そもそも、事件の発端は何なのか。 藍家の中央への再進出を快く思わない官吏の犯行――それにしては、些か大げさすぎやしないだろうか。 朝廷を辞して欲しいだけならば別に殺さなくてもいいはずだ。新進士の矜持を折る方法などいくらでもある。こんな、藍家への宣戦布告としか取れないようなやり方に出る必要はない。 なのに何故――『殺す』という選択がなされたのか。 紫劉輝が暗殺傀儡について話すのを聞きながら、私は今更のように、そんなことを思った。 色彩独奏競争曲 「“ 「……それが、藍楸瑛を狙っていると?」 「ああ。情報源は……まあ八割方信頼して良いんじゃないかな」 「あり得ません、たかが新進士一人に、そんな……」 愕然とした表情で手にした書類を握り締めた裏行代表は、続く言葉を見つけられずに俯いた。 御史台、藍楸瑛護衛委員会の執務室。私以外の三人――裏行代表、護衛代表の茈静蘭、そして陸清雅は私が渡した書類を手に、それぞれ違うリアクションを見せていた。 茈静蘭は相変わらず涼しげなポーカーフェイスを保ったまま書類を眺めている。おそらく既知の事実ばかりなのだろう。その様子が紫劉輝と少し重なって見えるのはやはり兄弟だからだろうか。 御史裏行は驚きに表情を染めており、陸清雅は――。 陸清雅は、今まで見たこともないような険しい表情で書類を見つめていた。 何か彼の琴線に触れるようなことでも書いてあったのだろうか。書類を作成したのは私だが、思い当たるものは無い。だが、こうまであからさまに反応しているのだ、何もないはずがない。 「清雅く――」 「暗殺傀儡は……」 「――ん?」 「……暗殺傀儡は、貴族粛清にも関わっていたでしょうか」 ほんの少し震える声は確かに少年の口から出ている。その内容が少し意外で、私は一瞬、反応することを躊躇った。 つまり、彼は王家の指示による暗殺と粛清の中に、『風の狼』の手によるものではなく、暗殺傀儡――『縹家の権力』を使用して行われた事例があるのではないかと疑っているのだ。 裏行代表が青褪めた顔をこちらに向け、茈静蘭でさえもが表情を強張らせた。 知らず握りしめた拳の中が、汗でじっとりと濡れるのを感じとる。こめかみを一滴の汗が流れた。 「…………可能性は否定しない」 やっとのことでそれだけを答え、誤魔化すように、少なくとも家の場合は『風の狼』だよ、と続けた。すると三人は非常に驚いた様子を見せる。陸清雅以外の二人は、話題を逸らす口実にと過剰気味に反応したのだろうが――それでもここまで驚かれる理由が分からず、私は首を傾げる。 家は貴族ではないが、貴族御用達の商家として一応の地位を築いている。2年前の当主暗殺は良くも悪くも様々な方面に波紋を広げ、話題になったはずだった。……その後の、事実上の後継者が貴族の地位を返上しなかった上に出奔してしまったらしいという噂を含めて。 私が下町に住んでいることは伏せているが、そこに至るまでの経緯は別に隠していない。なぜなら、当主暗殺は家にとってスキャンダルでも何でもないからである。貴族と違って血筋や家柄といったものにこだわりがないので、商品に直接関係することでない限り、たとえ血が断絶したとしても店さえ続けばさほど問題にならないのだ。情報網があまり発達していないので噂が広まりにくいということもあるが。 そう解説すれば、三人は一様に苦い表情になった。まあ、分からないでもない。このスタンスは間違いなく弱肉強食と下克上を推奨している。ただ、孤児に過ぎない私がやっていけた理由でもあるので、私自身はそれを批判することができない。 「……それは置いといて。ここ最近、暗殺傀儡――縹家に暗殺が依頼されたのは確かみたいだ。流石に 「私はともかく、たかが十六衛の兵が彩雲国屈指の暗殺集団に敵うとは思いませんが」 「君も十六衛じゃないか。まあでも、うん。そうだね……」 己を棚に上げた発言に――実際、上げるだけの実力があるから仕方ないのだが――苦笑を返し、尤もな意見に肩を落とす。十六衛は国軍だが、貴族や武国試出身の武官が属する左右羽林軍と違って小難しい試験や条件を設けていない。多くは義務の任期制だが志願することも可能で、自推他推なんでもこい、の寄せ集め集団である。 今回委員会に選ばれたのは、その中でも比較的身元がしっかりしており実力がある部類の人々だが、暗殺傀儡に対抗し得るとは思えない。まして十数日、交代制での護衛を担わなければならないのだ。 無謀である。 暗殺傀儡がいつ行動するのかもう少し狭めることができれば、あるいは何とかなるのかもしれない。それとも藍楸瑛を身の安全が保証される、留め置き期間終了まで軟禁するか、逆に官を辞すよう仕向けるか。 ――どうすればいい。 情けない話だが、暗殺傀儡が関わっているのではと予想した段階においても、私はまだ心のどこかで、そうでない可能性を希望していた。たとえ藍家直系とはいえ、たかが一人の新進士にこれほどまでの危険が迫っているとは思わなかった――思いたくなかったのだ。 けれども調査が進み、可能性が一つ一つ潰えていく度に、希望も削がれていった。どうにかしなければという焦燥ばかりがつのり、けれど打開策が見えてこない。 ――重い。 『風の狼』と並び称され、しかし性質は対照的な位置づけにある彩雲国の負の一面。暗殺傀儡。 そんな存在に、下級官吏ごときが立ち向かえるのか。生まれながらの秀でた能力は重ねる年月に磨耗していき、今では只人とそう変わらない状態だというのに。 思わず逃避のように目を閉じる。こうしている間にも暗殺傀儡は彼を狙っているかもしれない。 私には――『私』には、無理なのだろうか。 必死に手を伸ばしても届かない。頭を働かせても至らない。 ――……どうすれば……。 「…………十日後です」 ぽつりと、呟くような少年の声が耳に届いた。 「――え?」 「もしも藍楸瑛が暗殺傀儡に狙われているとしたら――奴らが行動に出るのは、十日後の深夜です」 「……随分はっきり言いますね」 訝しげな茈静蘭の問いかけに、陸清雅は書類を握り締め、表情を堅くしたまま顔を上げた。執務室に窓がなく薄暗いせいか、その表情はほんの少し青白いように見える。でも多分、私も同じ顔色をしている。 答えようとしたのか口を開いた少年の言葉は、しかし音になることはなく微かな息漏れに変わってしまう。 気が付けば裏行代表も彼を見ている。 陸清雅に疑惑を抱いているのは明白だった。 「根拠を話してもらえますか」 裏行代表が静かな声で訊ねる。陸清雅は唇をかみ締めて顔を逸らした。 「……酷ですが、拒否権はないのですよ。言う言わないではなく、言わなければならないのです」 「…………」 「陸くん」 「……僕には……」 「言えませんか」 小さく頷いた陸清雅に、裏行代表は表情を変えることなく席を立つ。そのまま、俯く彼の前まで来ると膝をつき、見上げるようにして視線を合わせた。 「では、誓えますか、殿に」 「え!?」 発せられた言葉に大きく反応したのは、陸清雅ではなく私の方だった。いや、彼も目を丸くしているが。ちなみに茈静蘭は黙って目を閉じている。まさか寝ているのではあるまいな。 「お、俺に誓ったところで何にも――」 「誓います」 「うえ!? ちょ、清雅くん」 「さん!」 「っはい! ……なに?」 どこか切羽詰ったように私の名を呼ぶ陸清雅の声に肩が一瞬跳ねる。思わず椅子から立ち上がり、姿勢を正して彼に向き直った。 頭一つ分低いところにある少年の双眸が、私を真っ直ぐに捕らえてくる。 「一度だけ、信じてください」 「……?」 「僕には、貴方に言えないことが山ほどあります。葵皇毅様が僕を侍僮にしたのもわざとです。……仕事のことを考えれば、本当は伝えるべきなんだと思います。ですが……今は、どうしても言えません。少なくとも、今は、まだ」 「…………」 「この状態で信用されるとは思っていません。だけど、一度だけ……いえ、この一言だけで構いません」 信じてください、と消え入りそうな声で、しかしはっきり言い切った陸清雅に、私は眉を顰めた。 ……信じるも何も。 「君の行動も発言も、全部信じてるよ。今までも、これからもそれは変わらない」 「お願いしま――え?」 「いやだから、最初から疑ってないんだよ。少なくともここにいる三人については」 「それはそれで問題がありますね」 絶句した陸清雅の胸の内を代弁するように、茈静蘭が呆れたような口調で言う。どうやら起きていたらしい。 「そう思う。だけど、俺は御史裏行ほど情報収集に長けてるわけじゃないし、君みたいに腕が立つわけでもない。貴族の事情だって清雅君の方がよほど知ってる。俺にできるのはせいぜい、君らを信じて大人しく委員長の椅子に座っていることくらいだ」 言いながら、どうしてこうもこの国には無闇に優秀な人間が多いのかと肩を落とす。私――というか『』の才能も決して悪くはないはずなのに、周囲の能力と比べれば悲しいくらい霞んでしまう。 だから、彼らの得意分野に関しては思い切って全て丸投げするのがベストだと考えた。 もっと言えば、裏行代表はともかく『茈静蘭』と『陸清雅』は私の記憶に引っかかる名前である。ということはつまり、原作に登場していた人物――記憶に残っているくらいだからメインに近い位置にいる人物達のはずだ。 彼らの名前を聞いて悪印象を持った覚えがないので、それほど悪役ではない、あるいは最終的に悪役でなかったミスリード的人物かなにかだったのだろう。 はっきりいって、この委員会は危うい。失敗すれば藍家からの追及は免れず、護衛の過程で命を落とす可能性だってある。にもかかわらず、決して表舞台に出ない仕事なので藍家の覚えがめでたくなるわけでもない。無駄に必要な労力、ハイリスクなのにローリターン。この仕事を葵官吏から聞いたとき、これほどやりたくない仕事もそうそうないだろうと思ったものだ。だが、委員会の構成を聞いて気が変わった。 ――未来で活躍する人間が、こんなところで消えるわけがない。 藍楸瑛、茈静蘭、そして陸清雅――。 不確定の未来に対し、その確信は思い込みにすぎないのだろうが、この上なく安心できるものでもあった。 私はそれだけを支えにこの場に立ち続けている。 彼らは死なない。そして、近くにいる私もきっと死なない。 ――……本当に? 「…………」 胸に過ぎった不安に目を逸らし、陸清雅と目線を合わせるように屈み、努めて穏やかな表情を作る。 「――うん、信じているよ。だから言えないなら言わなくていい。なんだか事情がありそうだしさ」 「……なんで……」 肩を震わせはじめた陸清雅に首を傾げる。キッと顔を上げた少年は、そのまま私に怒鳴り散らした。 「お人好しにもほどがあります! 何ですか信じるって! 疑ってくださいよ少しは! この2ヶ月間僕達がどれだけやきもきしたか分かってるんですか!?」 「え、ええ?」 「そりゃ信頼されているのは分かりますけど、報告の殆どを鵜呑みにするのはどうかと思います! それから不用意に藍楸瑛に近付くのは本当に止めて下さい、危ないんですから!」 「……俺に来る報告って、君たちが綺麗にふるいにかけたものじゃないか。藍楸瑛の近くだって護衛官が待機しているし、少しでも情報収集はしときたいし」 「だから……っ!!」 なおも言い募ろうとした陸清雅は抑えるように言葉を止め、何度か肩を上下させた後、大きく息を吐いた。 「……もしかして確信犯なんですか」 「え、何が」 「…………もう、いいです」 脱力したように顔を伏せる陸清雅の姿に、私はバツが悪くて顔を少し斜め上に逸らす。 確信犯という言葉はあながち間違いではない。本当は、何となく分かっている。 ――目の前の少年は、戩華王の粛清によって家を取り潰され、同時に両親を失ったという。 旧紫門四家として王家に裏切られ、国民として国に裏切られた。そんな彼にとって、誰かを信じる、あるいは信頼することは、生半可な気持ちで行えるものではないのだろう。その上、官僚の世界には不正と悪意がそこかしこに潜んでいる。名家同士の軋轢、虚栄心、自尊心、主義主張、そういったものが時に刃や罠となって足首を掴むのである。まあそれは多分、政治の世界に付き物なのだろうが――いくらも生きていない少年にとってはまだ、知る必要がなかったはずの世界だ。 そんな泥沼の中で無条件に他人を信じる私の姿は、彼にとってさぞかし異質なものに見えるだろう。お人好しが苛立たしく、反面眩しくもあるはずだ。 必要性の中に潜ませた、陸清雅という少年の信頼を得るためのブラフ。 他人の心理を弄ぶような行為に吐き気がする。けれど、これ以外の方法を私は見つけられなかった。 薄く、気付かれないように深呼吸する。 決して伝えられない謝罪の代わりに、私は、私が行ってきて、そしてこれから為していくだろうすべての事柄を、悪事を、忘れずに抱え続けなければならない。 「では、九日後の早朝より十日後の夜明けまでを、藍楸瑛護衛の最重要期間とする。各代表はそれぞれ護衛計画を明日までに練り上げ、俺に提出してくれ。護衛武官のローテー……交代順などは君らに一任する」 告げた言葉に、裏行代表と茈静蘭の両名から是の返事が返ってくる。 少しの間だけ集中するために目を閉じる。その瞬間、周囲の雑音が全て遮断された。 ――やらねばならない。成功させなければならない。……私に、できるだろうか。 できるよ、と静寂の奥から返答があった。 はっとして目を開く。 「今……」 「委員長?」 「…………いや。今日は、解散する」 どくどくとやたら大きな鼓動を打つ心臓をおさえる。視界の端で、裏行代表と茈静蘭が退室するのが見えた。陸清雅はまだ室内にいるようだ。 「君も行くといい」 「……え」 顔を上げてそう言えば、一瞬だけ泣き出しそうなほど顔を歪めた陸清雅が言葉を漏らした。 傷つけるのは本意ではないので、明るさを取り繕う。 「裏行代表の計画立案に参加してくれ。多分、貴族の行動原理を身に沁みこませた君が、必要になるから」 「あ、はい……」 納得した様子で室を辞す陸清雅は、それでもなにかあるようで、ちらちらと私の方を振り返る。それに笑ってヒラヒラと手を振ったまま見送り、誰もいなくなった小部屋で、私は今度こそうずくまり、荒い呼吸を繰り返した。 胸が痛い。 もっと言えば、胸の中身が痛い。息ができない。苦しい。 冷や汗が流れ、伸ばした先の爪色がほんのり青くなっている。とたんに強い既視感に襲われた。 私はこの痛みを覚えている気がする。この息苦しさを知っているはずだ。コポリと、吐き出した息が水泡に変わるような重たい呼吸は――。 けれど、記憶を手繰り寄せる前に、意識は途切れた。 ふと目を開けると、細い梁を巡らせた天井が目に入った。顔にかかる陽光は茜色を呈していて、辿った先の丸い窓からは夕日こそ見えなかったものの、赤く染まる花木が見えた。桜なのか梅なのかは分からない。 2、3度瞬きを繰り返して目を慣れさせる。目尻に溜まっていたらしい涙が零れたが、頬が変に乾いたりはしていないので、寝ている間に泣いていた、なんて恥ずかしい目には遭っていないようだ。ただ、その代わりに体の上には龍胆紫の上衣が掛けられていた。身を横たえていたのはどうやら長椅子らしい。 上体を起こしてくるりと辺りを見回せば、右手奥に見覚えのある人物と執務机が見えた。 「……どうやらご迷惑をお掛けしてしまったようで。大変申し訳ありません、葵長官」 長椅子から降りて上衣を両手に抱え、執務室の前で立礼する。葵官吏――先の内乱後の人事刷新で次官である御史中丞に就任している――は、私の姿を一瞥するとすぐに机上の書類へ目を落とした。相変わらずの仕事ぶりに、私は許可を得ていないにも関わらず頭を上げる。 目の前の人物に対して敬意を払う気持ちが若干削がれていたし、そうしたとして怒るような人物でないことを知ってもいたからだ。 「――無為の使用は許さん、と言ったはずだが」 「え? ……それは……すみません」 一瞬何を言われたのか分からなかったが、何のことは無い、陸清雅と初めて対面したときに葵官吏から言われた言葉である。侍僮や御史台の面々、武官に頼る前に自分で考えよ、という。 それに関し私が至らないのは正直認めざるを得ない。現状、様々な意味で無様なのは事実である。 だが、口からでた謝罪は思った以上にぞんざいなものだった。 ――葵官吏が苦言を呈した以上に、私も憤っているのだ。 「いくつかお聞きしたいことがあります。今、私が請け負っている件について」 「……言ってみろ」 「私はこの件、礼部――魯官吏からの依頼を請けたはずです。定期報告も貴方へ提出するものと同様のものを魯官吏に渡しています。私の所属は礼部一時預かりであり、御史台へは協力を仰いでいるにすぎません。ですが――」 一度言葉を区切り、息を吸い込む。 「――どういうことです。護衛対象に絡む外敵、および件の構造は……思い切り御史台の扱う範疇ではありませんか」 「蓋を開ければ担当部署が違っていた事などいくらでもあり得る」 「ありますね。実際、今はほぼ御史台としての判断で動いている状態です。ですが、ならばなぜ最初からそうしなかったのです。なぜ、礼部からの要請が来るまで動かなかったのですか」 ぴくりと、ほんの僅かに葵官吏の瞼が動いた。 「最初は噂のみでした。『紅家が藍楸瑛を狙っている』。取るに足らない噂と思われていましたし、事実すぐに立ち消えましたが……その後、新進士宛ての書簡から毒物が発見されました。なぜですか。 どうして……魯官吏は毒に気付くことができたのですか」 礼部は毎年毎年、書簡に毒物が付着していないか検査しているとでもいうのか。そう言うと、葵官吏は書き物をしていた手を止め、小筆を筆置きにのせた。どうやら話を聞く気になったらしい。 「貴方の指示ですね」 「何がだ」 「魯官吏は、貴方の指示を受けて毒物検査を実施した。違いますか。結果報告が真っ先に貴方へ行ったことこそが証左だと思うのですが」 「進士式監査の私が指示し、報告を受けることに何の疑問がある」 「貴方が進士式監査に就いていたことそのものが疑問です。貴方は――位が高すぎる」 いくら内乱のごたごたの中で拝命した位とはいえ、通常、監査は殿中侍御史や監察御史がするものであり、一定以上の高官は全体の指揮を執る。業務遂行に対して鬼のように厳しい葵官吏が、自身の仕事を放棄してまで監査に就いたということは、つまり、進士式に『そうしなければならないだけの何か』があったということである。 多分葵官吏は最初から、御史台でこの件を扱うつもりだったのだろう。 「――けれど、貴方は礼部からの要請を待った。貴方が動かなければならないほどの事情がこの件にはあるのに、御史台単体では動くことができなかったんですね。……いや、むしろ」 御史台が動いていることを知られたくなかったのではありませんか。 付け加えた言葉は八割がた私の予想だったが、葵官吏は微かに口角を下げた。伊達に数年付き合っていない。今まで見てきた人間の中でも圧倒的に感情が読み取りにくい人物だが、分からないわけではない。 ――予想はあながち外れていなかったらしい。 「それについては謝ります。御史台の関与を公にしたのは私です。あのときはこのことにまで考えが及んでいませんでした」 「…………」 意趣返しとばかりに笑んで告げるが、葵官吏の表情は動かなかった。どころか、仕事中に見せたことのない不可解な視線でもって私を真っ直ぐに射抜いてくる。試すのでもない、詰るのでもない、ただ、私の為すことを在るがままに観とめるだけの双眸。 居心地が悪くて、言い知れぬ苛立ちと、何故だか焦燥が湧き出でて喉が締まる。それでも疑問を晴らさねばならないと、その思いだけで掠れる声を振り絞った。 「……っ、私が……私達が、調べていないとでもお思いですか。探花及第の それだけならば何も問題ない。分家と言えど本筋からは程遠く、性質は史書編纂であって、決してどこぞの一族のように軍師を担っていたり武に秀でているわけではない。「だからなんだ」と、一笑に付しただろう。 だが、一つだけ問題があった――そもそもの根源が。 紅家に連なっていること。それが、問題だった。 「彩七家の中で唯一、紅家だけが持つ特性……紅一族と分家、そして紅州の民のほぼ全てによる――紅本家への崇拝」 慕うことは害悪ではない。けれど、過ぎた慕情は時に狂気と同義だ。 紅本家の持つ生来のカリスマ性と執政能力、そして他者を寄せ付けない排他的態度、高圧的にも見える絶対的な自信、彩七家において藍家と双璧を為すほどの血筋の尊さが、そうさせた。 色々な意味で奔放な藍家と違い、孤高を地で行く紅家の姿は、紅本家以外の人間に憧憬と敬愛という名の一体感を与えてしまった。きっと彼らは、本家が命じれば容易く国を捨てるだろう。 「正家とて例外ではありません。正博士の父は……府庫に籍を置いていますね。彼は、一族の中でもとりわけ紅家至上主義を掲げていると聞いています」 「細君は藍家の出だろう」 「……やはり調べていたんですね。ええ、そこが解せないところではありますが――」 「よしんば他の紅一族の加担があるとしても、藍家を害す理由には弱すぎる」 「分かっています。それに、これだけでは李絳攸が――紅家が釘を刺しに来る理由にはなりませんし、まして紅家当主が紅家の関与を完全否定することなどありえない。当主の細君が調査を約束してくれてはいますが、正直、紅黎深が否定した以上、紅家は本当に関わっていないのだと考えるのが妥当でしょう。だから」 現場付近で何度も目撃されている正博士と、もしかしたらその父――正家当主は、おそらく紅家のために動いているが、その動機は紅家と切り離して考える必要がある。 ただ、彼らが縹家に暗殺傀儡を依頼した張本人だと決めるのは早計だ。暗殺傀儡は一部の人間、特に貴族や朝廷の上層部にとってはかなりオープンな存在である。使用記録は縹家に残るし、縹家が口を割らずとも調べる手段がないわけではない。良くも悪くも最終手段なのだ。 それに、その他の妨害――ここ最近の藍楸瑛への攻撃も気にかかる。 暗殺傀儡を依頼したのなら全てそれに任せてしまえば良い。ちまちまと回りくどい手段で害さずとも確実に殺害してくれるのだから。今考えればひと月何も起こらなかったのだって「暗殺傀儡に依頼した」という安堵感からきたものだったのだろうに、何故私の拙い揺さぶりなんかに釣られてしまったのか。 考える程訳が分からなくなる。 私は溜息を吐いて思考を一旦打ち切った。 「分からないことだらけです。ただでさえ対象が藍家ってだけで大層なことなのに、貴方が動かなければならなくて、その上御史台の存在を伏せておきたいなんて、どんな重大案件ですか。こっちは死にもの狂いです」 「ならば降りるか」 「……!」 思いがけず与えられた離脱の選択肢に息を呑む。 葵官吏はさっきと同じ、ただ見るためだけの視線を向けている。そこには何の感情もない。失望すらも。 それを見るだに、ふつふつと怒りなのか苛立ちなのか悲しみなのかよくわからない感情が湧いてきて、気付けば執務机を叩いていた。 「――見くびらないでください。まだやれます。私一人ならば手に余ったのでしょうが――生憎、貴方が与えてくださった人員は呆れる程に優秀です」 「浅はかな感情で貴重な人材を危険にさらすのは愚の骨頂だな」 「ええ、そう言われると思っていました。ですから、要請します」 「……要請?」 「護衛委員長のより、御史中丞の葵皇毅殿へ。任を遂行するに当たって、最低限の要求を。陸家嫡男である侍僮・陸清雅――少なくとも彼の安全を保障していただきたい」 「ほう。その他の人間は切り捨てるか」 葵官吏は若干愉快そうに――もしかしたら嘲っていただけかもしれないが――口元を緩めた。 「他の者は一人の官吏として朝廷に入った時点で擁護される立場を失っています。勿論委員長として彼らの安全確保には最大限の努力をしますが……今回の件では正直、難しい部分があります。けれど清雅君はそうではないでしょう。彼は官吏ではないし、将来有望な12歳の少年です。陸家嫡男という立場を差し引いても、十分保護するに値します。違いますか」 一気にまくしたてた私の言葉に、葵官吏は今度こそ笑みを浮かべた。嘲笑かは分からない。ただ、目は笑っていなかった。 「いいだろう」 その一言は、驚くほど素直に私の胸の中におさまった。 意外にあっさり許可が出たことで一瞬呆けたが、慌てて気を取り直し、礼を述べる。 そこでやっと葵官吏に挑発されたのだという事に気付き、同時に上手いこと誘導されたらしいことも察して一気に恥ずかしくなる。元々が憤りから始めた一方的な文句だったせいか気まずさ倍増である。 だから、誤魔化しの意味も込めて会話を打ち切ることにした。 「……何にせよ、今はまだ十分な証拠も証言もありません。十日後の深夜に動きがあるとの情報を入手しましたから、その際に現行犯で捕えるしか――」 「十日後? それはどこからの情報だ」 「……? 陸清雅君です。事情があるみたいで、詳細は分かりませんでしたが」 「そうか」 思わぬ食いつきに違和感を覚えるが、葵官吏の表情は変わらない。別段険しくなったわけでもないのでそれ以上の追及は控え、ふと、思い出したことを訊ねることにした。 「そういえば、陸姓官吏ってまだ朝廷にいたんですね。……ああ、決して貶しているのではなく。粛清のときに手ひどくやられたと聞いていたものですから」 「会ったのか」 「直接お会いしたわけではありません。太子様の教育係を務めておられるとか」 葵官吏は小筆にのばした手を一瞬止め、視線を私に向ける。だが、ややあって再び筆を取った。世間話に移行したことに気付いたのだろう。書類に目を落としたまま口を開いた。 「陸清雅の叔父だ」 「叔父上殿……もしかして彼の後見人ですか」 「ああ」 だから朝廷に残ることができたのか。陸家は本家以外ほぼ壊滅したらしいし、その本家にしても陸清雅とその兄妹しか残っていないと聞いていたが、なるほど、後見人ならば話は別だ。 それ以上話をする気はないのか、葵官吏は物凄いスピードで書簡を片づけていく。 私はといえば、悶々としていた考えを吐き出し、回答は得られなかったものの葵官吏にある程度一矢報いることができた――ような気がして、妙にスッキリしていた。のせられただけのような気がしなくもないが。 「散々不敬を申しました。処分は甘んじて受けますが、どうか任務遂行後にお願いします。……上衣、ここに置いておきますから」 執務机を叩いたときに落としたらしい上衣を拾い上げて軽くはたき、長椅子に掛ける。そういえば、と退室前に一つ追加で聞いておくことにした。 「私を運んでくださったのはどなたですか。後日御礼を申し上げたいのですが」 「知らん」 「……気のせいでしょうか。某紅家当主からも同じ返答を頂いたことがある気がします」 「……………………私だが」 絞り出すように苦々しく告げられた言葉に苦笑する。 どうも私の上司は黎深さんのことが好きではないらしい。 「ありがとうございました。この御礼は追ってお返しいたします。――最後に、もう一つだけ」 「まだ何かあるのか」 若干面倒臭そうな雰囲気を感じたものの、すぐに退室する身なので気にしないことにした。 「……貴方と私の見ているものは、同じでしょうか」 返答はなかった。少なくとも礼は受理されただろうと勝手に解釈し、そのまま踵を返して扉を開ける。 「」 「はい?」 「――――」 けれど、退室直前に放たれた言葉が、再び私を混乱の中へと導いた。 ――正解だ。 一体どれを指したものなのか、決して言わない葵官吏は正しく鬼である。 ---------- 2012.10.2 2014.8.27 加筆修正 back top next |