中々会えないのですね、と口に出すかわりに、彼は隠すような溜息を吐いた。 ごめんね、と返すと一瞬驚いたような表情をして、次いで決まり悪そうに目を逸らす。 「すみません。私の方こそ、色々と手を尽くしていただいている側なのに」 「構わないよ。大口叩いたのはこちらなんだ、後宮に入れても一番会いたい人に会えていないんじゃあ、文句の一つも言いたくなるだろう。本当にごめんね」 「進士が後宮に出入りできたことだけでも奇跡みたいなものです。あとは自分で何とか……」 「そのかわり」 「え?」 彼が顔を上げるのと同時に風が吹き、葉擦れの音が耳に届く。ふわりと香るのは盛りを迎えた桃の花。 じきに散り始め、今度は桜が満開になる。 「今日だけ、君の時間を俺にちょうだい。お詫びをするよ。何をしてあげられるわけでもないけれど――」 そう言って笑う。できるだけ他意を含まないように。この一瞬だけは打算も計算もかなぐり捨てて。 遠い昔、ただ幸福だけと共にあった頃。私が本来の性別で生きていた時の感覚を思い出すように。 「――ね、どうかな」 呆けたように私の顔を見ていた彼――藍楸瑛は、ややあって、どこかぼんやりとしたまま頷いた。 色彩独奏競争曲 日は流れて陸清雅が言うところの『暗殺傀儡が動く』、その当日となった。最後の方はなんやかやで申請だの通達だの書類仕事が多くなってしまったけれど、今日はただひたすら護衛をするのみである。それから、下手人の逮捕。御史台って警察じゃないんだけどなあと思いつつ、まあ官吏にとっては警察みたいなものかと自分を納得させる。 この日、私はいつもより遅く登城した。いや、実をいうと普段からあまり早く登城するほうではないのだが。住居が下町近くにあるので朝廷までの距離が遠く、通勤に時間がかかるのだ。 通常、官吏は夜明けの開門とともに出仕する。つまり夜が明けきらないうちに起きて支度し家を出なければならない。ニュースキャスター並みの早起き振りである。しかし退出する時間も早い。そもそも電気が発見されておらず蝋燭も高級品扱いのこの世界、行燈だけで仕事をするのは非効率的だし、油代だってばかにならない。だからよほどのことが無い限り泊まり込みで仕事をするとしてもある程度で切り上げて仮眠に入るのが一般的だ。暗くなってまで仕事するのはよほどの事情がある者か灯りを自費で賄える高官・貴族、そして御史くらいだと言っていい。 御史は扱う仕事の機密性が他の部署と比べて段違いに高い上、昼間は視察と巡視と監察に費やしがちである。そのため隠匿性を重視し夜間に作業をすることも已むなしとして燃料代を国庫から落とせることが多い。申請の文言さえ十分練りこめば残業し放題なのだが――。 「そういや残業代出てんのかな、これ。……出てないだろうなあ」 登城予定時刻まで興道坊の古寺院――いわゆる朝廷の正門である朱雀門前にある寺の一つで、出仕前の官吏が待機する場所にもなっている――で、その辺に積んであった経典を読みながら時間を潰していた私は、ふと過ぎった嫌な予感に眉を顰めた。 基本的に給料と呼べるものは下賜される土地やその収穫物、米等の現物支給が大半で、金品は割合としてはさほど多くない。ちなみに給料明細のようなものは渡されるものの、内訳はとても大ざっぱだ。 今更だけど、朝廷、というか御史台ってブラック会社かもしれない――という変な想像に至った私を、響く鐘の音が現実に連れ戻した。体感で、昼を少し過ぎた頃あいだろうか。手にしていた経典をくるくると巻いて近くにいた僧に礼を言って手渡す。にっこりと笑って受け取った彼は、「良き日になりますよう」と言った。 ――そうだなあ。 「良い結果になるといいな」 空は快晴。星も月もよく見える夜になるだろう。 この委員会において私が実働することはあまりない。報告を聞き、それをまとめ、上司の意見を仰ぎつつ下の者に適切な指示を出していくのが中間管理職――いや、委員長の仕事だからだ。藍楸瑛への接触やその後の関わりは条件的に私が適任だと判断した結果であって、実のところ本分とは大分異なるものだった。その他の情報収集は、部下が優秀すぎて余ってしまった時間を使ったに過ぎない。 ただし今日だけは、私も積極的に動かなければならなかった。主に誘導係として。 「藍楸瑛は東宮に来るんでしょうね?」 委員会の小部屋で段取りの最終チェックを行いながら、訝しげに陸清雅が問いかけてきた。茈静蘭だけでなく御史裏行も調整に奔走していて不在だからか、いつもより表情と言動に棘がある気がする。 「時間になったら迎えに行くことになっているよ。勝手に帰宅しないよう、武官を一人つけている」 「そうですか。……あなたは」 「うん?」 「……分かっているんでしょう。この件の、犯人が」 ほとんど睨みつけるように私を見てくる少年の姿に、一瞬だけ息が止まる。問いかけられた内容も相まって一拍の猶予を許してしまったが、それでも陸清雅は目を逸らさなかった。 犯人。 手にしていた書類を置いて頬杖をつき、何回か考えを巡らせる。 「清雅君はどう?」 「質問に質問を返すのはやめてください」 「そっか、ごめんね。うん――分かんない」 「…………は? ……え? ちょっと、ここまできて? え?」 正直すぎる私の告白に取り繕う余裕をなくすほど驚いたらしい陸清雅は、目を白黒させながらも必死に思考をまとめようとしているらしい。代わりに表情がくるくる変わっていくものだから見ていて楽しくなる。 「冗談だろ……」 「残念、本気。あ、でも正確に言うと全く分からないってわけじゃないんだけど」 「はあ!?」 「怖いよ清雅君。抑えて」 食って掛かってくる少年の姿が存外見ていて微笑ましく、しばらくこのままでもいいかもしれないという悪戯心が湧き上がってくる。しかしそうすると陸清雅が怒髪天を衝く状態になってしまうことが目に見えているので、残念に思いながら口を開いた。 「何人か候補は絞り込んでるよ。背景や動機も、ある程度までは推測できている」 「だったら――」 「でも証拠が足りない。根拠もあまり十分じゃない。だから、多分、俺が捕えることはできない」 「……っ、じゃあ、この先どうするんです。今夜藍楸瑛を護って、それで? その先は? 僕が――あなたたちがやってきたことは何だったんですか、僕は何のために、あなたに」 困惑と、それから少しの不安。猜疑心。それら全てがない交ぜになった表情を浮かべて矢継ぎ早に責め立ててくる陸清雅を眺めながら、私は凪いでいく自身の心を感じていた。 分からないわけじゃない。 何も掴んでいないのでもない。 証拠は、ある。根拠も、乏しいけれど皆無じゃない。 けれど――違う。 『私』とは根本的に違う部分で、『誰か』が私の考えを否定する。不自然なほど違和感なく行われる自己否定はもう長いこと付き合ってきた、もはや慣れ親しんだ感覚である。 『』。 この体の本来の持ち主。齢4つにして膨大な知識を理解していた天才。 思考と体の主導権はどうやら私にあるようだが、時折こうして彼の知識と処理能力が意識の奥から浮かび上がってくることがある。 『天才』が今もこの体の中にいるのか、もしくはただの残渣なのかは知らないが、今までの経験上『』の判断が誤っていたことはない。だから私は、私の考えを押し込めることにした。 自分の推理が的外れだとは思っていない。犯人を捕まえたくないわけがない。けれどもおそらく、考えきれていない部分があるのだろう。ならば軽率な行動は取るべきではない。 異能が存在するこの国にあってさえ到底信じ難いだろう私の事情を説明する気はないけれど、そうでなくとも私の答えは陸清雅にとってみれば甚だ不本意なものだったようだ。一頻り責め終えたのか目線を机案に落として拳を握りしめている少年の姿を見やる。私にわずかながら幻想を抱いていた節のある少年に対して申し訳なさがわいてくるが、その前に、もう一つ言わなければならない。 たった一つ。 一つだけ、理解していることがあるのだ。 「清雅君」 「…………」 「俺は犯人を捕まえることができないけど、それでもこの案件は今夜解決するよ。保証する」 「……なにを根拠に、そんな」 「君のおかげで分かったことがあって」 「……僕の?」 うん、と言って立ち上がり、机案をぐるりと回って向かいに立つ陸清雅のもとまで歩み寄る。小さな室なので片手で足りる程の歩数で済んでしまった。 視線を下ろしたままの少年のつむじがみえる。はて、と首を傾げた。そういえば今までこうして立ったまま向かい合ったことはあっただろうか。――12歳の少年の背とは、こんなにも小さいものだったのか。 私の胸ほどの位置にある顔、その両頬にそっと手をあててゆっくりと目線を合わせていく。意外にもふり払われることのなかった両手は頬から離したあと所在がなくなってしまって、迷った末に後ろ手を組んだ。 「俺は……そうだなあ、つまり『駒』なんだ」 「――こ、ま?」 「最初から薄々気が付いていたことではあるんだけどね、このあいだの君の言葉で確信した」 「え――」 「まずね、前提条件からおかしかったんだよ。久しぶりの藍姓官吏、それも藍家直系進士の護衛をたまたま通りがかった冗官に任せるなんてあり得ない。さらに、未遂とはいえ弟が害されたことに対して藍本家が何も言ってこない状況が不可解。もっと言うなら、護衛対象の藍楸瑛本人が不自然なくらい『何も知らない』なんて、異常でしかない」 「……!」 そう、本来ならばこの案件、いくら元御史台官吏であっても今はただの冗官にすぎない人間に任せる理由も道理もないものだった。にも関わらず私は委員長の座についていて、礼部預かりの特別調査官などという臨時階位を戴いている。何故か。 理由を知るには、一番最初に戻らなければならない。 毒物が発見された。それを礼部が発見し、御史台次官である葵皇毅に相談した。――違う、もっと前。 『紅家が藍楸瑛を狙っている』という噂があった。その後、毒物が発見された。――もっと、もっと。 礼部の魯官吏は今年に限って進士に渡す書簡の毒物検査を行った。――もうすぐ。 毒物検査はおそらく葵皇毅の指示だった。それは何故か。彼が進士式監査官だったからだ。 葵皇毅は何故進士式監査に就いていた? ――彼が動かなければならない『何か』があったのだ。 葵皇毅の執務室で彼に向けて放った言葉をもう一度口にする。 「この件は最初から御史台の案件なんだよ。礼部なんかじゃない」 「あ――」 「そして多分、本当の委員長……担当御史は、御史中丞――葵官吏だ」 「――っ!」 「君は……それを知っていたんだね」 驚愕に目を見開いた陸清雅の口が、音を伴わずに「どうして」と呟く。 「……ごめんね、本当は終わるまで言うつもりじゃなかったんだろうに」 あの日。陸清雅が“暗殺傀儡”の襲来する日について告げた時、彼は語らぬ言葉の向こう側で真実を叫んでしまった。葵皇毅が陸清雅を委員会付きの侍僮にしたことには理由があったのだと。 葵皇毅が――御史中丞が関わるというのなら、それはもう一介の進士に関する事件などではない。 「情けないことに葵官吏が何を追っているのかまでは見えていないんだけど、俺を使って何がしたかったのかくらいは分かるつもりだよ」 「藍楸瑛護衛委員会」は発足したその瞬間から葵皇毅の隠れ蓑になった。御史台次官という肩書から一挙手一投足が衆目に晒されがちな彼にとって、通例慣例を無視した行動を取りがちな私――委員会の動きはある程度有効なカモフラージュだったことだろう。 新進士入朝式で大勢の前に私を押し出し、護衛の一環として高官をはじめとする諸官に委員会の存在を示す。そうして周囲の目をこちらに向けることで、彼自身は『本当の目的』のために裏で動く。 なるほど、私は葵皇毅にとって都合のいい存在だった。 「……そこまで分かっているのなら」 陸清雅が絞り出すように呟いた。 「あなたがこの件を仕切ってしまえばいい。皇毅さんが持っている情報のいくつかは僕も把握しています。それを全部教えますから。あなたならそこから全てを知ることもできるでしょう」 「や、それはいいよ。どう考えてもこのまま囮に徹し続けた方が効率的だし」 「…………どうして」 「ん?」 「何で、――どうして!」 激昂とともに私の両腕を掴んだ陸清雅は、その勢いのまま言葉を溢れさせる。 「あんた裏切られたんですよ? 『皇毅さんが言うなら』って、あんなに信頼してたのに、騙されてたんですよ!? 今に始まったことじゃない、ずっと前から、それこそ最初から! なのにどうして――」 口調は激しいものだったが瞳は雄弁だ。膜を張った双眸が強く睨みつけてくる。 正直なところ、悔しくはあるのだ。私なりに事件の全貌を掴もうと考えてきたのに、今更それが表面上のものにすぎなかったと言われて戸惑わないわけがない。必死になっていたことが恥ずかしくすらある。 それでも――これが裏切りだというのなら、お互い様だ。大飢饉の一件もそうだが、私だって裏切ったことがないわけじゃない。それに実を言うと騙されたとはあまり思っていない。結局のところ私の望みはこの件が解決することであって、その過程から私自身が排除されることについては多少憤りを覚えるものの、それ以上の感情を抱きはしない。 けれどもこの少年はそこにとどまらずこの件をを全て掌中に収めろと言っている。 今にも泣きそうな顔で、理不尽に制裁をと、その眼だけで訴えてくる。 ああ。 ――君、裏切られたことがあるの? ……それが今も、許せないの? 口にしそうになった言葉を寸でのところで押しとどめる。 私は陸清雅の過去を知らない。だから彼が何を憎み、何に憤っているのか理解できない。けれども私を使ってその思いを昇華させようとしているらしいことは分かる。 12歳なのだ。『私』の感覚でいけばまだ小学6年生なのだ、この少年は。 庇護を必要とする年齢にも関わらず、細い両足で立っている彼の姿に瞠目する。震えながら、抱えきれなかったものを必死の譲歩で私の目の前に掲げている。 けれど。 「いいんだよ」 「なんで……っ」 「清雅君、俺、裏切られたなんて思っていないよ」 ゆっくり、あやすように背に手を回す。 瞼の裏で記憶が鮮やかに蘇る。夜更けの室、広がる血だまり、美しいかんばせの女と伏す父親。 うん、そうだね。 「裏切りってもうちょっと、残酷だ」 反応を待たずに「それでも」と続ける。 「君がこれを裏切りだと感じたなら。もしこの先も、裏切りだと思ってしまうような出来事があったなら」 ――その時は裏切りも騙りも理不尽も、全て利用してしまえばいいよ。 そう言えば、陸清雅の肩が小さく跳ねた。 「使えるものは使っていいんじゃないかな」 私は聖人君子ではない。今回のことだって正直何も思っていないわけではない。 けれどもこの場で私にできることは、様々な思いを込めて、それを踏み台にしてやればいいのだと後輩に指導することだけだった。理想論だとは分かっているが。 だが、優秀な我が委員会の侍僮はそんな私の想いに応えようとしてくれた。 「……あなたがそれでいいのなら」 一つ溜息を吐いて、困惑と呆れがない交ぜになった表情で、それでも陸清雅はほんの少しだけ笑ったのだった。 その後、書類を全て片付けたところで準備完了の報告をしに来た御史裏行と茈静蘭が戻ってきたため、段取りの最終チェックを行った。穴が無い計画ではないができる限り埋めたつもりだ。 陸清雅と御史裏行には先に東宮へ赴いてもらい、使用する予定の場所を整えておいてもらう――という建前で武官の配置を再確認してもらうことにして、私は茈静蘭をお供に藍楸瑛を迎えに行く。顔を晒したくないらしい茈静蘭は髪を纏めた上に普段使っていない兜を目深に被っていて、一見しただけでは誰なのかよく分からない。なるほど、私は彼を顔と髪の毛で判別していたようだ。 新進士としての雑務、もとい職務も残すところあとわずかとなり、今頃は卒論ならぬ最終課題に取り組んでいるはずの藍楸瑛は、私が割り当てた職場である厩の前に立っていた。箒を手に持ち床を掃いてはいるが、どこか心ここに在らずと言った風情でやる気が見られない。 「藍進士」 「……え、あ、はい……。……あ!」 声をかけると予想に違わずおざなりな言葉が返ってきたが、すぐに気を取り直したらしい。一瞬だけ丸くした目は瞬時に治められ、体ごと振り向くと立礼を取った。一切無駄のない流れるような礼は、彼がこの国でも最上位に位置する貴族の直系だということを雄弁に語っている。 対する私は、礼儀作法など珠翠以外に教わってはいないし、その珠翠も数年前に出て行ったきりなので、まあ――あまり自信がある方ではない。 だから、それを誤魔化す意味も含めてにっこり笑った。元商売人として愛想笑いはある程度のものだと自負している。 「宵の花見へ行きませんか」 『お詫び』をします、と言ってしまえば、藍楸瑛が頷くまでにそう時間はかからなかった。 話は変わるが彩雲国における1日の流れは、現代日本とかなり違う。使い古された文句だが「電気もガスも水道もない」世界なので、灯りと言えば太陽光、夜に十分な照明を得たいと思うなら松明レベルで火を焚かねばならないのが現状である。燃料事情が深刻だ。 そのため私が藍楸瑛を伴ったのも例に漏れず日の入り前であり、東宮の 「東宮って……ここ、本当に入っていいんですか?」 「許可とってあるから大丈夫」 王の居室を中央に擁した宮城の内部は小川がいくつか流れていて、溜池も存在する。景観のためでもあるが生活用水としても使用されるそれらのうちの一つ、東宮の中でも比較的蒼明宮寄りを流れる小川は、源流もほど近い。満開の梅が芳しい香りを放つ池のそばに備えられた四阿は、きちんと手入れされているのだろう、乳白色の石が柔らかな曲線に整えられた、すこぶる優美なところだった。 「男ばっかりで君にはちょっと物足りないかもしれないけれど、まあ、これも何かの縁ということで」 盃に酒を注いでそう言うと、藍楸瑛は飛ばされてきたらしい梅の花弁を1枚ずつ互いの盃に浮かべた。 「これでちょっとはマシになりますか?」 「え。……ああ、なるほど、うん。……うん」 「何ですか」 「いや……君、今、少しも考えるそぶりなかったよね。流れるようにその発想に至るって恐ろしいな、と。……珠翠紹介するのやめといたほうがよかったかな……」 後半は小声で呟いたこともあり、藍楸瑛の耳には拾われなかったようだった。気を取り直して盃を傾ける。酒に強いわけではなく、なにより酔うわけにはいかない私の分は水で薄めてある、というより99%くらいが水である。酌をするのは侍僮の陸清雅と私の『同僚』という設定の御史裏行なので今のところバレていない。 「それにしても、もう2か月経つんだね。お疲れ様、大変だったでしょう」 「おかげさまで。私を厩付きにしたの、貴方ですけどね」 「最初は皿洗いもやってたよね、懐かしい。でもごめん。良い経験できた?」 「それはもう」 じとりとねめつけられるが本気で怒ってはいないようで、すぐに話題が切り替わる。他の進士の話題や李絳攸のことなど、世間話に華を咲かせているとやがて話はそもそもの始まりへと行き着いた。 「そういえばずっと気になっていたのですが、貴方はなぜ後宮に?」 「それは君と珠翠の馴れ初めを根掘り葉掘り聞き出せっていう前振り?」 「違います! いや、単純に分からないんですよ。何度か貴方と後宮に行きましたが……その、色を好むってわけではなさそうですし、一人の女人に熱心になっているようにも見えないので」 「んー、君が珠翠への恋心を熱く語ったら教えるよ」 「だから違いますって! 言いたくないならそう言ってくださいよ……」 「いや、別に言ってもいいんだけどね。タダじゃ言いたくないだけで」 「そうですか……」 疲れたように息を吐いて杯を干した藍楸瑛に、すかさず次の酒を注ぐ御史裏行。流石である。しかも少しずつ度数が弱くなってきている。酔い潰すことが目的ではないので、「酔わせすぎない」ための策だろう。 「俺、今は礼部所属なんだけど、もともとは冗官でね。その前はまた別の部署にいたんだよ」 「冗官……ですか。貴方が?」 「そう。で、まあ、その冗官になった理由ってのが……ちょっと」 「もしかして後宮に不法侵入した咎とか?」 「いや……。……結構な地位の女官と逢引きしようとしたところを太師に見られた?」 「……うっわあ……」 藍楸瑛だけでなく、陸清雅と御史裏行からさえも、呆れとも同情ともつかない声が漏れ出ていた。茈静蘭は私の後ろに控えているので分からない。 「じゃあ、その女官に会いたくて今も後宮通いしているわけですか」 「一度話すことができればそれで良いんだけどねえ。なかなかうまくいかない」 「……どんな人なんですか?」 問いかけてきたのは陸清雅だった。意外に思いながらも言葉を探しながら口に出す。 「俺の教育係のようなことをしてくれていた女性でね。姉のように思っていたかもしれない。できれば友人にもなりたかった気がする。けれどいろいろあって、仲違いしたまま別れてしまったんだ」 どこを間違えたんだろう。いやそれは明らかなんだけど。いつから間違ってたんだろう。 「今思うと、最初から間違ってたんだろうね、いろいろと」 未だに珠翠に対する感情は整理がついていない。様々なことを教えてくれたことやあたたかく接してくれたことには感謝しているが、その反面、父の件が絡むと途端に胸の裡がどす黒くなる。 このままだとスッキリしないので早く清算してしまいたいのだが、彼女が私を避け続けている。未だに髪の一房さえ眺めることがかなわない。 ……と、いう意味合いの言葉を彼らは曲解したらしい。頬を染めて拳を握り「まだいけますよ!」と力説する藍楸瑛に、青褪めて「道を踏み外さないでください!」と諌めてくる陸清雅。酒宴は梅の木そっちのけで混迷を極めようとしていた。 「じゃ、じゃあ、この間会った女の人は誰なんですか……!?」 青褪めたままの陸清雅が私に詰め寄る。 「この間?」 「小さな螺鈿の箱を持って行ったとき!」 「ああ。あのときは別の人に会いに行ったんだ。いつもお世話になってるから御礼をと思って。ただ運悪く会えなかったから、別の人にあげちゃったんだけど」 「お世話になってる人?」 「筆頭女官の芙蓉様。後宮って基本男子禁制だからさ、事情話して融通してもらってる」 「あ、そう、なんですか……」 あからさまにほっとした様子の陸清雅は、なんというか。根が潔癖なのかもしれない。そう言えば女性に対して不信感を抱いているとか抱いていないとかいう記述があったような無かったような。 「芙蓉様の代わりに貴方の相手をするとなると大分限られてきますね」 にやにやと笑いながら藍楸瑛がのたまう。誰が私の相手をしたのか暴こうというのだろう。確かに筆頭女官の代理を務めるからにはそれなりの地位が必要だし、そうすると女官の顔ぶれは限られてくる。一人一人の名を挙げだした藍楸瑛はいずれ正解を引き当ててしまうだろう。それもなんだか癪だったので、私は自分から答えを言う事にした。 「第七妾妃」 「え?」 「だから……簪姫に相手していただいたんだよ」 「……えええ!?」 『宝林』というかろうじて女官ではないというレベルの身分ではあるものの、彼女はれっきとした王の伴侶だ。普通なら私の相手をするどころか怒りを買って叩き出されてもおかしくない状況だったのだが、そこはそれ、彼女も私と話がしたがっていたということで、あの夜のことは黙秘されている。 理由はそれだけではないのだろうが、と遠い過去の記憶に思いを馳せる。山桜の下で会った人のことを思い出すが、それはこの件とは無関係だ。 「すごいですね……色んな意味で。よりにもよってあの『簪姫』とは」 「含みがある言い方だね」 口籠った藍楸瑛の盃に強めの酒が注がれた。御史裏行のナイスアシストである。誤魔化すように一気に煽った藍楸瑛は度数に驚いたようだったが、その意味に気付いて肩を少し落とした。 「……簪姫と言えば、第二公子の侍女をしていたことで有名でしょう。公子が流罪になった際に実家に帰ったと聞きますが……まあ、その、口さがないものはどこにでもいるわけで」 「第二公子云々は初めて知ったかも。そのときはまだ官吏でも貴族でもなかったし。悪い噂については俺もいくつか聞いてる」 「そうでしたか。私はあまり気にしませんが、後宮、行き辛くなるんじゃないですか」 噂しているのは大半が女官たちなので、と言外に告げた藍楸瑛に、首を振ることで答えた。 「俺も気にしない」 「そうですか」 会ったこともないであろう一人の妾妃の話に、本心からほっとしたように笑う藍楸瑛は性根が本当に優しいのだろう。もしくは生来のフェミニストか。噂の中には大分厳しいものも含まれているので他人ごとながら心配になる気持ちは分からなくもないのだが。 曰く、第二公子付きの時代にも他の公子に色目を使っていた、曰く、現在の地位は病の床にある王に無理やり頷かせた、曰く、今度は皇太子である劉輝公子の正妃の座を狙っている――。 最後の一つは、次期国王である紫劉輝が後宮に入り浸っていることから生まれた噂だろう。彼が後宮にいるからこそこうして東宮を使用することができているのだが、そういう噂を聞いてしまうと、ちゃんと東宮で暮らしておきなさいよとも言いたくなってしまう。 矛盾してるんだけどね、と付け加えて酒の肴に提供すれば、「でも」と藍楸瑛から反論が上がった。 「ここ2か月は東宮にいるらしいですよ、公子。私が公子と会ったのもその近くですし、もともと東宮にはよく行くんですが、確かに最近武官が多く配置されているようです」 「え、そうなの? というか君、何で東宮に行ってるの?」 「いやあ、隠れて逢引きするのに丁度い――それはともかく。絳攸……仲良くなった進士が庖厨での皿洗いを割り当てられているのですが、最近は東宮に王族用の 劉輝公子は基本的に宮城内をふらふらしていて神出鬼没なので、公子のための食事を作ること自体今まで滅多になかったようで、と続けた藍楸瑛の言葉に、私は固まっていた。 ――紫劉輝が東宮にいる? ――まさか。 ――そんなはずはない。 ――だって、じゃあ、あの日会ったのは―― その時、後ろに控えてい茈静蘭が動くのが分かった。 キィン、と高い音を立てて金属がこすれ合う。次いで重たい『何か』が地面に落とされる衝撃音。慌てて立ち上がり私をかばうように前に出る御史裏行と陸清雅の横に、状況が飲み込めず困惑する藍楸瑛の姿が見える。 二人の隙間から見る薄暗い 「――さん! 藍進士を連れて逃げてください! 陸君は案内を!」 御史裏行が告げる。声が焦っている。それはそうだ、本来ならばここに来るのは暗殺傀儡一人きりのはずだった。並みの兵士では到底歯が立たないから、彩七家筆頭の紅藍両家が『影』を擁しているという特性を利用して、藍家の『影』に暗殺傀儡を任せてしまおうというのが今回の作戦だった。藍家直系である藍楸瑛は旅に出ているという弟の藍龍蓮と違っていわゆる「実家暮らし」だ。もちろん『影』の護衛も受けている。 以前紅家の『影』に遭遇したことがあるのだが、あの人たちは守るべき対象に敵対するものには躊躇も容赦もしない。それを利用したはずだった。 そのはずなのに。 手に持っていた盃が落ちる。必死に男たちの数を数える。暗くなってきた視界で正確には分からないが、こちらの人数より多いのは確かだろう。屈強と言う言葉が似合いそうな体格ばかりだ。 藍楸瑛を狙っているのだろうが、十六衛に阻まれて近づいてくることができないようだ。 「さん……!」 焦れたように陸清雅が私の袖を引く。待って。清雅君、待って。もう少しだけ。猶予がないのは分かっているから。 考えろ、考えろ、考えろ。 暗殺傀儡でないというのならば逆に好都合だ、こちらには茈静蘭がいる。藍楸瑛だって確か将軍になるのだから自分の身を守るくらいはできるだろう。ならばここは藍楸瑛とともにあらかじめ決めておいた東宮の一室まで逃げるべきだ、そこで残りの護衛と合流すれば良い。 ――違う。 違う、何かが、違う。根本的に間違っている。 考えろ、私は何を見落としている? カツ、と先ほど取り落した盃に沓が触れた。思わず見やった卓の上には梅の花弁が散っている。 紅い盃、透明な酒、乳白色のつるりとした卓。こんな時に見ても気持ち悪いくらいに整っている。ここ選んだの誰だよホントに、と八つ当たりをしかけ―― 「――――」 突然、激しい動悸と頭の痛みに襲われた。 --------------- 2014.9.20 back top next |