恥も外聞も関係ない、と言い切ることは簡単だ。
 けれど、実際そうした行動を取るには相応の覚悟か、あるいは開き直りが必要になる。
 足元に引かれた一本線。ただ物質として存在するだけの境界。踏み越えるのは造作もない――が。

「…………」

 体を動かすのは、どうやらそれなりに難しいらしい。
 後宮――侍女・官女の詰め所や居室が並ぶ区画で、扉に手を掛けたまま私は唸っていた。勢いづいてここまで来たはいいものの、ともすれば長年の努力が無に帰すかもしれないのだ――というか、多分、そうなる。

 ずっと耐えてきたのに。
 ずっと、我慢してきたのに。
 待って、待って、待ち続けて、憎いのか恋しいのかすらよく分からなくなって。
 それでも一目会いたかったから。会って、話をしたかったから。望んだのはこんな形ではない。

 ――それでも。

「……ああ、もう!」

 ――それでも、抗うことのできない衝動があるとすれば。
 それは、私だけのものじゃあ、ない。

 扉を開け放つ。境界を踏み越え、声を張り上げた。

「失礼仕る。監察御史のと申します。――宮官、『尚宮』珠翠に話を伺いたい」



色彩独奏競争曲
彼女のためのシレンツィオ




 突然の訪問に、詰め所内の女官達はいささか驚いたようだった。私の姿を見て留め、近くにいる同僚に目配せし、やや困ったような表情でそれぞれが立ち上がり、立礼を取る。そのなかで、衣装や髪飾りに意匠を凝らした年配の者――おそらく最も高位の女官が面を上げた。

様。申し訳ありませんが珠翠は只今宿下がりしております」
「……いつからですか?」
「昨日より」
「理由は返答可能ですか」

 年経た女官は静かに答える。

「来年の、わたくしの退官が決まりましたので。――彼女を次の筆頭女官にと推しました。その準備に」
「…………っ」

 その言葉に一瞬、目の前が白く明滅する。――筆頭女官。
 従五品以下で構成される後宮女官の中で唯一、正五品の位を戴く者。後宮の総務を司る『尚宮』の長であると同時に、場合によっては妃嬪(ひひん)に組み込まれてもおかしくない地位である。
 そうなってしまえば――結局のところ冗官の位を脱していない私は、彼女に会うどころか、もう訪れることすらできない。手が届かなくなってしまう。

 頭を鈍器で殴られたような、とは、こういうことを言うのだろうか。どこか麻痺してしまったかのように、思考が前へ進んでくれない。問わなければ、調べなければならないことがあるはずなのに、動けない。
 宮官は――現・筆頭女官は、そんな私の姿を見て溜息をついた。

様」
「…………何でしょうか」
「貴方が毎日毎日、飽きもせず珠翠を訪ねていたことはわたくしも知っております。最近は余計なオマケまでお連れになっておられるご様子。彼女に、何故会って差し上げないのかと問うたことも一度や二度ではございませんよ。……答えは、いつも同じでしたが」

 心臓が大きく鼓動する。一瞬にして息が詰まり、拍子に少し目が見開く。流れる激情を押さえ込み、平静を装って筆頭女官を見返すが、視線を合わせることはできなかった。
 震える唇が勝手に言葉を紡いでいく。

「珠翠は、なん、て」
「……『あわせる顔がない』、と」

 告げられた言葉に、頭の芯が沸騰する錯覚に陥る。しかし次の瞬間に熱は霧散し、驚くほどの速さで下がった温度は、凍えそうなほど冷たかった。それでも何とか取り繕って言葉を返す。

「――そうですか。珠翠がいないのならば仕方がありませんね。出直そうにも数日待たねばならないようだし、この場は取り合えずお(いとま)しましょう。この無礼、平にお詫び申し上げます」

 早口に退散の旨を告げると、宿下がり中の珠翠に会いに行くと思ったのだろう、他の官女達がにわかに色めきたった。「頑張ってくださいまし」「様の情熱はきっと伝わりますわ」などと言葉を掛けてくる彼女達に苦笑を返しながら扉に手をかけ、退室した。

 何故か見送りに出てきた筆頭女官が、諦め交じりの寂しげな笑みを浮かべたのを横目で見やる。どこか後悔しているようにも見える自嘲の表情に思わず言葉が漏れた。

「残念そうですね」
「わたくし、様があの子を後宮から攫ってくださったらどんなに良いだろうと、いつも思っておりましたから」
「珠翠が嫌いなのですか」
「いいえ。優秀で、真面目で、申し分ない子です。ですが――あまりに多くを持ちすぎています。……筆頭女官になってしまえば下野するのは至難の業。年若いあの子を後宮に縛り付けるのは、しのびなかったのです」
「……彼女は、身一つと」

 思わず首を傾げる。私が持つ『珠翠』の印象は、筆頭女官の言い草とは合致しなかった。
 生家は神祇一族の縹家で、出奔しているから戻ることはできない。その後の経緯は「風の狼」の一員として暗殺稼業に手を染めていたという、一般的に何となくダーティーさの漂うものだし、そもそも今回の宿下がりだって腑に落ちない。おそらく城下に構えた実家という名ばかりの別邸でもあって、それを引き払うためなのだろうけれど。――現状、彼女に家族といえる存在はないのだから。
 そのような人物が「多くを持っている」とは。筆頭女官の言い方だと、才覚や地位とは違うもののようだ。
 私の疑問を見透かしたように、彼女は会話を続けた。

「大切に想う人や、好きな方。なによりも幸せを願ってやまない存在。……彼女には、それが多すぎるのです」

 自分は珠翠からそれらを奪ってしまうのだと、筆頭女官は締めくくった。
 宮官の執務棟の出口に来て、私は(きざはし)を降り、見上げる形で筆頭女官と相対する。

「貴女の意に沿えず申し訳ないが、私が彼女を攫うことはできません」
「分かっております。他の女官はそう思っていないようですが……珠翠に恋慕してはいないのでしょう?」
「秘するが花ということにしておいてください。どちらにせよ彼女の待ち人は私ではないのですから」
「では、貴方は何年も、なにを待っていらっしゃるのです」

 そこを突っ込まれるとは思っていなかったため、少しだけ面食らう。何となくおかしくて笑みがこぼれた。
 数年間溜め続けてきた想い。ずっと耐えて、我慢して、待ち続けて。それでも追い求めたもの。

「過去の残照、でしょうか」

 筆頭女官は私の答えに不思議そうな顔をしたが、ややあって美しく微笑んだ。

「本当に、貴方が攫ってくださったら良かったのに」



 女官と別れた後、御史台に戻る気にはなれず、私は無人の後宮深部――通常高位妃嬪がいるはずの場所――をうろついていた。先の内乱、および大飢饉に前後して当時の妾妃が全て暗殺、もしくは放逐されて久しい空間は、女官が手入れしているためか荒れてはいないものの、空寂閑閑としている。

「……まいったなあ……」

 外界から隔絶されたように静寂をまもる空間で、私はしゃがみ込んで弱音を吐いた。

 「私が犯人だったらどうするか」を考えた時、真っ先に浮かんだのは「その道のプロに頼む」ということだった。
 毒は書類に仕込まれたものの実際に運んでいたのは無関係の官吏で、それ以外の直接的な手段は何も知らない荒くれ者に委ねられていた。故意に仕掛けられた書類の不備を見るに、社会的抹消も本気で考えられてはいないようである。はっきりいって、本気で殺そうとしているとは到底思えないのだが――そうすると、致死量以上の毒物が混ざっていることへの説明が付かない。
 だから当初は、加減を間違えた悪戯かとも考えた。だが、揺さぶりに反応し、以前よりも毒の効力を高め、荒くれ者もほんの少しグレードアップして雑兵くずれが混じったりといった現状を考えれば、稚拙なりに本気なのだろうということが伺える。

 相手側に藍楸瑛への明確な害意があることは間違いない、というのが委員会の見解だ。

 今でも正直、何となくちぐはぐだという感触は否めない。内と外が合っていない。目的の大きさに対して、それを収めるための器が小さすぎる。
  
 ここで、改めて『私が犯人だったら』と考えてみよう。
 数々の手段が失敗に終わり、藍楸瑛の存在が『王との接触』により更に注目されるものになって、秘密裏に処分することも難しくなってしまった。
 さて、いま最も必要なのは何か。
 害すための物品はある。財力も――致死性の高いものを複数、ピンポイントで相当量使用しているのだから、おそらくある。
 ならば後は、それを行使する『技術』だけだ。
 とすれば、この国でその技術を担うのは――。

(風の狼……は無いとしても、暗殺傀儡(あんさつにんぎょう)への接触はあると思ったんだけど)

 御史台に僅かながらも在籍し、国の深部を垣間見て驚いたことは幾つもあるが、そのうちの一つが「暗殺傀儡の使用頻度と知名度」である。てっきり秘匿されている部分だと思っていたし、実際庶民は必ずと言っていいほど知らなかった。下級官吏も大部分がそうであったのだが――なんてことはない、大業年間に暗躍しまくったせいで、大貴族および上級官吏、また力ある貴族にとっては存在も役割も周知の事実だったのである。
 下手すると「縹家? ああ、暗殺一族でしょ」という返事が返ってきそうなくらいには。
 窓口も各地にある廟――の、所謂裏ルートというお手軽さ。そりゃあ依頼もしやすいだろう。もちろん相応のコネクションが必要になるが。
 以前の絞込みで、敵は高官だとあたりをつけている。ならば暗殺傀儡についても知っている可能性が高いと踏み、最も接触しやすい珠翠を情報源としてそれとなく聞いてみるか、いざとなれば私のアドバンテージともいえる『』の頭脳と、わずかな『彩雲国』の情報を使ってでも取り込んでしまおうと考えたのだが――。
 タイミングが悪かった。その一言に尽きる。

(となると、あと知ってそうなのは紅邵可くらいか)

 いやまあ鳳珠さんや黎深さんあたりも知っているとは思うが、実際接触したことはないだろう……と思いたいし。確実に知っているだろう王族や朝廷三師への接触なぞ御免である。下手をすると私の首が飛ぶ。
 こうなったら、暗殺傀儡が来ること前提で護衛するのが一番てっとり早いのだが――。

「……かなりきついな」
「何がきついのだ?」
「!?」

 突然声を掛けられ、全身が硬直する。咄嗟に隠し持っている護衛用の懐剣へと手を伸ばす。一瞬にして背中全体と額に冷や汗が流れ――そういえば聞かれて困るようなことは口にしていないと気付き、手を戻す。おそるおそる立ち上がって振り向くと、そこには一人の少年が立っていた。

 色素の薄い髪を無造作に流し、着崩した上衣の間からは華奢な鎖骨と首筋が見える。驚いて言葉を失う私が不思議なのか、ゆっくりと首を傾げる様は外見の年齢にそぐわず、妙に妖艶でさえある。涼やかな目元はけぶる睫に彩られ、幼さの残るあどけない顔は恐ろしいほど整い――つまるところ、文句なしの美少年であった。長年商人として生活していた性(さが)なのか、容姿よりは衣の緻密な柄と特上の絹に興味が惹かれるが、それを差し引いても美しい。
 年のころは12、3くらいか。十代後半ではないだろう。にもかかわらず「可愛い」の範囲をぶっちぎりで通り越し、「美」のレベルに達しているのだから将来有望すぎる少年である。
 ただ、ほぼ完璧なバランスを誇るパーツの中で、真っ直ぐ向けられた瞳だけがどこまでも(くら)い。

 人気のない後宮をたった一人でうろつく少年の姿は正直なところ不審者にしか見えないが、正体には心当たりがあった。官吏でなく、侍僮でもなく、だらしなく崩した薄紫の衣を許される、この国で唯一の少年――。
 第六公子、紫劉輝。

「……何故、黙っている?」

 訝しげな声に引き戻され、ハッとした私はすぐさま叩頭した。本能的なものか、それとも理性が警鐘を鳴らしているのか、おさまったはずの冷や汗が、一瞬にして全身から噴出する。
 本来、後宮は王族や管理に携わる官吏以外立ち入ることのできない場所である。表向き、私は冗官でメッセンジャーまがいの雑用係ということになっているが、流石にこうも奥に入り込んで言い訳が立つとは思えない。しかも、見つかったのがよりによって王族――それも直系の公子である。下手すれば極刑だ。そのことに思い至った途端、恐怖心が私を支配した。

 少しでも気を抜けば叫びだしそうになる程の息苦しさと緊張の中、地に額を付けたまま、私は、伏した手が震えていることに気付いた。と同時に、もやもやとした違和感が湧き上がってくる。

――『紫劉輝』は、はたしてこのような人物だっただろうか。

 もはやおぼろげにも程がある記憶であるが、少なくとも、私が出会い頭に土下座するほど恐ろしい人間だったとは思えない。むしろ親しみやすさが過ぎるくらい、王としては普段の姿に威厳がなかったような気がする。
 だとすれば何故、私は彼が怖いのだろう。罰されるから? ――いや、そんなことではない。

 兎にも角にも暗に「何か言え」と言われた身として、顔を上げないままにおそるおそる口を開いた。

「……発言をお許しいただけますか」
「許す。(おもて)を上げよ」
「殿下におかれましては掖庭宮を散策されていたご様子、私ごとき矮小な存在にお心を割いて頂いたこと、至極光栄に存じます。本来主上の後庭であるところの後宮に立ち入っております(よし)、殿下のご不興を買うのも道理。ですが、申し開きする意はございません。職務上、秘するところにございますれば」

 とりあえず、後宮に入るのが褒められた行為ではない、というより禁止されている(規制はゆるいが)ことなのは承知しているため謝罪する意を示す。罰則が怖いので思わせぶりな一言で論旨を逸らすことも試みてみた。
 紫劉輝は何を考えているのか読めない瞳と無表情で以て返答した。

「私にも言えないのか」
「申せとおっしゃるのならば如何様にも」
「言え」

 暗に「話したくないけど話せと言われたら拒否権ありません、空気読んでください」と言ってみたものの、通じなかったようだ。しかし、秘密だと言っているだろうが、と詰りたい気持ちは相変わらず続く緊張の前に立ち消え、米神の動きは制限されてしまう。
 そもそも紫劉輝は第六とはいえ今となってはただ一人の公子であり、現王と霄太師から正式に後継とみなされた時期国王である。つまり国王以外に並ぶもののない至高の位に座している――れっきとした『太子』なのだ。請われれば従うより他に選択肢はなく、そもそも私と同じ目線を持っていると思うほうが間違いだ。人の上に立つ者として、個ではなく全体を見るよう教育されているはずなのだから。そう――

 いつだって私達『個』は、『全体』の前に切り捨てられ、時に救われ、蹂躙され、振り回されていくのだ。

 あれ、と思う間もなく、どす黒い感情が渦巻くのが自分でも分かった。吐き気がするほど薄暗くドロドロした本性が『私』という殻をやぶりたがっている。2年前に味わったとんでもない苦味が今更蘇ってきて、思わず地に付けたままの手を握り締める。爪の中に土が入り、不快感を読み取られるのを恐れた私は下を向いた。

「…………諸事情より、今年の新進士の護衛をしておりまして」
「分かった」
「…………。…………は?」
「つまり、藍家の四男が狙われているから御史台で調査と護衛を同時進行している件だろう」

 思わず顔を上げた私は、おそらく間抜けな表情をこれでもかと晒していただろうと思う。いやまあそうですが、と言いたくなる衝動をなんとか飲み込み、肯定の返事を返す。
 それにしても、どこからそれを知ったのだろうか。確かに紫劉輝は太子だが、彼の場合、逆を言えばただそれだけに過ぎない。現状、彼は特に何か仕事をしているわけでも、責務を担っているわけでもない――人はそれを職務放棄と言うのだが――ので報告義務は生じないし、葵官吏が情報を漏らすことはありえない。
 紫劉輝に情報が渡ることはない、はずだ。

「どなたからお聞きになったので」
「葵官吏から聞いていないのか?」
「……葵官吏が? え、あの、……え?」

 今しがた違うだろうと思ったばかりの人物の名を出され、一瞬混乱する。紫劉輝は構わずに続けた。

「まあ正確には陸……私の教育係からだ」
「教育係、ですか」
「ああ、葵官吏と知己らしい。少々口うるさく、今も逃げ……いや」

 勝手に口を滑らせた紫劉輝は、無表情ながらもどこかバツが悪そうに顔を背ける。
 私は私で、葵官吏経由の情報ならば疑う必要はないだろうと考えていた。葵官吏がその教育係に話したのなら、それは多分紫劉輝に情報が渡ることも見越した上でのことだ。朝廷では大体のものを疑ってかかる必要があるが、葵官吏の仕事だけは心から信じても良いのではないかと思っている。

「……話を戻して良いだろうか。何故そなたは『きつい』と言っていたのだ?」

 唐突に戻った会話に、そういえばと頷く。もともと訊ねられたのはそのことだった。仕事内容は肝心な部分が丸ごとバレている様子だし、どうせ拒否権はないのだからと、腹をくくって包み隠さず――委員会の構成人員はさすがに伏せたが――説明する。
 暗殺傀儡使用の可能性について言及したところで、紫劉輝は頷いた。相変わらずの無表情と無感動の瞳が私を見据える。

「では聞いてみよう。分かったらそなたに教える」

 ごく自然に言い放たれた言葉に思考が止まる。しかし一瞬の後に半端ではない焦燥が胸の内を支配した。
 恐慌に陥りそうな精神を何とか支え、返事をした声は若干震えていた。

「で、殿下におかれましてはそのようなこと、何卒私どもにお任せください、これも職務の内にございます」
「そなたに縹家の内情が探れるとは思わないのだが」
「それは……いや、ですが」
「案ずるな。私は口が堅い」
「そういう問題では……!」
「私にできることはそう多くないが」

 独白のように呟いて、紫劉輝は――薄っすらと、本当に微かに、口角を吊り上げた。

「そなた一人の力くらいにはなれる」

 ぽかんとする私を置いて、紫劉輝は「半刻ほどで戻れるだろう」と言い残し、去っていく。
 驚きのフットワークであった。



 呆然と座り込んだまま紫劉輝の姿が周囲のどこにも見当たらなくなったことを確認し、私は体の力を抜いた。嵐が過ぎ去れば、後に残るのは粉々に壊された残骸だけである。
 何だかもう全てどうでもいいような心持になり、目に付いた建物の段差に座り込む。衣のところどころに付いた土を手で払いのけるが、その手すらも汚れていることに気付き、諦めた。

 おそらく、私が紫劉輝を恐れるのは無意識の内に過去の経験と重ねているからだ。『檻』の人間として疎まれていた幼少期の記憶は色あせることなく脳裏に刻みついてしまっているし、大飢饉は到底忘れられない。
 門戸を閉ざした貴族達、玉座を巡る諍いばかりで機能の殆どを失っていた朝廷、そして元凶の王族。
 助けを求める庶民の声は風の音にかき消され、最底辺にいた同胞は声を上げることすらできずに死んだ。

――好きで『檻』に生まれたわけじゃない。

 生まれた場所が底辺だった。ただ、それだけだ。
 それに対し不満を言うつもりはない。けれど馬鹿にされたり、蔑まれるのは心底嫌だった。

 だって、どうしようもないじゃあないか。
 生まれる場所は選べない。

 そういうことがあるから朝廷が存在していることは知っている。『個』の力ではどうにもならないことを『どうにかする』ために国王と官吏ががいることも分かっている。それでもなお、願わずにはいられないことがあるのだ。

――『私達』を見て。
――お願いだから、切り捨てないで。
――見捨てないで。
――助けて。

――助けて、ほしかった。

 『』が生まれ、『私』が生き、嵐の中で消滅した、王都の片隅に存在した貧民街。
 今もなお粗末な墓が乱立する小さな地区は、忌むべき場所として浮浪者や荒くれ者すら近づかないという。

――どうしていつも、一番に切り捨てられるのは貧民(わたしたち)なのだろう。

 土まみれの衣を握り締める。泥が広がったって構わない。どうせもう、汚れている。
 衣が汚れている。手も汚れている。そして私自身の性根も。

 見捨てられたくなかったくせに。助けてもらいたかったくせに。玉座の人間を詰り続けていたくせに。

 結局『私達』にとどめを刺したのは、紛れもない『私』自身だった。

 ぼんやりとした思考の沼に引きずり込まれそうになり、私はゆるゆると顔を上げる。いつのまにか戻っていたらしい紫劉輝が私の前に直立不動で立っていた。相変わらずの無表情だが、微動だにしないその姿の中にわずかな困惑が垣間見え、不敬ではあるが表情が緩んでしまった。
 その表情はおそらく、よほど不気味だったのだろう。紫劉輝は驚いたように目を丸くし、その一瞬だけ彼の瞳に光が宿った――ように見えた。次の瞬間には元の冥い瞳だったので真相は不明である。

「具合でも悪いのか? すまぬ、待たせすぎたのだろうか」

 謝るべきは私の方だろう。何せ太子をパシらせたのだ。そう思うが目の前の人物はそのことに思い至らないのか、はたまた端からそういう発想に行き着かないのか、律儀にも私の返答を待っている。
 私は私で、暗い意識から浮上した名残か、それとも貴重な情報がもたらされるだろう(と思われる)期待からか、眼前の公子がやたらめったら輝いて見えるという、酩酊にも似た不思議な感覚に陥っていた。
 緊張も冷や汗も、まして恐怖など、もはや感じていない。
 ただ、この姿勢で相対するのは不味いということくらいは理解していたので、ゆっくりとではあるが立ち上がり、彼の前に跪拝する。

 私の行動に何を思ったのか、紫劉輝は一度しゃがみ込んで私の顔を覗き込み、礼を解くつもりがないと悟ると、一度小さく息を吐いた後に『暗殺傀儡』について「聞いてきた」という情報を語り出した――。





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2012.1.29
2014.8.27 加筆修正
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