二年四ヶ月 後編 テニス部部長・幸村精市が緊急入院したという話は、瞬く間に校内を駆け巡った。ただ、その原因については諸説あり、噂が錯綜している状態であった。 曰く、暴漢に絡まれて返り討ちしたものの怪我を負って入院した、曰く、入院したのは実は他のテニス部員で、それは練習による重度のストレスによるものであり、幸村は責任を感じて付きっ切りで看病している、曰く、絶対に治療することの出来ない不治の病に罹患した―― 「幸村君の影響は大きいな」 放課後の生徒会室で、生徒会長がポツリと呟いた。 「普通、赤の他人が病気に罹ったからからといって、こんなに混乱しないわよ。上級生から下級生まで、一体なんなの、これ」 書記が溜息を吐きながら言う。は、心ここに在らずといった表情で会話を聞き流した。 「つまり、生徒にとって幸村君が赤の他人以上の存在だったということだろう」 「全く……部長になってなかったら、来年は生徒会長だったかもしれないのに」 「ははは。だけど――実際、どうなんだ」 生徒会長の言葉に、書記は手元の書類を一瞥し、首を振る。 「そんな、あからさまにプライバシーに関わること、いくら生徒会とはいえ教師が教えるわけないでしょう。ただ、周囲にいた生徒の話では、歩いていたら急に立ち止まって、ものすごい汗をかいた後に倒れたらしいわ」 「怪我じゃないんだな。検査入院か?」 「それにしては長すぎる気がしない? ……もう、一ヶ月経つもの」 一ヶ月、という部分で、の体がわずかに揺れた。それを見て、生徒会長と書記は互いに顔を見合わせ、困ったように肩をすくめる。 「見舞いに行っていないというのは本当か?」 問いかけに、ややあって答えが返る。 「はい」 「あんなに君を慕っていたのに、流石に冷たすぎやしないか?」 「……そう、ですね」 何気なくかけられたのだろう言葉が、の胸に重くのしかかる。 あれから――幸村が倒れたと聞いた日から一月。は一度も、幸村が入院している病院には行っていない。テニス部員はもちろん、クラスメイトや教師に至るまで見舞っているという彼の病室に、は近づけないでいる。 幸村が倒れてからというものの、は今まで以上に生徒会の仕事に打ち込むようになった。休憩を挟むことも、テニスコートを眺めることも無く、ただただ引継ぎと選挙の準備に邁進したのである。 その姿に他の生徒会役員はそろって眉根を寄せ、時折こうして見舞いを促してくるものの、はただ力ない笑みを曖昧に浮かべるのみで、頑として頷かなかった。 その心情については、自身、全てを理解できてはいない。ただ、幸村のことを考えた際に、心のどこかで得体の知れぬ恐怖が頭をもたげることだけは気付いている。 事実、怖いのだろう――。 直球であったが、そうとしか言えなかった。 にとって幸村は、色々な意味で特別な人物である。告白に対して否やの返事をしても、テニスが嫌いだとカミングアウトしても、に関わることを止めなかった。の前に前触れ無く現れ、他愛ない話をしては去っていく。 いつだって穏やかで、そのくせ有無を言わさぬ圧力でもってを会話に引きずり込む。当初こそ苦痛だったテニスプレーヤー・幸村との会話も、彼がテニスの話題を出さなくなったこともあって、最近では幾らか慣れてきていたという自覚もあった。 ――そう。 幸村の存在は既に――それとも最初から、と言うべきか――にとって無視できないものとなっていたのである。 そしてそれは、自惚れでもなんでもなく幸村も同じなのだろう。あれだけあからさまな態度をとられて、知らぬ存ぜぬを通せるほど、は無知でも薄情でもない。 (……でも、行けない) 行くことが出来ない――いや、『行ってはいけない』のだと、は心の中で、静かに繰り返した。 もしも見舞いに行ってしまったら。 (私は、彼に止めを刺してしまう) それだけは、何としても避けたかった。 それがに残されている、最後の防衛線だった。 幸村がどんなにカリスマ性を持っていたとしても、そこにいない限り、否応なしに人の記憶から薄れていく。 入院から二ヶ月が経ち、立海大学付属中学校では生徒会長選挙が行われた。数人の立候補者が校門に立ち、校内放送で訴え、そして壇上にて演説を行う。開票は速やかになされ、中旬には当選者が掲示された。 新生徒会長の朝会演説の後、生徒会役員の選定が行われ、冬休み直前には来年度の役員が揃った。 生徒会室横の会議室で、旧役員と新役員が向かい合わせに腰掛け、全体の引継ぎを行っていた。 一年かけて行われる行事と、それに対しての生徒会の役割、生徒会報の作成、提出書類の種類等、大まかな部分の引継ぎが行われた後は、それぞれ役員ごとに分かれてのミーティングとなる。 副会長であるは、来年度の副会長である男子生徒と生徒会室に移動し、各書類や仕事についてまとめたノートを参照しながら引継ぎを行う。仕事の多くが生徒会長の補佐や代行であるため、時折会長たちと話し合いながら行われたそれは、下校時刻ぎりぎりまで続けられた。 分からないことがあればいつでも訊ねてほしいと言い残して生徒会室を出たの背に、聞きなれない声がかけられる。 「先輩」 振り向いた先にいた人物は、新年度の書記に選ばれた二年生、柳蓮二だった。 「なんでしょうか」 「少々お聞きしたいことが。……ご一緒させていただいても?」 「構いません。行きましょう」 ありがとうございます、と丁寧に頭を下げた柳に、は首を傾げた。見覚えがあるような気がしたのだ。 はたしてその疑問は、彼とともに下校する途中で簡単に氷解した。 「テニス部……なのですか」 「ええ。先輩のお噂は、かねがね精市……部長から。話というのも実は彼に関することなのですが」 「……はい」 「単刀直入に言いましょう」 そう言うと柳はピタリと足をとめた。やや後ろを歩いていたもつられて立ち止まり、目を伏せた。 「何故、見舞ってやらないのですか」 それは責めているような物言いだったが、淡々と話す柳の語調からは、何も読み取ることが出来ない。 は伏せた目を上げると、高い位置にある柳の顔を見上げ、苦笑――しようとした。結局表情はあまり変わることなく、泣き出しそうな、諦めたような、様々の感情が交じり合った様相だけが浮かぶ。 「俺から見て、精市は貴女に対して常に好意を示していたようでしたが……貴女にとっては、感情を動かす余地も無い、単なる押し付けでしかなかったということでしょうか」 「そんなことはありません」 「……? では、何故。病院に何かトラウマでも?」 「いいえ」 分からない、というように顎に手を当てて首を傾げる柳の姿に、は考える。 会話から判断する限り、柳という人物は幸村と親しい間柄であるようだ。ならば、本心を伝えることで得られるメリットが一つだけある。 「私はテニスが好きではありません」 「……そうでしたか」 「ええ、ですから私は、幸村君のお見舞いに行かないと決めたのです」 「意図がよく分からないのですが」 は今度こそ苦笑した。 「今の幸村君に会えば、私はきっと、『テニスを辞めて療養に専念しろ』と言うでしょう」 だから行けません、と言いきるに、柳は沈黙を返した。おそらく理解したのだろう。 現状においてが最も優先するのは幸村の体調であってテニスではない。切原に負けて以来、テニスはの中で、大きな存在になり得なくなったからだ。 対する幸村は、おそらくテニス復帰を目指して治療・療養をするつもりでいるだろう。幸村にとってテニスがどんな存在なのか――それが分かるくらいには、は彼と同じ時間を過ごしてきた。 どうあっても交わらないのである。 同時には、自分の考えが幸村にとっての最善ではないことにも気が付いていた。幸村はテニスのために闘病するだろうし、おそらくそれこそが寛解(かんかい)への最短ルートであろう。 ならば、そこに入る余地は無い。の存在はただの障害物で、向き合うことは迂回と同義だ。 言葉にしたら、まるで胸に穴が開いたかのように空虚な、それでいて呆れるほど清々しい気持ちになった。 「ですから、万が一幸村君が私の名を出すようなことがあったら、私が来ることはないと伝えてもらえますか」 「……分かりました」 確かにその方が良いようだ、と柳が呟いた後、二人は無言で家路を行く。 途中、病院へ向かう柳と別れ、は一人で夕闇に染まる通学路を歩いた。 幸村を思うと、胸が引っ掻き回されるような酷い痛みを覚える。 これは幸村の気持ちに向き合ってこなかった罰だろうか――そこまで考えて首を振った。自分の気持ちは告白を受けた日に既に伝えている。――けれど。 変化から目を逸らしていた自覚はあった。己の気持ちは初対面のときからすでに幸村のもとにあり、時間経過とともに別の何かへと変質していった。そのことも、それが何であるかもは十分に理解していた。ただ、認めるわけにいかなかったのだ。 テニスを愛する彼の隣には、同じくテニスを愛する誰かが立つべきだと強く信じていた。は最初から不合格だった。ああ、しかし。 過去に囚われて逃げてばかりいるから、大事な時にはもう、目の前には何も無くなっているのである。 「…………本当に、馬鹿ね」 しかし、それこそが『望んでいたこと』だった。あの夏の告白から――いや、入学式の桜の下で、彼を見つけた時から――の恋は終わっていたのである。いい加減、認めなければならない。 だが、ことここに至って、はまだ知らなかった。 『幸村精市』が、予想の上を行く人物だということを。 □ 時は流れ、は中学校を卒業し、付属の高等学校へと進学した。とはいっても敷地自体は隣接していて、生徒会の仕事や折々の交流会等で行き来していたこともあり、環境に戸惑うことは無く、入学式を終え、オリエンテーションを受け、新たなクラスメイトとともに過ごす日々を送った。気付けば季節は既に初夏、折りしも丁度一年前、が幸村から告白を受けた頃と同じ時期である。 立海中テニス部は部長・幸村の不在にも関わらず『常勝』を貫き、現在行われている中学校対抗テニストーナメントの神奈川県大会においても、一度も負けることなく優勝を決めたという。 高等学校屋上のベンチでぼんやりと空を見上げていたは、ちらと視線を横に向けた。高等学校の屋上庭園は全て園芸部が管理しているが、昼休みも終わりにさしかかったこの時間に手入れをしている人間は誰もいない。加えて、座っているだけで薄っすら汗が滲む陽気である。屋上には以外、誰もいなかった。 ――中学校の屋上庭園は、今は誰が手入れをしているのだろうか。 はふと、そんな事に思い至った。以前は幸村が一角を掌中に治めて一人で手入れしていたが、彼が入院して以来屋上に上がっていなかったこともあって、その後の様子は全く知らない。 (……行ってみようか) 何となく興味が湧いてきて、中学校の校舎に視線を向けた――当たり前だが、花壇は見えない。 放課後に少し寄ってみようと思い立つと、タイミングよく予鈴が鳴り、は屋上を後にした。 屋上庭園は荒れていた。といっても幸村が管理していた部分だけが、である。生い茂る雑草の中に点々と、彼が育てていた花が見える。 どうやら水遣りだけはされているらしいと、少し湿った土に触れながら考える。美化委員なのか園芸部員なのかは分からないが、以前の名残がわずかでも残っていたことに、はほっと胸をなでおろした。 オレンジに染まる夕暮れの屋上に、部活を行う中学生の喧騒が小さく届く。そろそろ下校時刻が近づいているのか、声はだんだん小さくなっていく。 帰らねばならないだろうと思いつつ、何となく花壇から目を離せずにしゃがんだまま眺めていると、突然視界が翳る。夕陽が遮られているようだ、と背後を仰ぎ見れば、見慣れた人物が佇んでいた。 「……ねえちゃん?」 切原赤也である。緑色のジョウロを片手に下げ、心底驚いたように目を丸くさせている。 ああ、彼が水遣りをしていたのか――と納得したは、幼馴染のいじらしさに表情をゆるめる。立ち上がって向かい合うと、特に示し合わせるでもなくジョウロを受け取る。ズシリとした重さのそれを両手で支えると、少しずつ花壇に水を撒いた。 「水遣り、赤也がしていたのね。頼まれたの?」 誰に、とは言わない。切原が首を横に振るのが視界の端に映った。 「そうなの。偉いわ」 「…………ねえちゃん」 「幸村君の花がちゃんと残っているのは赤也のおかげね」 「ねえちゃん」 「彼が退院したら一緒に草むしりも――」 「――ねえちゃん!!!」 突然の大声に、は驚いて体ごと振り返る。切原は両手の拳を握り締め、俯いている。その肩がわずかに震えているのを見て、ただ事でない事態だと感じたはジョウロを床に置くと切原の傍に歩み寄った。 切原は俯いたまま、小さく言葉を発した。 「何も聞いてねえの?」 「……何のこと?」 問えば、切原は困ったような、泣き出しそうな、どちらとも付かぬ表情を浮かべる。 「部長が」 「幸村君が?」 「……手術、するって」 咄嗟に、は反応することができなかった。俯く切原を見やり、もう一度言葉を反芻する。 「……手術? ……そんな」 思わず呟いた言葉に、切原が焦る。 「あ、で、でも柳先輩が、ええとすげー頭の言い先輩なんだけど、手術の成功率は高いって言ってたし! だから治るよ、絶対……」 窄められた語尾に、目の前の幼馴染の不安が伝わってくる。は、次第に大きくなる心臓の鼓動を感じ、思わず制服の胸元を握り締めた。 幸村が病気で入院していることは知っていた。他に類を見ない症例で、治療法が確立されていないものだということも、学校中に蔓延する彼の噂が教えてくれた。けれど、『手術』をするとは思っていなかった。 今までの身近にはあり得なかった大きすぎる現実に目眩がする。 だが、それが幸村の選択なのだろうということは何となく分かった。内科的治療と外科的治療、彼の症例に対してどちらがより有効なのか、医療知識のないに判断することはできなかったが、おそらく、手術をして得られる結果が勝ったのだろう――『テニスへの復帰』という、ただ一つの論点において。 ――だが。 「あの人……まさかとは思うけれど」 は戦慄した。――この時期に、手術。嫌な想像が頭に浮かぶ。あり得ないと思いながらも、相手の性格上、思い浮かんだ仮説の当てはまる確率は限りなく高いと確信する。 「今年の大会、出場するつもりじゃないでしょうね……!?」 え、出るよ、当たり前じゃん、と何の疑問も持たずに返した切原に、地に手を付きたい気分になった。 一般に、手術が行われるためにはいくつかの条件のクリアが求められる。まず、手術を受けることができる状態であること。やむを得ない場合を除き、医師の説明や本人・家族の意思決定、採血等の様々な検査を経てから決定されることが一般的だろう。 そして、それらをクリアして手術を受けてからも患者には様々な制限が付くことになる。手術の種類によってはICUに入室することも少なくないし、術後も痛みや炎症反応、創部の状態といったものに対して治療が施される。医師の許可を経て退院に至るまでに一体何日かかるというのか。 今は日帰り手術や二泊三日程度の手術もあると聞いているが、幸村がすでに数ヶ月入院していること、また切原の表情から、そう簡単な手術でないらしいことは予想できる。ならば、術後の経過も相応に慎重を期すことになる可能性が高い。 特に医療知識に秀でているわけでないが書籍や映画等からの知識で必死にシミュレートした予想図は、幸村の無茶を裏打ちする結果に終わった。 『幸村精市』は、それなりに聡い。それは成績やIQといった物差しではなく、こと自分と限られた周囲の事に関してのみ、非常に察しが良いという意味である。 医師が説明していないはずがない。家族が止めないはずもない。彼が――気付かなかったわけがない。 一ヶ月後の関東大会、そして二ヶ月後の全国大会。 常識的に考えて、長期間の入院を経て決定された手術を受けた人間が出るべきものではない。 だが、幸村ならばやりかねない、とは確信していた。 あれだけテニスに傾倒していて、責任感も強い人間が、中学最後の、しかも自身が部長を勤めるテニス部の大会に出たくないはずが無いのだ。 「……俺、そんなこと全然考えてなかった……手術が成功したら、すぐに全部元通りになるって……」 の考えを聞いた切原が呆然と呟く。 その姿を目の端に捉えつつ、暮れる太陽を見つめていたは、一度深呼吸をすると一気に吐き出し、どこか吹っ切れたような、妙に毅然とした態度で切原に向き直った。 「――赤也、病院の場所を教えてちょうだい」 「へっ?」 「幸村君に会ってくるわ」 「……! で、でも、柳先輩から、ねえちゃんだけは病院に近付けるなって……」 慌てたような切原の声に、はフ、と優しげな微笑みを浮かべた。その、どこか懐かしい笑顔に――後に、小学生の頃、自分にテニスを教えていたがよく浮かべていた表情だと思い出す――一瞬呆け、次いで頭を撫でる手の感触に意識を取り戻した切原は、よくわからない状況にますます困惑を募らせる。 「大丈夫よ、赤也」 けれど、当たり前のような気軽さで言われた言葉は、確かに切原を安心させた。 彼もまた不安だったのである。見知った先輩の突然の入院、部長不在のままの大会、そして手術――。 例えの真意が、切原が本当に欲した所とは全く違う場所にあったとしても、それは確かに、今、切原が最も欲しい言葉であった。――大丈夫。 幸村精市は、立海テニス部の部長は、赤也の目標は――消えない。 くしゃりと表情を歪ませて抱きついてきた切原の背を優しくたたきながら、は忌々しげに、病院のある方角をにらみつけた。 金井総合病院五階、神経内科病棟。 淀みなく歩を進めるの後ろに、戸惑いを露にした切原が続く。ナースステーションで病室を教えてもらい――後に、切原に聞けば早かったと思い至る。もまた混乱していたのだ――ドアの横に『幸村精市』のプレートが掛けられた一室にたどり着く。現在の時刻は十九時。面会時間は二十時まで。身内でもない人間が訪ねるにはやや遅い時間である。そのことについて思うところがなかったわけではないが、それ以上の衝動がを突き動かしていた。 意を決してノックする。「はい」と、静かな声で返事があった。 「失礼します」 「……し、失礼しまーす……って柳先輩、まだいたんスか」 の後、恐る恐るといった風に声を掛けた切原は、ベッドサイドの椅子に腰掛ける柳を見て驚く。 柳は切原に柔らかく笑み、次いでに目を留めると、得たりといった様子で頷いた。幸村はベッドの背もたれを高くして上体を起こしたまま、突然の訪問者の姿に唖然としている。 「こんな時間にすみません。文句は後からいくらでも受付けます。それから、柳君にも。――ごめんなさい、以前あんなことを言ったのに、結局来てしまって」 「大方予想通りですのでお気になさらず」 「……やっぱり、赤也に花壇の水遣りを唆したのは貴方なんですね?」 「まあ、そういうことです」 当人同士のみ納得する会話を繰り広げ始めた二人に、幸村と切原は顔を見合わせ、首を傾げる。 ――と、会話を終えたが、ぐるりと病室を見回して、珍しく、心から困惑した表情を浮かべて幸村に話しかけた。 「随分、綺麗な病室ですね」 「え、あ、うん……明日、外科病棟に移るから……」 言いにくそうに、視線をやや下に向けて答えた幸村を見たは、ふと、ベッドやサイドテーブルの上に広げられた書類に気付く。少しベッドに近づいてみると、それが、先日行われたテニス大会のデータや、今後のオーダーの類であることが分かる。反対に、テニスボールやラケットといったものは見当たらない。 ――それしか、できないのだろう。 練習を見に行くことも、ましてや指導など、どう考えても出来る状態ではない。ならば紙面のデータから皆の様子を読み取るしかない。それはどれほどもどかしいことだろう。 だが、そう理解すると同時に、病棟の移動を明日に控えてまでテニスを気にするのかという呆れが沸き起こり、両者は一瞬にしてせめぎ合い、相殺する。 は息を吸い込んだ。病院に来たのは、そんな感傷に浸るためではない。真っ直ぐ幸村を見つめ、視線がぶつかった瞬間、口を開いた。 「――少なくとも今年はテニスをやめて、療養に専念なさい」 幸村の目が大きく開く。それは、が最も言いたくない言葉だった。 「……せんぱ――」 「いつ手術が行われるのか知りませんが、少なくともたった二ヶ月で復帰することは不可能です。貴方、何ヶ月入院しているとお思いですか。体力、筋力、技術……間に合うとでも思っているのですか」 「…………」 「無理をした結果、傷が開いて大変なことになる可能性だってあるんです。 私は医療知識に明るくありません。無責任なことを言って申し訳ないと思いますが、せめて今だけは、体の回復を第一に考えてください。無理はしないで、どうか――」 ――お願いだから。 震える声で紡がれた言葉に、思わず切原が駆け寄りそうになる。――が、いつの間にか横に来ていた柳の手が肩を掴み、立ち止まった。 首を振る柳に、切原は悔しそうに視線を逸らす。 幸村はを見て、次いで病室の入り口に立つ柳と切原を見やった。最後に、ピクリとも動かない己の下肢を見つめ、数秒。上げた視線はいまだかつてないほどの激情を孕んでいた。 「いやだ」 の表情が、今にも泣き出しそうなくらいに歪められる。 「――幸村君」 「いくら先輩のお願いでも、それはできない」 「でも」 「先輩」 「……なんでしょうか」 瞳に宿る激情に身を任せるように、一寸の躊躇もなく、幸村は口を開いた。 「俺、テニスが好きなんだ」 自然に浮かんだのであろう、まるで慈しみ、愛おしむような幸村の微笑に、心臓が壊れそうなくらいに痛み出す。痛くて痛くて、どうしようもできず、の瞳に涙が溜まる。 どうしようもないほど愚かだ。下手をすればこの先の可能性を捨てることになるかもしれないのに。 それでも。たとえ、後悔することになっても。 ――その言葉が、聞きたかった。 「……馬鹿ですね」 「うん、バカなんだ」 幸村の笑みに、も薄く笑う。困ったように眉尻を下げて、涙を零さぬよう必死に取り繕う。静かに幸村のベッドへ歩み寄り、心の赴くままに腕を伸ばす。 抱きしめた幸村は予想以上に大きく、が包み込むことなどできはしない。幸村の腕はうまく持ち上がらないのか、パタンと軽い音を立てて体の横に垂れた。今は、それが都合良い。 「――いってらっしゃい、気をつけて」 え、と幸村の驚く声がして、やがて肩に柔らかな温かさが広がる。体に伝わるわずかな震えが、それが何なのかを示していた。暫く経ってからゆっくりと体を離し、顔を覗き込めば、目を腫らした幸村はバツが悪そうに顔を背けようとして、何かに気付いたのか、を凝視した。その視線に、は、己の涙腺が限界を迎えていたことを悟る。 ――ああ、何だ。 幸村が嬉しそうに呟いた。 そのまま面会時間が終わるまで幸村の病室に残ったは、いつの間にか廊下に出ていた柳と切原と共に岐路についた。病院の時間外受付から外に出て少し歩いた辺りで柳が口を開く。 「テニス嫌いは克服したのですか」 は困ったように笑んだ。 「いえ、おそらくまだ」 「では何故、病院に? それが解決されない限り、精市と貴女の関係は進展しないと思っていましたが」 「…………テニスが」 「テニスが?」 フ、とは遠くを見た。 ――テニスが嫌いだ。 ラケットを持つことも、試合をすることも、テニスプレイヤーも、テニスに関わるもの全て。 二度とあんな思いはしたくなかった。才能と言う壁を前に、絶望に堕ちる絶望感が怖かった。 けれど一番忌避していたのは他でもない、自分自身の醜さだ。 負けて、悔しくて、その場の衝動に身を任せて――ふと気が付いたとき目の前にいたのは、両目から大粒の雨を降らせて泣きじゃくる、年下の幼馴染だった。 その光景に己の仕出かしたことを悟って、は、握りしめていたラケットを手放したのだ。 指先が、酷く冷たかったことを覚えている――。 「――テニスが、嫌いでした。できればもう、二度と関わりたくないとさえ思っていた」 ――先輩。 「だけど、あの人……幸村君は、あろうことか、そんなことお構いなしにテニスの話題を振ってきた」 ――おれ。 「私がそれに、どれだけ心乱されるか知りもしないで。嬉しそうに。楽しそうに。心底、愛おしそうに」 ――テニスが、好きだよ。 「……テニスの話題を出さないようにしたのは、おそらく、柳君の意見なのでしょう?」 「…………まあ、否定はしません」 「つまり貴方がアドバイスしなければ、彼はテニスのことばかり話していたのでしょうね」 「…………」 気まずそうに視線を逸らす柳に、は小さく笑う。 意外なほど爽快な気分だった。抱えていた嫌悪も憎悪も何もかも、幸村がテニスへ向ける感情の前には、等しく無価値なのだと理解した。 「諦めました。良い意味で」 「…………」 「そういうことです」 はそれ以上語らなかった。ただ、穏やかに微笑む。 それまで黙っていた柳が、いささか呆れたように言葉を投げた。 「延々引き摺ってきた割には潔すぎる引きですね」 「違っ……柳先輩、それは俺が……っ!!」 慌てた様子で声を掛ける切原に、年長の二人は首を傾げる。 しかし、それ以上言葉が続けられることはなく、切原は拳を握り締めて俯く。その様子を見ていたは、思案するように一瞬だけ目を瞑ったあと、静かに声を掛けた。 「ごめんなさい」 「え?」 「赤也にも、随分酷いことをしてしまったわ。あなた根が優しいから一度も私を責めなかったけれど……幼いあなたにあれだけの暴言を吐いたのだもの、傷つかないわけがないわよね。本当に、ごめんなさい」 「…………違う、違うよ、ねえちゃん。俺、あのとき、本当は……ねえちゃんを負かして、ねえちゃんが泣いて、俺、おれ、本当は嬉――」 ゆっくりと伸ばされたの手に、切原は一瞬ビクリとして、途方に暮れたように視線を上げる。おぼろげな記憶と重なる姿に、幼い頃のように――柔らかな髪をゆっくりかき混ぜ、数度撫ぜた。 「言わなくていいわ」 「……っ」 「それで赤也を責めたりしない。絶対に、この先もずっと。――あなたに感謝してる」 ――離れずにいてくれて、ありがとう。 本心から告げられた言葉に切原は目を見開いてを見る。急に気恥ずかしさが湧き上がり、は照れたように苦笑して手を離す。 がテニス嫌いを主張していても『テニスプレイヤー』として隣に立ち続けたこと。それが切原なりの償いだったのか、はたまた荒療治だったのか、口を噤ませてしまった今は知る由もない。 けれど、幸村精市の存在が己の目をテニスコートに向けさせ、切原赤也によってテニスに向き合う切欠が与えられたことは事実である。今は、それが分かっていればいい。 切原の頭から手を離し、は振り返って歩き始めた。二人も合わせて付いてくる。 「あの調子なら意地でも復帰するでしょう。柳君、彼がリハビリで過ぎた無理をしないよう見ていてください」 「もちろんです」 「……あとは、どうやって振り向いてもらうかよね。ここまできたからには私にも意地があるわ」 「………………はあ!? ちょ、姉ちゃん、冗談だよな? そんな鈍感じゃなかったよな!?」 「ええ、そうね」 何を今更、とでも言うかのように、は続ける。 「だけど一度は断った身よ。彼が愛してやまないテニスだって何度も否定してきたもの。その上入院してから今までお見舞いにも行かなかったし……結局とどめの一言も言ってしまったもの。これでまだ私のことを好きでいるというのは現実的にかなり難しいと思うの」 「で、でも、さっきの病室での態度! 抱き合ってたじゃん! あれ絶対脈あるぜ!?」 「……術後二ヶ月でテニス復帰なんて、主治医の先生が良い顔をなさるはずがないわ。たぶん、ご両親も反対されているのではないかしら」 「流石ですね、先輩。その通りです。ちなみに俺も反対しています」 「でしょうね。……で、幸村君は数少ない『賛成派』に回った私を歓迎した、と。あれはそれ以上の意味を持たない、ただのハグよ」 「そんな……」 「なんて」 「……?」 あたふたと慌てる切原の姿に小さく吹き出し、は微笑んだ。一歩離れたところでは柳がくつくつと笑みをこぼしている。 「冗談よ。今はそんなことより、手術に向けて体調を整えてもらうことだけ考えないと。あとは……そうね、彼がリハビリに勤しんでいる間に女を磨いておこうかしら。もしかしたら彼の退院前に彼氏ができるかもね」 「ねえちゃん、ひどい……」 むくれた表情で切原が呟く。は笑うだけで返事をしない。切原はそんな幼馴染の後姿をしばらく眺めたあとに溜息を吐いたが、ふつふつと湧き上がる喜びにゆるんでいく口元を抑えられず、やがて突進するように小さな背へとぶつかっていった。思わぬ衝撃に硬直した体の一部――手のひらを己のそれで包み、繋いだ手をぶんぶん振り回しながら歩を進める。 「どうしたの、赤也」 「なんでもない! 俺、今日の晩飯ねえちゃん家で食べようかな」 「あら、じゃあお母さんに連絡しておくわね。あなたもちゃんと家に連絡するのよ」 「分かってるって」 上機嫌な切原に首を傾げつつも、はその理由に行きついていた。 あの日、テニスで敗北してから約五年――テニスを目にする度、切原と顔を合わせる度に苦しんでいたと同様、いやそれ以上に、この純粋な幼馴染は辛い思いをしていたのだろう。幸村の入院や手術にしても、『先輩』を大層慕っている彼とって身を引き裂かれるほどの出来事であったに違いない。 その負担が今日、ほんの一部だけとはいえ解消されたのだ。嬉しくないはずはない。 微笑ましいと思う。同時に、申し訳なさと後悔が溢れてくる。 だからは、握る手にほんの少し力を込めた。 ――返される手のひらの温度こそが返答だった。 □ それから。 幸村精市の手術は大きな問題もなく終了した。は三日に一度は面会に訪れるようになり、本人からの強い希望で手術日――平日ではあったが午前中からの長時間の手術であったため、終了したのは夕方だった――にも病院を訪れた。そこで幸村の両親と面会し、温かな微笑みでもって迎えられ困惑したのは記憶に新しい。どうも彼は家でも病院でもを話題に出していたようだった。外堀を埋められる感覚に、背筋が寒くなったことは言うまでもない。 リハビリが行われている間は敢えて面会に行かなかった。きっと幸村は半端なく無茶をしているだろうから、ストッパー役は柳に任せ、見ないふりすることにしたのだ。見放したともとれる行動だが、真意は逆である。――リハビリしている姿を見てしまえば、殴ってでも止めてしまうだろう自信がにはあった。 季節は夏。セミの大合唱が響き渡り、容赦のない日差しがじりじりと肌を焼いていく。アスファルトから返される熱気が陽炎を作って視界を奪う。 は、中学テニスの全国大会決勝の場に立っていた。 『ゲームセット! 7−5、ウォンバイ・越前! 優勝は――青春学園中等部!』 フェンスの向こう側から歓声が響く。の周りには呆然とする応援団と絶句するテニス部員がいる。ベンチ付近のレギュラー陣の背が心なしか震えているように見えた。 そんな中でただ一人、俯くことも、屈辱に嘆くこともせず、コートの真ん中に堂々と立つ人物がいる。 幸村精市である。 今しがた敗れたばかりの彼の背は、それでもなお誇りを失わないかのようにぴんと伸びていた。 対戦相手であった青いジャージの少年――聞くところによるとまだ中学一年なのだそうだ――が何事かを幸村に伝える。さすがにの元までその声が届くことはなく、また、背を向けている幸村の表情もうかがうことはできなかったが、なんとなく、笑っているような気がした。 レギュラー陣が幸村へと駆け寄り、その姿を覆い尽くす。ちらりと見えた幸村の表情は、笑っていなかったが、どこか安堵しているようでもあった。 閉会式が終わり、学校の垣根を越えて集まっていた中学生たちがまばらに帰宅し始めてからしばらく。流れに合わせるように会場を後にしたは、立海大付属中の屋上庭園へと足を運んでいた。夏休み中であるが各種部活動のために解放された校舎と、生徒会役員であったために教師に顔を覚えられていたことが幸いした。とはいえ中等部と高等部では制服が異なるため、すれ違う人々に好奇の目を向けられたが。 数か月前まで荒れていた一角は、今では見違えるように整理され、植えられた植物も以前と同じ美しさを湛えている。色鮮やかな夏の花々が風に揺れる。 幸村が手を加えるようになったのだと、一目で分かった。 様々な出来事があった。辛いことも苦しいことも嬉しいことも、全てが凝縮されたような二年四か月。 もしも、とは考えた。あの日――入学式の日、教師と受付がコサージュの装着に失敗しなければ。解決策としてこの花壇の存在を思い出せなければ。己が屋上庭園を訪れることはなく、幸村を見つけることもなかっただろう。幸村の姿を目で追うことも、まして彼の背後にあるテニスコートを視界に入れることなどなかったはずだ。 そう考え、全ての起点はまさしくこの場所であったのだと知る。 だから、ここへ来た。 今日の試合が、一つの結末だった。 対戦相手である少年は、強者たる幸村が取りこぼしてきた様々なものを一切の容赦なく叩きつけてきた。剛速球で繰り広げられる会話と感情のドッヂボールの中、幸村が本気で呆けていたのが何となく可笑しくて、嬉しかった。きっと柳あたりは気付いただろうが、あの一瞬、彼は部長でも王者でもなかった。ただの、幸村精市だった。――幸村精市として、在ることができたのだ。 よかった、と思う。 ラケットを手離したには絶対にできないことを、かの少年は見事にやってのけた。幸村がそれをどう感じたかについては知る由もないが、少なくとも重圧は一つ、除かれた。 幸村はこれからもテニスを続けていくだろう。ほんの少しの妥協もなく、普段の穏やかさとは裏腹な厳しさでもって、周囲を圧倒していくに違いない。 その姿を思い浮かべ、は小さく笑った。陰で魔王などと渾名される彼の邁進は、それは清々しいものになるだろう。 ――もう、嫌悪感はなかった。 どのくらいそうしていただろうか、風が冷えてきて、そろそろ帰ろうかと頭の隅で考えたとき、背後から伸びてきた手が、ふわりとの体を絡め取った。後頭部と背にかたい感触があり、顔の横に柔らかな髪の毛が降りてくる。微かに汗のにおいが鼻腔に届いたあと、は強張っていた体の力を抜いた。 「幸村君」 「…………」 打ち上げとか反省会とか、あるんじゃないの。そう言おうとして、背後の体が震えていることに気が付く。 言葉を続ける切っ掛けを失ったは、自身の体を反転させ、後ろにいた人物――幸村に向き直ると両手をその背に回した。あやすように背を撫でながら、いつの間にか随分開いていた身長差に内心驚く。 『常勝』を掲げる立海大付属中テニス部において、一年生でレギュラーの座を勝ち取った。 上級生が引退していない中で、部の歴史上初めて、二年生で部長に就任した。 二度の全国大会優勝を経験し、三度目に向かう最中、病に倒れた。 そうして今、全てを背負って挑んだこの試合で、自分より幼い少年に、おそらく、中学校に上がってから初めて――負けた。 ああ。 幸村は今初めて、と同じ感情を共有することができた。 王者であった幸村と、敗者だったの、絶対に交わることのなかった一線は軌道を変えた。 「先輩」 「なにかしら」 「負けちゃった」 「そうね」 「悔しいなあ。悲しいなあ。……きつい、なあ」 「…………」 「それでも」 抱きしめてくる腕から力が抜ける。体を離したは、ほんの少し赤くなった幸村の目を見上げた。 「それでも、俺はテニスが好きだよ」 それは、かつてが出した結論とは異なるものだった。 どこまでも真っ直ぐ見つめてくる視線を呑みこむように目を閉ざし、は口角を少し上げた。 自然な動作で繋がれた手は、存在を確かめるように二、三度組み換えされる。 ややあって、幸村の口から小さな呟きが零れた。 「……先輩が見ていた世界も、案外、悪くないよ」 そう、とほとんど吐息のような返答をして、ふと、足元に伸びる影の長さに気付いたは口を開いた。 「そろそろ帰りましょう。もうすぐ施錠されてしまうわ。あなたも、行かなきゃいけないところがあるでしょう」 「……うん」 するりと繋いだ手を離し、屋上の扉へ手をかけたところで、立ち尽くす幸村に声をかける。 「幸村君」 「……なに?」 「一年二か月前の返事を改めてしたいのだけど、いいかしら」 「……?」 「私、あなたのテニス、好きになれると思うわ」 「……っ、それって」 目を丸くする幸村を尻目に素早く扉を開けたは、そのまま階段を全速力で駆け降りる。 数瞬の後、足音は二つに増え、やがて同時に停止した。 真夏の夕陽が沈んでいく。 back top next |