天球ディスターブ 2-1 目の前の光景に、言葉を発することができなかった。 階段から落ちた先は地面だった。思っていたよりも低い位置から落ちたので痛みはそれほどなかったが、それでも落ちたことに変わりはなく、しかもそれが体勢的にうつ伏せの状態でだったので、は地面とキスをするという失態を今度こそ免れることができなかった。口の中が砂でザラザラしている。そのことに不快感を覚えるが、それ以上に厄介な事態が目の前で繰り広げられている現状の方が優先事項であると判断する。 今、自分が体感している口の中の異物も空気も否定することができたらどんなに楽だろうかと考える。しかし同時に、そのことは自らの死と直結してしまうのだと本能で悟った。 唸り声が空気を震わせ、木々の葉を揺らす。二つの頭を頂く体は一見して硬いと分かる鱗で覆われ、手足はなく、長い尾がひっきりなしに暴れては土埃を巻き起こし辺りを破壊し、たまに鋭く尖った枝をこちらに飛ばしてくる。双頭の蛇である。はらはらとあっけなく落葉していく木の葉はまるで踊っているようにも見えた。 それは非現実なのか現実なのか。にはもはや分からなかった。 「――そこのあなた!!!」 突然響いた高い声に体を震わせる。よく見れば誰かが巨大な蛇と対峙していた。ひかりだ、とは何となく思う。その「誰か」はに向けて言葉を発しているようだった。 「ねえ、来てくれたのなら助けて!あなたは私が喚(よ)んだの!お願い、手伝って!!!」 切羽詰った状況下、言っている意味が半分ほど理解できない。それでも確かなのは目の前の人間――少女が自分に助けを求めているということで、蛇と向き合う彼女は大分押されているらしいという状況を視覚から読み取ったは、半ば条件反射的に右手を己の顔の前にかざした。――かざして、気がついた。 紋章は今この手にない。 見えるのは何の変哲もない自身の手の甲だけだ。望んでも祈っても念じても、何かが起こるなんてことは決してない。それはごく自然なことではあるが、にとってみれば久しく忘れていた感覚であった。元の世界にいたときは使う必要なんてなかったから気にならなかったのだが。 懐かしい。同時に、軽い絶望を覚える。紋章が無い今、一体自分に何ができるだろう。体力も無い、力も無い、武器を扱うなんてもっての外、逃げるにしたってそれだけの脚力もないのだ。 「……っ」 は両手で自分の頬をバチンと叩く。考えろ。何かできることはないのか。何か、この状況を打破できる要素はないのか。目の前の少女は紋章でシールドを作って双頭の蛇――ツインスネーク、という名が思い出された――の攻撃を防いでいるようだが、それだっていつまで持つか分からない。は周りを見回す。 どこかの森、いや、林か。鬱蒼と覆い茂る木々の中にぽっかりと開いた広場に自分達はいる。以前キャンプでも張られていたのだろう、周りにくらべ雑草は驚くほど少なく、踏み固められている。土質は――ガリ、と地面を引っかく――サラサラと乾燥している。粒子は細かい、というよりこれは土ではない。視線を巡らすとツインスネークの側に壊れた馬車の荷台と積荷が転がっていた。小学生のときよく目にしていた、校庭にラインを引くための石灰を入れていた袋に似ている。記憶にあるそれはビニールで、目線の先のあれは麻袋であるという点は違っていたが。破れた部分から零れているのも白い粉だ。小麦粉か何かだろうか。 囲むように林立する木々は広葉樹。蔓が幹に巻きついている。あの蔓を使って何かできないだろうか。いや、強度が持つまい。何か。何か、―― 少女が蛇の攻撃の合間を縫って魔法を仕掛ける。紋章魔法だったら良いとは思う。そうであるという確証は得られていないが、なんとなく、この世界に見覚えがあるような気がしていた。ボウ、と右手が赤く光ったかと思うと、蛇を取り囲むように炎が現れる。しかしあまり集中できていないらしく、炎はすぐに消えてしまった。 はハッとして少女に声をかける。少しばかりの望みを込めて。 「今、何の紋章を宿してる!?」 「――く…っ!……烈火と旋風!蒼き門!!」 「…!どのくらい使える!?」 「基本の四魔法は大丈夫よ!応用は人並み以上専門家以下!」 「二つを同時に発動することは!?」 「この状況で判断して!もう余裕が無いの…っ!!!」 は一つ目の賭けに勝った。少女を見る。おそらく蛇の攻撃を防いでいるのは旋風の紋章によるものだ。詳しい原理は分からないが、気圧の変化か風のぶつかり合いで形成されている、そんな感じに見える。先ほどの炎による攻撃の最中もそれが崩れることはなかった。同時発動も応用も心得ているようである。 息を吸う。成功するかどうかは未知数である。だが他になにも思い浮かばない。――やるしかない。 「…今から言うことをできるだけ忠実に実行して!」 「分かったわ!」 ツインスネークはその長い体を大きくしならせた。おそらく比較的大きな薙ぎ払いの攻撃が来る。前動作が終了して動きが止まった一瞬、は少女に向けて駆け出した。 「シールド消して!」 「えぇっ!?」 驚く少女をよそに、少女の細い体躯を押し倒す。そうしてそれに覆いかぶさるような形でも身を沈めた。衝撃で集中が切れたのかシールドは破れ、すぐ頭上をツインスネークの尾が走った。間髪いれず叫ぶ。 「ツインスネークの周囲に竜巻みたいなもの作れる!?できるだけ粉が巻き上がるように!」 「…やってみるわ!」 そう言うと少女は左手を出して詠唱を始める。状況が状況なのですぐに詠唱を切り上げて紋章を発動させた。先ほどとは違い、緑色の光が左手を包む。 「旋風の紋章よ!!」 力ある言葉を切欠に、宿った紋章が動き出す。ツインスネークを取り巻くように風は渦をなし、木の葉と砂を巻き込んでいく。その間には少女の手を引いて林に入る。竜巻の威力はあまり無い。ダメージは与えられないだろう。不安に思ったのか少女がを見る。碧い瞳をしていた。綺麗だな、と場違いなことを思う。 正直なところ上手くいく自信はない。なにかの本で読んだだけで、実行したことは無いのだ。だが――賭けるしかない。本当は逃げ切ることができたらそれが一番良いのだがそうもいかない。おそらく向こうの方が速い。 顔を上げる。本当に、これは賭けだ。様々な要素が合格ラインに達していないと成功しない。 可能性はある。ある程度の見通しも立った。しかし同時に拭いきれない不安があるのも確かで。 すう、と小さく息を吸い込んで、震える手を叱咤しては言う。 「渦に向けて、火力の強いやつ!!」 「…っ、わが身に宿る烈火の紋章よ…大爆発!!!」 右手の甲に赤い光が現れ、にしか視えない魔力の歪みが現れると同時に、はまた少女を連れて林の奥へと逃げる。できるだけ大きな木の陰に隠れるように―― ドォン、と花火のような爆音が鳴り響いた。 一瞬遅れて襲いくる爆風を少しでも軽減するために、は少女を抱え込んで木陰にうずくまる。メリメリと幹が音を立てる。倒れないでと必死で念じながら倒れた時の対処法・ルートを探る。幸いにも幹は折れることなく、爆風はある程度の落ち着きを見せた。何が起きたのか分からずに呆然とする少女の手を引いて、はおそるおそる広場に近づく。倒れているのが好ましいが、生きていたとしても多少のダメージは負ったはずだ。できれば自分たちが逃げ切れるくらいには弱っていてほしいと思う。 そんなの心中をよそに、少し広くなった広場の中央に倒れたツインスネークはさらさらと風化していった。 安堵と脱力とがない交ぜになったままはその場に倒れこむ。膝が笑っていた。 「ねえ、あなたは一体何をしたの?」 広場を見て目を見開いて驚いていた少女が問う。 「…粉塵爆発が、起こせるかなあと」 砂では駄目だった。小麦粉が散っていて良かった。粒子の大きさとしてはギリギリの範囲だったのだ。爆発を起こすことができたのは多分に運が含まれている。 は少女を見上げた。そして、ああ、だから「ひかり」だと思ったのかと呟いた。 少女の髪はゆるくウエーブを描き光を受けて輝く、とても綺麗な金色をしていた。 不思議そうな表情をした少女が無言で差し出した手に捕まり、ゆるゆると立ち上がる。バランスを確かめて手を離した。さて、とは思う。これからどうするべきか。ここが自分のいた世界でないことは間違いない。あんなに大きな(しかも双頭の)蛇は確認されていないはずだ。また、この世界を自分は知っている。それも大体正しい認識だろうと推測する。まだはっきりとは言えないものの、奇妙な確信が胸の内にあった。 自分が喚(よ)んだのだと少女は言った。先ほどの戦闘で彼女が『蒼き門の紋章』を宿しているというようなことを言っていたような気もするし、何らかのトラブル、もしくは必然・偶然そういった類のものが作用した可能性がある。あまりよろしくない予感ではあるが、それ以外の説明が思いつかなかった。 目線を少女に向けると、暫く黙っていた彼女が、はっとしたように口を開いた。 「そういえば、まだ名前も名乗っていなかったわね。ごめんなさい。あなたのことに関して教えなければならないことも謝らなければならないこともたくさんあるけれど…まずは自己紹介をしない? 私はナタナエルというの。言いにくかったらエルでいいわ。あなたの名前は?」 はかすかに首を傾げる。ナタナエル。どこかで聞いたような気がするのだが、あと一歩のところで思い出すことができない。とにかく名乗らなければと、そのことだけが先行して思考もそこそこには名乗る。名乗ろうとして――はた、と止まる。 今は一体「いつ」なのだろうか。のいた世界とこの世界の時間はどう関連しているのだろうか。進み具合は、それ以前に「時間を越えた」という可能性は。もしかしたら自分が名乗ることで不具合がでるなんてことは。 荒唐無稽な話ではある。しかし二つの世界を知っているという時点で、それ自体が異常なのだ。今更何が起ころうとちょっとやそっとでは驚かない自信がにはあった。記憶を掘り起こす。混乱して乱雑した記憶の本棚に、必死になって本を整理していく。息を一つ小さく吸っては訪ねた。 「その前に…失礼だとは分かっているんだけど、名乗る前に、今が何年か教えてもらってもいい?」 さっきの衝撃で記憶に多少混乱が生じているようで、というと、ナタナエルは小さく首を傾げつつも納得したような声を発し、眉尻を少し下げて申し訳なさそうな表情を見せた。 「ああ…ごめんなさい。そうよね、いきなりあんな場面に出くわしてしまったのだし…私も、まさか『人』が喚ばれるとは思っていなかったものだから。本当にごめんなさい。今は…ええと、太陽暦475年よ。 でも、なぜ?あなたはこの世界の人ではないでしょう?」 はナタナエルの言葉に目を少し見開く。震えそうになる声を何とか支えながら言葉を紡ぐ。 「なんで…」 「え、だって。蒼き門の魔法は『異世界のもの』を召喚するものなのよ。その魔法であなたが喚ばれたということは、あなたが異世界の人だってことでしょう?」 「あ」 呆気に取られたをよそに、ナタナエルは「あら」といって口に手を当てた。 「もしかして違うの?服装が見慣れないものだったし、てっきり異世界人だと思っていたのだけど…」 「あ、いえ、合ってる…はず。その、ええと…こちらでは『異世界人』って結構いたりするものなの?」 「まさか!聞いたことないわ。私も何故あなたが喚ばれてしまったのか分からないし…それに、その…」 何かを言いよどむように、ナタナエルは言葉を濁した。は黙り、続く言葉を待つ。何回か逡巡した後、意を決したようにナタナエルは口を開いた。 「……すぐにでも、戻してあげたいと思うのだけど……どうしたらいいのか分からなくて………」 ごめんなさい、と言って俯く。綺麗な碧い瞳には涙が、今にも零れ落ちそうなくらいに溜まっている。はうろたえ、何とか言葉をかけようとする。しかし何と言ったらいいのか分からない。 「あ、ええと、あの…」 「蒼き門の紋章って少し特殊で、異世界のものを『完全に』召喚しなければ送還できるのよ。本には空間の狭間って書かれていて…それで、『完全に』召喚してしまった場合、つまりあなたみたいに、この世界に確固とした存在として召喚されている場合……」 「……」 「……死ぬ、まで、帰ることが……できないの………」 はゆっくりと目を瞑る。それは間違いないのだろう。前回、元の世界に帰る前に、自分は死んだ。死んだはずだ。腹部を貫かれ水に落ちるとき、確かに死を身近に感じた感覚は嘘ではない。何故今ここにこうして立っているのかということは、残念ながら現状では説明できない。情報が圧倒的に足りないからだ。ただ、太腿にも背中にも傷が残っていなかったのだから、もしかしたらこの体は以前と違うものなのかもしれない―― そこまで考えては笑った。どうやら自分は随分と想像力がたくましいらしい。 小さくなってしまったナタナエルの肩に手を置こうとして、しかし一瞬躊躇して結局手を下ろす。 「あの…さ。私は魔法とかよく知らなくて…というより魔法の無い世界にいたんだけど」 「…?」 「別に本に書かれていることが全てってわけでもないんじゃないかと思うよ」 「え……」 考えていることを、どうにか相手に伝わりやすい形で言葉にしようと、は考え考え口を開く。 「発展仕切った学問ってそうそうないと思うし、それは、その紋章に関しても同じかもしれなくて……。 だから、今は分からなくても、いつか帰れる方法が見つかるって可能性も、ゼロではないんじゃないかと……」 思うんだけど、と、根拠が無いので幾分か自信なさげには言う。帰りたくないのかと聞かれればもちろん帰りたいのだが、その方法が今のところ見つかっていないのであれば早々に見切りをつけ、この世界に馴染んだほうが得策であるとも考える。もちろん帰る方法を見つける努力はするが、郷に入っては郷に従えという格言もある。いっそ開き直ってしまったほうがいつまでも鬱々としているよりよほど良いのではなかろうか。 そういえば前回も似たような思考回路で途中から元の世界のことをあまり考えないようにしていたな、とは感慨にふける。己の性質は変わらない。そのことが酷く嬉しく思えた。 「ないものねだりしたって無いものは無いんだし」 「………あなたって……」 ぽかんと口を開けたナタナエルは、次いで泣き笑いのような顔を浮かべた。 「お人好しなの?それとも前向きなの?」 「どちらかというと後ろ向きだけど。ただ、今は考えるより行動した方が良さそうだから。住むところとか仕事とか…探さないといけないものはたくさんあるし、落ち込んだり考え込んだりするのはそれからでもできるよ」 「あ、結局落ち込みはするのね……」 「それは、まあ…」 ショックであることに変わりはない。家族や友人に会いたいという思いはあるし、やり残したことも、やりたかったこともある。ただ不思議とすっきりした気持ちなのは、もしかしたら自分がもう一度この世界に来たいと心のどこかで思っていたからなのかもしれない。 悲しいと、心のどこかで思っている。しかし同時に嬉しいと、心のどこかが叫んでいるのだ。 やがて、ふわりとナタナエルが相好を崩した。 「住むところと、それから仕事については、私でよければ世話するわ。こうなってしまったのは私の責任だもの。何度謝っても足りないけれど…送還する方法も出来る限り探してみるわ。あなたさえ良ければ、だけど」 「願ってもない」 「良かった」 「それじゃあ、今度こそあなたの名前を教えてもらえるかしら」と言われ、そこではようやく名乗っていなかったことに気がついた。 「ごめん、じゃあ改めて……といいます」 「…変わった響きね。綺麗。私好きだわ」 「ありがとう」 言うと、ナタナエルは綺麗な笑顔を浮かべた。しかしすぐに、少しだけ困ったような顔になる。 「私も、もう一度自己紹介させてもらっていいかしら。あなたを疑っていたわけじゃないのだけど、良い人か悪い人か判断できていなかったから、必要最低限の自己紹介しかしていないの」 が頷くと「ありがとう」と言い、表情をわずかに引き締めた。 「ハルモニア神聖国、神官将ササライ付き補佐官の末席を務めています、ナタナエル・クロービスです」 これからよろしくね、と言う目の前の相手に、は面白いくらいに固まってしまったのだった。 --------------- 2007.9.14 back top next |