天球ディスターブ 2-7 世界に存在する全ての音が消える錯覚を、そのとき感じていたのだと思う。永遠に続いているような時間はしかし、現実にはほんの一瞬ですらなかったのかもしれない。 ピィ、と甲高いホイッスルの音色が最初に聞こえた。はルックの背後にある扉を見る。どうやら門兵が鳴らしたもののようで、ホイッスルらしきものを手に持ったまま扉の前に立ち、逃がすまいと待ち構えていた。 「―――」 ルックが舌打ちをした。何故分かったのかといえば、が彼の一挙手一投足にほとんどの感覚を集中させていたからという他ない。だから次に彼が行動を起こすとき、その所作は非常にゆっくりであるように見えた。 彼の手を中心として小さくも激しい歪みが生じた。それが魔力、ひいては魔法の前兆であるとが理解するより先に、ルックは兵士に向けて掌を向け、魔法を放った。幾筋もの風の線が兵士の体にまとわりつき、その直後、兵士は切り裂かれたように鋭く、何か黒いものを――おそらく血を――噴出して崩れ落ちた。 その光景にが呆然としていると、ルックはの方に急いで駆け寄り、迷うことなく地下室と地上を隔てる格子を掴んだ。 その瞬間、格子が薄い黄緑の光を放ち、バチバチと電流が流れるような音を発した。そしてその一瞬だけ、今いる閉鎖された空間全てに満ちるほどの魔力の歪みが見えた。しかしすぐに消えてしまう。 「説明している暇は無い。とにかくここから離れるんだ」 そう言って、ルックはの手首を掴んで強引に立ち上がらせた。 「でも天球が」 「今はどうやっても出せないよ。中から外へは出られない。それが真の紋章であっても」 「今の光は」 「格子に何者かが触れたら魔力の波が流れて神殿中の魔法使いに知らせる」 「じゃあ」 「これ以上話している時間はないよ」 ふわりとルックの短髪が揺れる。とルックの周りを風が取り巻いている。状況の理解が追いつかず、強い不安がを襲う。 ルックがいた。兵士が笛を鳴らした。格子に触れた。風が吹いている。歪みが見える。 (テレポート?) その考えに行き着いた瞬間、は叫んだ。 「ピエロ!!」 とルックの足元に歪んだ金色の空間が現れる。どこか、見覚えのある。 だがこれは――彼の、彼本来のテレポートではない。 何がどうなっているのか理解が追いつかずに、は半ば叫ぶようにピエロを呼んだ。 「――竜の紋章を」 ピエロの言葉の、それが、聞き取ることのできた全てだった。 浮遊感の後、思ったより少ない衝撃に驚く。見れば腰にルックの手が回されており、彼が衝撃を緩和してくれたのだろうと考えられた。 テレポートした先はどうやら路地裏のようで、薄暗いが大路にある街灯の明かりが届かないほど奥まった所でもなく、寧ろ今まで暗い中にいた分には周りの様子がよく見えた。 「ここは」 何処か、と続けようとしたその先は、急に手を引かれたことで蛙が潰されたようなうめき声になった。ルックはそんなを振り返ることもなく、迷わず大路に向かう。 少しだけ強くなる光には思わず目を細める。路地裏を抜け出た先はクリスタルバレーにいくつか存在する門の内の一つ、真西に開かれた門に通じる路だった。そこまで認識しては気付く。 「馬車がある門…」 ナタナエルが「西門に馬車を用意しておく」と言った、向こうに見える門が正にそうである。おそろしく整備された、すでに人影の消えた町並みをひた走り、門の少し手前まで来たところでルックはの手を離した。 「クロービス家の屋敷はクリスタルバレーの西にある」 「うん。ナタナエルが馬車を……」 「じゃあ今すぐそれに乗って帰るんだ。まだ間に合う。君は仕事を終えて真っ直ぐに此処に来たんだ」 子どもに言い含めるように慎重に、まるで暗示をかけるように強く告げるルックに違和感を感じる。 彼の口調はこうだっただろうか。彼は自分のことを何と呼んでいただろうか。彼の声は、この声だったのか。 「今、私の目の前にいるのはルックだよね」 「………」 目の前の人物は何も答えない。街灯と家々から漏れる家庭の明かりさえ遠く感じられる。月は雲に隠れているのか、全く役に立っていない。は言葉に詰まった。何か言わなければならないのに、いざ本人を目の前にすると何を言っていいのか、何を言うつもりだったのか分からなくなった。伝えたいことは幾らでもあるはずなのに実際に口から出た言葉は全く違うものだった。 「神官将になったんだね」 ――ああ、と。ここでは、自分と彼の間に存在する壁の存在を知った。ルックにしてみれば、はルックの現状について全くの無知であるはずなのだ。しかし実際はそうではない。は、多少の差異の可能性を除いても、ルックが思っている以上に今の状態を把握しているだろう。 知る者と知らぬ者。全てを知りつつ行動する者と、何も知らずに動き回る者。 はルックに己の知識を伝えていない。この場で言うことでもないし、また伝えるには勇気が足りない。しかし、だからこそ――の言葉はルックに届かないのだ。 何も知らない者が何かを言ったところで、その言葉に説得力は生まれないだろう。 ――説得力? はた、との思考が停止する。自分は何を、誰を、何について説得しようとしているのか。 自分は彼を――ルックを、説得したいのだろうか。しかし何について説得するのか。 ポスン、と、肩に軽い衝撃と重みを感じた。ふわりと、柔らかい髪が頬をくすぐる。 「―――てた」 「……?」 「………生きてた……」 その小さな、心底安堵したような声色には目を見開く。何かを言う暇もなく一瞬だけ抱きすくめられ、すぐに放された。 「ル……」 「じゃあね」 サア、と風が吹いて月にかかった雲を散らす。刹那に見えた――。 「お勤めご苦労様です」 「いえ…お迎え、ありがとうございます」 「何をおっしゃいます。さ、お乗り下さい。お体が冷えてしまいますよ」 馬車の側に立っていた老紳士はの姿を認めると恭しく一礼して扉を開けた。が礼を言うと柔らかく笑んでの体を慮った言葉をかけてくれる。いつもなら溢れんばかりのその好意に恐縮してしまうのだが、今のにはそれを受け止めるだけの余裕がなかった。 主に貴族が所有するのだという箱馬車は、左右後方に壁があり前面が開いた造りをしていて、後ろにガラスの入った窓がある。それ程速度を出していないので夜の冷たい風に身を縮ませることはない。もっとも、前面にはカーテンのようなものが備え付けられているので寒いときでもそれを閉じれば比較的暖かいのである。 ゴトゴトと、馬車の振動を感じながらは慣れた手つきで手綱を握る御者――老紳士の背中を見ていた。 「……どうかなさいましたか?」 老紳士が振り向かないまま訊ねる。 「どう、とは」 「何やらお疲れのようでしたので。大変なお仕事だったのですか?」 「………」 は無言で掌を見つめる。いつの間にか握っていたものがそこにあった。シンプルな銀のサークレットに見覚えがないとは言わない。記憶が確かなら、それは同盟軍を出る日にルックがくれたものだった。 それを掌でやんわりと包み込むと、は努めて穏やかな表情を浮かべる。 「ご心配ありがとうございます。大丈夫です。仕事が長引いて、蝋燭だけで作業していたので目が疲れてしまったみたいです。意地を張らずにナタナエルに残ってもらえば良かったかもしれません」 「それはそれは。お嬢様がお聞きになったらお怒りになりますよ。貴女を残して先に戻られたことを気に病んでいらっしゃいましたから」 「本当ですか?…さっきの言葉、ナタナエルには秘密にしておいてください」 「承知いたしました。――お屋敷まではもう少し時間がかかります。少しお休みになられては?」 「……では、お言葉に甘えて」 老紳士が優しく笑う気配を感じ、はきつく目を閉じる。そうしなければ感情が溢れてしまいそうだった。 神殿の奥深くに幽閉された紋章。――天球。おそらくが元の世界に還ることになった、あの地下水路で捕らえられたのだろう。ではあの時現れた人影はハルモニア神聖国の人間だったということになる。が天球の紋章を所持していると知られていた――何回か大きな魔法を使ったのでその可能性は十分にある。 は還り、天球は捕えられ閉じ込められた。それがあのような地下室にというのはいささか不思議に思えたが、何かしらの理由があるのだろうと結論付ける。天球は己のことを規格外だと言っていたからそこに関係しているとも考えられる。 そしてルック。彼が神官将になっていることは不自然ではない。――いや、彼の今までを知り、行動の理由を聞かされていない人々にはにわかには理解し難いことかもしれない。しかしは、その理由と背景を少なからず知っている。この世界がの知る世界と全く同じであるとはには思えなかったが――何故ならそれは「」の存在しない世界だから――そのことで大幅に変わるような軽い理由でもないだろう。 だからルックが神殿にいるのは何ら問題ない。天球の紋章の処遇について知っているようでもあったが――神官将といえば神殿でもトップクラスの人間である。知っている可能性がないとは言い切れない。 ――ルックに助けられたのだろう。 手の中でサークレットを弄りながらは薄く目を開けた。天井の付いた馬車なので星は見えない。外面に揺れるカンテラの明かりが時々入ってくるだけだ。 おそらく、あの場でルックがに気付かなければ、は犯罪者として捕えられていたはずだ。気付いた上でを助けた――それは彼の中で己の存在が小さくなかったということなのか、とは自問する。そうであれば嬉しく、考えると胸の奥が温かくなるような気がした。しかし同時に何故、とも思う。とこの世界のタイムラグは15年。それは決して少なくない年月である。 15年前の月日は、人にとってどれほどの重みを持つのか。記憶は風化し思い出は色褪せ、顔も声も存在すら忘れる――そんな年月ではないのか。ルックは15年も、忘れることなく覚えていたのか。 考えれば考えるほど自信が無くなっていく。助けたということは少なくとも完全に忘れ去られてはいなかったということなのであろうが、それにしても15年。にしてみれば、幼稚園の同級生で小学校から別々になった子の顔を思い出すようなものである。 (…覚えていてくれたことに違いはないと思うけど) そこまでルックに強烈な印象を残した覚えがない。 ――…もしかして。 唐突に、は一つの可能性に行き着いた。サークレットを両手で広げて目の前にかざす。 確か自分は元の世界に還ったあの日もこれを身につけていた。そして元の世界では消えていた。ということは自分が還ったあと、このサークレットはあの地下水路に落ちていた可能性がある。そして――理由は分からないが、ルックが地下水路を訪れてこれを見つけたのだとしたら。サークレットを目にするたびに自分を思い出すという悪質な循環が出来上がってしまったのかもしれない。こと死にまつわる記憶は長引くものである。 「うわ……それは申し訳ない……」 思わず口をついて出た言葉に老紳士が振り返り、は慌てて「何でもありません」と言った。 「様、もうすぐ到着致しますよ」 老紳士の言葉に、は馬車の前面から頭だけを出して外の風景を見る。建物がまばらで街灯も少ないので、頼りになる明かりは馬車に付いているカンテラだけだが、それを補う月光があった。 「満月だったんですね」 「ええ。風で雲も飛ばされましたから、今日はとても明るい夜でございますね」 満月。月光。最後に見た彼の。 「……人っていつ笑うものでしたっけ」 「いつ、でございますか?はて……私は嬉しいときや幸せなときに笑いますね。突然どうなさったのですか?」 「すみません、ふと考えたら気になってしまって。ありがとうございます」 では、ルックは嬉しいか、幸せだったのだろうか。 暗い中、馬車の速度を落としながら進んでいくと、やがてと老紳士は目の前の異変に気がついた。 「屋敷の周りに、あれは……松明でしょうか」 老紳士が呟く。今いる道の先に屋敷があるはずなのだが、丁度その辺りに小さな光点がいくつも見えるのである。正確な距離が分からないので目測になるが、ランプにしては些か大きいような気がする。そのままじっと見ていると微かに揺れたように見えたから、松明と言われればなるほど、そうなのかもしれない。 その正体は分からない。ただ、穏やかではないのだと、不思議なくらいはっきりと感じた。 「……様、座席の下に防寒用の毛布があります。大変失礼なこととは承知致しておりますが、どうかそれを身に纏ってください」 はその言葉に是と返す。は屋敷に来て日が浅い。そのため何か問題が生じたとき、自身がリスクファクターになる可能性が非常に高いのである。クロービス家のためにも自分のためにも、ここは身を隠しておいたほうがいいだろう。 「…座席の下に入り込めそうですから、そこにいます」 「……申し訳ございません」 「謝らなければいけないのは私の方です。ご迷惑をおかけしてしまってすみません」 苦笑して言うと、は毛布を体に巻きつけて潜り込み、余った毛布で顔を隠した。 少しだけ足を速めた馬車が屋敷に到着するのに、そう時間はかからなかった。馬の嘶く声に耳を澄ませながら、は息を殺す。人の声は夜の空気の中で驚くほど響いて聞こえてきた。 「これは……神殿の方々。このような夜更けにどうなさったのですか?」 「お前は?」 「失礼を致しました。わたくし、クロービス家にお仕えさせて頂いております、ピーターと申します」 「なるほど。話は聞いている。下士官を迎えに行ったと聞いているが…馬車に誰も乗っていないのか?」 「お疲れのようで、眠っておられます」 「そうか。……ああ、もう行っていいぞ」 「では、失礼致します。……あの、馬車を敷地内に入れたいのですがよろしいでしょうか?」 「ん?ああ、すまんな。――おい、門から離れろ」 小さなざわめきが聞こえてくる。ややあって誰かが馬車に乗り込み、また馬車はゆっくりと進みだした。 「……様、よろしゅうございますよ」 その声にはもぞもぞと座席の下から這い出る。 「神殿の人だったんですか?」 「ええ。確かあの服装は……研究部門の方々のようにお見受けしましたが」 研究部門、と小さく繰り返し、は先日のことを思い出す。ナタナエルが珍しく怒っていた、あの相手はまさにその研究部門の人間ではなかったか。だとすると―― 「ナタナエルに会いに来た…?」 そうとしか考えられない。しかしそうなるとナタナエルが心配になってくる。彼女のあの憤りようを見れば、「研究部門の人間」がナタナエルにとって良い存在でないことくらい理解できた。 老紳士――ピーターは屋敷の裏に馬車を回し、馬車のための小さな平地で馬を宥める。は不安に心拍が跳ね上がっていくのを感じていた。何故かは分からない。しかし確かに、は「研究部門」に恐怖心を抱き始めていた。ナタナエルを脅かすもの――それが自分にとって良い存在であるはずがないのだ。 結局のところ全て自分に帰依する考えに嫌悪する――が、ナタナエルを心配する気持ちに偽りはない。 自愛と、恩と。その両方からは「研究部門」に怯えていた。 「――、ピーター!!」 を馬車から降ろし、轡(くつわ)を外そうと馬に手をかけたピーターとを、屋敷から出てきた何者かが呼んだ。その声にが振り向くと、略装のナタナエルがこちらに向かって来ていた。何かを抱えている。 「エル?出てきて大丈夫?研究部門の人は……」 「気分が悪いから休ませなさいって言って出てきたの。……そんなことより」 そう言うとナタナエルは抱えていたもの――ナップサックより大き目の、歴史ドラマや本で見たようないわゆる「旅人が持っている袋」をに差し出した。何事か分からずにとりあえずがそれを受け取ると、ナタナエルはピーターに向き直って指示を出す。 「イクセの別邸にと一緒に向かってくれるかしら」 「……お嬢様?それはどうしたことで……」 「説明している時間は……ないの。旅費は荷物の中に入っているから。保存食も出来るだけ入れておいたわ」 「待って、エル。今、何が起きているの」 振り向いたナタナエルは、月光のせいと言えないほどに青褪めていた。その様子に、は急いで馬車の中に荷物を置いて側に寄る。視線を落とすとナタナエルは震える手を必死に押さえているようで、堪らずにはナタナエルの両手を握った。 「どうしたの」 「……」 「何があったの」 「…………」 「……話せない?」 ナタナエルは小さく頷いた。握った手から伝わる震えは、彼女の手の温もりさえ奪うというのだろうか――ナタナエルの両手は、驚くほど冷え切っていた。肩も小刻みに震えている。 「……怖いの?」 ビク、と彼女の体が跳ねたのが分かった。どうすれば彼女を安心させることができるのか分からず、とにかく冷えた体を温めた方が良いのだろうかと、はナタナエルを抱きしめた。 「側にいる」 「…………だめよ。イクセに行って」 「私はこんな状態のエルを置いてどこかに行けるほど冷静にはなれない」 「………行っ…て」 「――役に立てないかな。私はエルにたくさんのものを貰ったのに、全然返していないんだよ」 言って、少し悲しさが増した。 「……っ」 ナタナエルが小さく息を呑む。そして、まるで堪え切れないというように、の背にしがみ付いた。小さな小さな嗚咽の中、ナタナエルは言葉を搾り出す。 「ピーター……っ!」 その瞬間、は首筋に鈍い痛みを感じ、次いで頭の中が激しく揺さぶられるような不快感に襲われた。ぼやけていく視界と消えていく感覚の中で、支えるナタナエルの腕の冷たさだけを感じていた。 体の下の揺れに、はゆっくりと目を開く。起き上がろうとするが、未だ脳が揺れる感覚が残っていたため、またすぐに倒れ込んだ。 目だけはしっかりと見開いて状況を確認する。どうやら馬車の座席に寝かされているらしい。体の上には毛布がかけてある。どうやらクロービス家所有の馬車の中らしい。ただ不自然な暗さと音の無さが不信感を煽った。 「ピーターさん」 「……お目覚めになられましたか。手荒な真似を致しました。お許しください」 「いえ。ピーターさんが自発的にしたことではありませんから」 そう言っては、半ば気力だけで上半身を起こして背もたれに寄りかかった。 「私はどのくらい寝ていましたか」 「30分ほどです。……不謹慎ですが、驚くほど早くお目覚めに」 「どこに向かっていますか」 「イクセ村という所にクロービス家の別邸がございます。そちらに」 「エルは」 「…………」 ピーターは答えず、慎重に手綱を繰る。ゆっくりと、音をなるべく立てないように進んでいるようだった。 はもう一度問う。 「ナタナエルは――」 鼓膜が破れるほどの爆音が響いた。 ぐい、と腕を引かれ、は馬車の床に落とされた。何かに包まれる感触に、ピーターがかばってくれたのだと直感する。爆風に後ろの窓ガラスの割れる音がする。過ぎ去った衝撃にはすぐに体を起こすとピーターの腕から抜け出し、窓の外を見て驚愕に目を丸くした。 遠くで巨大な炎が、高く高く、夜空を侵食していく。 馬車の位置を考えると――あれは、 「……!」 ――クロービス本邸では、ないのか。 「馬車を――」 戻してください、と言おうとした瞬間、甲高い馬の嘶きと共に馬車が速度を速めた。 「ピーターさん!?馬車を戻してください!お願いです、あれは、だってあそこには、ナタ――」 「お嬢様のお気持ちを無になさるおつもりですか!!!」 その怒声にはビク、と肩を竦ませる。 では――ナタナエルはこうなることを見越して、自分にイクセ村へ行くように言ったのか。 それはあまりに。あまりに――残酷だ。この上なく優しく、代わりに最も残酷な選択だ。 「……すみません、ピーターさん」 ピーターの背中が震えている。の視界が曇っていく。この優しい老紳士は今、どんな気持ちで手綱を握っているのだろうか。 どうしてこのようなことになってしまったのだろうか。 時間を戻すことはできないのか。できないというのならば、どうすれば前に進めるのだろうか。 悲しみばかりが先行して、思考がどんどんできなくなっていく。 「……っ」 ――また、失うというのか。 無力が憎い。何も出来ない己が憎い。この手に抱いたものすら護れない愚かしさが――憎い。 知らず立てた爪がの腕に食い込んで、生きている証を一滴零した。 --------------- 2008.5.27 back top next |