天球ディスターブ 2-11



 腰のリボンを背中に回し、後ろ手に固く結んだ。
 膨らんだ袖口と、たっぷりとした広がりの踝に届くロングスカートは、形だけ見ればまるで令嬢のようにも見える。ただし大雑把なレースと汚れの目立たない地味な色合いが、まごうことなき村娘の様相であることを主張していた。ふと、以前にもこのようなエプロンドレスを着ていたことを思い出し、思わぬ符合に手を止める。もっともその時の服はここまで膨らみの多いものではなかったし、色味もこちらの方が幾分明るいように見える。
 白いエプロンを腰にくくり、幾らかのコインを入れた。指輪を隠すように薄手の白手袋を付け、最後に、日除けと――多少、顔を隠しておく意味を込めたボンネットを被る。フランス人形や赤ん坊が被っているところしか見たことの無かったこの帽子は屋敷の中で見つけたもので、明らかに服装にそぐわない高級感を漂わせている。姿見を覗き込んだは一瞬複雑な心持ちになったが、これからの行動を考えれば顔を知られないメリットのほうが大きいだろうと判断し、目を逸らした。これだけボンネットが際立っていれば、己の特徴はこの帽子に吸い取られ尽すことだろう。逆に言えば、ボンネットがなければ――外しさえすれば――自分を特定できるものは格段に少なくなるのだ。

「……特定も何もないか」

 家族も友人も知人も――少なくともこのグラスランドの中にはいない。のことを知っている人間も、おそらく片手以上両手以下くらいのものだろう。
 ではこのボンネットは無用の長物だろうか――手を掛け、少し考え、はやはりこのまま被っておくことにした。用心を重ねるに越したことは無い。

 静まり返る、自分以外は無人の屋敷をぐるりと見回し、一度厨房に行って小さな床下収納床足で叩いてから、は玄関を出て真鍮の鍵を掛けた。太陽はまだ昇りきっていないが、祭りの喧騒が思いの他大きい。
 タンバリンのリズムに民族的な楽器の音が心地よく響く。きっと既に大勢の人々が訪れているのだろう。自然と気持ちも華やいだものになっていき、気を引き締めるため笑顔を浮かべぬようにするには、かなりの努力が必要だと思われた。



 イクセ村の大通りは人々の熱気に溢れている。豊穣の女神セイディへの感謝を捧げる祭り――豊穣祭。民家の軒先には乾燥したトウモロコシやタマネギ、小麦などの作物が吊るされている。大風車へと続く道の前は簡易ステージになっており、今は不思議な衣装の大道芸人が音楽を奏で、皆を喜ばせている。いくつか屋台も出ており、酒や軽食が振舞われているようである。昼前ということもあって食べている人は少ないが、そのうち用意されたテーブルと椅子が埋まっていくだろう。
 視線を少し上にやると、三角形の旗が連なって家から家へと渡されている。万国旗のようだなとは思ったが、口には出さなかった。この世界に『万国』という認識があるのか分からなかったからだ。
 ふと、通りのところどころに花が添えられていることに気付く。それはステージの横であったり、テーブルの一つ一つにであったり、村の入り口に用意された門の上であったりと実に様々で、その飾りの端々から、村人の喜びと感謝が溢れているように見える。畑と共に生きる村ならではの光景である。

 はその様子を暫く見つめた後、村の入り口に向かった。そのまま暫く村を左手に見ながら歩いて小麦畑を抜け、村に向かって大風車を右手に見上げる形になったところに、無造作に積まれた小さな石群がある。村や街によって形は違うそうだが、これが、イクセ村の結界である。正確には結界の要の一つ――雷の紋章片が埋まっている場所だ。は石に両手を当てて集中する。体の中にある『何か』が足と頭から胴体へ、胴体から両腕へ、腕から手、そして掌から石へと流れ込むイメージを浮かべる。手袋の下で指輪がほのかな熱を持ち、石の周りを囲むように陽炎のような歪みが生じた。成功である。これが『自分の魔力を外に出し、他の物質に注いだ』ということらしい。
 二週間掛けても成功する気配すら感じられなかったことが、指輪を嵌めただけで一週間弱で出来てしまう、そのことはの少ない自信を更に減らしたが、この際気にしていられなかった。
 また暫く歩き、同じように、小麦畑の畦道が途切れるところにひっそりと建つ、女神セイディらしき像へと向かい、魔力を注入する。こちらは土の紋章片である。
 他の三つの元へは向かわず、は村へと戻った。上空から見れば、村の入り口に頂点のある五角形のうち、入り口から最も遠い二点にだけ魔力を注いだ形になる。

 すでに太陽は南中を過ぎ、屋台に並ぶ人影もそう多くはない。もう少し早く戻っていれば、昼食を食べる人々の活気を感じることが出来たかもしれないと、は少し残念に思う。
 ともあれ、自分も何か胃に入れておかねばなるまい。腹の虫が小さな鳴き声を上げる。一番近くの屋台に寄ると、そこは村で作っているワインの試飲を行っているところだった。流石に飲むわけには行かないので、二番目に近い屋台に行けば、挽きたての小麦で作ったという堅焼きパンと、祭りに合わせて成熟を調整したらしいチーズを売っていた。はパンと、チーズを一欠け頼んで硬貨を渡す。空いている椅子に座り、ステージをぼんやりと見つめながらパンを割って口に入れた。ポン、と頭に柔い衝撃が落ちる。

「よ、楽しんでるか?帽子のせいで一瞬分からなかったぞ」
「……?あ、ナッシュさん。帰っていたんですね。そちらの方はどうですか?」
「今のところは順調だな。ちょっとした有名人を村に誘導することもできたし……焼き討ち前提なのが悔しいな」
「有名人?」
「かなりの。彼女には悪いが、囮になってもらおうか、と」

 ――俺と一緒に。
 そんな言葉がナッシュの口から漏れ、は思わずその顔を凝視した。

「あ――」

 危ないことはしないで欲しい。そう言おうとして、思いとどまる。きっと言わずともナッシュは十分承知しているのだろうし、自分には計り知れない様々なことを考えた上で「囮」を選択したのだろう。そう考えると、己がいかに無神経かつ不躾な発言をしようとしていたのか思い知る。

「『あ』?」
「――りがとうございます」

 ナッシュは笑って、のパンを半分に割ると、思い切り齧り付いて――「固い」と顔を顰めた。



 未だやることが残っていると言うナッシュと別れ、は民家の前に置いてある酒樽の上に座り、大通りを眺めた。テーブルと椅子は少し前に片付けられ、出来上がった広い空間では、午前中に見た三人組の大道芸人が奏でる音楽で人々が踊っている。
 少女が男性と繋いだ手を高く上げてクルリと回る。その勢いのまま次の相手へと移り、腕を組み、花が綻ぶような笑顔でステップを踏んで、歌い上げる。

『セイディ、セイディ、我らが女神よ。籠いっぱいの感謝をあなたに捧げる。土と水の恵みは我らが糧に。火と雷の恵みは我らが光に。風の恵みは我らが安らぎに』

 豊穣の感謝を謳う言葉に耳を傾けていると、ふと影が射し、隣の樽に誰かがもたれかかったのが分かった。
 踊り疲れた村人だろうか、それとも豊穣祭を聞きつけてやってきた、近隣の住人か。

「――少し、疲れたな」

 目を向けると、銀色の髪に陽の光が反射しての目を灼いた。見覚えのある色だった。過去――同盟戦争の折、数度会った軍主の親友は、こんな髪の色をしていなかっただろうか。

「もう、踊りには加わらないんですか?」

 思わず、声をかけていた。話しかけられると思っていなかったらしい銀髪の女性は驚きに表情を染め、の姿を見ると苦笑した。

「何分踊りに慣れていないものだから。少し目が回ってしまった」
「あはは。楽しめましたか?」
「もちろん。……ここは良い村だな」
「はい。向こうの屋台に飲み物……お酒以外もあるので、少し飲まれるといいかもしれません。では、これで」
「ああ、ありがとう」

 は樽から飛び降りると小さく会釈した。女性も小さく手を上げて礼を言う。その仕草で、彼女が腰から下げている長剣の金具がカシャンと音を立てた。



 ステージの横を抜け、大風車への緩やかな坂を登っていく。踊りの音楽はだんだん小さくなっていき、やがて小麦が風に揺れる音にかき消されてしまった。
 全ての風車が軋んだ音を立てて羽を回す。大風車もゆっくりと動き始めていた。
 丘の頂上まで登り切り、笑って手を振るナッシュを認めると、手を振り返して大風車の裏に回った。隠すように立てかけていた剣を両手で持つと、ナッシュの隣へと移動して柵に背を預ける。

「剣って重いですね」
「そうだな。剣士なんかはそりゃもう色んな意味で剣に人生かけたりもするし。……紋章片は大丈夫か?」
「午前中に魔力をあてました。大丈夫……だと思いますが、こればかりは何とも」
「実験するわけにもいかないしな。そこは仕方ない。……お」

 言葉を止めて柵の向こうを眺めるナッシュにつられて振り向けば、太陽が沈み始めて赤らみ始めた空の下、金色の穂がさわさわと踊っていた。祭りの賑わいが小麦にまで伝わってしまったのだろうか。いつになく非現実的な思考は多分、自分自身が予想以上に祭りに浮かれているからなのだろう。空がまるで鏡のように小麦の色を写し取っている。
 ――けれど、この剣の出番が近づいているということでもあるのだ。
 涼みに来るのだろう、丘への道をゆっくり歩く銀髪の女性を目に留めて、は剣の柄を握り締めた。



「――奇襲だと!?」

 思考の海に沈んでいたの耳に、まるで岩が投げ込まれたかのような波紋が伝わった。声の方に目を遣ると、ナッシュが両手を挙げて降参の意を示していた。首筋に細身の剣が当てられている。
 剣を持つ手は、先ほど会話した女性のものだった。銀色の髪が夕日の赤に染まり、輝きを増している。

「祝いの日にそのような戯言、許されると思っているのか!?」
「あー……まあ、それを言われると辛いんですがね。しかし、心当たりが無いとは言わせませんよ」
「……カラヤか…っ!」
「如何するかは貴女次第です、クリス・ライトフェロー殿。打てる手は打ちましたが、おそらく貴女が動かなければ、村人や祭りの参加者も無事では済まない」
「……私を脅すというのか」

 忌々しげに眉を顰めてナッシュから目を逸らしたクリスは、そこでやっとに気付いたようだった。一瞬目を見開き、次に警戒の色を強めた。は剣を持って柵から背を離すとナッシュの隣に立ち、クリスを見上げる。
 ゼクセン騎士団長、クリス・ライトフェロー。休戦協定がグラスランド側による奇襲により破棄された際、民族軍の包囲網を抜け、カラヤクラン焼き討ちという形で騎士団を壊滅の危機から救った英雄である。その強さと外見の麗しさから付いたあだ名が『ゼクセンの戦女神』、『銀の乙女』。はそのことを画面上の情報としてでしか知らなかったが、いざ目の前にすると、名前の意味がよく分かる――ような気がした。
 釣り上がった相貌は険しいが整っており、陽に燃える銀髪とすらりとした体躯はまさしく『戦女神』と呼ぶにふさわしい。グラスランドに生きる民族の憎しみを一身に受けてなお毅然と立つ姿はなるほど、畏怖の対象だ。
 彼女ならば、いや、彼女にしか、混乱する村人を誘導し、退路を確保することはできまい。
 は口を開いた。

「村人をこの広場に避難させてください」
「……何だと?」
「この道を守ってください。村人は私が守ります」

 きっとクリスは断らないだろう。それが、正史だからだ。

「時間が無い。夕焼けが始まっています。お願いします」

 だが、怖い。『正史』などというものが、本当に存在するのだろうか。もし彼女がこれを虚言と判断してしまったら。行動が遅れてしまったら。屋敷に食事を作りに着てくれた女性も、パン屋の主人も、皆――。
 冷たい汗が、地面に落ちた。

「――何をしている。行くぞ」

 だから、彼女の言葉はそれこそ、神の声のように感じられた。

「……私は何の根拠も無い言葉を信じるほど馬鹿ではない。だが、村に危険が迫っているという言葉を前に、事の真偽を問答する愚者でもない。時間が無いのだろう。急ぐぞ!」

 そう言って駆け出すクリスとナッシュの姿が道の中ほどに差し掛かったあたりで、丘に立つにも伝わるほどの地鳴りが起こった。思わず地に膝をついたの目に、大通りを囲む小麦畑から煙が上がる光景が映る。程なくして、爆発音と共に家々から炎が上がった。火の紋章を宿す者がいたのだろう。
 予想外の炎には小さく悲鳴を上げた。村の崩壊がこんなに速いと思っていなかった。
 屋台が、ステージが、飾られた花々が――焼けていく。

 ガタガタと肩が震える。盗賊に襲われたときはピーターを逃がしたい一心で考えなかったことが一挙に押し寄せてきた。村人はクリスとナッシュと騎士団、そしてが守る。しかしの身は――誰も守ってくれない。
 今まで自分を守っていた『天球』という名の絶対の力はもう、無い。それはにとって、何よりも怖い現実だった。見知らぬ、日本とは比べ物ににならないほど危険に満ちた世界。慈しんでくれる両親も、過ごす家も、身の証すら無い。例えばこの世界で病気や大怪我を負ったとして、今のを看病してくれる者はいないだろう。どこかに定住したいと願ったとして、身元不明の人間を受け入れるほどこの世界は甘くない。モンスターに襲われてしまえば――きっと、その瞬間の人生は終わってしまう。元の世界で、そして同盟軍での生活で、自分がいかに恵まれていたのかを思い知る。

「でも」

 その不安定さを嘆き続けるほど、弱いつもりはない。恐怖が消えることは無いが、乗り越えることはできる。
 状況はクリス・ライトフェローという強者を送り込むことで、アドバンテージを戻すことができた。
 力は、ナッシュの工作と小細工で補った。
 あとは――覚悟をするだけだ。

「ずっと反則してたけど、目を逸らしてばっかりだったけど、これでも一つの戦争を見てきたんだから」

 人の命がいかに脆く、弱く、小さく――尊いものなのか、ずっと見てきた。

「奪った分、償わなくちゃいけないし、守らないといけない」

 そう呟いて、は悲鳴を上げる村を眼前に見据え、ポケットの紋章片を地面に突き刺した。



 イクセの風は、風車の向こう側にある湖から吹く。風車を回し、丘を下り、そして大通りをすり抜けていく。故に村からの煙も熱風も、この丘には上がってこない。村から出ればモンスターに遭遇する可能性が高い状況において、村の入り口へと向かう煙を避け、丘へと避難することは自然の流れでもあった。

「あんた、何してるんだい!早く風車の中へお入りよ!」

 食事を作りに来てくれていた女性がの腕を引く。力の弱い子どもや若い女性は大風車の中へと身を隠しているようだった。はやんわりと女性の手を離す。

「大丈夫です」
「何が大丈夫なもんかい!今はあの騎士様が防いでくれているけど、あんな大人数で来られたんじゃあ……」
「私は大丈夫です。――早く、中に」

 女性は心配そうにの顔を見つめ、次いでその手に持つ剣を見やる。

「……本当に、大丈夫なんだね?」
「はい。危なくなったらそちらに行くので、先に入って待っていてください」
「あんまり無理するんじゃないよ」

 その問いには答えず、ただ視線を丘への道と村の境で奮闘するクリスに向けた。
 彼女は強い。カラヤ・リザードの戦士が束になってかかっても、この道に至ることは難しいだろう。――だが。
 ゼクセンに『騎士団』という名の軍隊があるように、グラスランドは民族自体がもはや軍隊に近い性格を持っている。そして、軍にはすべからく将が存在する。いかなクリスが強いといっても、強さの異なる戦士たちを何人も相手にし続けることは難しいはずだ。
 だからは待っている。村に残っている人間と、クリスの疲弊を見極めて、『彼』が出してくる、合図を。

「……!」

 村の中央部から空に向かって閃光が走った。
 それを見たクリスは戦うことを止め、カラヤ・リザードの戦士を誘導するように丘から離れていく。は丘に向かってくる戦士から目を離さずに剣を抜き、先ほど地面に立てた3つの紋章片の中央に突き立てた。
 剣の柄を両手で握り締め、目を閉じて力を込める。手袋の下の指輪が微かな熱を持ち、剣の刀身が淡く光を帯びた。光が地面に染み込み、呼応するように紋章片が光を放つ。
 は目を開ける。戦士は丘の中腹を過ぎていた。傷を負っているのか、進みは遅い。紋章片に魔力が通ったことを確認して、剣を更に深く突き刺し、より強く集中する。
 ちょうど三角形の頂点に来るよう配置された紋章片の外側二つから光の線が延び、一瞬、耳鳴りのような甲高い音がの耳に届いた。

「な、なんだ、こりゃあ……?」

 大風車を守るように立っていた村の男性が呆けたように声を発した。光の線はもはや壁となり、丘の広場を囲っていた。光はの位置に――足元の紋章片に集束している。
 地に立つからは見えないが、光の壁――魔力による防壁は大風車の向こう側にある二つの紋章片と繋がり、大三角形を描いているはずだ。
 つまり、村を守る結界を無理やり変形させた上で、の魔力を流し込んで強化したのである。

 魔力は磁石のように違う性質のものと引き合ったりはせず、『同じ性質』のものと引き合うのだそうだ。
 大風車の向こうにある紋章片と足元の三つの紋章片、これらは共通しての魔力が注入されている。
 今、村を囲んでいた五つの紋章片はうち二つにの魔力が通ったことで、繋がっていた魔力は足元の紋章片に引き寄せられた。

 の前に広がる結界に湾曲刀が振り下ろされる。恐怖に目を閉じることもなくただ見つめていれば、刀は結界に阻まれてまで届かなかった。戦士が忌々しげに舌打ちする。

――あとは、騎士団が来るまで持ちこたえればいい。

 は柄を握りなおす。
 騎士団が到着する方が早いか、こちらの魔力切れが早いか。一週間の練習時よりも大きく吸い取られていく『何か』を感じながら、は結界越しに村を見た。

――モンスターの流入は無い。

 結界が消えたことで草原のモンスターが村に入り込み、グラスランドの戦士を少しでも散らしてくれればと考えていたのだが、逆に、村から上がる炎によって寄り付かないのだろう。ならば、やはりここで堪えておかなければならない。

 は思考を一切止め、ただ剣と紋章片と結界にのみ意識を向けた。
 そして、馬の嘶きを聞いたのである。





 は焼けて壁が黒くなったクロービス邸の扉を開けた。外観に反して中は何も変わっていない。通りから外れていることと、もともと貴族の邸宅で、造りが頑丈だったためだろう。

 夕日が沈み、月が昇ってから暫く。騎士団は思いの外早く村に到着した。ナッシュの交渉が上手かったのか、それとも他に何か要因があったのか、それはの知らぬところではあったが、なんにせよ魔力の放出で冷や汗をかき始めていたにとって大きな幸運であることに違いなかった。
 グラスランドの戦士は大半が囮となったクリス・ナッシュの方へと向かっており、村に残っている人数は少なかったのだと騎士団員が告げた。そのためか、騎士団到着と同時に多くの戦士は己の不利を見て取り、撤退したらしい。ただ、先の焼き討ちで遺恨を抱いている者や殺気立っている人間は当然存在し、幾人かは騎士団に挑み、数の上に敗れた。これはが確認している。
 は甲冑を身にまとった人間が丘へと上がってくるのを見とめ、剣と紋章片を抜いた。その瞬間に魔力のつながりは絶たれ、村を囲むように歪みが現れたかと思うと結界は元の形を取り戻す。
 村人は騎士団の姿を見て一同に安心の表情を見せ、互いの無事を確認し合った。
 すぐに怪我人の治療と、村人と参加者の確認が行われ、無傷のは多少事情聴取をされた後に解放されたのだった。

「いいわけ、結構頑張って考えたんだけどなあ」

 月明かりしか光の無い世界で、屋敷の中は夜よりも暗い。は手探りで壁を伝って歩く。
 広間を抜け、食堂を通り、床に落ちた鍋に躓いた感触で厨房にたどり着いたことが分かった。
 厨房の隅の床を手で撫で、凹んだ取っ手を握り、引き上げる。小さな収納スペースがあるはずだが、如何せん見えないので、やはり手探りだ。

「挨拶は、しない方がいいか」

 探り当てた、村を出るための荷物を抱きしめて床に座る。は村を出てカレリアに向かうつもりだった。可能ならばハルモニアに行き、クロービス家がどうなったのか、自身の目で確かめたかったのである。
 休戦協定が失効した今、グラスランドからハルモニアへ行くのは並大抵のことでは出来ないだろうが、自身がグラスランド人でもゼクセン人でもないため、観光や遊学という名目ならば可能性はゼロではないと考えた。
 だからこそ、村に己の証を村に残すわけには行かなかった。今ならば――混乱に乗じて消えることができる。

 はもと来た道を辿り、屋敷の外に出る。煙のせいか星は見えず、月も朧だった。
 サク、と焼け焦げた草を踏む音が聞こえて、正面を見る。村娘が二人立っていた。

「どうしたんですか?」

 は思わず声をかける。この場に来る理由が見当たらなかったからだ。娘たちは互いの顔を見合わせて頷くと、ゆっくりと歩いてくる。

「あの、何か――」
「眠りの風」

 見開いたの目に、娘の手中にある札から生じた歪みが風のように吹き付けてくる光景が見えた。
 急激に頭が重くなり、地面に倒れこむ。

「巫女が貴女をお呼びです」
「み……こ……?」

 まぶたが重い。

「口寄せの巫女――ユン様です」


 そして、の意識は夜の闇に溶けて消えた。





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2009.10.24
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