天球ディスターブ 2-9



 それから一月ほど行商しつついくつかの集落を転々とした後に、馬車は小さな村の前で止まった。グラスランドで訪れた集落のいずれとも違った雰囲気の、例えるならヨーロッパの田舎町のような空気を持つ村である。
 家はにも馴染みのある造りをしている。取っ手のついたドアに木とレンガの外観、クリーム色、淡い緑色、そして白と、優しい色が家全体を彩っていて、二階の窓に花を飾っているところもある。村の入り口からまっすぐにのびるメインストリートの先を辿れば、なだらかな丘の斜面に広大な黄金の小麦畑が広がっており、頂上に一際大きな風車が回っていた。
 のどかとはこういうことをいうのだろうと思える光景である。

「ここがイクセ村ですか?」

 尋ねたに「そうみたいね」とリリィが返した。
 初めて訪れる村。以前巡った国々とは違う風の感触。別段デュナンやトランに長く居たわけではない。それに、そのときは目の前にあるものだけで手一杯で、周りの景色など目に留める暇もなかった。
 けれど「違う」と感じられる。
 北方の地だから冷たいのかと思いきや、とても暖かく柔らかい風だ。だが――

――落ち着かない。

 は布袋の紐を握り締める。不意に背筋に悪寒が走り、あわてて首を振った。
 ある程度傷が治ったところで水の紋章による魔法を受け回復した――旅を続ける行商人にとって回復のための紋章術、あるいは紋章札は欠かすことのできないものなのだそうだ――ピーターが「こちらです」と言ってクロービス家別邸へと誘う。

「あら、あたし達はいいわよ」
「え?」

 思わず聞き返したに、リリィは心底不思議そうな表情をした。

「だって、この村で炎の英雄について情報収集したら、すぐに発つもの」
「え、お嬢様さん!?」
「なんでアンタが驚くのよ」
「い、いや……てっきり『じゃあ観光するからしばらく泊まるわよ!』って言い出すかと」

 リードが彼女の声真似をしつつ驚きを表現するので、は小さく噴出した。周りを見ると行商人も笑っている。しかし、それがリリィの機嫌を逆なでしたようで、彼女は腕組みをして護衛を睨み付けた。

「次に行くところを既に決めていらっしゃるのですね」

 ピーターが尋ねると、気が逸れたらしいリリィは自信たっぷりに「もちろんよ」と言った。

「ダックの村に行くの」
「お嬢さん、それだと来た道を引き返すことになりますよ?途中で別れた方が良かったんじゃあ……」
「馬鹿ねえ。それだと達が無事にイクセ村に着いたか分からなくなっちゃうじゃない」

 は目を丸くした。リリィは顔に笑みを浮かべての頭を撫でた。

「それが見ず知らずの人だったとしてもね、送り届けるって決めたからには最後まで付き合わなくちゃいけないわ。例えば悪い吸血鬼に攫われた美少女がいて、助けるって決めたんなら、最後まで諦めちゃいけないのよ」

 後半の具体的過ぎる例えに過去の記憶が刺激される。達がネクロードから彼女を助け出したときのことだろうか。護衛二人が首を捻っているところを見るに、そのころはまだ護衛ではなかったらしい。

「アンタ達はこの村でゆっくり休みなさい。近くに来たら寄ってあげるわ」
「――ありがとうございます」

 は頭を下げた。顔を上げると、今度は商隊に向けて礼をする。

「ここまで送ってくださって、本当にありがとうございました」

 商人たちは笑って、「困ったときはお互い様だよ」と言った。ハルモニアから逃げ出し、このような優しい人々に出会えたことは素晴らしい幸運だった。
 宿を取るため別邸とは違う方に向かう商隊を見送り、旅に必要なものを揃えに店に行くというリリィに別れを告げると、その場にはピーターとだけが残された。しばらく彼らが去った方向を見つめていたに、ピーターがそっと声をかける。

「そろそろ別邸に向かいませんと」
「はい」

 ゆっくりと歩き出したピーターの一歩後を追うようにして、はクロービス家別邸に向かった。



 屋敷は村の中心から少し外れたところに建っていた。とはいうものの、他の家々とさほど離れているわけではない。の感覚では、大通りから歩いて5分ほどの距離である。ハルモニアの屋敷より小さな、大通りに面した家や商店を三軒ほど合わせたくらいの大きさだ。誰かが時々手入れをしているのか、屋敷の前の小さな庭は、雑草が伸びてはいるものの、花壇の花がつぼみをつけていた。
 ピーターは軋む門を開けると、短い石畳を歩き玄関の鍵を開ける。

「村の方に管理をお願いしていますから、埃を被っていることはないと思いますが」

 ピーターはそう言って、を二階の客間へと案内する。屋敷の内装はとても質素で、飾り気のあるものは一つもない。一等市民――特別階級の別邸としては些か不自然に思える。そう告げるとピーターは、

「こちらは昔、軍人でいらっしゃった、ナタナエル様の兄君がお住まいだった屋敷でございます」

 と言った。その言葉に心のどこかが痛みを訴える。不意に、ここから逃げ出したいという思いが首をもたげて、はそれを心の奥底に閉じ込めた。
 客間もシンプルで、ベッドの他には小さなテーブルと椅子、タンスがあるのみだった。何となく、以前過ごした同盟軍の部屋を思い出す。もちろん、兵舎だった向こうと違ってこちらのほうが何倍も広く豪華ではある。
 テーブルの上に布袋を置くと、はピーターに向き直った。

「……あの」
「何でございましょう」

 は一度目を伏せ、どう切り出すべきか逡巡した後、意を決して口を開いた。

「……すみませんでした」
「お謝りいただくことは何もないと思いますが……」

 はて、と首をかしげるピーターに、胸の奥が軋むような気がして、は思わず語気を荒くした。

「ナタナエルがあんなに真っ青になっていたのに、ピーターさんは私を逃がすために傍につくことができませんでした。しなくてもいい怪我までさせてしまいました」

 ――自分さえいなければ、自分を逃がそうとさえしなければ、ピーターは怪我をしなかっただろう。もしかするとクロービス家に来ていた人たちは、天球の紋章の牢に近づいた己を罰するために来ていたのかもしれない。兵だけでなくルック――神官将まで出てきた状況を思うに、それが罪に値する行いであったことは明白だ。
 考えれば考えるほど、は自分が悪かったのだと確信する。行動が軽率だったのだ。
 申し訳なさにピーターの顔を直視することが出来ず、ただただ床を見つめているに、ピーターは静かに言葉を落とした。

「確かに、貴女がいらっしゃらなければ、私はお嬢様のお傍にずっとお仕えしていました」
「……すみません」
「ですが、貴方が傍に居てくださったおかげで、私はお嬢様の心からの笑顔を再び見ることができました」

 思わぬ言葉に、は驚いて顔を上げた。

「ラトキエ家が発言権を失い、クロービス家も追われるようにハルモニアから遠ざかるを得ませんでした。一等市民としての地位はそのままでしたが、周囲の目はどこまでも冷ややかなもので。お嬢様は成長され周りの思惑を理解なさるうち、クロービス家再興のため身を粉にして働くようになり、現在の地位に就かれました。
ですが、政治の世界は、後ろ盾が無いも同然のお嬢様に、どこまでも冷たかった」

 陰謀、駆け引き、裏での繋がり。一つ知るごとに、ナタナエルの表情が失われていく。支える手を振り払われ、止める術もなく、その姿をただ見ていることしかできなかったことが酷く辛かった――と、ピーターは、まるで懺悔でもするかのように告げ、両手で顔を覆った。
 神官将補佐という立場がどの程度のものなのか、は正確な知識を持たない。しかし、国の中枢である神殿に上がることを許されているというだけで、また、神官将という地位がどのような意味を持つものなのか考えるだけで、容易に就くことなどできない職業だと推測できる。
 ナタナエルは17歳である。その若さで掴み取るために、どれだけの思いをしてきたのか想像に難くない。

「『クロービス家の跡取り』という肩書きでしか周囲から認識されなかったお嬢様にとって、異世界から来た、何のしがらみもない『他人』である貴女は、憧れであり、同時にかけがえのない友人だったのです」

 その言葉を聴き、は意識して全ての言葉を心の奥底に沈めた。実際には、はこの世界に幾つもの意味で縛られている。だが、誤解を解いたところで誰かを傷つける結果にしかならないのならば、虚偽を通したほうがよほど良い。本当のことは己自身が認識していれば十分だと――そう、結論付けた。

「私の知っているナタナエルは、いつも、というわけではありませんが、笑っていました」
「それは私どもにとって、まるで奇跡を見ているかのような光景でしたよ。だから私はここまで来たのです。
お嬢様から託されたのが他でもない貴女だったからこそ――私は今、ここにいるのです」

 そんな馬鹿な、と叫びそうになる自分自身を、は確かに感じた。けれども、微笑んでいたピーターが目を閉じ、ゆっくりと倒れこんできたのを体全体で支えた瞬間、が叫んだのは――。





 ぱしゃ、と飛沫の跳ねる音を聞いて、は我に返った。汲んできたばかりの冷たい水が、布だけでなくの手をも冷やしている。そのことを緩慢に認めながら、水が零れないようゆっくりと布を引き上げて絞ると、ベッドに付しているピーターの額にあてた。

 ――あの後、意識を失ったピーターをそのまま寝台まで引き摺って寝かせ、は人を呼びに走った。自分ひとりでは何も出来ないと判断したためだ。何故倒れたのか、どうすればよいのか、その時に必要だった知識のことごとくを持っていなかったのである。
 村はずれの屋敷の者だと言えば、村人はすぐに協力を申し出てくれた。若様のお屋敷だね、何かあったのかい――クロービス家とイクセ村との繋がりの在り様が分からず警戒を強めていたは、逡巡の末、村人を全面的に信じた。兎に角ピーターを診てもらわなければどうにもならないと考えたのだ。
 たまたま村まで往診に来ていた老医者が呼ばれた結果、ピーターは「過労」であると診断された。ハルモニアでの出来事や道中の怪我、その後に続いた旅は、齢六十を過ぎた――はこのとき初めてピーターの正確な年齢を知った――彼の身に相当な負担を強いていたのである。

「それにしても、ピーターさん程のお人が倒れるなんて……」

 そう呟いた恰幅の良い女は、の姿を怪訝そうに見据えた。

「あんた、見慣れない服を着ているね。クロービス様んとこの人じゃなさそうだし。まさか、ピーターさんを脅してここまで連れてきたってんじゃあないだろうね」

 はその言葉にビクリと身を竦ませた。着ている服はリリィからもらったものだ。着ていた服が襲撃の際に破れてしまったからありがたくもらったのだが、つまり、これはティント共和国の服ということになるのだろう。

「黙っていないで何とか言ったらどうだい」
「……すみません。ですが、脅すなんて――」

 ――していない、と言い切れるだろうか。蒼白のナタナエルを残し、夜通し馬車を走らせ、襲撃の矢面に立たせ、その結果過労で倒れたピーターを前に――
 「脅していない、自分は何もしていない」とは、どうしても言えなかった。

 何も言わなくなったを不審に思ったのか、女はますます眉を吊り上げる。
 その時、小さなうめき声を上げ、ピーターが薄っすらと目を開けた。

「ピーターさん!大丈夫かい?ああもう、なんでこんなになるまで無理したんだい!」

 酷く心配そうにピーターを気遣う女を見て、は泣きそうなくらい安堵する。
 少なくともここには、ピーターの、クロービス家の居場所がある――。

……さま……」

 はピーターの傍に立つと、迷った挙句にシーツの端を掴んだ。己が情けない表情をしているのだろうことは自覚しているので、努めて普段の表情を作り出そうと力を入れた。

「ゆっくり休んでください。……無理をさせてしまって、本当にすみません」
「……もう一度お謝りになられたら、今度こそ私は貴女を怒りますよ」
「え?」

 ピーターは柔らかな笑みを浮かべた。

「私はいつだって、自分の意思で動いています。クロービス家にお仕えしていることも、様をここまでお連れしたことも、全て私の思いからなのですよ。貴女が気に病まれることはありません。
今の貴女に、この言葉は届かないかもしれませんが――どうか、そのことを覚えていてください」

 は思い切り首を振った。
 ――そんなことはない。
 ピーターの言いたいことは理解できる。気にするな、と――のせいではないのだと言っているのだ。
 ――ただ、それを受け止めるだけの余裕がないのも確かだった。

 パチン、と音を立てて老医が鞄の口を閉めた。小さくため息を吐き、腰に手を当て仁王立ちした村の女がピーターの顔を覗き込む。

「……何だか色々と事情があるみたいだけどさ。ま、取りあえず聞かないでおこうかね。ピーターさんは早いとこ疲れを取っちまって、この子を安心させてやんなよ。それまではあたしらで面倒みますから」
「はは……面目ないですね。よろしくお願いいたします」

 眉をハの字にして苦笑するピーターに、豪快に笑って見せると、女は医者に礼を言ってに向き直った。

「事情はともかく、ここに居るってことは何かしらクロービス様と関わりがあるんだろうけどね。いいかい、ピーターさんが臥せってる以上、自分のことは自分でやんなきゃだめだよ。あたしらも食事を作りに来ることくらいはできるけど、それ以外の看病やなんかの大部分はあんたに任せなきゃなんない。……できるかい?」
「はい」

 は表情を引き締めた。村人には村人の生活がある。頼りすぎるわけにはいかない。
 表情に何かを感じたのか、女は満足げな笑みを浮かべるとの背中を叩いた。衝撃に思わず咽る。

「思ったよりしっかりしてるじゃないの。さっきまではちゃんとやってけるのか正直不安だったけどねえ」

 何度か咳をして呼吸を整える。ピーターと老医が顔を見合わせて苦笑しているのが見えた。



 女の案内で村を簡単に案内された後、嫁に行った娘が着ていたのだという服を2着ほど分けてもらい、は屋敷へと戻り、内部を探索した。さほど広くない屋敷なので内装の理解に時間はかからなかった。
 ただし、電気・ガスが生活に使われていない世界である。台所事情はにとって大きな打撃を与えた。以前の食事は同盟軍のレストランや配給で済ませており、クロービス家では専属の料理人がいたため問題なかったのだが、今は、いざ台所を扱おうとしたとき、手も足も出ないのが現実であった。そのため、村の人々が交代で食事を作りに来たり、多く作ったものを分けてくれる、この状況は正直有難いものだった。

 そうして右往左往しているうちに3日が過ぎ、ピーターも少しずつ回復を見せていた。体力面だけでなく精神的にも負担の大きかったピーターの治りは遅かったが、それでも確実に良くなってきていると、村を去る前に問診に来た老医師に教えられた。

 は、白い雲が次々に流れていく青空を眺めていた。青い、と小さく呟くと、パン屋の主人からバケットを受け取って代金を支払う。焼き立てらしい、まだ熱を持ったバケットを抱えれば、抱えた腕と胸から温かさがじんわりと体全体に伝わっていった。一陣、強い風が吹く。奥の小麦畑が波打ち、雨のような、さざなみのような音を立てた。風車が回り、重い羽が軋む。
 ぼんやりとその光景を眺めていれば、窯から新たなパンを取り出してきた主人が「もうじき豊穣祭の季節だな」と言った。

「豊穣祭?」
「おうよ。お前ェ、他所から来たんだったな?」
「はい」
「じゃ、知らねぇのもしようがねえな。ゼクセンにゃあ何人か女神様がいるんだが、豊穣祭はそのうちの一人、女神セイディ様に感謝を捧げる祭だ」
「セイディ様」

 確かめるように繰り返すと、主人は「おう」と言って笑った。

「ゼクセンは村ごとに祀る女神様がいてな。例えばイクセはセイディ様、首都のビネ・デル・ゼクセはロア様だ」
「ロア様……は、確か、戦いの女神」

 薄ぼんやりと思い出した記憶を手繰る。そういえばそのような記述があったような気がする。

「なんだ、知ってたのか?」
「あ、いえ、ロア様はたまたまです」
「そうか。ま、今はロア様が一番有名だしな。いくら何でも『銀の乙女』くらいは知ってるだろう」

 思わぬ問いかけに虚を突かれたは目を丸くした。

「お、ちゃんと知ってるみてえだな。銀の乙女――クリス様はな、ロア様の化身か再来って噂なんだよ」
「『再来』ということは、ロア様は実在した方なんですか」
「ああ、俺の爺さんの話じゃあ、ゼクセンが出来たばかりの頃の聖女らしいが」

 ゼクセンは商人ギルドが興した、歴史の浅い国である。だとすれば『戦女神ロア』は、おそらく建国にあたって領土を獲得する際に活躍した女性騎士といったところだろう。それが時を経るにつれ神格化した、あるいは国民の支持と信仰を集めるための手段として神に「された」というところか。
 は主人に訊ねた。

「今年の豊穣祭はいつ頃になりそうですか?」
「そうだなあ……うちのカミさんが飾り物の仕上げしてたから、1週間後くらいじゃねえかな」

 は、今度は別の意味で驚きに表情を固める。
 そしてもう一度風車を仰ぎ見た。丘の頂上に立つ一番大きな風車の回りには黄金の絨毯が広がっている。今は見えないが、大通りを挟んだ居住区の周りに広がる畑にも作物が育っているのだろう。
 抱えたバケットはまだほんのり暖かく、はそれを抱えなおすと主人に礼を言って屋敷へと走った。



 ――時間がない。
 ピーターの看病に気を取られ、周囲の状況に目を配る余裕がなかった。失態である。しかし――。
 ――己は、何をしようとしているのだろうか。

 イクセ村に危機が迫っていることは間違いない。まだ、覚えている記憶には自信がある。豊穣祭が行われると同時に、この村は襲撃されるだろう。――しかし、どうすれば良い。
 村人を逃がす。――豊穣祭を目の前にして、どのような理由をつけるというのか。
 村人を助ける。――力が足りない。
 襲撃を回避する。――それこそ無理だ。グラスランドに何の関わりもない一個人が動いて何になる。
 そもそも、この村をどうしたいのか。助けたいのか、それとも逃げたいのか、逃がしたいのか。それ以前に、何の力も持たない自分自身に何ができるのか。考えれば考えるほど無力さを思い知る。

 焦る思考を冷やすように、は頭を振った。知らず俯いていた顔を上げると、いつの間にか近くまで来ていた屋敷の前に、誰かが立っているのを認めた。シルエットから男性であると分かる。
 村人ではないだろう。この村の人々はゆったりとした衣服を好むが、屋敷の前に立つ人は機動性を重視した、動作の邪魔にならない服装である。旅装、というのが近いだろうか。編み上げのブーツにアッシュのズボン、深緑の上着に、薄緑のスカーフを巻いている。顔は見えないが、日に透ける金色の髪を見て――は、それが「誰」であるのかを悟った。
 男が振り向く。

「あ、君、近所の子かな。ちょっと聞きたいんだけど……」

 人好きのする笑顔で問いかけてきた男性の言葉は、の顔を見た途端に途切れた。
 そのままゆっくりと、笑顔が無表情になり、次いで困惑へと変貌する。
 このまま人違いだと言い、通り過ぎた方が良いのだろうか。それとも、その困惑が多分正解であると告げる方が正解か。――お互いに、迷っている時点で答えは一つに絞られていた。

「どうして………」

 男が「信じられない」と言った表情で呟いた、その後に続く言葉は何だろうか。候補が多すぎて分からない。
 ただ、の言うべきは一つしかなかった。

「――お久しぶりです、ナッシュさん」

 懐かしさと同時に、二人とも、互いの間にある埋められない溝の存在を知ったのだった。





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2009.9.1
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