1.
 目を開けても暗闇だった。ゆらゆらと何かの光が揺れている。何の光だろうかと目を凝らすと、まもなくそれがロウソクの炎である事に気がついた。ここはどこだろうかという問いに答えを見つける事は出来なかったが、その代わりに、うつ伏せになっている自分の体の下の絨毯に不思議な模様が描かれていることを知った。目が慣れてきたのだと理解し、頭だけを動かして周りの様子を見、自分の頭の先に人影を見つけた。

「失敗か」
「そのようで」

 人影の顔は暗さで全く見えなかったが、随分大きな体型の男性が椅子に座っており、その隣に痩せぎすの男が立っているのは分かった。両者は低い声で何事かを囁き合い、立っている方の男が自分のそばに近付いてきた。あまりの気味悪さに「来るな」と念じたが、意味は無かった。男は自分の両腕を引っ張り上げ、手錠をかけた。その瞬間、手の甲から力が抜けていくような感触を覚えた。

「捨てておけ」
「どのように」
「スラム街にでも」
「御意」

 椅子に座った男は自分のそばにいる男性にそう告げると、闇の中に消えていった。痩せた男は部下らしき人を呼ぶと、自分も姿を消した。
 闇の中、姿の見えない男に担ぎ上げられて地下道を進み、映画でしか見た事の無いスラム街に落ちた。



2.
 路地裏のスラム街は暗く、湿っていた。何度か吐き気をもよおしたが、食事にありつけるかさえ分からない状況だと判断したので、その度に飲み込んだ。そうしてまた吐き気に襲われた。
 両手を拘束する手錠は外れなかった。手首を覆う黒いそれらをつなぐ鎖の音に意味も無く苛々した。服は、この街に文字通り落とされた事で見るも無残なものだった。生ゴミなどが付着している。立とうと思うが叶わなかった。ここに連れてこられる前に、男たちが足の裏に楔を打ちつけた。未だに状況が飲み込めなかった。

「あらぁ、新入り?」
「みたいだな」

 声がした方に顔を上げる。娼婦のような女性と、ヤクザのような男性が立っていた。女性はもしかしたらこの男の情婦かもしれないとは思った。言い知れぬ恐怖に身を竦め、顔を背けた。女性は笑った。

「そんなに怖がらないでよぉ。何もアンタをとって食いやしないわ。新入りなら歓迎するわよぉ」

 妙に間延びした言い方をする女だ。しかしその声には艶がある。きっとこの声とその体で何人もの男を虜にしてきたに違いないと、は確信した。女であるをして、そう思わせることの出来る女性だった。男も女性の言葉に笑って頷いていた。そうそう、と何度も何度も頷いた。

「アンタ、ここに来てから5日くらいだっけ?何も食べてないんでしょう。その足じゃあどこにも行けないしねぇ」

 女性は男性の方を向いて、を運んでやるように言った。には断る勇気も無ければ、理由も無かった。ついでに言えば全てにおける気力すら無いのだった。男性はの体の下に手を入れた。吐いた。



3.
 女性は優しい人だった。社会の裏側に存在する人間ではあっても、少なくともは彼女の事をそのように評価していた。状況に疲弊していた自分に最初の光をくれた人物だと、心の中で感謝した。女性はのことについて何も聞かなかった。その代わり、自分の生い立ちを笑い話として聞かせてくれた。

「あたしねぇ、生まれも育ちもここなの、ここ。スラム街。生まれて3年目で客を取ったのよ、凄いでしょう。まあ、情事には至らなかったみたいだけれど。本当に初めてだったのは11歳くらいかしら?相手の顔は覚えてないわぁ。あんまり不細工すぎたのね、きっと。それからはずっとこの商売で生きてるのよ」

 両腕と足が使えないを白いシーツが引かれたベッドに寝かせ、足に包帯を巻き、体を拭った。食事は一さじ一さじ口に運んでくれた。貧相な食事だったが温かく、美味しかった。

「人を拾ったのなんて初めてよぉ。人生、何が起こるか分からないモンね、本当」

 そう言って、また笑った。



4.
 女性はをスラム街の住人に紹介した。住人たちは揃ってを歓迎した。あまり口を利くほうでないに、色々と話を聞かせてくれた。ここは厳密に言えばスラム街では無いのだと教えられた。では何なのかときくと、その問いには皆、困ったように笑って口を閉ざすのだった。
 ここの住民は何かしら、犯罪の類を犯しているようだった。

「店で雇われてたんだけどね、上司がすごく嫌な人だったの。気がついたら刺してたわ」
「ボクは親だね。いわゆる教育ママっていうの?そんなんでボクの人生決めるなって叫んで、殺してやったよ」
「あたしは殺しはしてないけど、盗みはしょっちゅうね。だって欲しいものがたくさんあるのだもの」
「おりゃ、何にもしてねえぜ」
「アンタが一番性質悪いでしょ。婦女暴行殺人」
「俺は見ての通り、ヤクザ…っつーかマフィアだな。末端だけど。人も殺してるし、その他も、まあ、色々」

 言葉からは想像も出来ないほど、彼らは優しかった。これ以上無いというほどにによくしてくれた。それが逆にの不信感を煽った。だが、問いただせるだけの器量も、逃げ出す事の出来る足も、何もは持っていなかった。時々手の甲を見つめたが、何も起こらなかった。
 スラム街の奥に、大きな木箱が山積みになっているところがある。
 その一番天辺によじ登り、小さな空を見上げる事が、の楽しみになった。



5.
 雨が降っていた。
 スラム街の住人は木箱に住むか、安いアパートに住むか、またはダンボールに住むかのどれかだった。ダンボールの住人は常ならばアパートの軒下に非難しているはずだった。自分の家であるダンボールを抱え、体を寄せ合って狭い軒下に群がっているはずだった。今日は誰もいない。

「何かあるの」

 あらアンタ、今日は喋ったわね、と女性が言った。振り向いてはくれなかった。は強烈な不安感に襲われた。そういう勘がはずれたことはなかったので、さらに不安になった。

「外に出てみなさいよ。そうしたら分かるわ」

 珍しく間延びしない口調だった。出て行きたくはなかったが、女性の背中がに出て行くことを勧めているように思え、まだ痛む足を引きずりながらは外に出た。



6.
 軒下に立って、は辺りを眺めた。本当に誰一人としていなかった。いつも面白い話を聞かせてくれる老人も、匂いの強いタバコをふかしているヤクザの男も、スラム街唯一の妊婦である、店の上司を刺した女性もいなかった。踏み出すとパシャン、と水が跳ねた。
 その途端、世界が動き始めた。

「いたぞ!」
「捕まえろ!」
「逃がすな!」

 瞬きをする間もなく、は地に押さえつけられた。声を発したのは皆同じ制服を着た男性で、両手を背中に回そうとしたようだったが手錠のために回せないと分かると、黒い手錠の上から銀色の手錠をはめた。

「店主殺害、両親殺害、婦女暴行殺人、その他諸々の罪で逮捕する」

 目を見開いた。自分を拘束している相手の顔を凝視した。男は顔を醜く顰め、周りの人間に指示するとを乱暴に立たせた。何が起きているのか瞬時に理解する事は不可能だった。は通りの両脇のアパートに目をやった。無数の瞳がを見ていた。普段、ダンボールや木箱に住んでいる者達だった。と目が合うと、すぐさまカーテンが閉じられた。
 およそ信じる事の出来ない光景だった。しかし不思議と納得していた。こんなもんか、と思っていた。

「歩け」

 警官の命令に、は素直に従った。



7.
 四方を灰色のコンクリートで囲った狭い密室が、に与えられた自由だった。警官たちはの取調べを始めるとすぐに顔を青くした。戸籍が無かったのだ。にとっては当然でしかない現象なのだが、彼らにはこの上ない大事態であるようだった。

「流星街の住人か…?」

 誰かがそう呟いたのが聞こえた。戸籍を持たないものは流星街出身。それがここの常識であるようだった。常識を知ると同時に、はここがどこなのかを理解した。「流星街」という単語を使うモノには、一つしか心当たりが無かった。警官たちは流星街を恐れているようだった。誰かがまた呟いた。

「もしコイツを裁いて、ヤツらが報復に来たら…?」
「在り得るのか、そんなことが」
「あるさ。過去に事例もある。ヤツらは手段を選ばない。自分が死ぬことだって厭わないんだ」

 青褪めたまま、警官たちは相談し続けた。途中何人か電話をかけて上司に指示を仰いだ。電話の向こうでは上司も顔が青くなっているようだった。は何日か、独房で過ごした。
 証拠不十分で釈放となったのは、大体一週間くらい経った後だった。無骨な車の荷台に放り込まれ、はどこかに運ばれる事を知った。思考があまり働かなかった。食事はほとんど無いに等しいものだった。



8.
 車が止まると、マスクを付けられた。ロクに動き回る事の出来ない環境にいたため筋肉が落ち、歩く事が困難な体になっていた。目の前に広がるのは、どう形容して良いのか分からないほどの「ゴミの山」だった。しかしそれも生ゴミなどを指すのではなく、電化製品や飛行機の機体など、ありとあらゆるものが積み重なって出来ているものだった。一種の芸術のようにも思えた。警官はの背を突き飛ばしてゴミの山に落とすと、車に乗って去っていった。太い横縞の入った囚人服に身を包み、は流星街に落とされたのだった。
 手錠がかけられているせいで受身を取る事も出来ず、はゴミの山を転がり落ちた。一番下に辿り着いたときには、体中青痣だらけになっていた。血が流れているところもあった。呻くことすら出来なかった。

(何故、ここに)
(何故、ここに)
(何故)

 皮肉な事に、捨てられた事で物事を考える余裕が出てきた。繰り返し繰り返し考える。しかしいくら考えても、行き着く先はたった一つのみであった。

(越えたのか)

 どのような要因によって「此処」に来てしまったのかは不明だが、それ以外に考え付く理由は無かった。それに、経験もあった。には「越える」という経験が以前にもあった。一つ、どうしても分からないのは、右手の『アレ』のことだ。停止してしているようだが、それは何故だ?世界が違うからか。しかし、手錠をかけられる前までは確かに『アレ』の存在を感じていた。手錠をかけられた瞬間、力が奪われるのも感じた。

(…分からない)

 痛みに意識が飛びそうになるのを必死の思いで繋ぎとめていた。今意識を失ったら、次に目覚める事が出来るかどうかわからない。『アレ』は不老をもたらしはしても不死は与えてくれないのだ。

「新入りかね」

 どこかで聞いたようなフレーズだった。

「赤子なら分かるが、その年齢というのは珍しいな。刑務所から逃げてきたのか」
「…犯罪は犯していない」
「では疑惑を持たれたのだろう。処理が厄介になって捨てられたか。憐れだな」

 ゆっくりと目線を声がするほうに向けた。全身を防護服で覆っている人間だった。人間は何かを持っていた。の側に置かれたそれは、粥のようだった。

「腹は空いているか」
「いいえ」
「食べられるかね」
「分かりません」

 人間は粥の器に匙を入れ、横たわるの頭の横に置いた。好きなときに食べるといい、そう言った。そうして人間はの傍らに腰を落とした。日が沈んでも、夜になっても、ずっとずっとそこにいた。



9.
 食べ物を見ると気持ちが悪くなるようになった。食欲をそそられる香りにも、空腹を感じる事は無かった。むしろ胃液を吐く始末だった。何も口に入れていなかったが、不思議と死ぬ事は無かった。死を望んでいたのかと言われればいいえと返答しただろうが、生きたいのかと聞かれたら肯定を示しただろうが、しかし体はそれを拒んでいるようだった。心とは裏腹に、身体は生きる事を拒否した。

「死ぬぞ」

 傍らの人間が言った。それに呼応するように、周りからため息が漏れた。を訪れる人間は日に日に増えていた。それはここが流星街であるからなのか(彼らは何も拒まない)、はたまた自分という異様な存在を嘲笑いに来ているのか、どちらでもないような気がしたし、どちらも当てはまるような気もした。

「食べなよ」
「死なないでよ」
「生きないの?」

 そういった言葉に純粋な嬉しさを感じるものの、やはり食欲はなく、体の痛みは消えることなく増え続け(主に化膿による。防護服など着ていない)、喋る事すらままならなくなった。しかし死ななかった。



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