなさい」 「了解しました」 返事をして、茈静蘭は被っていた兜を取り払った。色素の薄い髪が松明の火を受けて赤く煌めく。そのまま相対する男を一閃のうちに地に沈めた彼は、刃の柄でもう一人の喉を突いた。私は下がってきた十六衛の一人を私自身の護衛として傍に置き身の安全を確保する。 襲ってきた男たちとこちらの勢力を比べると、私たちの方がやや優位だ。武官でも襲撃専門の夜盗でもないらしい男たちは正しく「荒くれ者」といった風情で、雑兵とはいえ正規の訓練を受けた十六衛には及ばない。 しばらくすると東宮内の避難場所に待機させていた武官達が応援に駆けつけてきた。彼らが加わったことで状況はますます有利になり、ほどなくして最後の一人が茈静蘭の拳で昏倒した。 男たちの持っていた縄やら布やらを使って2、3人まとめて縛っていく武官らの間をすり抜け、私は茈静蘭のもとへ走る。 大部分を一人で蹴散らしたにも関わらず少しも呼吸を乱していない彼に対して、小競り合いが始まってから動悸と指先の震えがおさまらない私の息は上がっている。それでも何とか辿りつき、なけなしのプライドを総動員して声を出した。 「行こう」 「……は?」 単語だけで言い切った私に、彼は眉をひそめた。それに構わず、傍に控える武官――今回編成された護衛武官において茈静蘭に次いで権限を持つ人物に後の処置を伝えていく。 「全員を捕縛した後、4割は東宮に戻り、藍進士および御史裏行、侍僮の護衛に戻ってください。残りは留置所までの護送とその後の見張りを交代で行うこと。できますか」 「――御意に」 跪拝する副官に続けて声をかける。 「私はもう一つこなさねばならない仕事があります。護衛に一人連れて行きますが構いませんね」 「できればもう少し伴っていただきたいものですが」 「彼だけで十分です。……あとを頼みます」 「お気をつけて」 その言葉に頷き、もう一度茈静蘭に「行くよ」と声をかける。怪訝な顔をしながらも一応従ってくれるらしく動き始めたが、この先に待つものを予想して気が急いている私にはそれがもどかしく、半ば強引に彼の手を取って走り出した。 「……はあ? ちょっと、待ち――」 「待てない」 ひらひらと無駄に布面積の多い官服に躓きそうになるが気合で耐え抜く。 握る手が冷や汗をかいていくのが分かる。茈静蘭はさぞかし嫌な思いをしているだろう。 それでも、走り続けなければならなかった。 藍楸瑛の護衛。 そこに隠された葵皇毅の意図。 私が選ばれた理由。 『彼』が選ばれた理由。 『彼ら』がここへ来た理由。 はじめから、根本が違っていた。 ついに手がふり払われる。後ろを向くとはっきりと不快の意を顔に表す茈静蘭の姿があった。 「どういうことです、藍進士の護衛は先ほどの騒動で完了したはずです。これ以上何があるんですか。私は一刻も早く仕えている家に帰らなければ――」 「君なんだ」 「――は?」 「君なんだよ」 身長差があるので私は彼を見上げる形になる。背後に月を背負った茈静蘭の髪は先ほどまでとは違って月光を冷たく反射していた。 全てが拒絶されているのではないかと思うくらいに冷えた双眸を見返す。 「君が、当事者なんだ」 色彩独奏競争曲 私は目の前に立つ青年の表情をあまり知らない。 彼は常に無表情か、でなければ機嫌が悪いか呆れ顔だった。笑った表情など一度も拝んだことがない。――いや。 本当は、愛想笑いをしているところも困ったように苦笑しているところも見たことがある。メッセンジャーとして動いていた頃は十六衛にも行っていたから、ほとんど一方的ではあるが『見知った』人物である彼のことは結構見かけていた。なまじ見た目が良い分目立つかと思いきや、彼は存外器用に存在感を隠し周囲に溶け込んでいて、人間関係を円滑にするためだろう表情をよく浮かべているようだった。私はそれを回廊から眺めていたのだ。 けれども同じ委員会に所属するものとして紹介された彼は愛想など母親の胎内に置いてきたと言わんばかりに不機嫌で、黎深さんや葵皇毅などの例外を除けばそこそこ無難な人間関係を築いてきた私はそれはもう戸惑った。 一月も経てばさすがに慣れたが、だからこそ逆に、今はほんの少しだけ不思議に思う。 茈静蘭は珍しくポーカーフェイスに失敗していた。見開いた目と硬直した四肢は全身で驚愕を私に伝えてきている。 震える唇がほとんど息のような言葉を紡ぐ。 「なにを……」 私は一度目を伏せ、そして改めて彼を見上げる。背後で夜が深くなっていく。もうすぐ暗闇に飲み込まれてしまう。その前にたどり着かなければならなかった。 「説明したいけれど時間がない。俺はここから先の道をよく知らない。お願い、案内して。あとでどれだけ詰っても構わないから」 「…………」 「でないと、きっと後悔する」 焦れて、私はもう一度手を掴んだ。それを見下ろした茈静蘭はまるで夢の中にでもいるかのようにぼんやりしていたが、その実、頭の中身はフル回転していたのだろう。予想以上に状況を呑み込んだ問いを投げかけてきた。 「本当は……誰が、狙われていたんですか」 「君と、それから――君の弟」 それを聞いた途端、茈静蘭は駆け出そうとして――私が掴んだ腕に引っ張られた。 「場所の予測は立てている。だけど多分人が多いはずだから、見つからない抜け道を教えて」 ――連れて行ってくれなくていいから。 そう言うと彼はものすごく嫌そうな顔をした。 けれど私が置いて行かれることは、ついになかった。 明かりの乏しい宵闇の中に、ひときわ赤く明るい場所がある。それを目の端に捉えながら、私と茈静蘭はひたすら暗い方へ走っていた。空気が揺らいで見えるのは発する熱のせいだろうか。 東宮から蒼明宮へ。紫宸殿のそのまた奥を茂みに隠れるように走り抜け、そうして辿りついたのは掖庭宮。門番に見つかるわけにはいかないので茈静蘭の案内に従い土壁の端へと向かう。木の影に隠れてぽっかり空いた僅かな隙間は、彼が幼少時代にこっそりと母のもとへ向かう過程で見つけたものなのだと、独り言のように落とされた声が告げた。 「ここを抜ければ掖庭宮です。ですが敷地はそれなりに広い。目星は」 「そこそこ広い広間があって、周りに結構な人数が隠れられる茂みか木、建物があること。あと、今は全く使用されていない宮であること。いわくつき、または争いの舞台になったところ。管理官すら配置していなければなおよし。そんな所ある?」 「…………一か所だけ」 何かを堪えるようにそう答えて、茈静蘭はますます人目につかない深い場所を選んで進んでいこうとする。すぐに追おうとしたところ、袖が茂みに引っかかった。 「…………」 武官である彼はともかく、私は藍家直系である藍楸瑛と会わなければならなかったため、簡略化しているが一応礼服と呼べる服装だ。端的に言えば、布地が多い。隠密行動をとらなければならない今は非常に邪魔な存在だった。 「……しかたない」 割り切って帯をほどく。ボタンの類は一切なく帯紐で留めているだけのなので脱ぐのは容易い。上衣、下裳と脱ぎ捨て、最終的に内衣の上は「袍」という裾の長い上着にひざ下までの袴、脛巾に沓という武官なんだか侍僮なんだかよく分からない格好になった。 脱いだものは全て茂みの奥に隠す。 急いだおかげで茈静蘭はそう遠くへは行っていなかった。私の方も格段に動きやすくなったので裾も袖も気にすることなく木々の間をすり抜けていく。 土壁に沿って北西へ。そこから斜めに南下して建物の影へ。女官たちも大半は寝静まっているのか、時折見回りの武官が小さな松明を掲げて回廊をのぞくのみ。湿気対策から高く取られた床下に入り込んでやり過ごす。 「ここを抜けるとじきに西宮です。条件に合う宮はおそらくそこだけでしょう」 「そう。宮を人が取り囲んでいると想定したうえで気付かれずに入り込みたいんだけど、可能?」 「可能です。ただしもう少し近づく必要があります」 西宮に近づくにつれ茈静蘭の表情が険しくなり、辺りを窺うように視線を巡らせるのが分かった。私は人の気配に敏感ではないので実際には分からないが、予想通りということなのだろう。 月明かりに浮かぶ西宮は他の宮と比べても遜色ない佇まいで、放置されているわりには朽ちた印象も受けなかった。最低限の手入れはされていたという事だろう。ただし、主がいた頃には整えられていたのだろう草木は伸び放題になっていて、時間の流れを感じさせた。 少し離れた地点からぐるりと裏手に回る。そこには井戸をおさめた小さな水汲み小屋があり、半分壊れかけた扉をくぐると流れず溜まっていたためか、水の臭気が漂っていた。 端に置かれた空の水桶を退けると足元に穴が開いている。どうやらそこをくぐるらしいと考えた私の耳に低い舌打ちが届いた。 「何か問題が?」 「……この辺りは鈴蘭の群生地ですが、小屋の裏手だけつる薔薇になっています。無造作に生えているように見えますが、内部は通り抜けられるようくりぬかれています。ですが10年近く前の話なので……」 「伸びているかもしれないんだね。分かった」 薔薇と聞いて真っ先に思い浮かぶのは鋭い棘を持つその茎である。痛い思いはしたくないというのが本音ではあるが、ここに来てまでそう言ってはいられない。 かがみこんで頭から穴を抜ける。茈静蘭は何も言わなかった。 抜けた先の薔薇は予想に違わず通り道を塞いでいるようだった。それでも長年整えられていた名残か、アーチを作るための囲いが腐りながらも残っているので半身が通る程度の隙間は空いている。花の時期ではないので香りを楽しむことはできないが、その代わり進むごとに切り傷が増えていくので血の匂いが少し漂う。 衣を破り、顔や手、下腿といった露出している部分を容赦なく切りつけてくる薔薇の棘は、明らかに私を拒んでいた。かき分けているわけではないので大きく揺れないことだけが救いだが、明るくなったらもう一度アーチ状にくりぬいてやろうかと思う程度には忌々しい。 「もう少しで西宮につきます」 後ろについた茈静蘭がひそめた声で告げた。言葉の通りアーチはさほど長い距離ではなく、やがてつるが欄干と柱に絡んでいるところに行き当たった。外からどう見えるのか分からないが、内部から見ると建物が薔薇に飲み込まれているようである。 声を出さずに背を押すことで行き先を示す茈静蘭に従って進む。床下に入ればもはや月明かりすら届かない。湿った土の匂いが充満した深い暗闇のなかで、かがめた背中に置かれた手が不意に服を掴んだ。制止の合図であると読み取り立ち止まる。 カタ、と小さな音が響く。外に集まる人間に聞こえやしないかとハラハラするほどの静寂の中、細心の注意を以て――床下に、四角い空が出現した。 先に茈静蘭が持ち前の運動神経を使って内部に侵入する。差し出された手に右手を合わせ、左手で空いた床の淵を掴むと先ほどできた数多の切り傷が痛んだ。それでもどうにかこうにか登り上がると、こちらも小さな傷だらけの茈静蘭が複雑そうに顔を歪めていた。高い位置にとられた玻璃の丸窓から差し込む薄明りが室内を照らす。布、綴じ本、巻物、行李――雑多に置かれたどれもがほこりをかぶっている。物置部屋のようだった。 「ありがとう」 「…………」 引き上げてもらったことに礼を言うが、聞こえていないのか返答はない。 「人に見られず人を探すことってできる?」 「……西宮は特殊なので。それに、だいたい予想はつきます」 「そう。じゃあ行こう」 「貴方は……」 「?」 「……いえ」 言いかけた言葉が気になるが、今はそれより優先すべきことがある。音を立てないよう もう、彼は隠す気がないようだった。 西宮は別名を『鈴蘭宮』――彼の母親である第二妾妃、鈴蘭の君に与えられた宮だった。 いくつかの室と廊下を抜け、もっとも奥――私たちが裏側からきたので西宮にとっては正面――に位置する広間の裏扉へと至る。 しんと静まった空気は少しも揺るがず、扉に手をあてても人の気配は感じない。 一瞬躊躇した私とは裏腹に、茈静蘭は何の迷いもなく扉を押し開けた。 きしむ扉の向こう側に、四方に置かれた小さな松明と正面扉から細く漏れる月の光に照らされて、小さな人影がぽつねんと立っている。 「り――」 くくることなく髪の毛を垂らした背中しか見えない。けれどもその姿に安堵して声を掛けようとした。 ――間に合ったのだ、と。そう思ったのだ。 けれど。 「――っ」 隣に立っていた茈静蘭が駆け出した。思いがけない行動に、出かかった言葉は中途半端に終わる。 音も気にせず全力で走る彼は、その勢いのまま声を荒げた。 「――劉輝!!!」 呼びかけに小さく反応した人影はそのままゆっくり振り向いて―― 私は彼の向こうに第三者の姿を見て―― 広間に、絶叫が響き渡った。 --------------- 2014.9.28 back top next |