天球ディスターブ 10 軽い怒りは一晩眠ったら案外忘れてしまうものだが、やるせなさは意外と消えない。 朝、目が覚めたら全てが元通りで元の世界で目を覚ますなんて稚拙な空想だとは思っていたけれど、 それでもそうなることを願わずにはいられなかった、というのが正直なところのの本音だ。 未だ覚めない目を擦りつつ窓に目を向けると真上にある太陽が城下を照らしていた。 今日も、もう昼時なのだろう。 別段慌てる様子もなくはベッドの縁に腰掛け、そのまま上半身を倒した。 そして昨日の出来事に思考をめぐらせた。 ――昨日、何があったっけ。 確かパーティーに参加できずグリンヒルに行く事ができなくなったのだったか。 ――それで、どうしたっけ。 不貞腐れた自分は屋上で黄昏れ、そこにシュウが来て諭された。 ――これから、何をすべきなんだろうか。 諜報員なのだから当然グリンヒルへ行って何かしら情報を集めて――。 ――あれ? グリンヒルに行く目的はなんだったか。 ――市長のテレーズを救出するためだろう。 グリンヒルで集められる情報は、どんなものだ? ――せいぜいテレーズの居場所ぐらいだ。ハイランドの動向なんて遠地グリンヒルで分かる訳がない。 だってグリンヒル、言わば切り離されているも同然なのだから。 ならば自分がグリンヒルへ行く必要は? ――無い。 「……」 暫く思考を巡らせる。 まだ完全に目覚めていないのだ。 「………!」 そして気付いたときにはもう、ドアを開けて走り出していた。 軍師のもとへと。 バタン、と少々乱暴にドアを開ける。 全速力で自室から走ってきたため息が乱れている。 目の前の人物は訝しがって自分を見た。 「…何のようだ」 彼は椅子に腰掛け、机のうえの書類を片手に持ちながら訊いた。 数回深呼吸をし、息を整えては話し出した。 「グリンヒルのことなんだけど、訊いてもいい?」 「構わん」 「私、行く必要ないよね?」 シュウの眉がつりあがる。 はシュウを見つめ続けた。 「何故そう思う?」 「達が行くのなら偵察は必要ないから。テレーズの居場所は達が見つけるよ」 「グリンヒルに他に情報があるとは思わないのか?」 「可能性は低いと思う。グリンヒルは崩落しちゃってるし、ハイランドの動向も分かんないだろうし」 「…どういうことだ?」 「グリンヒルはハイランドと切り離されてるってことだよ」 敵地である都市同盟の内部に位置するグリンヒルに主要な人物や情報があるわけはない。 いつどこで市内の誰に情報が漏れるかも分からない。 誰も逃がさないという自信があっても、油断は大敵なのだ。 確かにグリンヒルは都市同盟の領地を削ぐとともに威圧するという二つの大役をこなしている。 だが、それだけなのだ。 「ハイランドにしてみればテレーズを処刑して都市同盟の不安を煽れればそれでいいんだよ」 だからグリンヒルはハイランドから切り離され、情報もない。 「…なるほどな」 シュウが感嘆の声を漏らす。 がここまで考えたことに対してなのか、それともの頭でここまで考えられたことに対してなのか。 それは分からなかったが。 「でもシュウは分かってたんでしょ?」 一応訊く。 「無論だ。俺を誰だと思っている」 あっさりと返されては何だか足の力が抜けてしまい。その場に座り込んだ。 「先に言ってくれれば私は悩まずに済んだのに」 恨みがましく言ってみる。 しかしシュウは「それが何だ」とでも言うように「フン」と言って椅子から立ち上がりを見下ろした。 「こっちは感謝して欲しいくらいだがな。 ああでもしなければお前はどう思われているか気付かなかっただろう?紋章についてもそうだ。 …まあ、少々荒療治だとは思ったが」 「まったくだ」 「その分あとからフォローしただろうが」 「…少しでも感動した自分が憎らしいよ」 これ以上は何を言っても言い返されるだけだと分かったのか、シュウは溜息をついて椅子に座った。 も立ち上がり、二人は机を挟んで向かい合うような形になる。 「私、他に何かすることある?」 別に無いならそれでも良い。 いや寧ろその方が好ましい。 だが、そうもいかない事情もある。 自分がこの紋章を持つ限り平穏はいつか崩れる。 そのとき抗う力が自分になければお話にならない。 平穏を願ってはいるものの、同じようにそれを願った継承者たちの行く末を知っているだけに、少々苦しい。 ああ、いつかは自分もあんな風に追われるときが来るのか、と。 だが、だからといって大っぴらに紋章を振りかざしたりはしない。 紋章を持っていることは隠す。 追われるのも命を狙われるのも今はごめんだからだ。 たとえ平穏がいつか崩れるのだとしても、その時間をほんの少しでも延ばすことくらいはしてもいいだろう。 少しでも楽をしたい。 自分は面倒くさいことは嫌いなのだから。 願わくば少しでも長い平穏を。 それが崩れたときに生き残ることができるくらいの強さを。 そのために。 「私は、強くなりたい」 ――そしてそのために、可能な限り多くを経験しておきたい。 シュウの目を真っ直ぐに見る。 目の前の鬼軍師は一瞬だけ眉をひそめたが、それがに分かるはずも無かった。 シュウはゆっくりと言葉を紡いだ。 「…あることはあるな」 「何?」 「達の護衛をすることだ」 「何で?」 それこそ必要ないだろう。 彼らの力は見たことないが、それなりに強いはずだ。 が行ったところで足手まといになるだけではないのか。 シュウは続けた。 「何故だ、とでも思っているのか?これは冗談ではない。 お前は先程『グリンヒルは切り離されている』と言ったが、それは情報についてだけのこと。 テレーズを取り戻しに我々が向かうことなど百も承知のはず」 「兵はかなりいるってこと?」 「おそらく住民の不安をより強めるため、主要人物――それも、かなり腕の立つ者が一人はいるだろう。 戦闘は避けられまい」 書類に手を伸ばし、それに目を通しながらシュウは淀みなく自身の言葉をに伝える。 「だが、向こうにも誤算がある」 「誤算?」 「こちらから向かったのが一般兵やただの精鋭ではなく、軍主自身だと言うことだ」 「それが一体何の意味を………あ」 書類を置き、の目を見る。 そして意味深な笑みを浮かべ、言い放った。 「奴らにとっての最大の誤算は、同盟軍最強の人物がテレーズの奪回に行ったことだ。 どういうことかは分かるな?」 「テレーズは必ず奪回できる」 「そうだ。俺は成功を疑わない。だが、無傷では済まないだろう。 そしては、同盟軍と兵士の士気を上げも下げもできる存在だ」 「軍にとっての不安要素は少しでも軽くしたほうが良い。そのために私が護衛をする、ってこと?」 やっと分かった。 何もこんなに回りくどい言い方をしなくても、とも思ったが、それは言わないことにした。 「まあ、そういうことだ。軍主の身に危険が迫ったら護衛、それ以外は一応情報の収集。いいな?」 シュウは目線でドアを指した。 行けと言っているのだろう。 だが、まだ問題があった。 「あのさ」 「まだ何かあるのか?」 予想通りの反応に思わず笑みを零しそうになる。 しかし今はそんなことをしている場合ではない。 「護衛のことは分かったけど、私は剣とか使えないし、そうなると紋章を使うしかないよね。 でも私としては、天球の紋章使うのは御免こうむりたいんだけど」 「ならば他の紋章をつければいいだろう」 シュウはそれがさも当たり前のことであるかのように言った。 は今の自分にとって一番重要で、かつ一番屈辱的なことを言葉に出した。 「お金持ってないんだよね」 「…何?」 シュウの手から書類が落ちる。 部屋の空気が何度か下がり、時間が止まった。 「風の紋章いい?」 「好きにしろ」 城下にある紋章師の店の中にとシュウはいた。 店に入ったときに出迎えてくれたジーンにも驚いたが、それ以上に驚いたのは品揃えだった。 下位紋章、上位紋章、果ては毒の紋章やタイタンの紋章など、特殊なものまで揃っている。 ジーン曰く「趣味」らしい。 「というより、お前はいくつ紋章が宿せるんだ?」 「知らない」 「…調べてもらえ」 シュウに促され、ジーンのほうに歩いていく。 ジーンは占い師がよく使うようなテーブルの上に腰掛けていた。 何故椅子に座らないのだろうとも思うが聞く気にはならなかった。 「すみません。私は何個紋章を宿せるか分かりますか?」 「勿論よ。ちょっと待ってね…」 ジーンはの胸の前に両手の掌を向け、目を閉じた。 彼女の掌の辺りに何か渦巻くものが見え、は半ば直感的に、これが魔力なのだと思った。 なぜ見えるのかは分からなかった。 もしかしたら他の人にも見えているのかもしれないと考えたが、考える途中でどうでもよくなった。 自分に見えているという事実は変わらないし、他の人に見えていたって余り関係は無いのだから。 「……」 ジーンの目が開く。 しかしそのまま何も言わないので、少々不安になったはジーンに答えを促した。 「分かりましたか?」 ジーンは目を少し伏せた。 「分かったけれど…こんなことは初めてだわ」 「もしかして何も宿せないんですか?」 「いいえ。貴方は素晴らしいほどの魔力を持っている。紋章は宿せるわ。ただ…」 「ただ?」 ジーンはの目を見た。 どうも今日は見つめたり見つめられたりが多いなと場違いに思う。 「…結論から言うと、宿せる紋章は3つね。貴方は既に一つ宿しているようだけれど」 やはり分かるものなのかと思案する。 「だけど、貴方がいくつ宿せるのかは分からなかったわ」 「さっき3つって…」 「それはあくまで体のことを考えてのことよ。3つ以上宿すと術師が紋章を制御できなくなる可能性があるの。 だから一般的には、どんなに魔力の強い人でも3つまでしか宿さないのよ」 「へえ」 「それを無視してしまえば4個でも5個でも宿せるわ。制御できるならなんの問題もないのだから。 私が今まで会った人の中では…そうね、108個宿している人がいたかしら」 「有り難味なくなりますね、それ」 妙に既視感を覚える数字に、の中で紋章の何かが変わった。 ジーンはの言葉を爽やかに無視して話を続けた。 「……何故なのかしら。多すぎて分からないのかもしれないわ」 「まあ、とりあえず私は2つ紋章宿します。あまり考え込まないほうがいいですよ」 私のことで悩んだって何にもなりません、と言ってはシュウの元へと戻った。 「あと2つだって」 「さっさと選んでこい」 は棚に飾ってある封印球に目をやった。 紋章以外に自分の身を守る術のないは必然的に攻撃紋章を選ばざるを得ない。 それも広範囲で使えるものが好ましい。 1対1で攻撃を仕掛ける、男気溢れる敵ばかりなのであれば話は別だが。 「風の紋章と、火の紋章で」 「言ってこい」 「はーい」 再びジーンのもとへと歩み寄る。 ジーンにその旨を伝えると彼女はにっこりと微笑んで、店の奥から封印急を二つ持ってきた。 だが彼女が持ってきたそれは、風の紋章と火の紋章ではなかった。 「何か違いますよ」 「そうね。これは旋風の紋章と烈火の紋章だから」 「や、あの、私は風の紋章と火の紋章って」 「いいのよ。これは私からのプレゼントだと思って頂戴。紋章師として貴方のことが気に入ったのよ」 再度綺麗に微笑まれてしまっては返す言葉がなくなってしまう。 はおとなしく、ジーンに紋章を宿してもらった。 天球の紋章は右手に宿しているので、旋風の紋章は左手、烈火の紋章は額に宿った。 「お金はいらないって」 「そうか」 シュウは無表情に言う。 はジーンに会釈をして、店から出て行こうとした。 「貴方たち二人は、まるで兄妹みたいね」 ふふ、とジーンが笑いながら言った。 はそれが何故か嬉しくてシュウの方を見た。 相変わらず彼は無表情だったが、それでもいつもより幾分か柔らかい表情のような気がする。 錯覚かもしれなかったが、はそれで満足だった。 この世界と自分とを繋ぐ「何か」が出来たような気がした。 「ありがとうございます」 素直にお礼が言えたのは生まれて初めてかもしれない。 そう思いながら、はシュウと店を出た。 店を出て二人は別れた。 一人はもう一人にいくらかの金を渡した後軍師室へともどり、もう一方はそれを見送った。 は天球の紋章に集中する。 転移だけはこの紋章に頼らないとどうしようもない。 周りに誰も居ないことを確認しては消えた。 イメージ――否、願ったのは、『達の居る場所の近く』。 まだグリンヒルにはついていないだろうから。 光も何も現れることなくの姿は消えた。 後にはの後悔だけが残った。 は、食料も水も用意することなくテレポートしてしまったのだった。 余談ではあるが後悔の一瞬の後には、 「まあ、いいか」 という思考に切り替えたことを記しておこう。 --------------- 2003.12.13 2006.7.2加筆修正 back top next |