天球ディスターブ 2-10



「お久しゅうございます、ナッシュ坊ちゃま。お出迎えも満足に出来ず、申し訳ありません」

 そう言って、ピーターはベッドに腰掛けたまま頭を下げた。ナッシュが訪れたと分かった途端にベッドから立ち上がりで迎えようとした彼を、体調が万全でないのだからと二人がかりで止めた末に得た妥協案である。
 ナッシュはが看病に使っていた椅子に腰掛け、「気にするな」と言って笑った。

「あんたが無事なのが分かって嬉しいよ」
「では、ハルモニアの方は……」
「…………クロービスは粛清された。直系――エルは今、保護という名目で拘束されている」

 苦虫を噛み潰したような顔で搾り出された言葉が耳に届いた瞬間、は時が止まるような感覚を覚えた。
 ピーターの顔が驚愕に染まる。

「そんな……何故……」
「『上』に掛け合ったが、彼も粛清を知ったのは直後だそうだ。何とかエルの処断には間に合ったらしいが……何が起こったのか、さっぱり分からない。ただ――いや、なんでもない」

 「とにかく無事で良かった」と結び、ナッシュは口を閉ざした。は茶を淹れ終えると、テーブルの上に置く。
 ナッシュは熱い紅茶を一気に飲み干すと、椅子から立ち上がった。そのままの肩を持ってドアへと促す。

「取りあえず、今はゆっくり休んでくれ。色々思うこともあるだろうが……」
「はい……ありがとうございます、ナッシュ坊ちゃん」
「俺たちはあいつの部屋に居るよ。この部屋に居座っても休めないだろうし。何かあったら呼んでくれ」

 それでは立場が逆でございます、と困ったように呟いたピーターに冗談めかすようにウインクを投げ、ナッシュはを連れて二階の一番奥にある部屋へと移った。
 シンプルな内装は客室と変わらないものの、こちらには大きな本棚と机が備え付けてあり、大量の書籍や丸められた羊皮紙が綺麗に整理されていた。
 壁には一振りの剣が掛けられており、部屋の主が誰であるのかを物語っていた。
 接客用らしいソファに腰掛けたナッシュが向かいを勧め、は素直に従った。

「じゃあ、まあ、改めて。久しぶりだな」
「はい。お久しぶりです」
「…………あのさ。……あー、いや、えーと……」

 言葉を探すナッシュに、は一瞬目を閉じると姿勢を正した。
 クロービス家粛清の理由を尋ねようかとも考えたが、ナッシュの上司――おそらくササライのことだろう――さえも知らぬ理由を彼が知っている可能性は低いだろう。自分のせいで粛清されたのではと考えるとどうしようもない衝動に駆られるが、考えてみれば、紋章がすでに神殿の手に渡っている今、ハルモニアにをターゲットとする理由はない。天球の牢に触れた罪はあるだろうが、時間的に考えて、粛清とは結びつかない。
 現状において、粛清はに関わりのない事態であると言えた。

 無論、そうは言ってもクロービス家に世話になっていたことは事実であり、を禍から遠ざけるためにピーターが身体的、また精神的な傷を負った事にも間違いは無く、個人としてナタナエルを助けたいという気持ちは強く持っている。ナタナエルはこの世界に再び呼んだ張本人でもあるが、衣食住と仕事を与えてくれた恩人でもあり、何より――『彼』の妹でもあるのだ。
 ただ、そう思うからこそ動くことができない。何の力も情報も持たない人間が騒いだところで、おそらくはナタナエルの立場が悪くなるだけであろうし、下手をすれば「拘束」が「処分」に変わる可能性だってある。
 分を弁えなければならない。今、自分がすべきことは何か――差し迫った問題は、何なのか。

 まっすぐ、向かいに座る人物を見る。

「どうか聞いてください。私のことと、知っていること。信じ難いかもしれませんが」

 ずっと探るような目を向けていたナッシュは、そのとき初めて視線を和らげた。

「――聞くよ」



 はそれから、一つ一つ確認するように話していった。異世界の人間であることは初対面の時点で既に知られていたため、主にそれからのことを――戦争終結後から今に至るまでの流れを中心に伝えた。
 天球の紋章のことは迷った末、やはり話した。ナッシュは驚いていたが、少し思案したあと、元の世界に戻る時に――殺される直前に現れたという人間は十中八九ハルモニアの手の者だろうと言った。

「――で、気がついたら元の世界で、ナタナエルに召還されてこっちに戻ってみれば15年経っていた、と」
「はい」
「つくづく何でもありだな……」
「……私も正直、これが本当に自分の身に起きたことなのか疑うことがあります」
「まあ、『起こる』こと自体は納得できないわけじゃないんだけどな」

 ナッシュは、不思議そうな視線を投げるに向けて、指を一本立てた。

「まず、『異世界の人間を召還する』事に関しては事例がある。といっても最新の記録が確か50年くらい前だから珍しいことに変わりはないんだが、俺は、絶対に起きない事態ではないと思う。『蒼き門の封印球が市場に出回らないのは、異世界から人間を召喚する可能性についての人道的、倫理的問題を考えてのことだ』なんて話もあるくらいだからな。もっとも、こっちは単なるこじ付けのような気がするけどな」
「そういえばナタナエルも、私が異世界から来たことには驚いていませんでした」
「『蒼き門』も大概規格外だからなあ……絶対量が少ない上に使える人間が限られてるから研究も進まない」

 ま、それはそれとして、と言い、ナッシュは二本目の指を見せる。

「次に、時間の違いな。こっちじゃ15年経ったが、そっちの世界では……」
「半月も経っていませんでした」
「これについては俺の経験が根拠なんだが……世界を渡るってのは、ある種テレポートに近いものがあるんじゃないかと思う。つまり、まあ……昔知り合った奴に、テレポートで不思議な空間に行ったり、そいつの話だと時間を飛び越えることもできるっていう女の子がいてさ。ああ、そういうのもアリか、と俺は学んだ」
「………」
「黙らないでくれ……切なくなる」
「大変だったんですね」
「…………まあな」

 気を取り直し、「3つ目だ」と、ナッシュは半ばヤケクソのように手を突き出した。

「二度もこの世界に喚(よ)ばれたってのは簡単だ。蒼き門の魔法で異世界のものを召喚すると次から喚びやすくなるってことと同じだろう。多分どっかでつながりが出来ちまうんだろうな、世界と、喚ばれた奴に」
「そうなんですか?」
「ああ。蒼き門は最初に召喚するのがやたら大変らしい。だから出来る奴が限られる。その代わり一度召喚してしまえばこっちのもんだから――って、この言い方は流石に失礼だな。すまん」
「いえ」

 首を振ると、複雑そうな顔をされた。自身は蒼き門の魔法で召喚されるもの――モンスターや無機物と自分が同列らしいということを意外なほど冷静に受け入れていた。正確には、驚きはしたが、それ以上のこととは思わなかったのである。先の戦争で度胸がついたのだろうか。あるいはただ、神経が太くなっただけか。

「――と、ここまで、俺なりにお前がここにいる理由を推測したわけだが、分からないのは元の世界に戻った時だな。一度、その……死んだんだろ?」
「それについては少し考えたことが」
「ん?」

 は一度、自分の両手を見つめた。

「同盟戦争のときに大分無茶をして……それなりに傷も負いました。大きいものは背中の切り傷と太腿に矢が刺さった時の傷で、戻る前は薄っすら痕が残っていたんです。それが今は綺麗に無い」

 元の世界に戻って一番最初に疑ったことは、この世界が自分の「夢」である可能性だった。ただ白昼夢を見ていただけだったのではないかと思ったのである。それならば傷が消えたことにも説明がつく。
 けれども、得た経験は「夢」で片付けるにはあまりに大きく、重かった。彼の世界が、人々が、その思いが、己の頭の中だけで作り出せるものなのか、納得できなかったのだ。ルックや、シュウ――出会った人々が全て夢だったのだと思いたくなかったのかもしれない。

「この世界が本物で、私の世界も本物で――でも、私は『一人』です。では、何故傷が消えているのか。
そこで、一つの仮説を立てました。あの時私には――体が二つ、あったのではないかと。この世界に行く前と戻った後の服装が同じだったことも理由の一つです。また、私は死んだとき水路に落ちましたが、元の世界で目覚めたとき、濡れていなかった」
「……斬新な仮説だな」
「そう思います。だから、あまり考えないことにしています」
「…………は?」
「私がどういう存在なのか分からないのは厄介ですが、少なくとも、今、この状況が夢だとは思えないので」

 は、薄く苦笑した。

「これが私の夢なら、今頃私はどこか安全な古城で誰かと笑っているような気がします」

 ――こんな得体の知れない存在を信じてくれますか。
 真剣な表情でそう問いかけたに、ナッシュはしばし呆然とした後、体の力を抜いてソファに凭れた。

「信じるも何も、俺自身が疑問解消の証明しただろうが。けど、変わったな。前より表情が色々あるぞ?」
「……自分では分かりませんが。少しの間でしたが家族といられたからかもしれません」

 無条件に愛してくれる存在は、自分が思っているよりずっと強く、大きいのだろう。元の世界での日々は泣きたくなるくらい優しさに満ちていた。そう言うと、ナッシュは一瞬押し黙った後、肯定の意を返した。そういえば彼の家族は殺されたのだったかと今更に思い出し、無神経な言葉を投げかけてしまったことを申し訳なく思う。同時に、彼が自分の存在を認めてくれたことに感謝した。
 しかし、の目的はこの後にある。そのために今まで誰にも話せなかった素性を晒したのである。
 一つ息を吸い込んで、膝においた手で服を握り締め、は言葉を発した。

「ところで、ゼクセン連邦と6大クランの休戦協定はどうなりましたか」
「……!」

 ナッシュは驚き、次いで目を細めた。

「知っているのか?」
「情報だけ。異世界人とはそういうもの、と考えてもらえれば、それが一番正解に近いと思います。
付け加えるなら――私はもう、どこの諜報員でもありません」

 力を貸してください、と言い、は頭を下げた。

「村が、焼けます」



 新興の商人国家ゼクセンとグラスランド土着民族である各クランは、何かにつけ諍いの耐えない間柄であった。そもそもの始まりがゼクセン――商人ギルドがグラスランド西方を詐欺まがいの方法で掌握し、建国したことに起因するというのだから、その因縁は相当に根深い。
 クラン側はゼクセンのことを「グラスランドを踏みにじった白い悪魔、鉄頭」と蔑み、ゼクセンはクランを「野蛮な土着の民」と揶揄した。中でも6大クラン、グラスランドに点在する民族の中でも規模の大きな6つのクランは、表立って対峙していたこともあり、ゼクセンに対する感情は惨憺たるものがあるという。

 ゼクセンは領土の拡大を狙って、6大クラン率いる民族連合はかつての土地を取り戻さんがため、いまだ大小問わず小競り合いを繰り返しており、その結果、両者が疲弊するのは自明の理であった。
 特に今年はハルモニアとの間に結ばれた50年間の不可侵条約が切れる年でもある。両者とも大国の動向に注目し、兵力を蓄えておく必要がある。
 そのため、つい昨日、休戦協定を結ぶための協議が行われた――はず、だった。

「突然クラン側が撤退し、ゼクセン騎士団に奇襲を仕掛けた。やっと決まりかけた協定を破棄するからにはそれなりの理由があったんだろうが……知ってるか?」
「リザードクランの族長が殺されています。クラン側にはゼクセンの仕業として認識されているはずです」
「そりゃまた裏のありそうなことになってるなあ……。で、その報復にイクセ村を襲うってわけか?」
「ゼクセン騎士団は奇襲を抑えるため、カラヤクランに対し焼き討ちを行ったので」
「リザードもカラヤも怒り心頭、ってわけか。地理的に見て、カラヤはリザードクランに身を寄せてるな」
「そのはずです」
「……なるほど。この村、リザードクランに一番近いゼクセン領だからなあ……」

 ナッシュはガシガシと髪を掻き分けた。落ち着いた金色の髪が無造作に跳ねる。

「そんな状況なら、向こうも怪我人の治療と武器の確保に時間がかかるだろう。クランの武器は大概手製だし」
「となると、やはり豊穣祭と被るくらいですね」
「その辺りが妥当だな。もう少し詳しく情報収集しとくか……」

 ソファから身を乗り出し、テーブル上に机上に見つけたグラスランドの地図を広げ、指差していく。

「イクセ村がここですよね。リザードクランが東側、一番近い味方は南のブラス城。
ということは、ブラス城に駐屯しているゼクセン騎士団が到着するまで持ちこたえることができれば」
「理屈の上ではそれが最善だな。祭の最中じゃ村人を逃がすなんてできない。だけど――」

 ナッシュは、イクセ村からリザードクラン、ブラス城の二つに線を引いた。

「ブラス城からイクセ村まで、馬で急いでも半日はかかる。対するクランは事前に至近距離まで迫ることが可能だ。この差を埋めるには、『クランが攻めてくる前に騎士団が動く』っていう、無茶な条件が必要なんだが」
「事前に情報を流しておくことは可能ですか?」
「やっぱそれしかないか……よし、そっちは任せろ」

 情報を流す、と提案したものの、そのためには少なくとも、ゼクセン評議員の誰か、あるいは騎士団幹部以上との繋がりが必要になる。ナッシュは誰かと繋がっていただろうか。――覚えていない。

「蛇の道は蛇、ってね。こう見えてツテは多いんだ」

 冗談めかして笑ったナッシュに礼を言い、目線を地図に戻す。

「ただ、情報を流してもすぐに動くかどうかは分からない。最低半分…6時間くらいは騎士団なしで保てるようにしておかないと――の紋章は、今はないんだよな?」
「……すみません」
「そりゃこっちのセリフ。ごめんな、大切な紋章だったんだろう?――しかし、自業自得ってのはこのことだな。あの反則的な力があれば楽だったんだが……現実は甘くないってことか」
「確かに、結界が張れればそれで解決だったんですが」

 天球の紋章があったならば、その力を使って村全体に結界を張る、あるいはどこか一箇所に村人を集めて結界で覆ってしまえば良かった。後者だと少なからず畑が蹂躙されることになるので採るとしたら前者だろうが――紋章がこの手にない以上、考えても意味が無い。
 何かないだろうか。騎士団が到着するまで犠牲を出さない方法――

「やっぱり村の外に避難させるしかないでしょうか」
「お勧めしないな。人の住む場所以外はモンスターや野生動物がうろついている。大勢を守る術がない」

 は小さく呻いた。こちらの世界で忘れてはならない常識の一つを失念していた。

「……この世界って、どうして一歩村の外に出ると危険生物の楽園になるんですか」
「そりゃあ…………ん?」

 何かに気付いたように、ナッシュはハッと顔を上げると、ソファから立ち上がり本棚の前に立った。
 背表紙を一通り眺め、棚の一角にある本を無造作に取り出し、物凄い速度で繰り始める。

「何故街や村にモンスターがいないんだと思う?」
「……モンスターがちゃんと考えて棲み分けてる……ってことはないですよね」
「ないない。正解は――あった。ほら、これ」

 ナッシュは本を机の上において捲りながら器用に引き出しを開け、探りあてたらしい小さな皮袋を投げた。
 中にはいくつかの、歪に尖った結晶のようなものが入っており、手に取るとかすかに光った。

「紋章片。正確には封印球の破片だな」

 はしげしげとそれを眺める。目当ての項を見つけたらしいナッシュがソファに戻った。

「街や村がモンスターに襲われないのは、周囲に紋章片を埋め込んで結界を作っているからだ」
「それで結界ができるんですか?」
「五行の紋章があるだろう?あれの紋章片を、こう……ちょうど五角形の頂点にくるように配置するんだ。何でも、どの場にどの属性を配置するか決まっていて、その力が互いに作用して結界になるらしい」
「五行相生みたいですね」

 一時期、そういう流行があったときに似たようなことを聞いた覚えがあった。五行の紋章が持つ属性をそのまま五行思想に当てはめてみてもさして違和感があるようには感じられず、根本が似ているのかと結論付ける。

「そうやって作られた結界の中にモンスターが入ってくることはないと言われている。ただ、俺の経験からすると人為的になら結界内に入れることはできそうだけどな」
「私もそう思います」

 ティントに出現したアンデットや、グリンヒルのボーンドラゴンはその例といえる。

「で、だ。村人の安全確保にこれを流用しようと思う」
「……人に効く結界ではないように見えます」
「そこで、その魔力の出番だよ」
「……?」

 ナッシュは指差した手を下ろすと、真剣な表情での目を見た。

「だが、その話をする前に、一つ聞いていいか?」
「はい」
「……どうして、この村を助けたいんだ?言っちゃなんだが、お前とは何の関係もない村だぞ?」

 は暫し考え込む。何故助けたいのか――村人に散々世話になっており、起こり得る可能性の高い情報を持っている以上、見てみぬ振りをするというのは人としてどうなのかという思いもある。
 「行き会ったら助ける」、そう断言したリリィの姿勢に感化されたのかもしれない。
 ――否、おそらく、理由はもっと単純で自己中心的なものなのだろう。

「この村にこの家があって、ピーターさんが居るから」

 は、自分が見知らぬ人を行き会っただけで助けたり、己の力量も省みず世話になったからといって焼き討ちなどという規模の大きいリスクから守ろうとするような正義感の持ち主でないことは自覚している。

「私は、一度クロービス家を壊しています。……これ以上『あの人』の痕跡を消したくはない」

 行動の理由は贖罪ですらない、単なる自己愛からくる感情だろうとは嫌悪する。犯した罪を雪ぎたいと思っているわけではない。ただ、『あの人』――ナタナエルの兄が生きていた証を残したいと考えただけだ。
 けれど、口にした言葉は言外に「これ以上罪を重ねたくない」という本心を表しているのではないかと思えてならなかった。
 ――自分の言葉すら信じられないのか。
 苦々しい感情が波紋のように広がっていく。目を閉じてやり過ごそうとするが、上手く行かない。
 知らず詰めていた息を吐き出すと、それは細いため息になり、強張った体を幾分楽にした。

 笑う気配が空気を伝ってに届く。顔を上げればナッシュが苦笑していた。

「昔一緒にいたときにも思ったんだが、相変わらず変なところで生真面目だな」
「……遠慮しなくていいです」
「じゃあ、『不器用だな』」
「…………。ナッシュさんこそ、どうしてここまでしてくれるんですか?」
「あ、自覚はしているのか。……まあ、一応勝算とか成功率とか俺の身の安全とか色々考慮した上で」
「対抗しようとする私が情けないほど貧弱すぎて勝算も成功率も正直あったものではないと思います」

 そう言うと、ナッシュは押し黙った。
 困ったような、何か途方もなく難しい問題を急に叩きつけられたかのような難しい顔で頭をかく。幾度か呻いた後ぽつりとこぼした言葉は、注意を向けていなければ聞き取ることが出来ないほど、小さなものだった。

「……ま、結局は、俺も同じなんだよなぁ」

 仕草と声に潜む照れが容易に見て取れて、は驚きに目を丸くした後、小さく笑んだ。
 蓋を開ければ何のことは無い、結局のところナッシュもも、縁薄いこの村を守ろうとする理由はただ一つ、「クロービスに関するものを守りたい」という、それだけなのである。



 「外に行こう」とナッシュは言い、紋章片の入った袋と、小さな箱――これも机の中から見つけ出したものだ――を器用に片手で持つと、に手を差し伸べた。
 逡巡の後に恐る恐る手を重ねたはその大きさに驚く。
 大きさだけではない。手の節も、硬さも、顔に刻まれた皺も――全てがナッシュの15年間を表していた。

「………」

 急に、何処かに置いていかれるような感覚が襲う。――彼の15年に自分は一欠けらも存在していないのだ。
 ただ、もしこの世界に留まっていたとして、がナッシュの人生に関わる可能性は果たしてあったのかと言われれば、おそらく「無い」と答えるだろう。それでも、ほんの少し、寂しいような気がした。
 その上、これがナッシュだけの話でないことが唐突な現実感を伴い波のように押し寄せてくる。
 今にも崩れそうな足場に立つ、その感覚から逃げるように、はほんの少しだけ握る手に力を込めた。


 やや傾いた日が雲に隠れている。
 は丘の大風車の側に立ち、村に背を向け、広大な麦畑を眺めていた。

「これによると、ここから見て畑の左側に『土』、右側に『雷』が埋まっているらしい」

 本を眺めながら、広場の地面に紋章片を差し込んでいたナッシュは、立ち上がり、腰をトントンと叩いた。

「さて。、お前、魔力の収束はどの程度できる?」
「収束?」
「こう…手に魔力を集めるやつ」
「あ、ええと。私、この世界に来てすぐ天球を宿したので、そういうのはしたことがなくて。
……いや、2週間くらい練習したんですけど、全く出来ませんでした」
「そっか。ま、さっきの話だと、そっちの世界には魔力も魔法もないみたいだから仕方ないかもな。
じゃあ、これ嵌めといてくれるか?」

 そう言ってナッシュは握った右手を差し出す。反射的に両手を受け皿にしたは、落とされたものを見て首をかしげた。

「指輪ですか?」

 碧い宝石の付いた、やや古びた指輪である。ナッシュは得意げに笑うと、指を顔の前で2,3回振った。

「ただの指輪じゃない。『守護者の眼』といって、相当貴重なものなんだぞ」
「何故私に」
「それ、魔力収束にやたら優れてるって話でな。魔力がそれほど無い俺でも、ほら」

 の手のひらに乗せられた指輪をヒョイと取り上げると、ナッシュは手袋をはずし、それを嵌めた。すると宝石部分が淡く光り、手の中に卓球ボールくらいの光球が現れる。の目には光球の周りに陽炎のような小さな歪みが見えている。ということはつまり、これは魔力が集まったもの――セラに師事していたとき、発現させようと奮闘していたものなのだろう。
 そうか、こんな風になるのか、と妙な納得をしたは、ナッシュが差し出した指輪をしげしげと眺める。

「俺だとあんなもんだけどな。あとは魔力伝導の良さそうな剣か杖……あいつの部屋に何かあるだろう。
とりあえず、それである程度、魔力を外に出せるようにしておいてくれ」
「必要なことなんですね」
「ああ、不可欠だ。あとは時間がある限り、魔力伝導の方も頼む」
「頑張ります。指輪は終わった後にナッシュさんに返したら良いですか?」
「ん?いや、貰っていいんじゃないの」

 思いがけない返答には驚き、人の家の物を盗ることはできないと反論した。ナッシュは少し考える素振りを見せ、一人頷くと、

「構わんだろ。これ、あいつのだから、放置して腐らせるよりは誰かが使ったほうが喜ぶ」

 と言った。先程からナッシュが「あいつ」と呼ぶ――ナタナエルの兄、故クロービス嫡男。
 ――そうか、この指輪の持ち主は、もう。
 は指輪を見る。宝石は澄んだ蒼をしており、その色のせいか、どことなく寂しそうに見えた。沖縄の海を閉じ込めたみたいな色だ、とは思う。何となく懐かしさがこみ上げてくる。
 気付けばは、首を縦に振っていた。
 指輪を右手に嵌め、覆うように左手で包みこむ。じんわりと温かさが伝わってきて、これが魔力なのかとは理屈ではなく感覚から答えを得た。
 できるのか――否、やらねばならない。今度こそ、何としてでも。

「――よろしくお願いします、ナッシュさん」

 ナッシュは静かに笑み、手を差し出した。もそれに倣う。


 握手をする手が、微かに震えていた。





---------------
2009.9.15
back  top  next