天球ディスターブ 2-6



 窓から見える空が白み始めた頃、書類は最初の5分の1程度に減っていた。誰もが午前中の終業を予感しながら本のページをめくり、ペンを走らせ赤いインクで但し書きを付け、付箋を貼っていく。
 は積み上げた本を抱え、ヨタヨタと壁際の長机の上まで運ぶと落とすように置いた。時計を見上げる。7時少し前である。そろそろ仕事が早くから始まる部署の人々が出勤してくるだろう。

「ナタナエル様」
「……仕事中だから仕方がないのは分かるのだけれど……。なあに?」

 家に帰ったら絶対に様付けしないでね、と悲しそうな表情で返したナタナエルには苦笑した。小声で話しかけることで敬語を取り払う。

「7時半になったら一旦抜けたいのだけど、いいかな」
「あ、そうだったわね。魔法を教わっているのよね。…ええ、大丈夫よ。私もそこから休憩に入るわ」
「ありがとう」
「構わないわ。寧ろ、私が教えられたらいいのにと思うもの。ごめんなさいね」

 エルは仕事が忙しいのだからしようがないとは返し、運んできた本とリストを照合して分類し、ナタナエルに渡していく。ナタナエルは恐るべきスピードで本をめくると書類との照合を再開した。



「明日から来られない…ですか?」

 そうして七時半、いつもと同じ時刻に中庭へと赴いたを、すでにテーブルについていたセラが出迎え、修行の前に少し話しておくことがあると言って口を開いた。
 ――明日からここへは来ないということだった。

「ええ。私がお仕えしている方のお仕事が、明日から本格的に始まるのです」
「お仕えしている…方、とは」
「もちろん神官将様です。――誰か、とは聞かないでしょう?」
「はい。それは暗黙のルールですから。ですが、あの…すみません、正直なところ、とても残念です」

 いつかこうなると予想はしていた。このまま無為に時を過ごせばいずれはこうなってしまうことは分かりきったことだった。セラから教えてもらえなくなるのも勿論残念だったが、それ以上に、この3週間をかけてもセラの背後にいるルックに指先一本触れることすら敵わなかったというのが一番悔しい。
 ――暗黙のルール。たち下士官は自分たちより上の階級にいる人々に対し、自分から素性を聞いてはならない。それは神殿内の勢力争いの影響である。許されるのは名前を聞くことくらいだ。の場合、それすらできなかったが。

 肩を落としてセラを見ると、珍しく彼女が表情を見せていた。寂しそうに俯き、眉尻を少しだけ下げている。

「私も残念です」

 思いがけず呟かれた言葉が素直に嬉しかった。笑おうと思った。

「そう言っていただけてとても嬉しいです。――あの、もしまたお時間が出来たら教えてくださいますか?」

 そうして打算的な言葉を吐く。セラの言う『仕事』とはまさに、ルックがゲームの中で行っていた行動のことだろう。ならばこれからの彼女にはの修行に付き合う時間など皆無である。そうして、未来すらもなくなる。
 彼女は死ぬ。それはの記憶に鮮明だった。だから、例え言葉遊びだったとしても、詭弁だとしても、約束を交わしたかった。気持ちだけで構わない、絵空事で構わない。彼女の未来を作りたかった。

「すみませんが、おそらく無理でしょう」

 だからそう言われても引き下がらない。

「いいえ、約束してください。先生のお仕事が全て終わってからで構いません」
「ですが……」
「お願いします」

 頭を下げる。セラがため息をつくのが分かった。

「……確約はできませんが………」
「ありがとうございます!」

 偽りの未来が、今、創られた。
 ――とても、虚しかった。



 全てを変えられるほどの力があれば、どれほど良いだろう。
 は、天球の力を持っていたときでも自分にそれだけの力は無かっであろうことを自覚している。この場合の力とは武力や魔力だけを指すものではないからだ。それこそ歴代の戦争に打ち勝ってきた軍主達が持っていたようなカリスマ性、人間性、そういったものを含めたものである。
 
 には力が無い。ルックを止められるだけの経験も、理由も、彼の心に触れられるだけの交流もない。だから本当は、が何かしたところで未来が変わる可能性はとても低いのだろう。寧ろルックの感情をきちんと理解していないが「死なないで」などと言ったところで、それは他人の心に土足で上がる行為だ。逆にルックに嫌われ、疎まれてしまう可能性が高い。それは――嫌だった。

 その日、徹夜をした成果で午後が始まる前に仕事を終わらせることができたナタナエルたち補佐官とは各々の自宅に戻り惰眠を貪った。ただ、ナタナエルに関しては帰ってからも親族からの呼び出しがあったり何か手紙のようなものを書いているなどしてあまり休んでいないらしい。執事が心配してからも休むよう言ってくれないかと打診してきたのだ。
 翌日はピエロに会いに来るよう言われている日であったが、しかしはいつも通り中庭にいた。もとより日が落ちてから会いに行くつもりでいたこともあるが、それよりも、万に一つの確率でセラが来るのではないかとどこか期待している、という理由の方が大きい。

 彼女に教わった日課はすでに終えた。あとはこのまま仕事始めまで待っていよう。そう考え、いつの間にかセラの存在が大きくなっていたことに気付く。

(……そんなつもりはなかったんだけど)

 敗因は、思った以上にセラの人間性に惹かれてしまったことだ。
 無表情な外面とは裏腹に、向き合ってみるとセラは意外に感情豊かだった。が持ってきた紅茶が偶々彼女の気に入りのものだったときは表情にこそ出さなかったものの何杯も飲んでいた。前日の夜に夜更かししたが目の下に隈を作っていると、こっそりと水魔法をかけてくれた――魔力の歪みが見えたのでにはすぐに分かった――。たまに名前を伏せて彼女の上司、ルックのことを断片的に語るときはなんとなく嬉しそうで、得意そうだった。レーズンの入った菓子には手を付けなかった。

(……だから、嫌なんだ)

 ゲームとして見たこの世界は無機質だ。しかし過ごすこの世界はどこもかしこも鮮やかだ。最初は客観的に接することが出来るのに、気付いたら自分の感情にがんじがらめになって当初の目的を果たせない。
 悔しくは無い。寧ろ彼女のいろいろな面を見ることが出来たことは喜びだ。ただ、不都合だった。

「おい」

 そうやって思考に耽っていたので、いつの間にかテーブルを挟んだところに人が立っていることに気付かなかった。は驚いて顔を上げる。そして音の無い声を漏らした。怜悧な面持ちに赤みがかった髪――”仮面の神官将”と同時期に宮殿入りした後、その手腕を遺憾なく発揮し続け出世街道を駆け上がっていると、水野の耳にさえ届くほどの人物――名高い軍師一族の一人――アルベルト・シルバーバーグ。
 無論、驚いた理由はそれだけではないのだが――。

「……様子を見てくれと言われて来てみれば……。お前は確か、以前廊下でぶつかってきたな」
「その節は申し訳……」
「謝罪は求めていない。それよりは己の職務を全うすることだ」
「あ、はい。…あの、何故こちらに?」
「ああ。昨日までここに来ていた女がいただろう。俺の同僚で、様子見と伝言を頼まれたんだが……」

 は首を傾げる。――伝言?

「『しばらくは確実に来ることができない』だそうだ」
「あ……はい。ありがとうございます」
「いや。……では」

 そう言ってアルベルトは踵を返し、コートの裾をはためかせる。は咄嗟に声を掛けようと思ったが、何と言えば良いのか分からなかった。ここで素性を明かしたとしても、お互いの立場が違いすぎて何のメリットも浮かばない。――違う。ただ、怖がっているだけだ。には実感が無いが、とアルベルトの間には確かに15年の隔たりがある。15年前の邂逅など、どれほど記憶に残っているものであろうか。過ごした期間もとても短かったのに。

「アルベルト……シルバーバーグ、軍師」

 ただ、話をしたかった。

「知っていたのか」
「お噂はかねがね。あの、お尋ねしたいことが」
「何だ」
「………」

 何を言えばいいのだろう。もしも神様がいるのなら、どうか勇気が欲しいと切実に願った。そうして気付く。 この世界の神々は――果たして、どこに在るのだろう。は俯いた。

、という女を、ご存知、ですか」

 たった一文。それなのに額には汗がにじみ、背筋は冷や汗をかいたのかひんやりと冷たい。アルベルトの反応は――無い。やはり覚えていないのだろうか。微かな落胆を感じては目線をアルベルトに移す。
 そうして、見る。まるで信じられないものを見るかのごとく驚愕をその顔にありありと浮かべた彼を。

「――知っているのか」
「え?」
「お前は彼女を知っているのかと聞いている!!」

 響いた怒声には怯む。肩に痛みが走る。アルベルトの手がを掴んでいた。
 ――覚えていたのだ。痛みと嬉しさには全身の力が抜けそうになるのをこらえ、目から涙がこぼれないよう口を引き結んだ。そして直感した。素性はやはり明かせない。もしここで自分が素性を明かしても、彼のことだ、おそらく誰にも言うまいが、先程の反応を見るに、どうやら彼は自分を探していたらしいことが伺える。「知っているのか」と聞くことはつまり、彼が「知らない」のだということ、「知ろうとした」ということである。

 はいずれこの神殿を去るだろう。少なくとも、ルックが全てをやり遂げてしまう前までには。そうでないと会えなくなるからだ。  もし自分がここで素性を明かしてしまったら、彼の心に波紋を広げてしまうかもしれない。そして、それがこれから先どれほどの影響をもたらすことになるのか、今の状態では予測ができない。――不安要素は無いほうが良い。
 ――アルベルトには、最後まで何の足枷もなくルックの傍にいて欲しかった。

「詳しくは存じ上げません。ただ、行きずりに……アルベルトという名を持つ方への言伝を承りました」
「――内容は」
「叶うなら、また一緒にご飯を食べましょう、と」

 アルベルトは、面食らったように一瞬だけ硬直した。手の力が緩んだのではやんわりと抜け出す。

「――以上です。すみません、これ以上は私もよく……。では、失礼致します」

 そして中庭を後にした。残されたアルベルトがその後どんな顔をしていたのか、は知らない。



 さて、困ったことが一つある。どうやってピエロに会いに行けばよいのだろう、とは顎に手を当てて考える。昼間は廊下の人通りが多いので却下だ。かといって夜はナタナエルと一緒に帰宅するのが常である。昨日徹夜しているので今日も、ということはおそらくないだろう。頑張った成果ではあるのだが――こうしてみると少し惜しい。

「どうしようかな……」

 思わず口に出して呟く。そのとき、一人の下士官がの方へと歩いてくるのが見えた。に気付き、会釈して近づいてくる。どうやら自分――というよりササライかナタナエルに用事らしい。白髪交じりの男性下士官は人の良さそうな笑みを浮かべてに声を掛けた。

「ああ、良いところに」
「どうかなさいましたか?」
「頼まれていたレジュメの件、仕上がりましたのでお届けに上がる途中だったのです」
「随分お早いのですね。大変だったのではありませんか」

 手直しを依頼したのは昨日の昼だったはずだ。もう直したのだろうか。下士官は苦笑する。

「ええ、大変でした。ですがあなた方が夜を徹してお仕事なされたと聞き、我々もそれに応えなければ、と」
「ありがとうございます。では、後は私が運びます」
「結構重いですよ。ご一緒しましょうか?」
「大丈夫です。ここからそう遠くはありませんし。迅速なご対応、本当にありがとうございました」
「いえいえ。侵攻も決定しましたし、ササライ様の所はこれからお忙しくなられるのでしょうねえ。あなたは行軍に参加されるので?」
「あ、いえ……どうでしょう。まだ修行不足ですから」

 下士官は複雑そうな笑みを浮かべてに書類の入った封筒を手渡した。言っていた通り随分重い。

「グラスランドの人々が抵抗しないでくれれば、それが一番良いのですが……」
「難しいのですか?」
「ええ。残念なことです。ですから我々は、できる限り人々を傷つけることなく侵攻しなければなりません」

 侵略を是とするわけではないのですから、と続けた士官をは驚きとともに見つめた。

「ササライ様は神官将の地位に就かれた時からずっと主張なさっていました。侵攻は平和を成すための手段、ただそれだけの意味しか持たない、と。ササライ様の意見がそうなのですから、おそらくヒクサク様もそう思っていらっしゃるのでしょう。ですが、それが中々理解されにくい状態であることも事実です」

 そこまできて、はこの下士官が自分に何を求めているのかを悟った。彼や自分は、この人通りのある廊下では言いたいことを直接言うことが出来ない。

「善処いたします。おそらく、ササライ様もそうなさるでしょう」
「そう願います。……ああ、長々とすみませんでした。では、私はこれで」
「はい。お疲れ様です」
「あなたも」

 は微妙な気持ちで下士官を見送った。それでも、あの下士官は戦争に反対しなかった。気持ちは、分かりたくはないが分からなくもない。この国の方針の一つに「真の紋章を集める」ことが掲げられている限り侵攻は止まないのだろうから。詳しい理由を水野は知らないが、とにかく真の紋章を集め切らない限り、ハルモニアの行進は止まらないらしいことは分かる。

 ふと、腕の中の書類を見た。彼の下士官には申し訳ないが、ほんの少しだけ、本当に少しだけ、利用しよう。あとはこれをどこに隠しておくか――



「じゃあ、後は行軍の際の道路整備に関する案件を提出して、今日の仕事は終わりね」
「道路関係は…第三分館の執務室で合ってる?」
「合っているわよ。少し遠いけれどお願いできるかしら」
「うん」

 頷いて、は書類を受け取ると執務室を出た。ここまで順調に仕事をこなしてきたが、窓の外はもう暗い。徹夜こそ予定にないものの、昨日の余波を受け――侵攻の決定後に急遽作成された書類が多いので、手直しの箇所もそこそこ多い――それなりに時間がかかってしまったのだ。この神殿の勤務時間は各部署によって異なるが、大体17時、遅くとも19時くらいには終業するのが通常である。電気という概念がないため、暗くなってからの仕事は非常に効率が悪い。――とはいえ、紋章魔法などで対処できてしまう人材が揃っていることも、この神殿の特殊性ではあるのが。

 第三分館二階の執務室に書類を届けたあと、は神殿の玄関ホールに立ち寄って時計を確認する。20時50分だ。ササライとその補佐官の執務室のある一画は軍事関係の部署が集まっている所であるが、流石にこの時間だと他部署の面々は帰宅しているだろう。現に、先程執務室を出たときも廊下に人影はなかった。
 執務室に入る前には仮眠室に寄り、一番端のベッド下からシーツに包んだ書類を取り出した。昼間に受け取った書類である。もちろんある程度の処理と整理は済んでおり、そこまで急ぐ必要がないものであることも確認済みだ。あとはの押しの強さと演技力の問題だろう。正直自信は無い――が、やるしかない。

 執務室に帰ると、ナタナエル以外の補佐官は皆帰宅したようで、彼女だけがコートを着て待っていた。

「ただいま」
「お帰りなさい。帰りましょうか」
「あ……昨日出したレジュメの手直しが終わったそうだから、私、これを整理して帰るね」
「あら、そうなの?だったら私も手伝うわ」

 は心臓が跳ねるのを感じた。ナタナエルならそう言うだろうとは思っていたが、正直一番避けたい返答でもあった。

「整理だけだから大丈夫だと思う。先に帰ってて。エル、まだ隈取れてないし、昨日は家に帰ってからも仕事していたでしょう。執事さんが心配していたよ」
「それは……」
「エルが仕事している間、私は休めたから、今度は私が頑張るよ」
……」
「今日は本当に休んで。……顔色が良くないよ」

 そうしてしばらくにらみ合っていたが、ややあってナタナエルが苦笑して小さなため息をついた。

「ありがとう。心配させてしまってごめんなさいね。でも、嬉しいわ」
「……勝手なことばかりいってごめん」
「ううん。……そうね、少し眠たいかもしれない。今日はの言う通り帰って休むわね。門のところに馬車を待機させておくから、レジュメの整理が終わったら警備兵に門まで送ってもらうのよ」
「西門?」
「ええ。じゃあ、私はもう帰るけれど。鍵はこれよ」

 ナタナエルが持っていた鍵をに渡す。

「ああ、シャンデリアの火だけは消しておくわね。水野は消せないでしょう?」
「うん」
「壁の蝋燭だけで大丈夫かしら」
「燭台ごと机に置くから大丈夫」

 そう言うとナタナエルは賢いわねと笑い、風を起こしてシャンデリアの蝋燭の火を消した。旋風の紋章の魔法だろうか。このように応用することもできるのだなとは感心した。

「あまり無理はしないのよ」

 最近この言葉を誰かにも言われたなとは苦笑してうなずき、出て行くナタナエルを見送った。



 全力でレジュメ作りを終えたは廊下をひた走る。猶予はない。馬車を待機させている以上、あまり遅れるわけにはいかないのだ。この無駄に長い廊下を少し恨めしく思う。窓から漏れる月明かりだけの薄闇を、戸惑いながら進んでいく。しかしその窓も奥に行くにつれ小さくなり、最後は壁の上方に小さな明り取りがあるのみになった。

 やっとのことで扉に辿り着くと、は迷わず扉に手を掛けた。しかし――

「閉まってる……」

 愕然とする。昨日は確かに開いていた扉が、今は何度押しても引いてもガチャガチャと煩い金属音を立てるばかりでびくともしない。手探りで原因を探すと壁と扉が鎖のようなもので固定されているのが分かった。取っ手に幾重にも巻きつけられた鎖に、自身の顔が青ざめていくのが分かる。頬が急速に冷えていく。

――勝手に入ったことに気付かれたのだろうか。

 それとも一昨日たまたま鍵が開いていただけだろうか。しかし、この閉ざし方は異常だ。冷や汗が吹き出る。もし自分の痕跡を見ての対処だったとしたら、それとも姿を見られていたとしたら――考えれば考えるほど悪い予想しか思い浮かばなくなってくる。昨日、何か自分についての情報を漏らさなかったか――ピエロは――一度たりともの名を呼ばなかった。それは前から変わらない。ピエロはの名を呼んだことがない。は――

「仮面……!?」

 もしもこの仮面を見られていたとしたら。良くも悪くも特徴的なものだ、名前は分からずとも所属は簡単に知れるだろう。そうなるとに逃げ場は無い。この神殿は巨大な檻でしかなくなる。それから――それから、ナタナエルにも影響が及ぶだろう。それは避けたい。

 ――もう、駄目だ、とは自身が軽い恐慌状態に陥っていることを自覚した。本当は、考えているほど悪い状況ではないのかもしれない。侵入した形跡には気付かれたが、姿までは見られていないのかもしれない。けれども、巻きつけられた鎖と閉ざされた扉が、楽天的な考えを拒否していた。――もはや、この神殿にはいられない。いてはいけない。だけの問題でなくなってしまう。ナタナエルに、ディオスに、ササライに、迷惑がかかるかもしれない。
 ――だったら、今やるべきなのは。



 は廊下を逆走し、比較的出入りしやすい窓から外に出た。そこから地下室のある場所へと向かってみる。だが、丁度扉があった位置まで来たとき、目の前が真っ暗になる錯覚を起こした。――壁だ。
 高い壁が聳え立っていた。それもそうかと、今度は逆に冷静になった。地下牢の様相を呈していたあの場所は、秘匿されているものなのだろう。
 夜に慣れてきた目で壁をくまなく見る。すると、壁の端に扉が設置してあるのが分かった。
 扉は――開いている。
 そこに何者かの意図を感じないわけではなかったが、それよりもピエロに会うことを優先し、は扉の中へと入った。グっと唇をかみ締めて膝に力を入れると、は中央の建物に向かって転げるように駆け寄る。

「ピエロ!」
「うん、君の予想通りだと思うよ。一昨日君がここに来たことに気付いた人がいる。……ああ、僕が話す時間はあまりないみたいだ。何が望み?」
「いま、何が起こっているのかを教えて」

 ピエロの笑う気配がした。

「必要とされてもそれに応えることができなければ虚しいね。――ごめん、僕にも分からない。僕が知っているのは、15年前のあの日――君が襲われそうになった日、あの襲撃が『天球の紋章を宿主ごと確保する』ためだったことくらいだ。だけど実際捕まったのが化身……紋章の表層でしかない僕だけだったから、持て余された挙句とりあえず保管だけしとこうか、みたいな感じでここに捨て置かれたんだよね」
「……出る方法は?」

 今更に震えが襲ってくる。やはりこの場所に来たことは気付かれていたのだ。そしてそれは、あんな鎖を巻きつけてまで対処されるようなことだったのだ。――ナタナエルの部下でなければ良かったのに。そうすれば、彼女に迷惑をかける可能性も、影響を与える心配もなかったのに。

 愚かだった。もっと慎重に行動すべきだった。けれど、そうしていたらピエロには会えなかった。……どうすれば一番良い方向へと向かったのだろう。
 ピエロはほんの少しの間沈黙し、応えた。

「……よく聞いて。これから僕は、すごく身勝手なことを言うよ。
――僕を宿して。僕はここから出られない。でも、お願い、出して。僕をここから出して!キミに宿して!!

でないとキミは――」



「何をしている?」



 は振り向くことができなかった。ピエロも言いかけた言葉を飲み込む。
 そうしてゆるゆると来た衝撃に目が見開かれていく。

「確か一昨日もコソコソとここに来ていたよね。今日も来るなんて、流石に呆れるよ。扉は見たんだろ?」

 声が。声が。声が。頭に響いて喉につまって泣いてばかりで頬を涙が。

「黙ってないで答えなよ。君は何故、ここに気付いたの?一応、認識を阻害するようにしていたんだけど」

 パタ、と涙が地面に落ちる微かな音が聞こえて、はゆっくりと顔を上げた。振り向けば全てが終わるような気もしたが、振り向かずにはいられなかった。喜びが脳のどこかを支配した。
 ああ、驚きで流れる涙もあるのだ。

「――黙秘するなら処分するしか」
「ルック」

 彼が息を呑んだのが分かった。

「――な」
「……」
「………ん、で」

 声が掠れた。目に映る彼の姿がにじんでいく。

「どうして………」

 彼の疑問に答ることはできなかった。
 短期間のうちに、あまりに、色々なことがありすぎて。








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2008.3.29
2019.7.18修正
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