天球ディスターブ 2-5 廊下は薄暗い。蝋燭は少し手前までしか灯されていなかったので、は一番最後に灯っていた蝋燭を受け皿ごと燭台から外して手に持った。不安定に揺れる炎は少しだけ暖かい。 (随分歩いたけど) 口だけを動かして呟く。予想に反して廊下は意外と長く、どこまでも真っ直ぐだった。ただ、炎が揺れているということはどこからか風が入ってきているということの証明なのだろうから、そう思うと目指す場所までそう遠くはないようにも思える。 そしてその思惑通り、は程なくして目の前に壁を見た。行き止まりである。しかし右側を見ると古びた扉があった。立て付けが悪いのか隙間が開いており、そこから風が漏れているようだった。 鍵がかかっているかもしれないと、はまず鍵穴や錠前を探したが、それらしきものは見当たらない。決心して扉を押すと、意外にもすんなりと開いた。見た目よりも軽い扉のようである。 扉を開けた先には、が毎朝セラに教えを請うている中庭に非常に良く似た大きさの空間が広がっていた。庭なのかは判別できない。何せ暗いのだ。人影は見当たらない――というよりも、扉を見るに人が訪れる場所であるのかも正直怪しいとは思う。 蝋燭を持った手を高く上げて明かりをそこここに回すと、中央に小さな建物が建っているのが分かった。倉庫くらいの大きさである。恐る恐る歩み寄って確認すると、この神殿には似つかわしくない、おそらく茶色のレンガと木造の扉に金属を打ち付けた、どうにも無骨な印象を与える建物であるように思えた。 はそっと扉に右手をあてる。すると、微かに手のひらが温かくなった。 ――いる。 そう直感する。確証はないが確信した。扉に手を掛けたが、こちらはどうも鍵がかかっているようで開かない。窓はないだろうかと横に回ってみると、この建物には側面がなかった。扉のある正面こそ普通だが、側面は急な斜面を描いている。地面にめり込んだ家、と言ったら分かりやすいだろうか。足元のほうに明り取りの小さな格子窓を見つけたので、どうやら地下室になっているらしい。 は地に膝をついて窓に近づく。覗き込むのは怖くて出来なかった。 「誰かいるの?」 自分にすら聞こえるか聞こえないかというほどの小声で呼びかける。返事は期待していなかったが―― 「――まさか、この世界に戻ってくるとは思わなかったよ」 青年と少年の間、どちらかといえば若干青年よりの声。聞き覚えは――あった。 目尻が熱くなるのが分かって、は言葉を呑む。 そうしてしばらく、また静寂が戻った。 「ピエロなんだね」 「うん、そう。聞かれる前に言っておくけど、キミがこの神殿に来たときから僕、気付いてたからね。でもここから出られないからどうしようもなくて。何度か隙を突いてサイン送ってたんだけど、中々気付いてくれないし」 「ごめん」 「いーよ。仕方がないもの。この神殿ってそういうことあんまり出来ないようになってるから。……あ、そうだ。言い忘れたけど、その格子には絶対に触らないでね」 「え、あ、うん」 以前と少しも変わらないピエロの態度には困惑する。としては、ピエロに刺された理由が知りたくてたまらなく、しかしその反面、自分に非があったのではないかという思いもあるから聞くに聞けなくてどうしようもない。ただ、ピエロが自分に対して冷たくなっていたらどうしようとも思っていたから、そこに関しては安心した。 「ね、聞きたいこと、あるんでしょ?答えるよ」 少しだけ苦笑混じりの声にどこか安堵して、は口を開く。 「何で元の世界に戻れたの?」 「僕がキミを殺したから」 は目を見開く。地下室は暗くて、窓からもピエロの姿は全く見えない。それが急に不安になった。 「どういうこと?」 「んー…それ説明すると、が一番最初にこの世界に来たときに遡っちゃうんだけど」 「構わない。教えて」 相変わらずだなあ、とピエロは笑い、見つかったら厄介だからと蝋燭の火を消すように言った。が火を吹き消すと本当の夜がやってくる。ややあって、ピエロは話し始めた。 「最初にキミをこの世界に呼んだとき、僕、訳アリでさ。大分消耗してたんだ。だから、キミを見つけることは出来ても完全に召喚することはできなかった。――キミの体を喚(よ)べなかったんだ」 「体?」 「そう。この世界で過ごしてたキミの体は、召喚したときに僕が作ったんだ。ここまではいい?」 「何とか。……ああ、だから傷がなくなっていたのか」 本音を言えばあまりに今までの現実とかけ離れすぎていて、拒否を超えて受け入れるしか道が無い。非日常・非現実的なことには慣れたと思っていたのだが、上には上がいる。 ――いや、もはやの『今まで』こそが非現実ということになるのだろうか。 「続けるよ。キミは確か、竜が何故この世界に留まっているのかっていうのは知ってたよね」 「ええと、異世界から来たものは死ぬことによってしか帰れないから……、まさか」 「多分そのまさかだよ。それ、正しいんだ。異世界から来た子たちは、死んだら魂だけは元いた世界に戻れる。だから僕はを殺した。は元の世界にも体があったから他の子とは違って、体を得た」 「………」 「理由はまあ……うん、多分バレてるとは思うけど」 は眉尻を下げた。 「追われてた?」 「というより尾行されてた。あのままじゃ捕まるのは時間の問題だったから――」 「ごめん」 「え?」 本当に泣きたくなってくる。どうしてこうも、全て終わった後に気付くのか。 「天球は強いんでしょう。だったら逃げることも撃退することも難しくなかったはずだよ」 天球の紋章を宿していた自分は、武力によって傷つけられることはない。戦争中はそうではなかったが、旅をしていたときは自分の周りには常に結界を張っていたからだ。そう、天球に命じたのだ。 だからモンスターの奇襲は問題でも何でもなく、野宿でも安心して眠ることが出来ていた。初心者以下の旅だったのだ。 それに、例えば強い魔力を持ったものがいたとして、その者が魔法を放つ場合、には予測することができる。魔力を陽炎のような歪みとして認識することができる、これはただ一つだけ与えられた、自身の資質だった。あとは歪みを見た瞬間に結界を強くすることを念じるか、言葉にすれば良いだけだった。 だから――ピエロがを護る理由は本来ならばどこにもないのだ。しかしピエロはを殺すことでこの世界からはじき出し、追っ手から護った。そんな理由、いくつも思い浮かばない。 「何か悪いところがあったんだね。私、紋章使うの上手くない自覚はなんとなくあった。いくら天球が強くても宿主が弱ければ隙ができる。だから捕まりそうになった…ん、だよね」 情けなさで本当に泣きそうになって、は言葉を切って深呼吸をした。泣いてはいけない。泣く資格は自分にはない。泣いていいのは、こうして捕まってしまった天球だけだ。もっとも、彼が泣くことはないのだろうが。 「――違うよ」 「ごめん」 「……本当に違うんだ。……ごめん、謝らなきゃいけないの、僕の方だよ。――あの時ね、キミの言うとおり退けることも出来たと思う。でも――」 ピエロはそこで一旦息をついたようだった。そして次に紡いだ言葉に、は首を傾げた。 「――って、知ってる?」 知らない。ただ、聞き覚えはなんとなくあるような気がする。どこでだったか、は記憶を探る。すると一人該当したが、それはピエロの指す人物ではないだろう。 「前の宿主なんだ。確かキミと同じ世界で見つけた、同い年くらいの男の子」 前言撤回だ。正にその人物かもしれない。 「私の学校に、行方不明の『さん』がいたけど」 「あ、多分それ。50年くらい前に召喚したんだ――ああ、言いたいことは分かるよ。ただ、時間に関しては無視していい。この世界との世界の時間は並行じゃないから。……話が逸れちゃったね」 相変わらずの暗闇の中、ピエロの苦笑する声だけが響いている。は格子に触れないように、窓を避けて建物の壁に寄りかかった。 「僕、を喚(よ)んだときはちゃんと体も召喚できたんだ。でも、はそのことにとても怒って、とても悲しんだ。とても泣いて、僕を責めた。――僕『たち』、の時は彼の意思を問わずに連れてきちゃったから」 「………」 「だからキミの体を喚べなかったとき、『やっちゃったな』と思ったけど、どこか安心したんだ。だってキミには戻れる可能性が残されていたから。で、あの下水道での時。本当は撃退しようと思ってたんだけど……」 「元の世界に帰してくれたんだね。――何故?」 「『ここでキミを殺せば元の世界に帰せるな』と思ったから。でもキミ戻ってきちゃったね。笑い話だ」 は膝を組んで顔を埋めた。ならば自分はもう、元の世界に戻ることはできないのだろう。ピエロの優しさが逆に苦しかった。あの時の自分はまさか戻れるとは思っていなかったから、半ば諦める形でこの世界で生きていく決心をしていたと思うのに、戻ってしまったおかげで失ったものを再び得る喜びを知ってしまった。 そうして今度は完全に失ったのだ。衝撃は――かなり、大きい。 「紋章ってもっと、本能のままに行動するものだと思ってた。宿主の意思に構わず」 「他の奴らは大抵そんなもん。僕が規格外なだけ」 「さんは、ピエロにそこまでさせるほどの人だったんだね。罪悪感、辛かった?」 「罪悪感はどんなものでも辛いよ。でも、……うん。辛かった」 「――私、元の世界に戻れて嬉しかったよ」 「そっか」 「でも」 ふと空を見上げた。綺麗な星空だ。満天ではないのは雲が出ているからだろう。しかし、元の世界に暮らすうちは絶対に見ることは出来なかった光景だろうと思う。 「戻ったら戻ったで、この世界のことばかり考えていた気がする。結構辛いことも痛いことも経験したけど――」 言葉にして感情を整理していくうちに、ポン、と一つの想いが湧き上がった。 ――ああ、そうか。 「私、この世界が好きなんだと思う。お父さんもお母さんも高校の友達もいないけど、に会えたし、ルックと話をしたし、シュウが仕事を任せてくれたり――ピエロにも会えた」 「キミ……」 「そりゃこの世界は不便だし危険だし寂しいこともあるけど、その代わり元の世界ではできないこともたくさん経験することができた。……うん。ピエロ、あのね、私、戻ってきて良かったと思っているよ。やルック達にすごく会いたかった。レックナートさんとも会っていないし、の家に遊びにも行っていない。どうせなら世界中を見て回りたいとも思う。ファレナにも、群島諸国にも行きたい」 まずはこの世界の地理を知ることから始めなければならないけど、とは苦笑した。 「ピエロは今捕まっているんだよね」 「……うん」 「もし出ることが出来たら、どうする?」 「………多分、キミに宿ることになるよ。僕は化身であって天球じゃないもの。すぐに捕まってしまうから」 ふと両親の顔が頭に浮かんだ。この上ない愛情を注いでくれ、守り、育て、慈しんでくれた大切な人たちだ。次に、とルックの顔が浮かんだ。そして連鎖的にシュウ、ヨシノ、クラスメイトと次々に浮かぶ。走馬灯のようじゃないかと、は眉を顰めた。ただ、あながち間違ってもいないのだろう。 「私以外の誰かに宿ることは?さんはもういないの?」 「は生きてるよ、多分。でも、もう僕を宿せない。そして、キミたちを見つけることができたのは草原に投げた小石を探すより難しいことなんだ」 10年以上前、親に手を引かれて小学校の門をくぐった。母親と友達と3人で、中学校の校門で写真を撮った。友達と一緒に受けた高校は、自分一人で入学することになってしまった。 中学生の頃、友達と上手くいかなくなって親に心配をかけてしまった。そのとき頑張ることが出来たのは、両親が何も聞かずに普段と変わらず温かかったからだと思う。高校生になって、一度だけ彼氏ができた。あまり覚えていないが、母親にはすぐにバレてしまったような気がする。 不思議だった。苦しいのに、苦しくない。戻れない、戻りたい、戻りたくない。手放したくない、けれど、決心してしまったら手放さなければならない。思い出だけをよすがに、未来を放棄しなければならない。 こんな時にこそ順応性が発揮されれば良いのに。帰る方法があるのかないのかはっきりしなかったうちは多少楽天的に考えることもできていたのに、いざこうして可能性を消されると中々上手くいかないものだ。 未練はいくらでもある。もっと両親と一緒にいたかった。愛していると伝えておけば良かった。友達に大好きだと一度も言っていない。旅行もたくさんしたかった。成人したら一緒にお酒を飲もうねと両親と話していた。 ――それでも、もう戻れない。その代わり、引き換えにする価値のある感情を今、もらった。 「じゃあ、右手は空けておくことにする。――ありがとう」 「何で……」 「誰かに必要としてもらえるのは、とても嬉しいことなんだと思うよ」 嗚咽を伴わない涙があるなんて、知らなかった。 仮眠室に入ると、小さな寝息が耳に入った。女性専用の仮眠室で、女性は今ナタナエルと自分しかいないはずだからこの寝息は彼女のものだ。その音に少しだけ安堵して、静かに扉を閉め、4つ並んだ簡素なベッドの、ナタナエルのところと一つ空いたものに潜り込んだ。そこで気付いて、仮面を外す。 ――明後日、また来て。 ピエロに言われたことを反芻する。あの後、お互いに何を言えばいいのか分からなくなって、訊きたいことは山ほどあるのに、ありすぎて何も訊けなくなった。だからずっと夜空とむき出しの地面を交互に見ていたら、ピエロがポツリとこぼしたのだ。 ――とても大事なことを言わなければいけないんだ。 けれどまだ勇気が持てないから明後日まで待って欲しいのだとピエロは言った。明日でないのは、もうすでに日付を越えているからだろう。は正直困った。流石に今日は徹夜しないだろうから、行くとしたら昼休みかその他の空き時間ということになる。見つかる可能性が非常に高い。何となく、あの場所は隠されているのだろうと雰囲気で読み取ったから昼間は近づきたくなかった。 (セラとの修行を一日休むとか) 出来ないだろうと思いながら考えたが、しかし考えれば考えるほどそれしかないような気がしてくる。とりあえず今日の、あと数時間後の修行には行くつもりであるから、その時に伝えればいい。練習は1日休むと取り返すのが大変だとどこかで聞いたような気がするから、できるなら昼休みに都合がつかないか聞いて、それがだめだったら一人で修行すれば良い。3週間続けてきたのだ、完璧とはいえずとも多少はマシだろう。 (とりあえず、今日はもう眠ろう) 多分1時間程寝たらナタナエルが起こすだろう。睡眠時間が減ってしまったのは苦しいが、ピエロに会えた嬉しさのほうが大きかったから、耐えられそうな気がする。この調子でルックとも会えると良いのにと思うのはおこがましいだろうか。一旦組織に組み込まれてしまうとなかなかそういうことが立ち行かなくなるから不便だ。 (セラにあって……つたえて――) ウトウトとまどろんだと同時に起こされた気がする。多分眠ってはいたのだろうが眠った気がしない。ノンレム睡眠に入る前に起きたから頭は冴えている。壁時計を見ると4時だった。勿論早朝のだ。 「あともう一頑張りね……」 暗い中、眠そうに目を擦るナタナエルの後ろをおかめが歩く。これだけで十分怪談になりそうだなとは思う。その場合、確実に幽霊役は自分だが。 執務室の扉を開けると少しだけざわついた様子が伝わってきて、ナタナエルが困惑するのが分かった。 「ササライ様!?どうしてこちらに!?」 え、とはナタナエルの向こう側、室内を見る。事務所のように机が向かい合わせに置いてある中、一番奥のいわゆるお誕生日席のような位置に座っている人物を見た。普段はディオスの執務机になっているところだ。色素の薄い茶色の髪に微かに見える青い服、なによりも立っているだけで人目を引くような――有り体に言えばとてつもなく整った顔立ちは一見しただけでササライと分かるものだった。というより、それ以前に背後にディオスが立っているのでそちらの方がよほど目印になる。 この神殿で一番会いたくなかった人物だ。は強張る体を何とか宥めながら一歩下がり、ナタナエルの斜め後ろの位置についた。 「ああ、さっき帰ってきたんだ。結構遠くの施設まで行ったからね」 「お疲れ様でございました。ご自宅の方にお戻りになって、休まれたほうがよろしいのではありませんか?」 「いや、確認したい書類があるんだ。それに馬車の中で眠ったから問題ないよ」 「まあ……」 ナタナエルが声に少しだけ呆れを含ませる。彼女は曲がりなりにも上流階級の出であるからそういうことに敏感なのかもしれないとは予想しながら、なんとなくササライから視線を逸らしていた。上手く死角に入っているといいのだがと思いつつ指一本動かせずにただただ突っ立っている自分がもどかしい。逃げたい。 「そっちの彼女が噂の下士官だね。うん、噂通りだ」 「う、噂?」 思わず声を漏らす。しまった、と慌てて口をつむぐがもう遅い。存在を気付かれたことに加え、失礼。なぜこうも失態を重ねてしまうのかと思うとやはり、情けない。とにかく謝罪するべく頭を下げる。 「……失礼致しました」 「いいよ。でも本当に変わった仮面を付けているんだね。火傷をしたと聞いているけれど、大丈夫かい?」 「ご心配いたみいります。人前に晒せるものではございませんので仮面を付けておりますが、痛みなどは感じておりませんので問題ありません」 「そう。……うん、そっちの仮面のほうがまだ愛嬌があるね。あの神官将もその仮面にすればいいのに」 言葉の後半は小声だったが、ササライに全神経を集中させているには全て聞こえてしまった。ナタナエルはササライの指示する書類を探しているし、他の補佐官も似たような状況なので、おそらく先程の言葉を聞いたのはとディオスくらいなものだろう。そういえば、とは室内を見る。元々残っていた補佐官以外は、ディオス以外帰ってきていない。ササライより早く終業するとは思えないから、彼らは彼らで未だ何らかの仕事をしているのだろう。 「――うん、分かった。ありがとう。あ、そのレジュメ一部ちょうだい。軍議までにあらかた見ておかなければね」 「かしこまりました。……こちらです。そういえば、この原案によると初陣展開はチシャクラン方面のようですが」 「え、本当?……民衆派議員の気持ちも分かるけどね。確かにそっちの方が近いから兵の負担が少ないし」 「では、これでよろしいので?」 「もちろんダメだよ。カレリアに変更してくれる?チシャクランから行くと補給線が伸びて逆に費用がかさんでしまうから、反動が直接国民に行ってしまう」 「了解しました。では、修正案の草稿を作成致します」 「うん、お願いするね」 そう言ってササライは立ち上がる。タイミングよく椅子を引くディオスの手技は流石だ。ササライにコートを着せて幾つかの書類を受け取るディオスの姿に、は理想を見たような気がした。 ササライがの方に、いや、扉に向かって歩き出したのを見て、は扉の脇に避ける。頭を下げてやり過ごそうとすると、追い討ちのようにササライが声を掛けてきた。 「あ、そうだ。君の名前を聞いておこうかな。ナタナエルの部下ってことは、それなりに能力があるのだろうし」 「ジョ・セ・フィー・ヌと申します」 「……え?……ごめん、もう一回」 「ジョ・セ・フィー・ヌです。あ、貴族ではありません」 「いやそれは分かるけれど。……変わった名前だね?」 「………よく言われます。自らの名ではありますが、少々複雑な心持ちではあります。どうぞ、呼びやすいようにお呼びください。ちなみに仮面は『おかめ』といわれる種類のものです」 「あ、そうなんだ。じゃあオカメって呼ばせてもらうね」 「恐れ入ります」 どちらにしろ微妙なのだがと叫びそうになるのをこらえ、は深々と頭を下げた。ジョ・セ・フィー・ヌはこの神殿で使っている偽名だ。確か幻想水滸伝5のキャラクターだったように思うが、正直も、こんなにぶつ切りの名前だったかどうかは定かでない。ただ、ナルシスト軍団の名前は異様な雰囲気を放っていて覚えやすかったから使わせてもらった。しかし今は、エスメラルダでも良かったかもしれないと少し思っている。 「じゃあ、すまないけれど僕は少し休ませてもらうね。君たちは、今やっているのが終わったら帰って良いよ。今日の午後からは有給扱いにしておく」 「ありがとうございます。おやすみなさいませ」 年配の男性補佐官が頭を下げ、それに続くように残りの3人も頭を下げて「おやすみなさいませ」と言う。は元々お辞儀している上に彼らより下の階級なので言葉を続けてよいのか分からず、少し迷った末に彼らよりワンテンポ遅れて挨拶をした。 扉の閉まる音に一気に力が抜け、その場にへたりこんだ。 「?どうしたの、気分が悪いの?」 心配そうに覗き込んでくるナタナエルに困ったように笑って返す。 「緊張して力が抜けた」 「ああ、ササライ様にお会いするの、初めてだったものね……。大丈夫?立てるかしら」 「うん、大丈夫」 おそらくナタナエルの想像している理由とは違うだろうなと思いつつ、は立ち上がってナタナエルから資料のリストを受け取った。 「さあ、仕事に戻りましょう。午前中に終わらせてしまわないと」 「うん。……あ、資料室の鍵は」 「あー、すまん、俺が持ってるよ。ほら」 そう言って年配の補佐官はに向けて鍵を放り投げた。鍵は綺麗な放物線を描いての手に吸い込まれるように――飛んできたのだが受け止められず、あっけなく床に落ちた。はそれを拾い上げて礼を言い、うんざりするほど往復した資料室へと向かった。 流石に途中で強い眠気が襲ってきて何度か本棚に頭をぶつけてしまったので、おかめの額に少しだけヒビが入ってしまった。それを残念に思ったのは、この仮面に愛着を感じてきたせいだろうか。 『』を覆い隠してしまうペルソナは、外界と自分を強く隔てている。 やはり少し寂しいものだなと思いながら、リストに目を向けた。 --------------- 2008.3.28 back top next |