天球ディスターブ 5 「それじゃあ、さんはこの部屋を使ってください」 廊下にの声が響く。 城の一室をに与えるとシュウが言い、その場で決定したためが案内してくれたのだ。 まだ人数の多くない軍なので空き部屋だけは豊富にあるらしかった。 難民宿舎の部屋は少し小さかったが、だからといって特に困ることがあるわけでもなかったので、 ありがたく厚意を受け取ることにした。 に礼を言って見送り、部屋の中に入る。 彼はこのあとに会議が控えているということで広間に戻っていった。 家具はベッドと小さなサイドテーブルに椅子が一脚、そして小さな本棚だ。 本棚には3冊の本が入っていて、は何気なくそれに手を伸ばした。 装丁からしてどうやら童話らしい。 しかし、ここで問題に直面した。 「…読めない」 文字が読めないのだ。 ここはのいた世界ではないのだし、もとの世界でも日本語はただの一言語に過ぎないので、 当たり前といえばそうなのだが。 紋章を使って読めるようになるかとも考えたが、生憎とそこまで紋章は万能ではなかった。 しばらく本と睨めっこをした後、はため息をついた。見ても睨めても読めるようになるはずはない。 そして、今すぐに読めるようになる必要もないと思い直し、本をテーブルの上に置いて部屋を出た。 探索でもして、どこに何があるのかをある程度知っておいた方が良いだろうと考えたのだ。 を同盟軍の一員とみなす人は現在、ほとんどいないと言っていい。 やナナミ、ビクトール……に好意的な態度を示したのは、覚えているだけでこの3人のみだ。 シュウはおそらく今もを疑っているであろうし、広間にいたその他大勢の人々についても同様だ。 そして、好奇や憎しみなど、視線は色々な意味を含み持つ。 ――に送られてくる視線はすべて非友好的なものだった。 同盟軍の城、その裾は小さな城下町の様相を面影に残している。 もともとノースウィンドウの街として存在していたこの地は、商店が出しやすいように整備されてもいた。 現在は難民や義勇兵などがあちこちに散在しているが、もう少しすればここは立派な街になるだろう。 難民キャンプから離れた、あまり人気の無い木陰に身を隠し、は息を吐いた。 ―――広間にいたのはたぶん幹部クラスだろう。それが救いだったのかもしれない。 一般の人々の中には捕虜としてこの城へ来たを見ている者もいるだろうが、数は少ない。 ほとんどの人は捕虜としての自分の存在を知ってはいるが、「」としての自分は知らない。 だから、突き刺さる視線はごくごく一部の、どちらの自分も知っている人々からのものだけだった。 ――その「ほんの少し」の視線が敵意に満ちているのだからやりきれない。 来るタイミングが最悪だったなと一人ごちて、は再び息を吐いた。 カサ、と草を踏む音が聞こえた。次いで獣独特の息遣いも。 誰も来ないだろうと高をくくっていたは驚いて振り向いた。 「…っ」 そばに犬がいた。いや、犬と呼ぶには大きすぎるだろう。キニスンのパートナー、シロだ。 思い描いていた以上の大きさに息を呑み、少しの恐怖感から身構える。 シロはそんなの様子を気にするでもなく傍らに来ると伏せた。 「……ええと」 どうしてこんなところに、だとか、キニスンが心配するのではないか、など、いろいろな考えが頭をよぎる。 しかし考えたところでシロに伝える術は無く、 少しずつ薄れてきた恐怖心と、ゆっくり胸の内を満たす不思議な安心感に身を委ね、は木に背を預けた。 さわさわと葉を揺らす風にくるまれる心地を味わい、シロが己の右手を見ていることに気が付いた。 少し昼寝をしていたらしい。目を開けたときは丁度、シロが立ち去ろうとしているところだった。 見えなくなるまで見送った後、はふと顔を上げる。 ――食事はどうすればいいのだろう。 飲まず食わずで生きていけるはずはなく、かといって食糧を買うには持ち合わせがない。 しかし、おそらくここには少なからず自分と同じような状態の人もいるはずだ。 は立ち上がって、がいそうなところ――大方大広間か執務室だろう――に足を向ける。 すると、まるでタイミングを見計らったように男が声をかけてきた。 「君、同盟軍の人だよね?」 「そうですけど」 は振り返った。 そこにいたのは、無精髭を生やした――自分の記憶が確かなら、フィッチャーといったはずだ――人物がいた。 ああ、とは納得する。そういえばこんな「イベント」もあったな、と。 本来ならばが尋ねられるはずなのに、どうやら自分が尋ねられてしまったらしい。 そのことに少し疑問と後ろめたさを感じながらも、はフィッチャーの次の言葉を待った。 「軍主殿に会いたいんだ。あの戦いを勝利に導いたんだろ?やっぱり格好良い人なのか?」 その問いに対し、は少し考えた後に答えた。 「格好良いけど、どちらかというと可愛いかな」 「へ…?な、何かよく分からんが…ありがとう。それじゃあ!」 「あ。場所…」 軍主のいそうな場所を教える前に、フィッチャーは城の方へと走り去ってしまった。 会えるかどうかは不安だが、おそらく結果的には会うのだろう。それが話の筋なのだから。 は暫し呆然とした後、笑みを浮かべて大広間に向かった。 これから起こることを見逃すつもりはない。 大広間入り口の見張りの兵に先刻の非礼を詫びると、彼は笑って「気にしていない」と言った。 それから、俺も悪かった、とも。任務を忠実に遂行しようとして無機質になってしまった、と。 大半の幹部と一部の民衆がを疑う中で、疑わない彼の存在はにとって貴重だった。 ――あれ。 一瞬、彼の挙動がとても懐かしく思えた。 ――なんでだろう。 おそらく元の世界の友人と似た動作だったのだろう。は早々に思考を切った。 あの世界のことを考えるのは嫌だった。考えた瞬間に、たぶん自分は泣くだろうから。 大広間に入る。 中では、シュウとフィッチャーが話していた。傍らにがいる。 フィッチャーは同盟軍とトゥーリバーとの協力関係を結ぶために来たらしい。 ゲーム通りの展開だった。 近くまで歩いていくとがこちらに気がついて、笑顔で手を振った。 「何事?」 一応聞いてみる。 は「うーん…」と唸った後、に向かって言った。 「なんでも、同盟軍とトゥーリバー市との協力関係を結びたいらしいんです」 「へえ。はどうするつもり?」 「代表者の、マカイって人に直接話しに行こうと思ってます。 でも、トゥーリバー市に行くには船に乗らなきゃいけないんですけど、船乗りがいなくて…」 ああ。アマダとタイ・ホーのことか。 はそう考えると、に向かって笑って言った。 「クスクスの町の船着場か、ラダトに行くといいよ。いるから」 「え?」 が不思議な顔をする。 はそれを見て舌打ちをしたい気分になった。 ――やってしまった。 何とかして誤魔化そうと思考を巡らす。 「何で知って…」 「それより!あたしもトゥーリバーに行って良い?」 「え…」 の言葉を遮ってが言う。 これが精一杯の誤魔化し方だった。 は困ったような顔をして言った。 「ダメです」 「…何で?」 「危険です。さんをこれ以上巻き込むわけにはいきません」 一瞬、の顔に悲しみの色が浮かび上がったのは気のせいではないだろう。 彼に非はないにせよ、結果としてを戦争に巻き込んでしまったことに責任を感じているのだ。 はのその表情を見て口を噤んだ。 その後、はパーティーメンバーを引き連れてトゥーリバーへと向った。 はそれを陰から見送ると自分の部屋に戻った。 ひとつ、大きな不安があった。 「ちゃん、大丈夫かなあ」 ナナミの言葉に以外のパーティーメンバーが一斉に疑問符を浮かべる。 今回のメンバーはとナナミ、フリック、ビクトール、ルック、そしてシロだ。 も心配そうな顔をして同意の意を示す。 フリックがナナミに尋ねた。 「大丈夫なんじゃないか?どうしてそこまで心配するんだ?」 「ちゃんは故郷がないんだって。…寂しいと思うの」 「……だが、それはそいつに限ったことじゃないだろう?」 「それはそうだけど……」 ナナミは言葉を詰まらせる。ビクトールが苦笑して言った。 「誰でも仲が良い奴の心配くらいするだろうさ。あんまり疑うのも考えものだと思うがな」 「………お前は甘すぎる」 そう言って、フリックは視線を進路に向けた。 口の中だけで呟く。 ――疑わなければならない。たとえ軍主が庇っても。あいつが「何か」を隠す限り。 最前列を歩く幼い軍主の背中に、一瞬誰かの影が重なった。 ――絶対に、繰り返させない。 脳裏に記憶が甦る。信じていた。信頼していた。絶対に裏切らないと思っていた。 ――もう、あんな思いはたくさんなんだ。 かぶりを振って思考を散らすフリックを、ルックは無表情に見ていた。 傍らのシロが低く唸る。 「……獣は鋭いね。まあ、あいつも鋭いといえば鋭いけど」 方向が違う、そう言ってルックはシロの頭を撫でた。 自室にては実験をしていた。議題は、この紋章で転移魔法が出来るか否か。 ――部屋の隅に、転移。 右手が仄かに光り、次の瞬間にはは部屋の隅にいた。 理屈ではこれで自分は魔力を使ったことになる。実感がないのは紋章の言う「アンバランス」のせいか。 紋章を使うことに抵抗がないわけではなかったが、使えるものは使わないと勿体ない。 要はモンスターに出会わなければ良いのだ。そうすれば攻撃されることも、することもない。 「……よし」 トゥーリバーへ。 そう念じた瞬間、の気配が部屋から消えた。 --------------- 2006.5.20加筆修正 back top next |