天球ディスターブ 2-12



 ――馬の嘶きが聞こえる。

 霞がかった思考の中で浮かび上がる鳴き声に、は重いまぶたを持ち上げた。目じりから零れた涙が頬を伝う。泣いていたのかと驚く前に、単に生理的なものなのだということに気がついた。別段悲しくないからだ。
 目だけを動かして周りを見る。丸太組みの屋根、ロッジのような造りの建物である。机や本棚、テーブル、椅子、その全てが木で作られており、壁にはオレンジと赤を基調としたタペストリーが掛けられていた。
 起き上がると、どうやらベッドに寝かされていたらしいことが分かった。やはり木製のベッドで、掛け布団の縫い目はどこか民族的なものを思わせる、太く、荒いものである。
 ふと床に目をやると、何かの獣の毛皮らしきものがラグマット代わりに敷いてあった。はここが何処なのかを大体察し、布団を丁寧に畳むとベッドに腰掛けた。
 ノックが柔らかく反響する。

「――あら、起きたのね」

 扉から入ってきた人物はの姿を見ると微笑み、水差しとコップの乗った盆をテーブルに置いた。

「よかった。中々目を覚まさないから心配してたの」
「……ここは」
「あら、ごめんなさい。ええと、ここはアルマ・キナンよ。私はユミィ。よろしくね」
「あ、はい。あの、といいます」

 ユミィはの言葉に一瞬目を丸くすると、次いで可笑しそうに笑った。
 ふわりとカールした黒髪が声に合わせて揺れるのを何となく目で追いながら、は微かに首を傾げる。

「変なことを言ってしまいましたか」
「違うの、意外だったから。てっきり、『無理やり連れてくるなんて酷い!』って言われると思ってたのよ」

 ああ、とは納得した。確かに、そういう反応も有るだろう。だが、ここがアルマ・キナンであるのならば、連れてこられたことはにとってむしろ都合の良いことなのである。ルックに会うことを目的の一つに据えている以上、ハルモニア軍の近くに行くことは必須である。そしてここは、グラスランドにおいてハルモニアが進軍するチシャの村に最も近い。また、クロービス家の安否を確認するという目的も――ハルモニアに行く方法も、決して閉ざされたわけではない。
 しかしそのことを告げるわけにもいかず、考えた末には、

「困らないので大丈夫です」

と言った。ユミィはその言葉にますます笑みを深くし、「大物ね」とだけ言い、水を勧めたのだった。



 イクセ村で着ていた服は所々焦げていたのだとユミィから聞かされたは、そこでようやく、自分の服装が変わっていることに気が付いた。白い布地の寝巻きは柔らかく着心地の良いものであったが、そのまま外に出ることはできず、焼けた部分を切り取って繕ったのだという、幾分シンプルさを増したワンピースに袖を通した。
 焼きたてのパンと温かなスープで胃を満たし、はユミィに連れられるまま家を出る。
 グラスランド6大クランのひとつ、アルマ・キナンは森の奥深くにひっそりと存在する村である。周りも空も木に覆われており、葉を通して差し込む光は天からの梯子のようにも見え、村の神秘性を際立たせている。遠くで木を切り倒す音が響き、家の横で、広場で、資材置き場で、村の娘たちは各々、鏃(やじり)を削り、弓に弦を張り、的目掛けて矢を放つ。

「貴女を呼んだのはね、ユンという子なの」

 ユミィの言葉に、周囲に散っていた意識を彼女に向ける。

「ここよ。行ってらっしゃい」
「ユミィさんは?」
「私は家に戻ってるわ。ユンは、貴女と二人で話がしたいらしいから」

 終わったら戻ってきてね、と言うユミィに一度頭を下げて、は階段を上り、視界に入る建物の中でひときわ大きなその家の、重そうな扉を強めに叩いた。木の厚さで音が届きにくいだろうと判断したためだ。

「――どうぞ」

 予想以上に幼さを残した声には当惑する。ためらいがちに扉を開けて中に入ると、部屋の中央に置かれた大きなテーブルの両側に備えられた長いすに、少女が一人、座っていた。
 少女はの姿を目に留めると、ゆっくりと笑顔を作り、正面の椅子へ促す。
 はすすめられるままに腰掛け、正面から少女を見据えた。12、3歳くらいの、あどけない少女である。肩につかない程度に揃えられた髪はユミィよりも黒く、アルマ・キナンの人々同様緑を基調とした服を着ている。
 小さな唇が言葉を発した。

「初めまして、さん。ユンといいます。はるばる異世界より来てくださって、ありがとうございます」

 前半は予想していたものの、後半の言葉には目を見開いた。
 ユンはクスクスと笑い、悪戯が成功した子供のような顔で上目遣いにを見る。

「驚きました?」
「……とても」
「良かった!本当はさんがこっちに来たときから、会いたくて言いたくてうずうずしていたんです」
「こっちに来たときって…え?」

 理解が追いつかないに、ユンは少し困ったように続けた。

さんがこちらの世界に来る前、とても異質な魔力が蒼き門の魔法を発動させようとしていたんです。だから干渉させてもらいました。あのままじゃ何が喚(よ)ばれるか分からなかったので。
結果として貴女を喚んでしまいましたが……実は、私も驚いています。こんなの、私の見た未来には無かった」

 言葉が進むにつれて笑みを消していくユンは、心底分からないといった表情でを見る。

「未来が見える?」

 は問う。元の世界でゲームをしているときも、今も、は未来予知があまり信じられない。半年前――この世界での15年前、己の歩んできた道に予期していなかった出来事が多かったせいもある。
 幼い口寄せの巫女は即答した。

「見えます。それが口寄せの巫女としての――門の紋章の継承者としての、私の役割です」

 は驚きに言葉を失う。やっとのことで搾り出した声は少し震えていた。

「門の……紋章」
「といっても不完全ですけど。『表』を宿しています」

 は記憶を掘り起こす。
 『門の紋章』が歴史の表舞台に出てきたのは、この世界での18年前――知り合いである・マクドールが軍主として戦った『門の紋章戦争』、俗に言う解放戦争が最後のはずである。その際に門の紋章(表)を宿した魔女が倒され、紋章は彼女とともに行方知れずになったのだと記憶している。
 門の紋章自体は500年ほど前、『門の一族』と呼ばれる集団によって受け継がれていたものがハルモニア神官長ヒクサクの紋章狩りに遭い、二人の女性が紋章を守るため『表』『裏』をそれぞれ宿した。裏の紋章はルックの師である盲目の預言者、レックナートに。そして表の紋章は魔女・ウィンディに。
 表と裏――二つの顔を持つこの紋章は、違った特徴があったはずである。確か――

――ああ、そうか。

「表は『召喚』か」

 ユンは微笑む。まるで「よくできました」とでも言わんばかりの、喜びに満ちた表情である。例えば、と言って少女はテーブルの上に置かれた水差しを手に取る。

「例えばこの水が『世界にある全てのもの』だとします。そうしたら、私はつまり受け皿です。ありとあらゆるものを呼び込んで、受け入れる。逆に『裏』は水差しです。この世界のものを別の場所に送ります」
「じゃあ、未来が見えるのは」
「半分は紋章の力です」

 半分、とは反芻した。少女は律儀に反応する。

「ええ、半分。もう半分は『口寄せの巫女』としての私にもともと備わっていた力です。考えてみたら、門の紋章が宿ったのも相性が良かったせいかもしれませんね。
 紋章は色々なもの教えてくれました。世界の成り立ちや百万世界のこと、過去、現在、そして未来。表の『受け入れる』力と口寄せの『視る』力は、何よりも正確な世界を見せてくれます。けれど――」

 言葉を区切り、ユンは一瞬だけ迷うような素振りを見せた。

「――私の見た未来に、貴女はいなかった」

 が反応するよりも早く、少し焦ったような声が続いた。

「ハルモニアがグラスランドに侵攻してくることも、カラヤクランの焼き討ちやイクセ村への報復、ナタナエル・クロービスが蒼き門の紋章を使用することも、全部見えていました!
 『破壊者』ルックは五行の真の紋章を集め、グラスランドは追い込まれる――セフィクラン、チシャクラン、ダッククランがハルモニアの手に渡ります。リザードクランの高速路にあるシンダルの遺跡で真の紋章の力を解放し、自身の紋章を砕こうとしたルックは、英雄の手によって命を落とします。
 ――これがこの先の未来です。変わることはありません。もうじきこの村に英雄の一人、クリス・ライトフェローさんが来て、私は真の水の紋章の封印を解くために命を捧げます。全部、決まっているんです」
「決まっている?」
「ええ。紋章の記憶でもそうでしたし、物心ついてから今まで、見えた未来が変わることはありませんでしたから。……どんなことがあっても」

 感じた違和感に首を傾げる。少女の言い方はまるで、「変えようとした」ことがあるかのようだった。

「君は――」
「だから、貴女は異質なんです」

 問いかけようとした言葉は途切れ、は胸にチクリとした痛みを感じる。

「異質……」
「ええ。本来この世界にいるべきではない――来てはいけない存在でした。貴女がいることで、どんな影響が世界に及ぶか分からない。グラスランドはハルモニアに屈してしまうかもしれないし、紋章の力が完全に解放されて、この地の民が……100万の命が消えることになるかもしれない。ただ――今でも私の見る未来に貴女はいません。分かるのは貴女の過去と現在、そして『どんな存在』なのかということだけ」
「それは、私の存在が未来に影響しないということ?」
「貴女はルックに会おうとしています。そして、叶うならば彼の命を救いたいと思っている」
「……っ!?」
「そしてルックにとって、貴女は赤の他人じゃない――影響は起こり得ます」

 驚いたの目を、ユンはまっすぐに見据えた。全ての感情を消した目はどこまでも深く、純粋で、全てを見透かし受け入れようとしているように思えた。

「自覚の有無に関わらず、貴女はこの戦争に関わりたがっています。そして、関わっていくでしょう。ただただ、ルックのためだけに。……彼に伝えたいことがある、それだけの理由で。
 破壊者は倒され、ルックは死に、グラスランドは消滅の危機から逃れる。未来は決して変わることがありません。……それでも」

 視線に耐え切れず、は目を逸らす。言葉は構わず続けられた。

「それでも――未来を変えたいと思うなら。……一週間あげます。もう一度、来てください」

 実のところ、これまでに未来を変えようという考えはなく、ルックが死を望んで行動しているとして、己に口を出す権利などないと思ってすらいた。
 だが、「ルックの命を救いたがっている」と言ったユンの言葉をどうしても否定することができない。そのことに声には出さず驚いて、視線をさまよわせた先で息を止めた。

 目線を落とした先にあったのは、少女の震える肩だった。





 村の入り口。組み木造りの門の前に立ったは、ユミィから渡された小さな木彫りのお守りを握り締め、外へと足を踏み出した。他の村よりも強い結界が張ってあるアルマ・キナンの入り口は、このお守りを持っていないと入れないのだという。
 入り口付近は結界の効果でモンスターが出現しないのだと聞かされてはいたが、知らず何度も辺りを確認しながら歩を進めてしまう。紋章も武器も持たないは、そうすることでしか身を守ることができない。イクセ村から出ようとした際、護身用にと小さなナイフを袋に入れており、それだけは今もワンピースのポケットに入れているのだが――モンスターが相手では、どこまで役に立つか分からなかった。
 紋章を宿そうにも、の所持金では到底無理だった。聞けば、封印球の産出がここ数十年で激減しているらしい。封印球は自然界の魔力が凝縮したものとも、真の紋章が生み出すものとも言われ、その発生が不明瞭である。そのため人々は地道に発掘することしかできない。ハルモニアでは人為的に封印球を造る技術を研究しているらしいが、と言ったところで紋章師は口をつぐんだ。
 何も無いよりましだろうと、紋章師の厚意で風の紋章片が付与されたナイフがポケットの中で揺れる。そっと触れてみると、微かな熱を持って反応した。

 村の全景が見渡せる位置まで来たところで立ち止まり、頭上を仰ぎ見る。

――きれいだ。

 口の中だけで呟いた。葉を介した陽光が苔むした大樹を柔らかく照らす。森というよりも原生林の様相を呈したこの地――クプトの森は、一本一本の木が途方も無く太い。枝葉が天を覆っているので、足元も草ではなく苔が大半である。かといって湿度が高いわけではなく、涼やかな風がスカートの裾をあおった。

――私は、ルックに生きてほしいのだろうか。

 できれば会いたいと思っていたことは事実である。これから始まる――もしくは始まっている、グラスランドとハルモニア間の戦争以後、二度と会えなくなる前に、今までの礼を言いたいと考えていた。
 もちろんとてルックの死を歓迎しているわけではない。生きてくれれば嬉しく思うし、彼自身が生きたいと願うならば何をおいても駆けつけよう。だが、の知る限り、ルックの行動は全て彼自身の意思である。それを捻じ曲げてまで彼に生を強いることが本当に良いことなのか、には分からなかった。

 振り返り、アルマ・キナンの村を見下ろす。
 ユンは未来を変えたいのだろうか。頑なに未来は不変だと主張し続けた少女の震えが蘇る。紋章の見せる未来と、自身の力で視る世界――変わることはないのだと突き付けられながら、に未来を変える選択肢を委ねた、己の死をも予言した少女。
 はユンではない。だから、彼女の考えも苦しみも分かることができない。
 ただ、今までどんな思いで未来と目の前の現実を見続けてきたのだろうと、ぼんやり思った。



「やあ。こんなところでどうしたの、お嬢さん?」

 不意に背後から声を掛けられ、の肩が小さく跳ねる。気配を全く感じなかった。考え事をしていたせいもあるが、そもそもは気配に敏感ではない。森の雰囲気に呑まれ、どこか安心してもいた。
 ポケットに手を当ててナイフを確かめ、おそるおそる振り向く。声の主を視認し、は目を見開いた。そして、相手も絶句していることに気付く。

「…………?」

 名を呼ばれて咄嗟に返事しようと思うが口が動かない。
 ややあって、怪訝そうに首を傾げた相手が小さく笑い、重さを感じさせない動きでの前に降り立った。

「――久しぶりだねえ」
「……うん」
「元気だった?」
「うん」
「病気はしなかった?怪我は?どこも悪いところはない?」
「大丈夫だよ」
「……そっか」

 相手はそう言うと表情を緩ませ、泣き笑いにも似た、心底ほっとしたような表情を見せる。は心臓の辺りからせりあがる衝動を表に出すまいと、喉に力を入れた。唇が戦慄き、目の辺りに熱が集まっていく。それでも己の口に出すべきは喜びでも悲しみでもないと分かっているから、必死に言葉を探しながら紡いだ。

「家に来ていいって言ってくれたのに、行けなくてごめんなさい」

 虚を突かれたような顔をしたその人は、呆れたように苦笑した。

「……15年ぶりの会話がそれなの?まったく、僕の『娘』は予想外すぎる」

 は微かに笑んだ。

「ひどい、お父さん――

 名を呼ばれた過去の英雄は、朗らかに笑うとの頭に手を置き、再度「よかった」と呟いた。



 の先導のもと案内された先で、は立ち尽くした。小学校の砂場くらいの広さしかないそこは、木々や植物の種類こそ周りと全く変わらないが、頭上の真ん中だけぽっかりと開いていて青空がのぞいている。照らされ黄緑色に輝く美しさがそこにあった。
 道すがらこれまでの経緯を――ナタナエルに召喚された『後』からの出来事をに話していたは、一度言葉を閉じた。天球の紋章がハルモニアにあることは話したが、ルックに会ったことを――彼の立場を、どう伝えればよいのか、それとも伝えないほうが良いのか、判断に困ったからだ。

「どうしたの?」
「あ、いや……その」
「それにしても、ハルモニアか。ロクな思い出ないんだよね。あ、神殿にいたのならルックに会わなかった?」
「うん、会っ…!?」

 驚いてを振り返ると、彼は折れた大木に腰掛け、にっこりと笑っていた。

「……知ってたんだ」
「まあね。といっても、知ったのはつい最近なんだけど」
「目的は」
「ん?」

 両手を限界まで固く結ぶ。

「ルックの望みは」
――私が知っているものと同じなのか。

 は問いを音にせず、小さく頭を振って拳を解いた。自分が何をしたいのか――ルックに会いたいだけなのか、それとも彼の未来を変えたいのか――それすら分かっていないのに、聞いたところで何もならない。
 は言葉を飲み込んだきり俯くをただ見つめていたが、やがて静かに立ち上がった。そうして口を開きかけたところで、彼の声は突如現れた怒声に遮られる。

「――この野郎!何勝手に進んでんだ!道に迷ったじゃねえかちくしょう!!!」

 突然のことにが目を丸くしていると、が深いため息をついて声の主を振り返った。

「あのねえ。目を離すとあちこちフラフラするような奴を待っていられるほど、僕も暇じゃないんだよ」
「いやお前、オレ思いっきりモンスターに襲われてたんだが!かなり非常事態だったんだぞ」
「そうだっけ?……ああほら、君が大きな声を出すからが驚いてるじゃないか」
「え?」

 まくし立てるように抗議していた男が振り返る。見覚えの無いその顔に、は疑問符を浮かべた。
 短い黒髪に黒い目、少年とも青年とも、はたまたそれ以上にも思える風貌から正確な年齢は読み取れない。防具も何も付けていない身軽な服装はどこかの村人のようにも見える。しかし先ほどの会話を思い返してみると、どうもと旅をしている人物のようであり、そんな人間が「ただの」村人であるとは思えない。

「……坊、こいつはオレのこと覚えてないみたいなんだが」
「君、自分の格好自覚してる?」
「んん?…………あ、そうか」

 男はポンと手を鳴らすとの前に歩み寄り、目線を合わせるように少しかがんだ。

「よ、久しぶり。あー、ええと、アレだ。覚えてねえか?同盟軍時代に多少話したんだがな」
「同盟軍の時?」
「そ。ほら、オレ門番とか中庭の警備とかいろいろやってたんだけど……思い出さねえ?」
「…………」

 考え込むが、にとって二月に満たない過去である。すぐに思い当たる人物を見つけることができた。

「広間の門番」
「当たり!ま、15年前だもんな、忘れるのは仕方ない。それにしてもお前変わらないなあ!」
「……っ」
「あれだな、年齢不詳!それか究極の童顔。オレも中々老けない家系でさあ。これでも結構いい年なんだぜ」
「え?あ…う、うん……そう、年齢不詳……」

 釈然としない思いを抱えながらもは頷く。男――かつての「兵士」は、うんうんと首を振った。

「年齢不詳の辛さは分かってるつもりだ、何かあったら相談しにこいよ。……ああ、思い出しても腹が立つ!
 酒場に行けば『10年経ってから出直して来い』と追い返され、ちょっと疲れた顔してたら『もう年なんだから無理しないで』!?こっちにだって事情が――!」

 ゴス、という鈍い音を立て、の棍が男の脳天に落ちる。頭を抑えてうずくまる男を笑顔で見下ろしたは、送られてくる恨みがましい視線を「うるさい」の一言で切り捨てた。

「なんだよ、こいつが落ち込んでるっぽかったから励ましてただけだろ!」
「途中から私情だらけだったよ」

 は素直に驚く。男の言葉が励ますためのものであったこともそうだが、何より会って間もないというのに心情を見透かされていたことへの衝撃が大きかった。

「……そんなに分かりやすかったかな」

 呟くと、男が反応した。

「別に?オレが慣れてるってだけだ」

 ――周りに落ち込みやすい人が多かったのだろうか。そう思うが口には出さず、は男を眺めた。
 正直なところ容姿をはっきり覚えているとは言えないため、こうして目の前で見ていても懐かしさを感じることは無い。どこか見覚えのある顔だというだけである。しかし、同盟軍で半ば孤立状態にあったにとって会話ができる人物というのは非常に貴重で、軍主に付き添って留守がちだったやルック以外に話をした男――兵士の印象は、他の人物と比べたら断然強いものだった。
 そういえば名前を知らないのだなとが思い至ったところで、男がおもむろに話を切り出す。

「で、何で落ち込んでるんだ?」
「………」

 反射的に開きかけた口を閉じ、は沈黙した。悩みの原因を話すことは、ルックの現状を伝えるということである。そこまでは良い。先刻の会話から、もしかしたらは知っているのかもしれないとも思う。だがその後――己はルックを生かしたいのか、それともこのまま彼の行動に見てみぬ振りをするのか――は、つまりが「彼の行動の先にある未来」を知っていると告げることである。未来の知識を持つことがどのような意味を持つのか、にはよく分からない。けれど、簡単に話していいことではないということくらい理解できる。

 そう思うのに、気付けばの口は今にも話し出そうとしていた。
 おそらくこのまま考え続ければ己の心が悲鳴を上げるだろうと、頭のどこか冷めた片隅で考える。自分にとって抱え、悩むにはあまりにも大きい議題に一人で向き合い続けることは思っているより大変なのだと、以前の経験で身に沁みているのだ。
 しかし、未来を話す勇気をは持っていない。――まだ、持てずにいる。
 だから、ゆっくりと出しかけた言葉を飲み込み、開いた口を固く結んだ。

「大丈夫」

 目の前の二人をというよりは、自分自身を安心させるために小さく笑う。
 それを見たは少し悲しそうな顔で、優しくの頭を撫でた。

「相変わらず人に頼らないんだね。――受け入れるから」
「……?」
が何を言おうと、どんな問題に直面していようと、全部受け止めるよ。……この男も信頼して良い。悪い人間じゃないことは僕が保証する。……ねえ、

 顔を上げてを見る。
 己に降りかかった運命に向かい、人々の信頼を勝ち取り、未来を切り開いてきた英雄が――そこにいた。

「――頼って?」

 眩しいほどの自信と、全てを包み込むような優しさでもって言われた言葉に、は息を止めた。
 そっと撫でられた部分から伝わる温かさが全身を巡っていく。

――頼っていいのだろうか。

 は誰かに頼ることが不得手である。一人で何でもやりたがるというより、同盟軍での孤立した環境がその選択肢を排除してしまった。それは行き過ぎれば余計な心理的負担をかけることになり、自身自覚していることでもあったから、必要時には誰かに頼ることを心がけていた。けれど未だ、どのような時、どのようなタイミングで人に頼るものなのか、よく分からない。
 ただ今は、目の前の大きな存在に縋り付きたい衝動だけがあった。

「多分、これを言ったらは怒るかもしれない」
「怒らないよ」
「妄想だって思うかもしれない」
「思わない」
「なんでそんなことで悩むんだって、変な人間だって、人でなしだって思うかもしれない」
「絶対にありえない」
「――私のこと、嫌いになる」
「僕はね、

 はそう言ってを抱きしめ、幼子をあやすように背中をポンポンと叩いた。

「この15年間、一度も君を忘れたことなんてなかった。僕もルックも――ずっと、探していたんだよ」

 その言葉に、は目の前の景色が白んでいくのを認識し、決心した。
 話そう、と。
 ルックのこと、ユンに告げられた未来のこと、自分の悩み、そして――

 『異質』だという己の存在を。





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2010.4.11
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