天球ディスターブ 32





時計がないので正確な時間は分からないが、少なくとも子供たちはより早く起きるようだ。

惰眠を貪っていたところ腹部にすさまじい衝撃を受けた。

あまりの苦しさに目を開ける。


「おきたー!」

「こら、シーザー。…あ、おはようございます」


自分の腹の上ではしゃぐシーザーと、図書館から借りてきた大量の本をテーブルに積み上げ、

椅子に腰掛けて読む、眼鏡を掛けたアルベルト。


「…おはようございます」


なかなかデンジャラスな目覚めであった。







「そこ、狭くない?」


ベッドで4分の3が埋め尽くされている部屋の、かろうじて空いているスペースに置いた机で本を読む少年。

もともと広くはない部屋なので、空いているスペースもかなり狭い。

はアルベルトに声をかけた。

アルベルトは読みかけの本に栞を挿み、眼鏡をはずして一息つくとを振り返った。


「別に大丈夫です。本を読むだけのスペースがあればいいんですから」

「それならいいんだけど。朝ごはん、行く?」

「はい。シーザー、そこから降りて」


アルベルトはベッドの上のシーザーに言う。


「やー!」


シーザーは中々降りようとしない。アルベルトが眉を顰めるのが分かった。苛々と返事を返す。


「いや、じゃないだろう、シーザー。降りないと。置いていくよ」

「やだ!にーに、やだ!」


「にーに」とは「お兄ちゃん」のことらしい。それでは「お姉ちゃん」は「ねーね」になるのだろうか。

そんなことを考えていたは、自分が着替えていないことに気づく。

は着ているワンピース――服を買ったので、ワンピースはパジャマ代わりにした――に手を触れる。

そのまま意識を額に集中させ、ワンピースを軽く撫でた。

フ、という音がして、ワンピースはが昨日買った服に変わる。

ワンピースが変化したのではなく、服を入れ替えさせたのだ。流石にこの場で着替えはしにくい。


「おー」


シーザーが目をキラキラさせてを見る。

紋章を人前で使うことに抵抗はもちろんあったが、そうも言っていられない状況であるし、

なにより、慣れたほうがいいのだと自分に言い聞かせた。

この紋章をいつまでも隠し通せるとは――特にヒクサクに隠せるとは思えない。いずれ襲われる日は来る。

人前で襲われるかもしれない。

ならば下手に人前で紋章を使って失敗するより、少しでも慣れていた方がいいと考えたのだ。


――取らぬ狸の皮算用になればいいのだが。


は心中で一人ごちて、苦笑してシーザーを抱き上げて床の上に降ろした。


「う?」

「さあ、行こう」







レストランへと向かいながら、はアルベルトに声を掛けた。どうやら、自分は相当寝坊したらしいのだ。


「これから、もしも私が起きないときは、起こすか、それとも自分たちでレストランに行っていいよ。

私もできるだけ早く起きるように努力はするけど、朝は苦手で。本当に申し訳ないのだけど」

「いえ」

「お金はテーブルの上に置いとくよ」

「分かりました。…シーザー、早く歩かないと置いていくよ」

「やだー!」


トテトテ、そんな効果音が似合いそうな様子で、シーザーはアルベルトに駆け寄ってその手をギュっと掴んだ。

あまりに微笑ましいその光景に自然と周りの人間の表情がほころぶ。

日々戦争に身を投じている同盟軍の人たちにとって、もしかしたら彼ら兄弟は所謂「癒し」なのかもしれない。

敵国の人間ではあるが、そんなことを知るのは軍師であるシュウぐらいだ。


「急がなくていいよ。シーザーのペースで、ゆっくり行こう」

「でも、それじゃ時間がかかりますよ」

「大丈夫。あまり急いでしまうとシーザーが疲れるだろうし。ゆっくり行くのもたまには必要だと思うし」

「……すみません」


申し訳なさそうに言うアルベルトには笑みをこぼす。

基本的に初めて合う人間には、は敬意持って接する。自分を必要以上に卑下する悪い癖である。

知り合いが少ないこの世界では、今まで結構へりくだっていた。神経を使うことである。

もちろんアルベルトに敬意を表さないという訳ではないが、年下ということもあって幾分気が楽なのも事実。

高圧的な態度で接しようとするつもりなど決してない。しかし、やはり年長風をきかせてしまう。

自分がリードしなければ、守らなくては、――彼らが頼れるような存在にならなければ、と思うのだ。


「行こう」


は、先ほどまでの思い上がった考えを振り切るように言葉を口にした。

頼られるような、などと。


――誰かを守れた試しなど、無いではないか。












軽めの朝食を摂り、部屋に戻った後、アルベルトの要望で図書館に向かう。

借りてきた本の半分をが寝ている間に読んでしまったらしいので、それを返してまた借りるらしい。

自分は知識に貪欲なのだ、と彼は言った。貪欲という言葉は嫌いではない、とも。


「貪欲でいる限り僕は知識を求めることが出来ます。もしも貪欲でなくなったら、と考える方が怖いです」

「何で?」

「軍師はいつでも最新の情報を、最善の戦略を、どんなときでも先のことを知らなければいけないからです」


はその言葉に、感心したように「へえ」と言う。ただ、漠然とした不安があった。

彼の言葉は、果たして本心からのものなのだろうか。







昨日と同じように図書館に入るとアルベルトはすぐに本を返しに行き、シーザーの世話はがする。

に大分懐いてくれているとはいえ、それでもやはり兄が恋しいのだろう、シーザーは不服そうな顔をした。

手をつないで図書館内を見て歩く。ゆっくりと、シーザーが転ばないように。

図書館の奥まった一角に、いわゆる『子供コーナー』を見つける。絵本が多く置いてあり、他の子供もいる。


「絵本、読む?シーザー」

「ん!」


シーザーは早速本のあるところに走って行き、一冊の本を手に取るとの元に戻ってきた。

そしてカーペットの敷いてある床に本を広げると読み始めた。自分が読むと思っていたは驚く。

やはり、シーザーも軍師としての何かを受け継いでいるということなのだろうか。

は感嘆すると、自分もその辺の絵本を一冊取り、シーザーの近くに腰を下ろした。


「ねえ、お姉ちゃん」


鈴を鳴らすような声で、を呼ぶ。

振り返ると、ゆるくウエーブした色素の薄い髪を腰あたりまで伸ばした可愛らしい女の子がいた。


「なに?」

「あのね、ごめんなさいなんだけど、ご本を読んでほしいの。

自分で読むより、大人の人に読んでもらったほうが、本の世界に入れるの」

「あー、いいな、ボクもボクも!」

「本読んでくれるの?わたしも聞くー!」


あっという間に十人近くの子供がの周りに集まる。

はそれに面食らいながらも、いいよ、と承諾する。ここまで集まってしまったのだ、しようがない。

近くの壁まで移動して、背をもたれる。子供たちはを取り囲むように座り、シーザーがの膝に座った。

女の子から本を受け取る。絵本くらいならにも読める。これは「はじまりのものがたり」のようだ。


「最初に『やみ』があった………」


読みながらは、紋章の歴史はこうして子供らの手によって紡がれていくのだろうと思った。







もう何冊の本を読んだか分からない。


「次、次!これね!」

「ちがーう!次はボクの本の番だよ!」

「お姉ちゃん、あの二人はほっといて、このご本読んでね」


は苦笑する。

読む分はいい。絵本は短いので、そんなに苦でもない。しかし、この事態はどうしたことだろう。

本を読んでいる間は皆おとなしいのだが、読み終わると同時に絵本音読権の争奪戦が始まってしまう。

膝のシーザーはとっくに眠っている。なんとかこの場を宥めようと口を開いたとき、雷のような怒声が響いた。


「何をやっているんだい!!!」


思わずビク、と体を震わせ、は声の方向を向く。

見たところ母親らしき女性が、その表情を怒りに歪めて立っていた。隣には男性の姿もある。父親だろうか。

女性はウエーブの髪の女の子の手を強く引き、自らの背に隠す。見ると、他の子供たちも同様だった。


「あんたは――今度は、うちの子供まで殺す気かい!?」


は目を見開く。シーザーが起きる気配がした。


「あたしゃ知ってるんだから!お前は――お前は――ハイランドの人間だろう!?」


周りの母親に動揺が走る。はシーザーを脇に座らせ、急いで立ち上がり弁解する。


「違います!」

「何が違うって言うんだい。あたしの旦那はねえ、軍人だった。お前が捕虜としてここに来るのを見てるんだよ。

おお、マーサ、可哀想に。怖かっただろう?……さあ、ここから出ていきな。――早く、今すぐに!!!」


なおも弁解しようとして、は息を飲んだ。

女性が泣いている。この人もまた、戦争によって『何か』を失った人なのだ。

エミリアが騒ぎを鎮圧しようとこちらに向かってくるのが分かった。

は唇を噛む。痛みを体に与えないと、我慢できずに目から零れ落ちてしまいそうだった。

シーザーを抱き上げて、好奇の視線を背中に浴びながら入り口に向かった。


「違うんです」


もう一度弁解したが聞き入れられなかった。







図書館の扉を閉める。数段ある階段を下りた。

シーザーが眠りを妨げられたことで不機嫌になっているのは一目瞭然だった。降りようとしない。

はシーザーを抱えなおして、空を見上げる。痛いくらいに青い空が忌々しい。唇が切れた。


「――随分と嫌われてるんですね」


後ろから冷ややかな声がかかる。は振り向いた。

表情を顰めたアルベルトが、数冊の本を手にして立っている。借りたのだろう。


「昨日も散々噂を聞きましたけど。ハイランド軍だとかなんとか。住人の殆どが良く思ってないみたいですね」


階段を下りると、アルベルトはシーザーに手を伸ばす。


「僕まで追い出されそうな雰囲気でしたよ。まあ、子供だし、誰も『出て行け』とは言えないでしょうけど。

少し、別行動させていただいてもいいですか?本が借りれない。シーザー、おいで」

「………」


シーザーは無言で、の服を強く掴む。

口を開くといつ涙が零れるかも分からないは、声を発さずにシーザーを見る。どうしたのだろうか。


「シーザー、ほら」

「…や」

「シーザー」

「やだ」

「…シーザー、お願いだから、来てくれないか」

「やだ」

「………シーザー!」


アルベルトが声を荒げる。は驚く。

腕の中でシーザーが震えるのが分かった。しかしシーザーはそれでも頑なだ。


「やだ!」


ついに、アルベルトの怒りが頂点に達する。


「………もういい!もう知らない!シーザーの馬鹿!シーザーなんか、いなくなっちゃえばいいんだ!!!」


シーザーとは目を丸くする。しかし、そこは年齢の差。はすぐに我を取り戻した。

アルベルトは自分が言ったことに驚いているようだった。

ハッとして、それからシーザーに向かって口を開きかけて閉じ、拳を握り締める。


「…………っ」


そして、たちに背を向けて駆けていった。


「アル……!」


呼び止めようにも、声が震えて音量が出ない。シーザーがまた震えた。


「……うく、う…っ、うあ、うああああん!」


目から大粒の涙をこぼし、鼻水を出し、子供にしか出来ない泣き方でシーザは泣き出した。

結果、通りの人々の視線を集める。

はシーザーを強く抱きしめると、自室までテレポートした。







いつの間にか切り裂かれたベッドの上に着地する。更に悲しみを上乗せする余裕なんて無かった。

テーブルは足を切られ、椅子はどこにも見当たらなくなっていた。本棚だけが無事だった。

シーザーはなおも大音量で泣き続ける。痛々しいくらいに強く、強く。

泣き止んで、とが言い出せるはずもない。

シーザーを抱いて背中をさすりながら、は感慨なく原型をなくした部屋を眺める。

兄からの言葉はどれほどシーザーに響いたのだろうか。その悲しみは如何ばかりか。

しかし、それでアルベルトを責めるつもりは無い。


――きっと今、一番傷ついているのは彼なのだろう。







辛抱強く背中をさする。泣き声はだんだん弱まっていった。弱まって――急に静かになる。

見ると、シーザーは眠っていた。泣き疲れたのだろう。

このまま部屋に残しておくのも危険だ。はそう考え、シーザーを抱きかかえると部屋を出た。

アルベルトはどこにいるのだろう。







城をよく知らないアルベルトが城中にいるとは思えない。賢い子だから、きっと道が分かるような所にいる。

城下町の通りを走り抜ける。人々の視線が痛い。時々、足を引っ掛けられる。シーザーを庇って擦り剥く。

ここは同盟軍。ハイランドに敵対するための拠点。いるのは、ハイランドを恨む者がほとんどだ。

――そんなこと、分かっている。

弁解の仕方が分からない。誤解を解きたいのにその方法が思いつかない。誠意をもってしても、裏目にでる。

土下座をすれば許してくれるだろうか。紋章で死んだ人を蘇らせれば許してくれるだろうか。

――考えれば考えるほど途方にくれる。

そんな方法で許しを得られると思うことが間違いだ。人の気持ちはそんなに簡単ではない。


「は…」


通りを出て立ち止まり、乱れた息を整える。大分暗くなってきた。早く見つけないと。早く、早く、早く!

走り出そうとしたに声が掛けられた。


「赤毛のやつなら、図書館の裏にいるぜ」


少年特有の高い声。振り向くと、どこか懐かしさを覚える服装の少年がいた。サスケだ。


「…なに呆けてんだよ。そのガキの兄貴は図書館の裏だって。邪推すんなよ、モンドさんからの伝言だから」

「ありがとう」


は図書館に向けて走り出す。

サスケも自分を嫌っているのだろうか。

サスケは直接ハイランドに何かされたわけではないので嫌われてはいないと思いたかったが、

今の状態では物事を悪く悪く考えることしか出来なかった。







図書館の前を通り過ぎる。

角を回って、図書館の横を走る。裏手への角を曲がる。



アルベルトがいた。



たちに背中を向ける形で、アルベルトは図書館の裏の木の下に隠れていた。


「アルベルト」


呼ぶと、彼の肩が大きく震えた。返事は返ってこない。

サク、と落ち葉の上をアルベルトに向かって歩く。

木の近くまで来たとき、アルベルトが声を発した。


「来ないでください」

「……」


は立ち止まる。そして躊躇った。

腕の中のシーザーが小さくクシャミをした。はマントを脱いでシーザーに被せる。意を決して口を開いた。


「癇癪を起こしたことを後悔している?」

「………」

「それとも、『冷静な自分』を崩してしまったことへの戸惑い?」

「……っ!!!」


アルベルトが振り向く。その表情は驚きに満ちていた。

――ずっと感じていた違和感。賢い彼の偽り。


「無理して冷静で在ろうとして、それが崩れたから、――拗ねている」


少年の顔が怒りに歪んだ。







「――あなたに何が分かるっていうんですか!!!」


怒鳴り声が夕闇の空に吸い込まれていく。

は目の前の怒る少年を見て、胸が圧迫されるのを感じた。それは、潰されそうなほど重く。


「僕は無理してなんかいない、無理してない!無理してない、無理してない、無理してない!!!」

「…アルベルト」

「来ないでください、来ないで、…来るな!近付くな!!」


息を荒くして、少年は拒絶する。全てを拒否する。は、それでも静かさに努めた。


「アルベルト」

「もう、ここは嫌だ。あなたは嫌だ!あなたといるのは嫌だ!僕がおかしくなる、崩れる……」


はアルベルトのところへ歩み寄る。いつ拒絶されるのかと恐怖する心が悲鳴を上げる。

手が震える。足が震える。――それでも、行かなければ。根拠のない考えだけがを動かした。

アルベルトはその場に崩れるように座り込む。は目線を合わせるようにしゃがむ。

これから自分はとても無責任なことを言うだろう。その責任の重さは如何ほどか。

できるなら避けたい、と少し前の自分なら思うだろう。しかし、それではいけない。逃げてはいけない。

全て背負うと決めたのだ。それは、自分がしたことには全て責任を持つことと同義だ。


「冷静な自分なんて、崩してしまえばいい」

「……っ!?」

「自分をつくることはしない方でいい。『ズレ』の重圧は、きっと重い」

「…やめてください」

「癇癪を起こしたって構わない。怒るときには本音が出る。それが、ありのままのアルベルトだから」

「…………なんで」


覇気を失った声で、アルベルトは呟いた。


「なんで、厳しくしてくれないんですか。だから嫌なんです、あなたといるのは。あなたは厳しくないから。

僕はシルバーバーグの後継者なんです。常に冷静でなければいけない。何があっても、何を思っても」

「………」

「厳しい、四角形みたいな環境で、僕は自分を律してきたのに。崩すなんてあんまりです。

……甘えさせないでください。甘えたくありません。……どうしたらいいのか分からない………」


もぞ、とシーザーが動く。どうやら途中から起きていたようだ。

の腕から降りて、アルベルトへ駆け寄る。顔に当てられている手に、自分の小さな手を重ねて言う。


「にーには、しーざのにーに。にーには、にーにの、にーに」


――アルベルトは、アルベルトのもの。


「…うん。アルベルトは、誰のものでもない、アルベルトのもの。好きな生き方をすることも必要じゃないかな。

軍師に律することは必要だから止めないけど、それでアルベルトが辛い思いをするのなら、止めるから」

「……なんで、そんなことが言えるんですか!今日のこと、忘れたとは言わせません。

嫌われてることを知ったんでしょう!?傷ついたんでしょう!?人のこと心配して、何になるんですか!?」


は目を伏せる。もちろん、まだ痛みは残っている。消えそうにも無い。

――だが今はそんな場合ではないではないか。自分の痛みを棚に上げる価値など十二分にあるではないか。


「私より、アルベルトのほうが大事」


驚くアルベルトに、は少し語調を強くする。


「子ども扱いするつもりはないけど、アルベルトはどうしても9歳であることに変わりない。

たくさん経験してほしい。律するばかりに、大事なことを見逃すようなことがあってほしくない。

アルベルトは、アルベルトだから。――そのままのアルベルトでいてくれることが、望みだから」


――何かが、せき止められていた何かが勢いよく溢れ出すように。

アルベルトはに抱きついた。その勢いでは地面に倒れこむ。しゃがんでいたのであまり痛くはない。


「…っ…う…」


声を押し殺した泣き声が聞こえる。

はシーザーをあやすときのように、背中を軽く叩き続けた。











「会う人は皆、僕をシルバーバーグの人間としか扱ってくれませんでした。僕も、それでいいと思ってた。

だけど、たくさんの先生に囲まれて勉強していくうちに、

嬉しいとか悲しいとか…そういうものはあったら邪魔になるんじゃないかと思うようになったんです。

気づいたときには僕は偽る術を覚えていて、完璧な人間になろうと自分を騙していました。できっこないのに」


繋いだ手は、驚くほど冷えていた。

見つけられなくて本当にすまないと心中で何度も謝罪した。


「空気に締め付けられてるみたいでした。緩めたかったし、緩めてほしかった。…自分では緩められなかった」

「今もまだ、締め付けられてる?」


は訊ねた。

アルベルトは笑って、いいえ、と言う。思えば初めて笑顔を見たかもしれない。


「緩まりました」

「それは良かった。…ひとつ教えようか。人間は『我慢』が出来ないんだって。

出来るのは、目的を達成するために『耐える』ことだけ。我慢は禁物、ってことかな?」


アルベルトはもう一度笑うと、の隣にいるシーザーに声をかける。


「シーザーも、ごめん。怒鳴ったりして。…でも、どうしてあんなに頑固だったんだい?」


シーザーはこともなげに答える。


「しーざは、ねーねをまもるの。こわいものいっぱい。しーざは、ねーねの『きしさま』」


そういえば、読んだ絵本の中に騎士と姫の物語があったな、と思い出す。

少々照れくさい気もするが、やはり嬉しい。


「にーにも、ねーねまもる?」


アルベルトはシーザーの言葉に少々驚いたような表情を見せ、そして照れたようにはにかむと、


「…うん、そうだね」


と小さな声で呟いた。

やはり微笑ましくては微笑んだ。

自分では自分の表情は分からないが、今はちゃんと、「微笑み」になっているような気がした。











部屋を見て、アルベルトは一瞬呆けた。は苦笑する。切り裂かれたベッドには哀愁が漂っていた。

しばらくここで寝ることは出来ないだろう。自分一人ならいいが、この兄弟を危険な目にあわせたくはない。

しかし、そうなると問題になってくるのが、今夜寝る場所だ。他の町の宿屋にでも行くしかないだろうか。

――シュウにこれ以上の負担をかけたらいつかハゲしまいそうだ。


「グリンヒル…は占拠中か。どうしようかな…」


城外で唯一の知り合いらしい知り合いのユリがいる宿は、今は機能していないだろう。

他の町の宿屋も空いているかどうか。

そのとき、誰かが部屋のドアを叩いた。はドアを開ける。


「…思ったよりひでぇな」

「………」


服装から判断するに、おそらくヒルダの夫のアレックスと、ヨシノの夫のフリードだろう。

アレックスはを手招きして廊下に連れ出す。


「城下の連中から聞いてよ。ありゃさすがにやりすぎだ。寝られねえだろう?

うちの宿に部屋を取ってる。しばらくはそこで寝泊りするといい」


思わぬ申し出には目を丸くする。


「ありがとうございます」

「いや、いいんだ。…それで、その…ものは相談なんだが………」

「はい」


アレックスの顔が暗くなる。なんとなく、予想はついた。


「俺の妻のヒルダと…それから、こっちのフリードのとこのヨシノさんと、もう話さないでくれないか。

いや、別に、その……ええと……」


はっきりしないアレックスにフリードが口をはさむ。


「はっきりと言えばいいでしょう。…すみませんが、妻と関わらないでください。彼女まで疑われてしまうので」

「…はい」


アレックスとフリードは、そのまま何も言わずに去った。胸が軋む。ズキズキと、痛みが波のようにを襲う。

いずれ、言われるだろうとは予測していたが、衝撃は大きい。

彼らが本心から妻を案じているのだと、分かっているから尚更。


「どうかしたんですか?」


アルベルトがドアから顔を出して訊く。はできるだけ心配をかけないように努めた。


「いや、宿の部屋を使っていいらしいから、そっちに移ろうか」

「え?あ、はい。あの……」

「?」

「ええと、その…『お姉さん』って呼んでもいいですか?その、僕、姉も兄もいないから…」


はポンポンとアルベルトの頭を撫でた。


「もちろん」


今の表情を悟られないように、明るく。

――今は、笑えない。











宿の一室で夕食を摂って兄弟を寝かしつけ、は夜の静寂が支配するティントへと赴いた。

もう既に殆どの部屋の明かりが消えているが、まだ点いている部屋がひとつ。

が、ナナミと話をしていた。――逃げるか、逃げないかだろう。

鳩がの差し出した両手の上に降りる。嘴を開くとそこから声が聞こえてきた


『……ねえ、逃げようよ、がこんなことする必要ない、辛くなる必要なんて無いよ!』

『だめだよ。僕はリーダーだから。僕は、命を背負ってる。…逃げちゃいけないんだ』

『なんで?なんでばっかり辛い目にあうの!?あの夜から、少しおかしいよ』

『あの夜?』

『知ってるんだから。さんの部屋に行ってたの。あの夜から、は変。さんに何か言われたの?』

『うん。だけど、悪い言葉じゃないよ。さんとルックも来て…気が、楽になった』

『……っ』

『ごめんね、ナナミ。僕は逃げないよ。弱音、聞いてくれるって人もいるから、大丈夫。やれる』

『…さん?』

『ううん、さんとルック。さんには、負担かけたくないし、言わない』



はそこまで聞いて、鳩の嘴を閉じた。鳩は漆黒の空に白い翼を広げ、飛び去る。

――自分は、に心配されている。

思い上がりのような考え。頭を振って否定する――が、どうしても頭からその思いが消えない。

――優しさが、嬉しい。嬉しくて、少しだけ痛い。

今でもまぶたに焼き付いて離れない、図書館での母親たちの表情。

悲しみがあまりに大きすぎて、優しささえもが痛みに変わってを撃つ。

もはや同盟軍に自分の居場所が無いことは明白だった。

今はアルベルトとシーザーが同盟軍にいるので同盟軍を離れるわけにはいかないが。

自分が殆どの人間に嫌われていると知ったら、優しい彼らのことだ。心配してくれるだろう。

だが、それこそがには心配だった。いらぬ疑いを彼らが被ることになるかもしれない。





「さようなら」





――アルベルトとシーザーを送り届けたら、同盟軍にはもう帰らない。

任務放棄はしたくないので、の護衛役は鳩を繋ぎに行うけれど。









私は、この世界にとって、同盟軍にとって、どこまでも「余所者」でしかなかったのだ。















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2004.12.13
2006.9.15加筆修正

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