天球ディスターブ 8 特に寝覚めが悪い様子もなく、は目を覚ました。 日がかなり昇っているところからして今は昼なのだろう。 のどが酷く痛み、声は掠れていた。 城下の喧騒がやけに大きく聞こえる気がする――否、気のせいではないのだろう。 トゥーリバーへの遠征から軍主が帰還しているのである。 強行軍のような帰還には驚いたが、内情をよく知らないのでそういうこともあるのだろうと思うことにした。 昨日ヨシノと別れてからバーバラのところへ行って貰ってきた寝巻きを着替え、部屋を出る。 美少年隊ならぬ美少年攻撃要員の彼に会うためだ、といえば多少は聞こえが良いが。 ――つまるところは、ただじっとしていたくなかっただけである。 「こんにちは」 「…何か用?」 目の前の少年、ルックは表情を変えずに面倒くさそうに言う。 もで緊張のためか笑えていなかった。 「石版を見たいんですけど」 「勝手に見れば」 冷たくあしらわれ、は心中で深い溜息をこぼす。 石版の前に立って文字を指でなぞり、小さく息をついた。 ――冷たいなあ。 自分はここで何かを成しているという訳ではないから、本来ならば主要メンバーと関わりを持つ機会は皆無だ。 それどころか自分は捕虜としてここへやってきた。 それを踏まえて言えば、彼のこの対応は当たり前のものと考えていいだろう。 …性格によるものも大きいとは思われるが。 としては、ルックとは是非知り合いになりたいと思っている。 現在の状況でこういったことを思うのは憚られるが、は元の世界にいたとき、ルックが嫌いではなかった。 そのことに加え、彼は真の紋章の持ち主なのである。何か話がきけるかもしれないと淡い希望を持った。 だからこそここへ来て、緊張しながら挨拶をしたのに。 横目でルックを盗み見すると端正な横顔が目に入った。 しかしその表情に「笑顔」の二文字はなく、は少々気落ちしつつも石版の方に目を戻した。 当たり前だが、約束の石版を見たのは初めてだった。 ゲーム中ではあまり感じられなかったが実際に見ると結構な大きさだ。 高さはの身の丈を軽く超え、横幅は両手をいっぱいに広げてもまだ足りない。 ルックはこれを管理している。 ということは、定期的に拭き掃除なんかもやっていたりするのだろうか。 想像すると笑いを必死で堪える自分に気がついた。 相変わらず文字は読めなかったので誰の名前かは分からなかったが、 削られた文字群の個数から結構な人数の宿星が集っていることだけは知れた。 仲間集めが順調にいっている証拠だろう。 は腕を組んで「フム」と小さく呟き、作戦を練り始める。 議題はどうやって後ろの少年と会話をするか、である。 考えが頭に浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。 暫くそうやっていたせいだろう、気がつくとルックが訝しげな顔でこちらを見ている。 その秀麗な顔に見られるというのは中々嬉しいものであり、同時に酷く恥ずかしい。 は途端に何やら後ろめたい気持ちになり、無言で石版と彼を後にした。 「絶対今、顔赤い」 人気の無い廊下を歩きながら、頬に手を当ててつぶやいた。 話しかけていれば確率は低いが知り合いになれたかもしれない。 そのことについての後悔だけがの頭を混乱させる。 「何でこの世界は格好良い人が多いんだろう」 どうでもよい問いは呟いても答える者はいない。自分すら答えることはない。 はそのまま湧く疑問に思考を集中させる。 顔の熱が引いていくのが分かった。 ガチャガチャと金属の擦れあう音が廊下に響いた。 は反射的に振り向こうとしたが、何となくやめておいた。 その音は後ろから自分のほうにだんだんと近づいてくる。 そしていささか乱暴な言葉遣いで自分を引き止めた。 「待てよ、気付けって!!」 は不快感を隠すことなく振り向く。 そこにいたのはつい昨日も洗濯を手伝ってもらったばかりの――既に顔なじみになりつつある兵士だった。 「…振り向くだろ、普通。やかましい音立てて走ってんのに」 「いや、私に用事なんだとは思わなかったから。何か用?」 無意識に石版の彼と同じ台詞を言ってしまったことに気付き、少し気恥ずかしくなる。 目の前の兵士は特に気にする様子もなく用件を伝える。 「軍師様が、という奴を呼んで来い、だってさ」 「ああ、うん。分かった。じゃあ今から行ってくる」 偶然って来るときには来るのな、と言って兵士は苦笑した。 おそらく同盟軍の兵士の中での顔と名前を一致させているのは目の前の男だけだ。 軍師がそれを知るはずがない。知る必要もない。 ただ、たまたま言いつけた兵士がを知る者だったというだけである。そこに故意の入る余地はない。 は思考を捨て軍師のもとへと向かおうとして――やめた。兵士が怪訝な顔をする。 刹那逡巡した後、はきまりが悪そうに口を開いた。 「悪いんだけど、軍師は何処にいるの?」 この城はゲームの中の城よりずっと大きかった。 ドアをノックする軽快な音が廊下に響く。 先程の兵士に聞いた部屋の前には立っていた。 この部屋がさっきいた場所からそう離れていなかったのが幸いしたのか、迷うことはなかった。 ドアを見つめ、返事を待つ。 一瞬間をおいて、シュウが「入れ」とドア越しに言った。 「失礼します」 一応、礼儀として入室の挨拶を言い、椅子に座っているシュウに目を向ける。 「何の用?」 用件を聞く。 シュウは一拍置いてから話し出した。 「近々グリンヒルに潜入する」 「シュウが?」 「阿呆か。俺が行くわけなかろう」 まあ、そうだけど。とは零し、シュウの近くに歩いていった。 「で、それが私と何の関係がある?」 シュウは机の隅に追いやられていた眼鏡を取り、それを掛けて書類に目を通し始めた。 「お前も行け」 「何で」 「仮にも諜報員だろう」 「諜報員は所謂スパイみたいなもので、表立ったらいけないものだと思っていたけど」 「お前に限って諜報員は小間使いと同義だ」 はその言葉を聞いて、少しだけ眉を顰める。 そしてシュウに向き直って決断をした。 「面倒くさい」 シュウは書類を机の上に置くと溜息をついた。 は涼しい顔で立っている。 「…ああ。ちなみに他の奴は、殿、フリック、ナナミ、ルック、キニスン、アイリだ」 「張り切って諜報活動してきます」 先程とは打って変わって瞳の奥を輝かせているに、シュウはまた一つ溜息をこぼした。 そして再び書類に目を通し始め、に下がるように言った。 「あ、そうだ。私はそのメンバーについていくの?それとも単独で?」 「ついていけ」 「分かった。ついでにもう一つ。…私が行くことを他の人に伝えている?」 「いいや」 シュウの言葉を聞き、は複雑な表情を浮かべる。 「一悶着は避けられないかな」 は「やっぱり」とでも言うように肩を落とし、部屋のドアに向かった。 そして出るときに一言呟いた。 「人の不幸は蜜の味。自分の不幸は何の味?」 別に人の不幸見たって嬉しくも何ともないけど。 パタンとしめられたドアの内側と外側で、二人の人間が同時に溜息をついた。 長い廊下を一人で歩く。 石造りの壁に囲まれた廊下はひんやりとしていて、窓の外の太陽の光を遮断する。 しかし洗濯場のあるテラスの前の廊下は、壁の大部分が鉄格子のようなドアになっているため、 太陽は光を惜しげもなく廊下に注いでいた。 「こんにちは。何か手伝うことはありますか?」 は目の前の、洗濯をしている黒髪の女性に向かって言った。 その女性――ヨシノは、を見上げるとにっこりと笑った。 「こんにちは、さん。…そうですね、干して下さると助かります」 「分かりました」 最初にここに来て干したときより幾分か慣れた手つきで、は洗濯物を干していく。 勿論身長が足りないときは、兵士――彼は好きでこの場所にくるようだ――に手伝ってもらいながら。 「で、何かあったんですね?」 ヨシノは手を休めずに言う。 「悩めるお年頃ですから」 も手を休めない。 「近いうちに小さないざこざが起こることが判明したので」 「それは一体?」 「…すみません、ただの戯言です。気にしないでください」 苦笑いをしては最後の洗濯物に手を掛けた。 ヨシノはやはり手を休めない。 「さんが関わることは確かなんですね」 「そうですね」 洗濯物は、案外早く片付いた。 「最近ヨシノさんに頼りすぎだ…自制しないと」 自分一人しかいない小さな自室で呟く。 その声は、思ったよりも響かなかった。 そしてそのまま後ろ向きでベッドにダイブする。 「何でかなー。安心するんだよね」 ふと、元の世界に居る家族のことが思い出された。 帰りたくないと言ったら嘘になるが、帰る方法が分かっていない今の状態で悲しくなるほど繊細でもない。 ただ、寂しい。悲しくはないが、寂しかった。 家族のことを思うだけで胸の辺りにしこりが凝って叫びだしたいような衝動に駆られる。 この世界には、自分を知っている人があまりにも少ないから。 だから、寂しい。 「強い力を持っていても、心まで強くなることはできないのか」 温もりを求めてやまない自分の心。 心が弱いということなのだろうか? 窓から風が入り込んできた。 そっと頬を撫で、髪を浮かし、体を包む。 それが余りにも心地よくて、風に触れている間だけは寂しさが消えるような気がして、は意識を手放した。 ―――ああ、風に愛された少年がこの城には――― 予期していた事件は、その3日後に起きた。 --------------- 2003.10.18 2006.7.1加筆修正 back top next |