二年四ヶ月 蛇足 夏休みのある日、市民図書館にて。 「聞きたいことがあるのだけど」 「どうしたの、先輩」 「あなた、いつ私のことを好きになったの」 「え?」 「いえ、思い返しても、それらしき切っ掛けが見当たらないから」 の問いに、幸村はあー、とかうー、とか唸ったあと、誤魔化すように苦笑した。 「先輩は?」 「……?」 「先輩はいつ俺のことを好きになったの? 俺のアプローチで有効だったのってどれ?」 「…………」 気恥ずかしさから苦し紛れに作った逃げ道のつもりだったのだが、案外真剣に考えているらしいの様子に、幸村はごくりと息を呑んだ。 「いつ……と言われても。半分一目ぼれのようなものだったから」 「……えっ」 「最初に見たのはあなたの入学式の時ね。テニスコートを見ていたでしょう。その時に」 「ちょ、ちょっと待って! え、入学式の時って、まさか、あの時」 「ええ。その時は自覚していなかったし、まさか自分が一目ぼれするとも思っていなかったのだけど……思えばあれからあなたを目で追うようになったのよね。恋愛感情を否定していたのは多分テニスが嫌いってことにこだわっていただけ…………どうしたの」 机に突っ伏すように顔を隠した幸村に、が怪訝な視線を向ける。しかし真っ赤に染まった耳を見て、照れているだけらしいと理解し、頷いた。 「今まで言っていなかったものね。ごめんなさい、混乱させてしまったわね」 「ち、違……いや、違わないんだけど、その……」 「……大丈夫?」 「…………うん。……でもごめん、しばらくこっち見ないで。俺いま、すごくかっこ悪いから」 相変わらず顔の大部分を隠したまま、バツが悪そうに目を逸らす幸村の姿には微笑む。 「精市君は恰好良いわ、いつだって」 「……――っ」 今度こそ羞恥に撃沈した幸村は、いよいよ頭を抱えて悶絶する。 ――けれども本当は、恥ずかしいだけではなかった。 あの日。入学式の日、幸村がテニスコートを見学しに行ったのは偶然だった。予定より早く到着してしまい、式の開始時間まで間が空いてしまったので時間を潰すために眺めていたのである。といっても体育館からそれなりに距離のあるテニスコートまで行ったのでは式に遅刻する可能性があるので、結果として、体育館周囲に植えられた桜の下という何とも中途半端な位置からの観察にとどまっていたのである。 誰もいないコートを眺め、いずれあそこに立つのだと確信する。このころの幸村はすでに、同年代や近しい年齢の者に対して敗北することはなかったから、それは目標というよりも単なる事実確認のようで、特に感慨を抱くことは無かった。 しばらくそうしていて、やがて式の開始時間が近づいたので体育館に戻ろうと踵を返した時、目の前の渡り廊下に人影を見つけた。ちょうど振り返りざまだったのでじっくりと顔を眺めることはできなかったが、両手に抱えたコサージュが目に留まった。そしてなにより、一瞬だけ見えた眼差しが、幸村を惹きつけた。 それは今までに見たことのないものだった。体の向きから察するに、確実にテニスコートを見ていたのだろうと思われる彼女の眼はしかし、幸村の大部分を形成する「テニス」に対し、幸村とは全く違う感情を抱いているようだった。忌々しげに細められたそれは、いうなれば幸村の真逆、テニスへの嫌悪に違いない。しかしその激情は己がテニスに向けるものと同じか、それ以上に強いもののように見え、気付けば彼女が去ったあとも、幸村は視線を逸らすことができなくなっていたのである。 ――そう。 が入学式の日に幸村を見つけたのと同時に、幸村も、を見つけていたのだ。 それから幸村は、の姿をなんとなく目で追うようになった。決して恋愛感情ではない。ただ、その視線の理由についてもっと知りたかった。 学年が違うことはすぐに分かった。だから校内で出会う頻度もかなり少なかったが、移動教室で上級生の校舎に行った時や全体行事のときには、ここぞとばかりに探し出した。友人である柳が軽く身を引いたくらいだ。しかし、そんなときに出会うの眼は、入学式のような強さを持ってはいなかった。どちらかというと穏やかで、波立つことのない平坦なものだった。幸村は首を傾げた。柳に相談すると、入学式で見たものは単なる見間違いなのではないかと一蹴された。 しかし後に幸村は、己の記憶が正しかったことを知る。 テニス部での練習を終え、ふと空を振り仰いだ時である。テニスコート近くに立つ校舎の窓に、の姿が見えた。そしてその眼は、入学式の時に見たそれと全く同じだったのだ。 嫌悪、憎しみ、妬み、悔しさ――それらは、よく知った感情たちだった。今まで己の前に敗北しひれ伏してきた人々が浮かべていたものだ。 それだけならばさして興味はない。彼の目を惹いたのは、その奥に潜むもう一つであった。 悪感情だけではない何か。どこかもどかしそうに睨みつける理由。 手をのばしたい衝動を抑えに抑えて境界に立っているような危うさ。 そのくせ絶対に『こちら側』に来ることのない頑なさ。 ――切望と否定、後悔の混沌。 未知のものを前に、幸村はひどく高揚していく心の内を感じていた。もっと、もっと知りたいと思った。 そうしてを追いかけ、少ないながらも言葉を交わしていくうちに――気付けば純粋な好奇心は、執着を伴う恋情へと変質していたのである。 「――具合が悪いの?」 机に伏せたまま顔を上げない幸村の姿に、流石に心配になったが声をかける。 ゆるゆると顔を上げた幸村は、そのまま視線をに合わせた。 「どうしたの?」 「うーん……」 興味が恋へと変わった瞬間を、幸村は覚えていない。 ただ全ての起点を求めるならば、それはやはり入学式の桜の下ということになるだろう。 つまりは―― 「俺も案外、自覚がなかっただけで一目ぼれしていたのかもしれないと思って」 「あら、そうなの」 「……もうちょっと驚いてくれてもいいのに」 「もちろん驚いているわ」 「…………本当に?」 「本当に。ただ、それ以上に嬉しいだけよ」 その言葉に、幸村は再び、頭から湯気が出そうなほど赤面した。対するは顔色一つ変えていない。 ――赤也。お前の幼馴染は……。 沸騰しそうなほど熱い脳内に、柳の涼しげな言葉が浮かび上がる。 以前、公認の元、彼女がテニス嫌いに至った一連の事件を切原から聞き出したことがあった。切原にしてみれば対戦相手に勝利しただけであり、そこには何の非もないはずなのだが、件の相手がだったことで幸村の冷気を説明の間中受け続けることになってしまったという悲劇の事件だ。 一通り話し終えた後、どことなくスッキリした様子の切原が幸村に告げた言葉がある。 ――部長。ねえちゃんは鈍感じゃないっス。たぶん、部長の気持ちも自分の気持ちも全部分かってるんですよ。そのうえで計算とか打算とか、そういうこと全部やめて接してると思うんスよね。だから―― あれが素なんです、と。 切原の結びに流石の幸村も絶句した。幸村が何を言っても、何をしても冷静さを崩さないのは、そもそも崩した先に現れるものがないからだというのだ。隣に座る柳は、何故かフォローを放棄していた。 しかしそれでは幸村の気が済まない。幸村にとっては長年の片思い――蓋を開けてみれば最初から両想いに近かったようではある――がやっと成就したところなのである。照れた表情や困る表情、そういった、まだ見たことのない彼女の一面を引っ張り出したいと思うのは当然だった。 ――実際には、は幸村と向き合う中で人並みに照れていたし困ってもいたのだが、ほとんど表に出なかったために気付かれていなかったのである。悲しいすれ違いであった。 ――赤也。お前の幼馴染は……。 柳が口を開き、しかしそれ以上続けることはせず、代わりに別のことを口にした。 ――精市。一つ、案がある。だが、これは十分なデータに基づいてはいない、不確実な策だ――。 わかっているよ、蓮二。心の中で頷き、幸村は決断した。 会話に区切りがついたと判断したのか、参考書を片手にペンを走らせるの姿を両目に捉え、幸村はぐっと拳を握りこんだ。そのまま、決心が鈍らないうちに椅子から軽く立ち上がり、真正面にいるの頬に手をのばす。図書館内にある資料スペースの、さして大きくない机にもう片方の手を置いて体を支えると、何事かと顔を上げたのそれへと顔を近づけた。 二十センチ、十センチ、五センチ、そして――。 「やめなさい」 わずか二センチの距離を残し、柳の策は失敗した。の手が幸村の口を覆っている。 不満そうに思い切り顔をしかめた幸村へ、険しい顔をしたが苦言を呈した。 「ここは図書館よ。私が振った話題もあまり相応しいものではなかったけれど……場をわきまえないと」 「…………うん」 「……。精市君、私、喫茶コーナーで少し休んでくるわね」 「え!? えっと、あの……ごめん、そんなに怒るとは思わなかった」 「……? 怒ってないわ」 動揺したから頭を冷やしたいだけなのだとは言い置き、それから――照れたように、はにかんだ。 「こんな場所で思うのは不謹慎かもしれないけれど。――嬉しかったわ。ありがとう」 そう言って、いつもよりやや早い動作でその場を後にするを見送り、幸村はずるずると椅子に座り込んだ。机がパーテーションで区切られていて本当に良かった。今の自分の姿が誰かに見られでもしたら羞恥で意識が飛んでしまう。 「……手ごわいなあ」 ――蓮二、お前の策、どうやら成功したみたいだ。 熱くなった頬をどう冷ますべきか悩みながらも不思議な幸福感に包まれた幸村は、心の中の柳に礼を言った。今度会ったら学食でも奢ろうと心に決める。 ――それは良かった。 幾分憔悴した柳がそう返事をする日は、遠くない。 --------------- まさかの柳オチ。 back top |