天球ディスターブ 33





朝日が子供たちを眩しく照らす。

あどけない寝顔、照らされる部屋、白いシーツとそれに込められた宿の女主人の優しさ。

謝罪の言葉は自然と胸に沸いてくる。もっとも、それを言葉にすることはなかったが。


「起きて、アルベルト、シーザー。朝だから」


別れの朝は穏やかに、しかし確実に向かってきていた。







「…同盟軍を、離れる?」


部屋で朝食を取りながら、アルベルトはの言葉を反復した。

見知らぬ少女が運んできたカートが部屋の隅にある。朝食を乗せていたのだが、部屋の前に置き去りだった。

ここでも疎まれているらしい。


「ああ、アルベルトとシーザーは責任を持って送り届けるから」

「そんなことを聞いているんじゃありません。何でまた、き…」


急に、と続けるつもりだったのだろうが、その言葉が最後まで紡がれることはなかった。

アルベルト自身気付いているのだとは考える。ここにいては危険だ。自分への悪意が彼らに飛び火する。


「……出て行くしか、ないんですか」


分かり合える道があるのならそちらを選びたい。しかし、どうしていいのか分からない。

必死で懇願するか?それとも土下座を?敵軍を独りで撃退して「自分は味方なのだ」と主張するのか?

―――どれも違う、ような気がする。

だからといって最善の道がに思いつくはずもなかった。


「朝食が終わって、荷造りが終わったら、まずはアルベルトとシーザーを家に送るよ。場所は…」

「………」

「…アルベルト、家はどこ?」

「………」

「アルベルト?」


少年は答えない。ただ黙って弟の口に朝食を運ぶ。カチャン、と食器を置くと俯いた。

自分の都合で少年たちを振り回していることは明らかだった。

かといって、このまま彼の言う「人間性を見極める」ことを続行していたのでは危険すぎるのだ。

掛けるべき言葉が見つからず、は沈黙する。

それを破ったのは少年の方だった。


「連れて行ってください」

「?」

姉さんは、シュウおじさんから受けた仕事がありましたよね」

「え、あ、ああ、うん。」

「途中で放棄するわけはないでしょう?」

「そうだね」

「そうすると、同盟軍を離れて単独行動、仕事の経過だけをシュウおじさんに報告するってところですか」

「…ご明察」


鋭い。は胸中で感嘆した。

子供とはいえシルバーバーグの一翼を担うべき存在。その大きさを改めて感じた。


「だから、連れて行ってください。僕とシーザーを」


は即答する。


「だめ」

「…なんでですか」

「そうすると、今より危険なことになってしまう。状況は悪化するだけで、何にもならない」


厳しい言葉だと自分でも分かっている。足手まといだと暗に言っているようなものだ。

実際のところは彼らのことを足手まといだとは思っていない。寧ろ、いてほしいとさえ思っている。

――安らぐ場所。それはにとって何にも代えがたいものだ。

紋章もある。彼らを守るのは造作もないことであろう。

しかし、100%の可能性など何処にもないのだ。もしも守れなかったら?その思いが胸に渦巻く。


「忘れていませんか」

「…何を?」

「僕は、あの戦場にいたんです。怖かったけど、目は逸らしてない。姉さんの力の強さも知ってます」

「………」

「脅してごめんなさい。頼ってごめんなさい。……弱くてごめんなさい。でも、連れて行ってください」


アルベルトは続けた。




「勘違いかもしれません。だけど今、姉さんを独りにしたら―――壊れるような気がする」




アルベルトは心配し過ぎていると思う。

自分が壊れるなどには想像もできないし、第一そこまで弱くはないはずだ。

だが、それを言うことは躊躇われた。

自身、誰かに傍にいてほしいと思っていたからなのかもしれない。



守れるだろうか。――確かにそんなこと、この紋章の前では愚問なのだ。ただ、自分が恐れている。

気づかれることを、それによって追われる身となることを。平凡だったはずの人生がこれ以上狂うことを。



そこまで考えては苦笑した。

――何を恐れているのだろう。この紋章を持つ限り、遅かれ早かれ追われる身となるのだ。

気づかれない自信はない。少し先延ばしになるかならないか、違うのはそれだけだ。

隠すつもりはないし、その必要もないのだ。今求められているのは、この進撃な瞳に応えることのみ。


「分かった。全力で守ると――誓おう」


何も分かっていないはずのシーザーが嬉しそうに笑った。







「でも、ちょーっと待ってくれないかな?」


不意に男性の声が部屋に響いた。

驚いて出所――扉を見る。金髪碧眼に緑を基調とした服装の男性が立っていた。

は呆然とした。しかしが反応するよりも早く、少年たちが目の前の来訪者に反応した。


「ナッシュおじさん!」

「なーす!」

「…おじさんは止めてくれ……」


知り合いなのだろうか。そう思い、は疑問を口にする。ナッシュは飄々と答えた。


「ん?ああ、なんというか、まあ、な。…レオン軍師に泣きつかれたんだよ。孫を連れ戻せって」

「泣き…!?」

「こと孫の話題になると手が付けられないからな、あの人。ああ見えて祖父バカだ」

「………。…よく、ここが分かりましたね」

「話題から逃げただろ…。同盟軍本拠地に向かったことは調べていくうちに分かったからな。後は聞き込みだ」


は口を噤む。

聞き込みをしたのなら、ナッシュも知っている可能性が高い。――自分の評判について。

知られたくなかった。

嫌われていることなんて、誰にも知られたくはなかった。

そんなに気づいたのか、ナッシュは頬をポリポリと掻く。


「…すまん」

「いえ」


瞑目して、息を吐いた。


「……僕ら、まだ帰りませんよ」


アルベルトが真剣な顔つきで呟いた。


「まだ、帰りません。まだ…終わってない。帰るわけにはいかない。決めたんです。守るんです。僕らで」


途切れ途切れの言葉の端々に、は彼らにとっての昨日の事件の意味を窺い知る。

ナッシュはさぞ困ることだろう。内心で苦笑しながら表情を伺った。

彼は笑っていた。


「そう言うと思ったよ」

「え?」


アルベルトは虚を突かれ、目を少し見開く。


「さっきの会話、ドア越しに聞いてたからな。…悪いとは思ったけど。あんなの聞いた後じゃ、止められない」

「じゃあ…」

「但し」

「…?」

「俺も付いて行くぞ。それで、お前の用事が終わったらすぐに連れ戻す。それでいいな?」


眉根を寄せて、アルベルトは思案する。

たっぷり10秒はそうした後、軽く息を吐いた。


「…分かりました」




「あの、私の意見とかは?」




――どうやら言っても無駄なようだ。







荷物をまとめると言ってもには金を入れた小さな袋しかないし、アルベルト達もここで買った服しかない。

アルベルトとシーザーはが買った服に着替え、もともと着ていた服は処分した。荷物は軽いほうがいい。

本拠地の門を出て、人気の少ない、木がまばらに生えたところへ歩いたところでナッシュが声をかけてきた。


「どこに行くんだ?」


は振り返って答える。


「ティントへ」

「ティント!?かなり遠いぞ、ここから」

「テレポートしますから大丈夫です。…むしろ、ティントより虎口の村のほうです」

「どういうことだ?」

「護衛対象、今はティントにいるはずなんですけど、そのうち虎口の村の方へ移るので。…予想です」

「大した先読みだ」


はシーザーを抱き上げる。アルベルトと手を繋ぎ、ナッシュを近くに呼んだ。

離れていてもテレポートが出来るのか、いささか不安だったからだ。

そういえば、とは思う。よく自分はナッシュの同行を許したな、と。

それはひとえに、彼への信頼に他ならない。彼は信用できる人間――敵対してはいるが、分別は弁えている。


「虎口の村」


右手をかざし、は言う。

仄かな光が見えた次の瞬間、その場には何も残っていなかった。











微かな浮遊感の直後に足が地面につく。この一瞬の浮遊感を、は気に入っていた。

理由は知らない。自分でも分からないのだ。

辺りを見回す。人通りが極端に少ないのが気になった。朝だから、という理由だけではないだろう。


「とりあえず、宿を確保しておくか?」


ナッシュが提案する。は頷いた。

シーザーを降ろす。シーザーはいささか不満そうな顔をしていたが、アルベルトの手を取るとにっこりと笑った。

いわゆる「お兄ちゃんっ子」であるらしい。




宿屋はすぐに見つかった。

村は小さく、民家はほとんど無い。寂れた雰囲気が漂っているが、店は多い。

旅の途中の人々を休ませるために存在する中継地点の村であることを肌で感じられる、そんな村だった。


「すみません、部屋を取りたいのですが」


カウンターに座る、初老の男性に声をかける。痩せていて、どことなく厳しさを感じさせる人物だ。

机上の片眼鏡を取り上げてはめると台帳を差し出してきた。


「これに名前を書きな。ああ、それと…部屋は一つしか空いていないが」

「満室なんですか」


台帳には、一名の名前しか書かれていない。


「もともと3部屋しかねえんだよ。それぞれが大部屋で、仕切りを作れる構造だ。

部屋は常に一つ空けておくのが俺のポリシーでね。いつ、いかなるときでも対処できるように」

「見上げた宿屋だ」


ナッシュが口を挿む。貶しでも皮肉でもない。素直に感心しているのだ。

老人はナッシュを一瞥すると、今度は羽ペンをに渡した。


「中間地点だからな、ここは」







一度部屋に入り、荷物を置く。

とはいっても荷物を持っているのは実質ナッシュだけで、その彼にしても荷はとても少ない。

少々の保存食と『秘密の武器』。彼はそう言ってごまかしたが、にごまかしは効かない。

おそらく火薬だろう。


「というより、お前はいいのか?俺と同室になっても」

「どういうことですか」

「いや、その…つまりだな、ええと…」


ナッシュは言葉を濁すが、とて鈍いわけではない。分かっている。

ナッシュは男で自分は女なのだ。恋愛感情ではないとしても、その辺の葛藤というものが彼にもあるのだろう。


「いいんじゃないですか?」

「…そうか」


妥協した。


「で、いつまで待つつもりだ?そんなに遠い話じゃないんだろ?」

「2,3日くらいだと思います」

「じゃ、それまでは骨休めとするか。俺はその辺を散策してるから」


何か困ったことがあれば呼んでくれ、そう言ってナッシュは宿の外に出て行った。

はアルベルトとシーザーを見る。


「何かしたいことはある?」

「特に無いです。本、持って来ればよかったな…」

「取りに帰ろうか?」

「いいですよ。別にそこまで興味のある本はありませんでしたから」

「シーザーは?」

「なっすとあそぶ」


とアルベルトは顔を見合わせる。

どうやらシーザーはナッシュがお気に入りらしい。


「追いかけましょう」


アルベルトの一言で方針は決まった。







それほど遠くに行っていなかったので、ナッシュを捕まえるのは簡単だった。


「俺の骨休めが…」

「子供と触れ合って癒されてください」


少年のにべもない言葉にナッシュは撃沈した。

シーザーはナッシュの肩に乗って、彼の髪の毛を操縦ハンドル代わりにしている。とても嬉しそうだ。

は苦笑しながらその光景を眺めている。


そうやって一日が過ぎていく。

隣の部屋の人物は、昼間中ずっと眠っていたようだった。


できるならこのまま、と一瞬でも思ってしまった自分に腹が立った。











目を覚ます。自分でも驚くくらい、すんなりと起きることが出来た。

カーテンの隙間から鋭い光が差し込んできていて、今が朝であることを告げていた。

――昨日クロムの村に付いたとして、早ければ今日の昼過ぎにでも来るかもしれない。

記憶という名の予備知識を掘り起こし、は上体を起こした。

の隣のベッドにアルベルトとシーザーが、その向こうのベッドにナッシュが寝ている。

理由もなく、とてつもない安心感を覚え、は吸い込まれるように、また眠りの中へと入っていった。




まぶたが重い。目が開かない。

よく働かない頭ではそのことを認識しながら寝返りを打った。

カーテンが開いている。光がさっきより赤く、強い。

傍から見れば放心状態以外の何物でもない顔で、は考える。

音が聞こえる。

何の音だろうか。破壊音に近い。いや、というよりも雷か。


「雷…」


光が差し込むということは、少なくとも雨は降っていないということだ。晴れ間の雷なのだろうか。

危険だ。アルベルトとシーザーはどこにいるのだろうか。は窓の外を見る。



女性、というよりも少女の下に沈んでいる緑の服の青年、しゃがんでそれを突付いている赤毛の兄弟。

女性を取り囲むのは村人と、あれは――確か―――


「―――っ!?」


達。

光が赤みを増していく。夕日だ。どうやら自分は――不本意なのだが、認めるしかない――寝過ごしたらしい。

は慌てて窓から外に飛び出そうとして、止めた。

――ここにいることを知られてはいけない。

ナッシュたちが話してしまっているのならどうしようもないが、できるだけ、知られたくない。

様々な要因がにのしかかり、その選択を勧めていく。


はカーテンをきつく握り締めながら、窓の外を睨んでいた。







程無くして少女、おそらくシエラたる人物は白い蝙蝠へとその姿を変えた。

それはつまり、彼女の敗北――達に協力する、その印であった。

はその光景を見つめる。達が宿屋に近づいてくると、勢いよくカーテンを閉めた。

自分の情けなさに泣きたくなってくる。しかし、だからといって良い打開策が見つからないのも、また事実。


「あー…酷い目にあった…」

「あ、姉さん、おはようございます」

「ねーね、おっきした!」


どことなく悲壮感漂うナッシュと、裏腹にとても満足顔の兄弟が部屋に戻ってきた。


「ごめんなさい。寝すごしました」


世話を任せっきりにしてしまったことに対して申し訳なく思い、詫びる。

ナッシュは苦笑で答えた。


「いや。お前の方こそ大丈夫か?相当疲れてたんだろうな」

「昨日は十分寝たつもりだったのですが」

「そっちじゃなくて、メンタル面が、だよ」

「………」

「ゆっくり休め。精神的な疲れは、肉体的な疲れより性質が悪いから」

「…はい」


それと、と付け足して、ナッシュは笑みを消す。


「同盟軍のお偉いさんもここに泊まることになったらしい。…会いたくないだろう?」

「…少し」

「噂でも散々だったし、当然だな。夕食はここに運んでくるから、一緒に食べようか」


はナッシュの言葉に疑問を持つ。

「噂」とは一体何なのだろうか。少なくとも、は噂など聞いたことが無い。


「噂って、どんなのですか」

「え?あ、も、もしかして知らなかったか…!?」


しまった、と頭を抱えるナッシュを見て、は一つ嘘を重ねる。


「知っています。ただ、数が多くて、うまく把握しきれていないんです」

「…そうか」

「教えてください」

「………『軍主に取り入っている』『軍師の弱みに付け込んで脅している』『幹部の優しさを利用している』。

後は言わない方がいいよな。俺でさえ、あんな噂を流されたら耐えられるか分からない」

「……ありがとうございます」


ナッシュの優しさが嬉しく、噂のことが胸にのしかかり、――黙って手を握ってくれている傍らの少年が愛しく。

思わずへたり込みそうになる足を叱咤して無理やり奮い立たせている。



窓から夕日が差し込んで、格子の影を形作ってに被さる。

それはまるで、自分の懺悔を待ち望んでいるかのようだった。











夜、同行者の3人が眠っていることを確認して、は窓を開け、そこから外に出た。

廊下では達に会う可能性があるからだ。

青紫の空間。決して漆黒ではない世界。空を見上げると完全な円の月が見えた。

急に微かな熱を持った右手には反応する。後ろから声をかけられた。


「――よほど同盟軍の奴らが嫌いと見える」


夜空に鈴のような声が響く。

淡い光が少女の輪郭を示す。


「嫌いではないです。私も同盟軍だったので」

「ほう?あれほど避けていたのにか」

「気付いていたのですか」

「わらわを侮ってもらっては困る」


青いマントが夜と同化する。綺麗な銀髪は、彼女がこの世の住人ではないかのような印象を与えた。

少女は人差し指を出し、の右手を指差す。


「…現れたようじゃの。わらわが存在するうちに再び出会えたことに感謝すべきか」

「この紋章はそんなに長い間、現れなかったのですか」


もはや紋章を隠す必要はない。彼女にはきっと見破られているのだろう。

チリチリと肌を刺すようなプレッシャーを、会ったときから感じている。


「そこまで長くはない。ほんの3、40年前に一度現れたはずじゃ。それ以前については…。

…わらわとてそこまで紋章のことを知るわけではないが。――その紋章が現れたという記録は一切無い」

「無い?」

「消されたのか、あるいは本当に今まで一度も現れたことが無かったのか、それは分からぬ。ただ…」


シエラはそう言うと言葉を一端切り、の右手をじっと見詰めた後、また口を開いた。


「おんしの魔力を見る限り、現れなかった、という方が正解なのであろうな。

宿主の桁外れの魔力――それがその紋章を宿す条件なのだとしたら」

「私より魔力を持つ人もいるのでは?」

「いない。おんしは歪みを抱えておろう。……のう、異世界の住人よ」

「な…」


は目を見開いた。

シエラは、その形の良い唇をク、と上に持ち上げ、笑う。

それは月さえ霞んでしまうような妖しさを備えていた。


「異世界の人間には以前に一人だけ会ったことがある。おんしの前の宿主じゃ。

そやつはおんしほど魔力は無かったが、それでもわらわ達の遙か上を行っていた。

異世界の門が開くことなど滅多に無い。竜が元の世界に帰れぬのも同じ理由。入り口は狭い上出口は無い。

おんしとあやつは極端に稀な例と考えていい」

「………」

「異世界の者は故郷を失う代価として歪みを得る。歪みは力を与える。それは魔力だったり腕力だったりする。

おんしの場合は魔力じゃな。あやつの場合も。選ばれたのであろう、天球に」

「違います」


はっきりと言い切る。

違う、違うのだ。自分は選ばれてなどいない。


「天球の紋章は、私が宿主となったのは偶然だといっていました。私の世界の人間なら誰でも良かった、と。

私は選ばれていません。偶然、そうなっただけです」

「…では、おんしは天球を恨んでおるのか?おんしを、仲間を避けるような境遇へ追いやった存在を」


は瞑目した。

――恨んでいる、のだろうか。

自分が今、この境遇にいるのは誰のせいだ?どうすれば、自分はこの状況を回避することが出来た?

口を開き、言葉を探した。


「――天球の紋章は、何もしていない」

「…何?」

「私の境遇と天球の紋章は関係ない。私は自分の足で同盟軍を目指し、どこかで間違った。それだけです」

「自己犠牲の言葉は優しさとは言わぬ」


は苦笑した。


「私はいつでも自分優先です。自己犠牲などする気はありません。ただ、事実ですから。

同盟軍の人の前で、おおっぴらに紋章を使ったことは皆無ですし、紋章のことで嫌われる謂れはありません」

「では何故避ける」

「………」

「嫌われる謂れが紋章に無いというのなら、おんし自身には謂れがあるということか?



―――恥ずかしいのだろう?」

「……っ」


は体を強張らせる。

聞きたくない。彼女の言葉の先を聞きたくない。耳をふさぎたい。

――だが彼女のプレッシャーがそれを許さない。


「嫌われたくない。だが、嫌われてしまった。ならば嫌われていることを知られたくない。それは何故か?」

「…止めてください」

「恥ずかしいからだ。知られて憐れまれるのが嫌だからだ。

――何とちっぽけで卑小なプライドであることか」

「止めてください」


そしてシエラは、が今、一番聞きたくない言葉を口にした。







「――惨めじゃな」







突風が吹いた。

はその場にへたり込む。

頭の中が混乱しているが、はっきり分かるのは、自分が今、シエラを怖がっているということだ。

これ以上何かを言われたくない。聞きたくない。恐る恐る彼女の表情を窺う。

――彼女は自分を見ていなかった。

自分の後ろ側を見ている。


「…やっと現れたか」


綺麗な唇から言葉が漏れた。

の肩に誰かの手が置かれる。手の置かれた部分がじんわりと暖かい。

振り返らずとも、誰なのかは分かる。風になびく衣服の色が、彼がピエロであることを教える。

はピエロの顔を見る。そこにははっきりと、怒りの色が見て取れた。







どのくらい睨みあっていたのだろうか。

ふ、とシエラの表情が緩んだ。

未だ座り込んだままのの元へ歩み寄り、身を屈めると静かに言った。


「……認めよう」

「…?」

「おんしは確かに天球の守護者じゃ」


わけが分からず、はただただ首を傾げる。

シエラは可笑しそうに笑った。


「そのような顔をするでない。試しただけじゃ。…ほら、おんしもじゃ」


ピエロを見て――彼はまだ怒っていたのだろう――シエラは苦笑した。


「試すくらいは許してもらいたいものだ。のう、天球の宿主。

天球はわらわ達、継承者の上に君臨する存在。だが、気に食わぬ相手に上に立たれるのは嫌なのでな」


シエラはそう言って、ピエロに目をやる。


「おんしが出てこないのも気に食わなかった。現れないのなら、引きずり出すまでじゃ」

「…君は、どこまで知っているの?」

「わらわを舐めてもらっては困る。これでもバンパイアの始祖。そこらの小童よりは長く生きておる」


視線をに移し、シエラは嬉しそうに笑った。


「ほんによく耐えたもの。おんしが泣き喚くようなことがあったら、雷を落とそうと思っていたのじゃが」


想像して、は背中が寒くなるのを感じた。

そんなのことはお構い無しに、先ほどまでとは打って変わったような様子のシエラは言葉を発する。


「そういえば、まだ名乗っていなかったの。わらわはシエラという。おんしの名は?」

です」

「そうか。怯えさせてしまったようじゃの。…すまぬな」

「…いえ。試されていたのなら、別に」


悪意が無いと知って、どれほど安堵したことか。

シエラは苦笑し、立ち上がるとたちに背を向けた。


「夜は長い。わらわは散歩に行くとしよう。おんしは眠った方がいい。自覚せずとも疲労しているはずじゃ。

何せわらわのプレッシャーに最後まで耐えていたのだからのう」


そして2、3歩ほど歩くと歩みを止め、そうだ、と言って振り返った。


「言葉を教えてやろう」

「言葉?」

「何百年か前に、ある小僧が言っていた言葉じゃ」








「『真の紋章の継承者は、一人の人間である前に、『継承者』なのだ。

強大な力をその身に宿し、不老の体を手に入れ―――世界の基盤である紋章を破壊から守る。

そして、その力ゆえに、世間は――人間は、




―――我らを同類とは認めない。




…なんと寂しいことか』」








シエラは静かに笑むと、に背を向けて歩き出した。今度は振り返らずに。

は呆然とその場に座っていた。ピエロはいつの間にか姿を消していた。

――同類とは認めない。

それはつまり、人間だと認めないということ。

無論、そんな人間ばかりのはずがない。受け入れてくれる人もいるだろう――だが世間では。

人の集合体の中では、やはり別物扱いされるであろうことは否定できない。


シエラが最後に付け加えた言葉が反響する。



『その小僧は今、紋章狩りをやっておるらしいがの。何を考えているのかはわらわにも分からぬ』







――ヒクサク。







小さく呟いて、は月を見ようと視線を上げようとする。しかし、上げた視線は途中で止まった。









――ルックが、そこにいた。















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ヒクサクの言葉と口調は捏造です
2004.12.26
2006.9.19加筆修正

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