天球ディスターブ 39





紋章で創り出した鳩がシュウからの書簡を携えて戻ってきたのは、咆哮が聞こえた後、すぐのことだった。

この世界の文字を覚えたばかりのにはその字が達筆なのかそうでないのかすら分からなかったのだが、

ただ『終わった』の一言で構成されていた手紙に、彼らしいと少し笑んだ。

すぐさま部下を集める。


「終わったそうだよ」


そう言うと彼らの間から溜め息のような、または違う何かのような、そんなものが漏れた。


「何だかあっけなかったなあ」


部下の一人が言う。傍にいた者がそれに答えた。


「そうだな。…でも、まあ。終わったんだし。いいんじゃないか?」

「俺ら別に戦争したくて同盟軍に参加したんじゃなくて、戦争終わらせるために参加したんだしな」

「終わりよければ全てよし、ってやつだ」

「そうそう」


は黙って彼らの会話に耳を傾ける。自然、笑みが零れた。

こんな彼らだからこそ自分の部下として編成されたのではないかと、今更ながら彼の人の心を思う。

会話がある程度続き、話題が終わろうとした頃を見計らって、は彼らに最後の指示を出した。


「戦争は終わったけれど、後ひとつだけ仕事が残ってる」

「…?本隊に合流しないんですか?」

「うん。このまま合流しようかと思ってたんだけど、予定変更。先に本拠地に戻る」

「何かあるんですか?」

「怪我人がね。戻ってくるから。最終戦だったしその数は今まで以上だと思う。

その手伝いをしたほうがいいんじゃないかな。手当てが遅れて…大変なことになったら、やっぱり嫌だから」


そういうと兵士は納得したように首を縦に振った。

年上、年下で優劣が付けられるほど戦場は甘くはないが、それでもやはり抵抗するところはあるだろう。

その中で自分の意見を受け入れてくれた彼らの心が嬉しかった。は心中で深く感謝する。そして言った。


「これが最後の指令で、最後の仕事だよ。力を尽くして、敬意を持って迎えよう、――私たちの軍主を」


そしてこの戦争は彼の手によって締めくくられるのだ。










本拠地に戻ってきたたち別働隊は、残っていた医療班の指示を仰ぐ。

薬やら包帯やらは既に近くの町々から届いているというので、それを運ぶ仕事を任された。

常は兵士の訓練場として利用されている建物や、その他のある程度広さのある部屋が処置室となる。

未だこの城の構造がよく分かっていないは部下の後について荷を運ぶ。

これではどっちが隊長なのか分からないが、さして気にする者はいない。

ガチャガチャと音を立てる箱を抱えた兵士の後を、いくつかの箱を浮かべながらは追った。


「これで最後ですかね」

「他に箱もないし…うん、そうみたい」


兵士は額に薄っすらと浮かんだ汗を腕で拭う。汗をかいていないは少し後ろめたくなる。

ほんの少しの償いの気持ちとして、ハンカチを創造して渡してみた。

部下は驚いた後、すいません、と言って笑って受け取った。


「あとは医療班の仕事っスね。俺らは薬とか包帯とかを必要に応じて運ぶくらいしかできなさそうだ」

「まあ、医者でも医療知識があるわけでもないからね。あ、でも紋章で治せるかな」

「んー…軽症くらいなら大丈夫でしょうけど、あんまり重症の人には止めておいたほうがいいですよ」

「何で?」

「紋章術の難しいところです。重症の人に中途半端な治癒魔法かけたって効果はほとんどないんですよ。

かと言って思いっきり強いやつをかけたら相手の魔力と反発して暴走、結果怪我が酷くなる、と」

「へえ…」

「ルック様くらいの使い手ならそこら辺の匙加減もお手の物なんでしょうけど。こればっかりは才能も必要です」

「さ、様…!?」


兵士は変なところに驚きの焦点を置いたに首を傾げた。


「どうしたんですか?」

「いや、…うん、何でもない。うん…そうだね、様だ………うーん…」


ルックといいといいといい、どうも自分の周りには「様」がつく人が多いようだ。

はこっそり嘆息した。

そして二、三度首を振ると気を取り直して兵士に告げる。


「数日後には本隊が帰還するだろうから、それまでゆっくり休んでおこう」


はい、と返事をして兵士は表情を引き締めた。






四日後の早朝、日が南中に昇った頃に本隊が帰還した。

凱旋などという華やかなものではない。余裕がないのだ。

そして、それからの様はまさに惨憺たる様子だったと言っていい。血の匂いが辺りを埋め尽くしていた。

負傷した兵士は敵味方関係なく処置を施される。

軽傷の者は現地――ルルノイエで手当てを受けているのだが、重傷の者などはそうはいかない。

応急処置を現地で済ませ、それからこの城に運ばれてきちんとした医療器具で適切な手当てを受ける。

も処置後の兵士の、重症のほかに負った傷を紋章で治していく。魔力が切れることはない。

聞けば魔法部隊、つまりルックが隊長を勤める部隊は現地での手当てに回っているらしい。

手当てに駆け回っている途中でやシュウなどの姿を見かけ、彼ら同様ルックも無事であることを願った。


「隊長、向こうの兵もお願いします」

「程度は?」

「腕の負傷が2人、足の負傷が3人、どちらもごく軽いものです…他の兵士に比べれば」

「分かった。すぐ行こう」


そう言って、は目の前の兵の負傷した部分――二の腕の切り傷――に右手をかざす。

淡い光が漏れ、手を離したときには傷などどこにも見当たらなくなった。

ありがとうございます、としきりに感謝する兵士に二言三言労いの言葉をかけ、はその場を離れる。

そして、先ほど頼まれた兵のもとへと足を急がせるのだった。




「忙しさに目が回る」という表現がある。現状は、そこまでは行かなくとも限りなくそれに近い状況であった。

日が傾き、夜の群青が空を覆い始めた時分、ようやく軽傷の兵の手当てが落ち着いてきた。

――こんなに城の中を走り回ったのは初めてかもしれない。

そう思うと自然と苦笑が零れてくる。

さあ、もう一頑張りだ、と自分を鼓舞し、手当てに戻ろうかというとき、自分の名を呼ぶ声に気がついた。





長い髪を夕暮れの風になびかせた若き軍師――シュウである。


「なに?」

「よく働いているようだな。――苦労をかける」

「それには及ばない。もともと私は同盟軍の諜報員兼軍主護衛だから。ああ、あと特別部隊の隊長」


悪戯な笑みを浮かべる(少なくとも自分はそういった笑みを浮かべたつもりだ)と、シュウは微かに笑んだ。

彼が笑みを浮かべることは少ない。珍しさにがその笑みを眺めていると、すぐに笑みは消えた。

シュウはいつもの、内心の読めない表情で告げる。


「――三日後、この城に各都市の代表が集まる手筈になっている」

「それは…どういった意味で取ればいいのかな。国王誕生?それとも」

が決めることだ。今はまだ分からん――が、どうやらあいつにはまだ心残りがあるらしい」

「心残り?に?」

「いくら決めるよう言っても曖昧な返事しかしない。何でも元ハイランド国王と何か約束をしていたらしくてな」

「約束?……!」


は息を飲む。約束――それは。


「知っているようだな」

「……」


黙って頷く。シュウがため息を漏らすのが分かった。

そう、戦争はまだ終わらない。と彼が――ジョウイが会わない限り。

とジョウイの関係はシュウも知るところだったので、は「約束」について簡単な説明をした。

そして今まで散々気になっていたことを口に出した。


「シュウ、ナナミは…」


生きているのか。生きているのだろう?――生きていると言ってくれ。

この城に戻ってきて、薬品を取りに入った医務室に――ナナミのベッドの周りにはカーテンがかかっていた。

しかし、その期待は裏切られた。


「――いないものと思え」

「な……」


それきりシュウは口を閉ざし、やがて踵を返した。

は呆然と立ち尽くす。

膝がガクガクと痙攣して止まらない。

さまざまな思いが濁流のごとく胸に溢れていく。それは決してこぼれることなくの心を圧迫させていく。

以前のならばこの場で蹲って耳を塞ぐのだろう。


――でも、私はもう以前の私ではない。


震える手を硬く握り締め、は面を上げ、右手を掲げた。

淡い光が右手から溢れ、次の瞬間、は違う場所にいる。


軍主のところへ。










軍主、は突然現れた訪問者に大層驚いている様子だった。

自室の寝台に腰掛け、組んだ手に額を当てている様を見る限り、相当悩んでいるらしい。

自分がここに来た説明をすべきなのだろうと分かってはいるが、はあえてそれを無視した。

説明の変わりに右手を差し出す。


「行く?――約束の地へ」


は目を見開く。

右手とを交互に見て、――そして、静かに頷いた。


「――はい」










夜の帳が完全に落ちた濃紺の空の下、一人待っている男がいる。

男性というよりは青年、もしくは少年に近い相貌の男は脇に立つ岩を見上げた。

岩には二つの傷がついている。

交差したそれは一箇所を除いて互いとは逆の方向に向かっている。

まるで君と僕のようだ――と、青年は苦笑を抑えられなかった。

――君に返すべきものがある。



青年は先刻、何もかも失ったところだった。妻と、血の繋がりは無くとも家族同然に思ってきた子を残してきた。

彼女たちは無事でいるだろうか。追っ手は来ていないだろうか。

敗者ということで、自分の国の民が虐げられてやしないだろうか――いや、それはあるまい。

相手方のリーダーは自分の親友である。彼がそのようなことをするはずがない。大丈夫だ。

ただ思うのは、妻といとし子、親友の姉の安否、そして―――



正直、負けたことはショックだった。

風向きが同盟軍のほうに向いていたことは明白だったが、それでも諦めるわけにはいかなかった。

――平和な世界が欲しかった。ただ、それだけだったのだ。

真実権力を欲していたわけではない。武力など最初からいらなかった。

ただ、平和な世を。誰も悲しむことのない、ピリカのような不幸な子供のいない国を。

――間違っていたのだろうか。

強大な国が必要だと考えた。共和国は確かに良いかもしれないが、必ず軋轢が生じてしまう。

ならば大きな国が民の盾となり剣となり、内部の平和を、民の心の平穏を守ればいい――そう思ったのだ。

――今でもよく分からない。

自分が間違っていたとは思わない。圧政を強いることは決してなかっただろう。

――君の心が知りたい。

君は何を考え、何を思って僕と敵対していたんだい?



――会いたいよ、君に。



岩場に光が満ちた。










の右手に乗せられたの手は、眼前にいる少年――いや、青年を見るや否や離れていった。

青年を目に留めたはその名を叫ぶ。


「ジョウイ!!」


呼ばれた青年――ジョウイもまた、の姿を見て名を呼んだ。


…」


その表情には疲労の色が濃く表れている。

は近くの木に寄りかかり、彼らの妨げにならないように再会を見守ることにした。

は笑みとも悲しみともつかない表情を浮かべてジョウイに駆け寄るが、ジョウイの棍がそれを制した。


「来たらいけない」

「ジョウイ…?」

「……僕は、君に聞くために、そして返すために君を待っていたんだ」

「…どういうこと?」


ヒュッ、という風切音を立てて、ジョウイは棍を地面と垂直に構えた。

そして静かに声を発する。


「ユニコーン少年兵部隊の訓練を覚えているかい?……あのときは引き分けだったけれど。

――さあ、決着を付けよう。そして――僕を殺してくれ」






の双眸が驚きに見開かれる。

自分を殺せと言った目の前の親友を彼はどんな思いで見ているのだろうか。――には分からない。

ジョウイは話す。

自分はただ平和な国が欲しかったということ、ピリカのような子供を生み出したくないのだということ。

強大な国をつくって民を守ろうと思ったこと、しかし――敗れたこと。


「僕は未だに君の心が分からない。どうして君は僕と違う道を行ったんだい?二人で平和を願ったのに」

――だから一緒にユニコーン少年兵部隊に入ったんじゃなかったのかい。


の表情が翳る。彼もまた平和を望んだはずだ。自分の親友と一緒に。

は目を閉じてジョウイの言葉を反芻する。


『強大な国が――国民の盾となり剣となり―――』


不意に誰かの言葉を思い出した。


『そんな箱庭みたいな幸せで―――…』


は目を開ける。言われたときはあまり実感がなかったが、今、少しだけ理解できた気がした。

口を開き言葉を発しようとする。


「ジョウイの国は、箱庭みたいだ」


目を見開く。自分はまだ何も言っていない。

言ったのは――だった。

慌ててジョウイを見ると、彼もまたと同様に驚いているようだった。


「箱庭…?」

「強い国が囲いを作って、その囲いの中で生活するなんて、箱庭みたいだ」

「でも、間違ってはいないだろう?多少の囲いがなくちゃ皆を守れない。平和はない」

「…うん、間違ってはないと思う。でもやっぱり、箱庭だ」

「……、君はなにを思っているんだい?僕はそれが知りたい」


は少し悲しそうな顔をした。


「僕は…リーダーになんかなりたくなかった」


ジョウイは先ほどよりも驚く様子を見せた。


「な…!?」

「何でだろう…いつの間にかリーダーとして担ぎ上げられて、それから、そのまま流されてばっかりだった」

「君は…平和を望んでリーダーに…同盟軍を興したんじゃなかったのかい?」


はふるふると首を振る。


「こんなこと言うべきじゃないんだろうけど。本当はどうでもよかったよ。

ナナミとジョウイが幸せなら、それだけで良かった。

他の人なんか知ったことじゃなかったんだ。だって、所詮は赤の他人だから」

…じゃあ何で…」

「でもね」

「?」


そこで言葉を区切ると、の方に振り向いた。

静かに歩み寄り、の手を取る。


「そんなとき、さんが同盟軍に来た」

「彼女は…最初から同盟軍というわけじゃなかった…?」

「最初はハイランド兵として捕虜になってたよ」

「!?」

「まあ、誤解だったんだけど。…でも逆に、その誤解が辛かった。

さんみたいに誤解されて捕まったり巻き込まれたりした人が他にいるんじゃないかと思うと、怖かった」


はただ黙っての言葉を聴く。

過去のことを聞くのは正直、にとって辛く、痛いものであるが、耳を塞ぐわけにはいかなかった。


「最初のほうはさんも笑ってたんだけど、そのうちに笑顔がプッツリと途切れた。

――ごめんなさい、さん。僕、あなたがどんな扱いを受けているか、知ってました。

でも止めることも守ることもできなかった。……僕がさんの笑顔を奪ってしまった。…本当に」


は人差し指を唇に当てる。

自分とて気づいていなかったわけではない。彼がその気になれば状況が改善されることは理解していた。


の行動は正しいよ。…軍主という立場でそんなことしたら一気に同盟軍は崩れただろうから」


話を続けてと促すと、はコクンと頷いた。


「僕、皆の笑顔が見たかった。…じいちゃんとナナミとジョウイと過ごしていたときも確かに幸せだったけれど、

誰かの笑顔をみることも同じくらい嬉しくて、幸せだった。悲しませちゃいけないって、その時に思ったんだ」


そう言うとは手を伸ばし、ジョウイの手にそっと触れ、棍を静かに抜き取った。


「皆の笑顔を守りたかった。……ただその理由だけで僕はリーダーだった。

そして僕は…ジョウイの言う『平和』で皆の笑顔が守れるとは思わない」

「…なぜ…?」


は微笑んで空を見上げた。

満月の光が惜しみなく降り注いでいる夜の世界において、にはこの場所がどこか聖域のように思えた。


「うちの軍師が言ってたことなんだけどね、…人ってさ、自由を望むんだって。

仕事に追われて、家事に追われて…でもその中で人は自由を追い求めるんだって。

……勝手だよね。自分から不自由の中に身をおいて自由を叫ぶんだよ。

でも、だからこそ『幸せ』も生まれるんだってさ。安らぎも何もかも、結局は不自由の上にあるんだよ」


自由人を称する者たちも確かに存在するが、その者は自由という名の不自由の上にいる、とは言う。

野宿しながら旅するものは自ら火をおこさなければならない、

悠々自適の生活をするものは、「家」や「金」の恩恵という不自由を背負わなければいけない。


「そういう意味でいえばジョウイの考えは正しいのかもしれないね。でも、僕はそれには反対だ。

強大な国は望まなくても強大な力を持つ。持たなければいけない。だってそうしないと守れないから。

強い力を持って国を守れば確かに平和だよ。だけど、じゃあ他の国は?

守るためには攻撃するときもされるときも、反撃するときもされるときもあるんでしょ?

何かが犠牲になる平和はいやだ。それに、そんな閉鎖空間もいやだ。箱庭はいやだ。

そして僕は、僕のこの思いが僕ひとりしか思っていないなんてことは無いと思ってる」

「…じゃあ、僕は間違っていたんだね」

「そんなの分からないよ。見方によっては僕は平和を守ろうとしない馬鹿軍主だしジョウイは心優しき皇王だ。

本当の平和なんてどこにもありはしない。そもそも平和の定義なんてものがない。皆考え方が違うんだから。

僕らにできるのは『平和に近づける』ことだけ。…そして今回は僕の案が賛同を得た。それだけ」

「…っ、分からない!君が何を考えているのか!君の案とは何なんだ!?」


は静かに、だがしかしよく響く声で言葉を発する。

その表情は確かに「軍主」としての彼のもので、その声はまるで何か大きなものに告げるようだった。




「皆の笑顔を守ること。悲しんでいる人や苦しんでいる人がいても、僕はその人がまた笑ってくれることを願う。

…皆に笑ってほしかった。さんの笑顔を見たかった。だから僕は戦った。

――皆の笑顔を消さないこと。それが僕の案」




「…僕の案では笑顔が消える…?」

「さあ……ただ僕と周りの国の人の笑顔は消えるかな。永遠のやんちゃ坊主の僕にはちょっと辛い環境だし。

……ねえ、ジョウイ。僕ね、国王になろうと思ってるんだ」

「…?」

「どうやったら平和に近づけるのか、どこまで平和に近づけられるのか、試してみたい。

……って言ったら聞こえがいいんだけどね、要は民主化するかしないか揺れてる今の現状維持」

「…ああ」

「僕らは平和を望んだ。そのために戦争までした。ここまでしたんだからあとは平和に近づけるだけだよ」


そう言うとは言葉を切った。

ジョウイはうつむくが、その表情には微かに笑みが浮かんでいる。


「本当に強くなったよ、君は」

「相当しごかれたからね」


彼らの会話の中、はジョウイの動向に注目する。

ジョウイの棍はリュウが取り上げているが、何故かそれでもザワザワとした不安感が拭えないのだ。

――ジョウイの手の中で何かが光った。

笑みをたたえてジョウイは言う。


「――ならば受け取ってほしい。完成させてくれ、『始まりの紋章』を。

これは君にこそ相応しく、そして――君こそ生きるべきなんだ」


その瞬間、はジョウイの首の前に左手を差し出した。


「…っ」


手のひらに食い込んだ「それ」は熱を伴う痛みを生み出し、ついで血が流れた。

柄の部分まで刺さっているためこれ以上は刺さらない。

――ジョウイは短剣で自分の喉を突こうとしたのだ。


「…、さん……?」

「…痛」

「ジョウイ、何で…!?」

「二つに分かれた紋章は不完全であるがゆえに、持ち主の命を奪っていくんだ。

…元に戻すにはどちらかが死ななければいけない。……さん、短剣を抜いてください」

「いやだ」

さん」

「……」

さん!」


ジョウイは険しい顔で叫ぶ。しかしは抜かない。抜くわけにはいかないのだ。譲歩することはできない。

だが同時に、はジョウイを説得するための言葉を持っていなかった。

知り合ってからの期間があまりにも短すぎたのだ。彼の心中がには分からない。

――ただ、大きな痛みが手のひらの痛みとなって伝わってくるばかりで。




どれだけの間そうしていたのか知れない。

場に少女の声が響いた。


「――、ジョウイ!」


ナナミ、と二人のどちらかが呟いた。






ナナミは二人へと全速力で駆け寄ってくると、を含めた3人の頭に拳骨を落とした。

あまりの痛みと展開に呆然とする3人を尻目に、涙を湛えた目で彼女は目の前の愚か者を睨みつける。


「……バカ!!!」


ビク、と3人は同時に縮こまる。その様はまるで現在進行形で叱られる小さな子供のようだ。


「何やってるの、3人とも!特にジョウイ!危ないからそんなもの持たないでよ!!

ちゃんもちゃんよ、女の子の玉の肌は守らなきゃいけないのよ!?

、あんた近くにいたんだからちゃんとちゃんを守りなさい!!!」

「す、すまない!………?」

「っていうかナナミ、無事で…?」


ジョウイがすぐさま謝り、がもっともな疑問を投げる。

はというと「さん」付けから「ちゃん」付けに戻ったことを問おうとしたのだが、やめた。

おそらくは無意識なのだろう。

なおも続く説教という名の愛の鞭を3人揃って受けていると、ナナミがきた方角から笑い声が聞こえてきた。


「…ナナミ、そのへんにしておいてあげたら?ほら、なんて思考回路とんでるよ」

さん、今は黙っててください!これは姉として言っておかないと!!!」

「うん、でも今は説明を先にしないと。このままじゃ君、幽霊だと思われちゃうよ?」

「う…、そ、それは…嫌かも…」

「……まったく、世話の焼ける」


さらにの後ろからルックも出てきた。

ルックはスタスタとの側までくると、いささか乱暴に短剣を抜く。

あまりの痛みにが顔をしかめていると、その手を取って口元に近づけ何事か呟く。

ルックの手から溢れた光がの傷を包み、そして癒す。端から見ると手の甲にキスをしたようにも見える。


「無茶しすぎだよ、。少しは自制してよね………ちょっと、アンタなに殺気とばしてるんだよ」

「別に?ルックが抜け駆けしたとか騎士キスしたとか、そんなことで怒るほど未熟じゃないよ」

「十分未熟じゃないか」

「僕が未熟ならルックも未熟だね」

「………。話に割って入って申し訳ないんだけど、その…ありがとう、ルック」


恐る恐る礼を言う。

礼を言われる理由はないと言ったルックに対しが茶々を入れることはなかったので、

ひとまず口論は終結する運びとなった。この隙にとばかりにがナナミに問う。


「そんなことよりナナミ、どうしてここに…?僕、シュウからは『ナナミはもういないものと思え』って言われて…」

「でも『死んだ』とは言われなかったでしょ?」

「それは確かにそうだけど…」

「結構危ない状態ではあったんだけどね。……ホウアンさんとルックが助けてくれたんだよ」

「ホウアンさんと………ルック?」

「そう」


ナナミの話はこうだった。

胸部周辺に矢を受けたナナミは、それはもう大変な状態だったらしい。

ホウアンは手を尽くしてくれたがそれでも内部の細かい損傷の治療は困難を極めた。

そこで最後の賭けとばかりにルックに話が回ったらしい。

通常、重傷を魔法で治すのは難しい。匙加減が大変細かいことはも兵士から聞いていたので納得する。

だがそこはさすが魔法兵団長、少々時間はかかったが無事にナナミの傷は癒えた。

さあ、治ったのならすぐに軍主に報告しましょう―――そう言ったホウアンをナナミはとめた。


「ごめんね、。でも…に強くなってほしかった。

……あたしは真の紋章を持たないから。だからいつか死んじゃうの。二人を置いて。

そのときに悲しんでほしくないの。もちろん泣いてくれると嬉しいけど、それよりも笑って前を見てほしいの」


だから自分が生きていることをシュウにも伏せてもらい、自分は医務室の奥のベッドでけが人を装い、

戦争が一応の終結をした今、シュウがから得た情報を頼りにを護衛につけ、

ビッキーに戦場までテレポートしてもらった後にさらにルックにテレポートを頼んだのだという。

曰く、「今日行った戦場までならビッキーでも確実だろうし、コレばかりは失敗できないから」だそうだ。

ナナミの言葉を受けて、が静かな声で言う。


「…ナナミ、二人は不老じゃないよ」

「え…?」

「まあ、リオウだけは『これから不老になる』んだろうけど。……そうだね、

「………」


問われたは複雑な表情を浮かべる。

そして、驚くナナミとジョウイをちらと見て、に向き直った。


さんが部屋に来る前、ピエロ…天球の化身が部屋に来ました。

ジョウイがここで待っていることも紋章を譲ろうとしていることも聞きました。

…まさか短剣まで持ってるとは思わなかったけど」


ああ、とは息を吐く。だからはさりげなくジョウイから棍を取り上げていたのか。


「化身はもう一つ教えてくれました。…紋章を一つにするにはどちらかが死ななくてはならないけれど、

真の紋章を束ねる『天球の紋章』の力があればその限りではない――って」

「それなら――」


でも、と言っての言葉をさえぎった。


「…それにはさんの危険がつきまといます。

紋章を一つにする――そんな大きな力を使えば、必ずさんは見つかって、追われてしまう、って」


誰に、とは言わない。そんなの分かりきっている。――ヒクサクだ。

ずっとそのことが気がかりだったのだろう、の表情は浮かないし、に頼むこともしない。

「紋章を一つにしてください」など、彼は絶対に言わないのだろう。

は笑った。

――決まっているじゃないか。


、ジョウイ、右手を出して」

「………!」

「出して」

さん、でも…!」


は微笑んだ。――微笑もうと表情筋を動かした。

右手を二人のほうへ向ける。二人の、それぞれの紋章を宿した腕が水平に上がった。


「何を気兼ねすることがある?私が追われるくらいは今この場においては些細なこと。違う?

――そんな顔しないで。私、二人とも好きだよ。知り合えて良かったと思っているし、死なせたくない」

「……さん、君は…」


ジョウイが目を見開いてを見る。

そういえば彼は天球の紋章について何も聞かされていなかったのだな、と今更思い出した。


「紋章はに移す?……多分、封印することもできるけれど」

さん……」


最後までを慮るの優しさが嬉しい。

嬉しいからこそは彼の前に跪き、言う。


「――私は、同盟軍所属、諜報員兼軍主護衛、そして特別部隊隊長の役目を授かりました。

遅くなりましたが今この場において我らが軍主にこの戦争中においての忠誠を誓いましょう。

戦争が『本当に』終結するまで、私の力は貴方のためにあり、私は貴方のために力を振るいましょう」

「…っ!」

「これは私の意志。――紋章は貴方に?」


今にも泣き出しそうな顔ではついに頷いた。


「僕は…紋章と、そして他の継承者たちと共に世界を見続けていきます。ずっとずっと『平和』を捜し求めます。

紋章を僕に移してください。……ごめんなさい、さん。ごめんなさい……っ」


はもう一度、笑んだ。

言霊が自然に口をついてでてきた。






「世界を形作る27の紋章の一、『始まりの紋章』。別たれたその姿から今一度、元の姿に戻るがいい。

――私は天球の守護者。天球の名のもとに世界へ命ずる。…さあ、新たな宿主へ移れ」






途端に二人の両手から光が溢れ、まだ夜中だというのに辺りは昼にも負けぬ眩さに満ちた。

光の柱が天空に向かって伸びる。それは祝福であり、同時にこれからの危険を孕むものでもある。

目も開けられないほどの光はどこか懐かしく愛しく泣きそうになる。

は自分を包む存在に気がついた。

――それは天球であり星であり命であり、そして自分の子なのだと、何故かそう感じた。






光が収まると全身から力が抜け、は地に片膝をついた。

今日の日中に回復魔法を多く使ったうえに先ほどの魔力の放出。

アンバランスの歪みによる、とてつもなく大きな魔力をもつでも流石に底はあったらしい。

しかし特に立てないわけではなく、今も「気が抜けた」ことによる身体的な疲労という要因もあった。

やはり魔力は底なしに近いといっていいようだ。


…君は…これで良かったのかい?」

「うん。……二人と同じ道を歩くことはできなくなったけど、僕はいつも二人を想う。

二人も僕を見ていて。…いつか、時間はかかるかもしれないけど、僕だけの平和の形を示してみせるから」

「できればあたし達が生きてるうちにお願いね」


寂しそうに、しかし明るく笑ってナナミは言う。

もう一度頷いて、は目から涙をこぼした。


「大好きだよ、二人とも」


うん、と二人は頷いて、一緒にを抱きしめた。






いまだ地に腰を下ろしたままのをルックとが支えて立たせた。

ありがとう、と礼を言い、は3人の抱擁を見て空を見上げた。

ほんのりと明るくなりつつある空は朝日の到来を予言している。


――ああ、なんて美しい。


は鳩を創り出し、紙とペンを作り上げると短い手紙を書いた。

「彼」はおそらくまだ同盟軍本拠地に滞在しているだろう。


――お別れだよ。


彼らの抱擁によっては別れを悟る。自分にさまざまなものを与えてくれた小さき子たちとの別れ。

正直、別れたくないという気持ちが強い。しかし、その気持ちは心の奥底に仕舞い込まねばならないものだ。


「大丈夫だよ」


が優しい声で言う。

驚いてを見ると、彼はとても穏やかな顔で微笑んでいて、は一瞬目を奪われる。


「きっとまた会える。だってほら」


は空に顔を向ける。


「とても長い夜だったけど、明けない夜はどこにもないんだから」

――お疲れ様。


呟かれた言葉に胸が詰まる。

日が昇るにつれてだんだんと目の前が霞んでいき、やがて目の端から温かいものが流れ出した。

今まで溜め込んでいたものを一気に放出するかのようなそれは大粒となり、止まることなく流れ続ける。

緑の法衣がを包み、赤をまとった少年が背を撫でる。

そのあまりの優しさが愛しく苦しく、自分がそれを享受していることがわけもなく申し訳なく感じられて、

はとうとう嗚咽を漏らした。


「――っ……ふ………」


悲しくて、嬉しくて、苦しくて、――愛しい。

朝日が昇る。夜が明ける。

長い長い夜のようだった戦争が――終わっていく。










―――かくして、デュナン統一戦争は終結を迎えたのだった。















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2005.4.30
2006.9.20加筆修正

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