天球ディスターブ 2-2



 何とか衝撃から立ち直ったはナタナエルの先導の元、森を抜けるべく歩を進めていた。ハルモニアに向かうためである。この森は正規のルートではないのだが、ここを抜けたほうがわずかばかり時間の短縮になるらしく、ある程度の実力を持った者は大体が森を抜けて帰るのだという。

 ナタナエルは元々従者を二人連れての視察の帰りで――村の名前を聞いたのだが忘れてしまった――小麦はその村の主要産物であり、その年その年で品質測定のためにサンプルとして一袋を本国の調査機関に回すことになっているのだそうだ。先ほどの戦闘で大部分が風に消えてしまったが、彼女は残った一掴みを、これもまた残っていた麻袋の残骸で作った足跡の小袋に入れて持ち帰ることにしたらしい。

「それで、その従者は今どこに?」
「…逃げてしまったみたい」

 ナタナエルは微かに眉を顰めて言う。
 本来ならばその二人がいれば先ほどのモンスターも撃退できるはずだったらしい。でなければこの森でなく、舗装された一般の路を使っている。不運だったのはその従者が新しくナタナエルに、ひいては神官将ササライの配下に就いた者だったことで、教育の一環として連れたはいいが彼らは件のモンスターに戦意を喪失し逃げてしまった。はあれをエリアボスだと思っているし、手強いことに間違いはないのだろうが。

 しかし、神官将の下に就いているということは、政治の中枢近くにいるということではないのか。それが戦闘ですぐに逃げ出したというのか。この森を通るというのならば全く戦えないというわけでもないのだろうに。
 のそんな考えに気付いたのか、ナタナエルは苦笑して言った。

「一等市民は、良くも悪くも温室育ちが多くて」

 今回の事は流石に驚いたけれど、教育水準が高い分、暮らしの質も高いから、危険に対する免疫も少ないのよ。そう言った彼女には、君は一等市民ではないのかと問う。答えは微笑だった。

「私も一等市民よ。そうね、私は彼らより少しだけ経験を積んでいたから逃げなかったのかもしれないわ」

 その言葉に、は胸にじくりとした痛みを感じた。

「…ごめん。無神経なこと言った」

 ナタナエルは「構わないわ」と言って笑い、ほら、と手で前方を指し示した。

「森が切れるわ。街道との合流点よ。あとは駅で馬車を調達して、一気にハルモニアまで行きましょう」




 街道に出ると、なるほど出口として使われているだけあって、森から街道沿いの駅――馬車や急ぎの荷物を届ける、飛脚のような職業の人々が駐在している――までの距離は比較的近いものだった。といってもそれはこの世界での尺度であって、体感時間だがおよそ30分ほど歩いた先のことである。
 ナタナエルは手際よく馬車の手配をし、を伴って乗り込む。神官将付き補佐官というのがどれ程の地位なのかには正確な判断はできないのだが、名称からある程度高位なのだろうと推測できたし、また駅の管理人らしき人が丁寧に頭を下げているのを見て、どうやら自分の想像は間違っていないらしいと知る。

――あんなに小さかったのに。

 時間とは何て容赦のないものなのだろう。自己紹介の前に聞いたところによると今は太陽暦475年。自分の記憶力もあながち捨てたものではないとは思う。
 太陽暦475年、それは始まりを告げる数字だ。「幻想水滸伝3」――は唇を噛む。
 
 向かい合わせに座る少女を、はちらりと見た。自分の記憶が正しければ、こちらの世界での15年前に彼女に会ったとき、確か2、3歳程度だったように覚えている。だとすると今は17、8歳くらいだろうか。
 には以前この世界に来たときに一人だけ、自らの手で殺めた人物がいる。「隊長」と呼ばれた彼は強く、そして慕われていた。目の前の少女、ナタナエルはその妹だ。家名も一致しているから間違いない。
 知らず罪悪感が胸のうちを過ぎる。後悔することは死者への冒涜だと教えられたし思っているからどうにか抑えているものの、どうしようもない部分がの心臓を内側から抉っていく。

 ガタン、と車輪が石に当たったのか馬車が大きく揺れ、はハッと顔を上げる。
 気付けばナタナエルが心配そうにの顔を覗き込んでいた。

「…大丈夫?疲れた?眠ってていいわよ、少し時間がかかるから」
「あ……」
「私の実家に先に寄るからそこでも休めるけれど…顔色が悪いわ。少し横になったら?」

 ね、と言って微笑む少女に、は耐えようもなく悲しくなって、誤魔化すように頷いた。
 頷いて――しかし、はた、と考える。

「…実家?」
「そうよ。いきなり宮殿に入れるわけにはいかないから…手続きが終わるまで私の家で過ごしてね」
「いや、あの…宮殿?」
「ええ。あなたの仕事なのだけど、私の補佐官になってもらおうと思っているの」

 要するに付き人のようなものだけれど、と言ってナタナエルは説明を始める。

「ハルモニアって市民階級の問題が結構根強くて。特に首都だと、他所から来た人や下位層の人は…その、あまり良い職業には就けないことが多いのよ。私の付き人だったらそれほど危ない仕事ではないし、それに、はこの世界についてまだ知らないことも多いでしょう?だったら私の側にいた方が、分からないことがあったときにフォローもできるんじゃないかと思って。…どう?」
「……」

 は目を伏せた。その言葉に頷いていいものか迷う。
 ナタナエルの言葉は素直に嬉しい。安全性の面で言うならば紋章を持っていない今の自分が紋章狩りの対象になるとは思えない分、宮殿――円の宮殿か――勤めというのは最高の場所だろう。
 ただ、そこにはおそらくの知る人が何人かいる。ササライと、もしかしたらナッシュと、――アルベルトと、それから。それから。…それから。

「………」

 ルック、と音にせず呟くと、は複雑な気持ちになった。複雑すぎてどういう表情をすれば良いのか分からず、結局無表情になってしまうくらいに。
 正直なところ、は彼の考えが良く理解できないでいた。ゲームをプレイして困惑し、インターネットで他の人の感想を見るもあまりに多岐に渡りすぎていて混乱し、そのままなし崩し的に過ごしているうちに続編の発表、そしてそのまた続編が――。要するに考察を後回しにしてきたのである。

 ――いい機会なのかもしれないな。

 にとってのつい先日、この世界にとっての15年前、それでもはルックとは多少の交流が持てたのではないかと期待している。彼が自分に心を許してなんでも話してくれるとは到底思えないし、知りたいという、その気持ちは単純な好奇心で、本来なら彼の心に土足で上がりこむなんてするべきではないから迷うが。

――それでも、私は救われていたから。

 もしもルックがゲームの通りの結末に至ってしまうのならば。
 せめてその前に伝えたい。
 彼に救われたこと、過ごす時間が楽しかったこと、優しさが嬉しかったこと、そして純粋な感謝の気持ちを。

 は小さく、しかし確りと頷いた。




 それから大分経ち、馬の止まる嘶きには目を開けた。馬車に乗ったのは初めてのことであまりの揺れに参ってしまい、ナタナエルの気遣いに甘えて横になっていたのだ。横に備えられた窓から外を覗くと、ある一軒の屋敷の前に停まっていることが分かった。は少し訝しく思う。この屋敷に見覚えがない。
 しかしすぐに納得した。が以前訪れた家は、確かルルノイエにあるものだった。その辺りの事情をは知らなかったが、もとはハルモニアの人間だと言っていたような覚えがあるから、おそらくこちらが実家ということになるのだろう。ただ、視線の先の屋敷は記憶のそれよりも一回り小さく、そしてなにより郊外というのも憚られるほどの場所に立っているようだった。不思議に思いながらも促されるままには馬車から降りる。
 肉眼できる距離に都市と思われる影が見えるし距離もさほどあるようには思えないが、周りは畑や家々がまばらにあるばかりでのどかなものだ。建っている家の様子は貴族の別荘という表現が良く似合う。

「結構郊外なんだね」

 努めて何でもないように尋ねる。ナタナエルは御者に代金を払いながら頷いた。

「ええ。首都にも一応家があるけれど、色々あって住めなくなってしまって。こっちは元々別荘なの」

 馬車を道の脇に待機させ、周りを見回してから溜息をつく。

「私が小さいころに本家のほうで騒動があったらしいわ。それでも暫くは首都住まいだったのだけれど」

 やっぱり居辛くなったみたい、と言ってナタナエルは屋敷の門を開ける。キィ、と擦れる音がして、見事な細工の施されたポーチが両側に開いた。そのまま小さな中庭を真っ直ぐに通り過ぎると、これまた凝った造りの玄関が現れる。途中で庭師なのか、作業をしていた恰幅のいい男性に軽く挨拶をする様子を見るに、使用人と主人側の関係は良好らしい。はどこか安堵する。

「ただいま戻りました」

 玄関を開けてナタナエルがそう言うと、広いホールの奥の大きな扉から一人の初老の男性が出てきた。薄い灰色の髪に、同じ色の綺麗に整えられた髭。黒いスーツ――は燕尾服とモーニングの違いが分からないし、どこからどこまでがタキシードなのかもよく知らない――に身を包んだその姿はまさに『執事』といったもの。
 ナタナエルの前に来ると深々と頭を下げて「おかえりなさいませ」と言い、姿勢を正すとを見た。

「そちらのお方はどなた様でしょうか」
というの。色々と事情があって…この家に住んで、私の部下になってもらうことにしたわ。後からきちんと説明するから……とりあえず、部屋を用意してもらえるかしら」
「かしこまりました。お嬢様、奥様も先ほど親族会議から帰っておいでになりましたよ」

 老紳士の言葉にナタナエルの表情が一気に明るくなる。

「本当?今は?お部屋にいらっしゃる?」
「はい。お嬢様はこれから宮殿に向かわれるのでしょう?その前にご挨拶なさってはいかがでしょうか」
「ええ、そうするわ!も来て!」
「あ、うん」

 ぐい、と手を引っ張ってを急かす彼女は本当に嬉しくてたまらないといった様子が見て取れて、も心なしか嬉しくなる。引っ張られながらも一度老紳士の方を振り向くと、彼は柔らかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。その温かな眼差しに胸のどこかが苦しくなるのを感じる。にとってそれは、一度喪失して取り戻し、そしてまた失ってしまったものだった。
 ナタナエルがこの優しさに包まれていることに安心する気持ちと、その一端を奪ってしまったことに対する痛みと、それが自分から奪われていることへの喪失感がない交ぜになって、は彼女の手を握り返した。
 ごめんなさいと謝ることはできないけれど、せめてこの空気が彼女の周りにいつまでも在るように。



「お母様、ナタナエルです」

 お入りなさい、という落ち着いた声が聞こえて、は自分の失敗を悟った。扉は無情に開き、柔らかな色彩でまとめられた部屋の中央に立つ貴婦人がこちらを見ていた。傍らのテーブルには紅茶らしきものが置かれている。本当に帰ってきたばかりなのだろう、普段着というには上等過ぎる印象のドレスを身にまとっていた。淡い金色の髪を上品に束ねていて、こちらを見る瞳はやはり碧かった。
 婦人はを見て少しだけ目を見開く。思わず顔を背けそうになったが何とかこらえると、は婦人を見つめた。それはほんの一瞬だったのだろうが、そうは思えないほどに長く感じられた。婦人は娘に微笑む。

「お帰りなさい、エル。お勤めごくろうさま。怪我はしていない?」
「はい!…あ、でも、その……」

 事故があって、と口籠るナタナエルに、婦人は微笑だけで先を促す。ナタナエルはことのあらましを正確に説明し、が異世界の人間であることは少しの逡巡の後に話した。婦人は大層驚いたようであったが、に目をやると困ったような表情になり、ナタナエルに向き直って言った。

「エル、蒼き門の紋章は外しなさい」
「…っ!」
「もう起こってしまったことについて言及はしないけれど、あなたは人の人生に関わることをしてしまったの。それがどれ程大きなことか…あなたなら、分かるわね?」

 こくりと頷く。その瞳には涙が、今にも溢れんばかりに溜まっていた。必死で泣くことを堪えている表情をは知っている。道中、何度か見せた困り顔だ。
 我慢していたのだろう。は手を伸ばしかけて、結局降ろした。

「まだお仕事の途中なんでしょう?これから行って、そして帰りに紋章を外してもらいなさい。…ね」

 そっと、微笑んでナタナエルの頬に両手を当て、あやすように婦人は言葉を紡ぐ。その言葉にもう一度頷くと、ナタナエルは一礼して踵を返し、をちらりとみて何か言いたげに口を開き、しかし噤んで横を通り過ぎた。
 通り過ぎる一瞬に、「ごめんなさい」と聞こえたような気がした。



「お久しぶりですね…さん」
「はい」

 くすりと婦人は笑う。ナタナエルが去り、馬車の音が聞こえなくなってから婦人は口を開いた。

「15年ぶりでしょうか。変わっていらっしゃらないので驚きました」
「元の世界とこちらとは時間の流れが違うみたいで」
「まあ。興味深いです。いずれさんの世界のこともお聞かせくださいね」
「あ、はい。…あの、でも、その」

 は言葉に詰まった。何と言ったらいいのか分からなくなった。
 恨んでいますか、怒っていますか、自分がいると不快ではないですか。訊きたいことは溢れてくるのにいざ訊こうとするとどうしても口から出てこない。答えを聞くのが怖いのかもしれない。
 そんなに婦人はふ、と微笑んで歩み寄った。

「そんな顔をしないでください。あの子のことなら…哀しんでいない、というのは嘘になりますが、逆に、恨んでもいませんから……」
「…っ、何故!」

 は声を荒げる。荒げて、ハッと口を押さえた。

「すみません、大声をあげてしまって」
「いいえ。……不思議ですか?」
「…はい」

 婦人は困ったように微笑んで、部屋のテーブルに向かう。ティーポットの紅茶を新しいカップに注ぎ、「どうぞ」とを促した。視線を巡らして迷いながらも、は席につく。

「あの日あなたがこの家に来て息子の死を告げたとき、私はあなたを『許す』と言いました」
「はい」
「…正直に申しましょう。息子が死んだと聞かされたとき、あなたが憎くて憎くてたまりませんでした。どうしようもなく悲しくて、抑えきれないくらい憎みました。
……でも、あなたの様子を見ているとどうにも気が削がれてしまいまして。私が誰かに憎しみをぶつけたとしてもそんな顔はしないんじゃないかというくらい、あなたが苦しそうでしたので」

 婦人はそう言って、苦笑する。

「これでも困っていたんです。あんな顔をしている人に追い討ちをかけるほど非道にはなれませんでしたし、かといって無条件にあなたのしたことを包み込めるほどの懐の余裕も、その時はありませんでしたから」
「では」
「ですから、私があなたを許したのは確かにあなたの為でもあったのかもしれませんが、それ以上に、
――私は、私のためにあなたを許したんです。
だって、私は生きていますもの。これからを生きるために、憎しみや葛藤から私を許したんです」

 は目を見開いた。鼓動がほんの少し早くなる。
 婦人は紅茶を一口飲んで、静かに言った。

「私はあなたに憎しみも怒りも抱いていません。抱こうとも、もう思いません。…ですが一つだけ。
悼んでください。あの子のことを忘れないでください。あの子の死を無駄にせず、糧にしてください」

 はい、と、搾り出した声はもしかしたら震えていたかもしれない。
 温かさがを包み込んだが、下を向いてしまったので婦人の表情を伺うことはできなかった。
 それに、人間的にはあなたを好ましく思っているんですよと、小さく呟かれた声だけが微かに耳に届いた。



 それから数日間、は屋敷で過ごした。ナタナエルは仕事や手続きに追われていたようで食事のときくらいにしか会うことはなかった。老紳士はやはり執事で、にあたたかく接してくれた。使用人の年配の女性や庭師も、総じて皆優しい人々ばかりだった。そのことを執事に告げると「主人のお人柄ですね」と返ってくる。
 素直に彼らが、この家が好ましいと思った。

「それじゃあ、明日から仕事が始まるから、よろしくね」

 夕食の席でナタナエルがに告げた。ようやく手続きが終わり制服も届き、準備が整ったのだという。は礼を述べ、それから少し迷い、意を決して口を開いた。

「今更なんだけど、ごめん、一つ欲しいものがあるんだけど、いい?」
「ん、なあに?用意できるものだったらいいわよ」
「あのね」




 翌日、宮殿はいつもと変わらぬ光景を見せていた。忙しなく、しかしどこか静かな人々が歩き、回廊には柔らかな光が差し込んでいる。中庭の噴水には野鳥が水浴びし、涼しげな水音と鳴き声に心が凪いでいく。
 神官将が通れば下位の者は道を開け、脇に避けて頭を垂れる。それもいつもの風景である。

 その日重要な書類を抱えて上司である神官将の執務室へと向かっていた下士官は、前方から近づいてくる人物に眉を顰めた。しかしすぐに平静を装うと脇に移動し頭を下げる。その人物、そしてその付き人は何の関心も示さずにただ通り過ぎていく。下士官は頭を上げると振り返って二人を見た。

 暗い茶色と緑を基調とした服の男と、全体的に青い印象の金髪の女。

 少し前に神官将に大抜擢されたのだということはこの宮殿内での常識である。とにかく異例であることに間違いはない。有能な人物なのだろう、でなければ一気に神官将になどなれるものか。それは僻みではなく事実で、その点において彼は件の神官将を尊敬していた。ただ、ある一点を除いては。

――なんだ、あの仮面。

 男は、奇妙な仮面を被っていた。顔を隠し表情を読めなくするそれに、心象が良くなるはずもない。

――やましいところがないのなら被らなければいいのだ。

 下士官は小さくそう吐き捨てると、くるりと前方を向いた。思うところはいくらでもあるが、今はこの書類を届けることが先決である。そう、あんな不気味な男のことなど放っておいて――

 ドン、と、丁度傍を歩いていたらしい人物とぶつかったのか、衝撃に驚いて彼は書類を回廊にぶちまけた。



 は非常に複雑な面持ちだった。確かに自分はこれが欲しくて、ナタナエルにそう頼んだ。それはいい。良いのだが――なぜ、『これ』なのだろうか。
 これも蒼き門の召喚の産物なのだという、それには納得ができる。いや、そうでなければ納得がいかない。

 がこれを欲したことにナタナエルも婦人も不思議そうな表情をしていた。だが婦人は「ああ」と頷いて、「知っている人に会ったらまずいのでしょう?」とその日の夜、ナタナエルに聞かれないようこっそりと聞いた。は首肯した。打てる手は打っておき、不穏要素を少しでも軽くしたかったのだ。
 だからこれをつけているのはの意思である。――その、デザインを除いては。

 ナタナエルの後に付き、彼女の上司である神官将ササライの執務室近くにあるという補佐官詰め所へと向かう。書類を抱えたまま立ち尽くしていた若い下士官の脇を通り過ぎようとして――

 いきなり前を向いた彼には驚いて対応できず、そのままぶつかってしまったのだった。

 『これ』に驚いたのだろう、下士官が目を見開いているのが二つの穴を通してよく見えた。大丈夫かと聞いてくるナタナエルに頷いて、とりあえず散らばってしまった書類を集めることにする。

「ぶつかってしまって、すみません」

 そう言うと彼は余計になんとも言えないような顔になった。居心地が悪くてはそそくさとその場を離れる。
 被っていることに後悔はないが、このデザインはやはり驚かれるのだろう。

「…不思議なデザインだものね、それ」

 ごめんなさい、そんなものしかなくて。いずれちゃんとしたのを買ってくるわ。
 その言葉には首を振る。わざわざ買ってきてもらうようなものではない。それに、被り続けていると何だか妙に愛着が湧いてくるような気がする。

「まあ、言い訳は…火傷でもしたことにしておくわ。それより、それ苦しくない?下半分切ったら?」
「口と鼻の部分に穴が開いているから大丈夫。切ったらデザインの意味がなくなるし」
「……その方が良いような気もするけれど」
「………」

 主にルックやササライやアルベルト対策として被った『これ』――顔を隠すための仮面であるが、逆に目立ちそうな気がしないでもない。
 やはりいずれ期を見て別のものを探そうかとは考える。


 細い目につぶらな瞳、小さな口にふっくらとした白い頬。眉毛はかわいらしく丸く整えられ、髪は漆黒。


 平たく言えば、『おかめ』。




 その日、不思議な仮面を被った下士官が来たと、うわさになったとかならなかったとか。








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2007.9.18
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