赤い世界から。





天球ディスターブ 29





「―――っ」


意識が覚醒する。包帯だらけの手を天井に向けて伸ばしていた。泣いていたようで頬が濡れている。

荒い呼吸を繰り返して鼓動を落ち着かせながら、は今の状況を整理するべく頭を働かせ始めた。


「気がつきましたか?」


誰かが自分の顔を覗き込む。長い黒髪に、眼鏡をかけた男性。


「ホウアン先生」


幼い子供の声に男性は反応すると、「少し待っていてくださいね」と言って離れた。

ここはどこなのだろうか。少なくとも自分の部屋ではない。少なくともこんな寝心地の良いベットはない。

上体を起こそうとしたが無理だった。体に力が入らないのだ。仕方がないので首を左右に回す。

ベッドの周りは四方にカーテンがひかれており、サイドテーブルには水の入ったボウルと薬袋が置いてある。


「医務室かな」


手を目の前に持ってくる。包帯を巻かれていて、もはや肌が見えない。体の他の部分も同様だった。

後は顔に包帯を巻けばミイラ女になれるのではなかろうか。


「お待たせしました。具合はどうですか?どこか痛む所はありませんか?」

「今の所は。動くと激痛が走りますが」

「そうですか。痛み止めは飲まれますか?」

「いや、いいです」


動かなければ痛くないのだから痛み止めを飲む必要もないだろう。そう思って断った。

ホウアンは薬袋を指して、飲みたくなったらここにおいてありますから、と説明した。お礼を言った。

バタバタと外の方が騒がしくなってくる。何事だろうかとホウアンを見ると、彼は笑って答えた。


「トウタに、あなたが目覚めたことを伝えてくるように頼んだのですよ。思ったより早かったようですね」


ドアが開く音がして、の足元のカーテンが勢いよく開けられた。

起き上がることの出来ないには誰が来たのか分からない。

それでも誰なのか確認したくて、痛みを堪えつつ起き上がろうとする。ホウアンが背中を支えてくれた。


「…


シュウがいた。


「………」


何故だかとても後ろめたくて、すごく悪いことをしたような気分になり、思わず目を逸らしてしまう。

シュウは早足にの横に立つと、手を振り上げた。

パァン、と小気味良い音が響く。右頬がジンジンと痛く、やけに熱かった。


「お前は…っ!どれだけ心配をかければ気が済む!?」


シュウの目はとても険しく、一目で怒っているのだと分かった。

シュウが怒っている。彼の言葉から自分の存在はお荷物だったのかもしれないと邪推する。

もしかしたら自分の行動のせいで軍に余計な負担をかけてしまったのかもしれない。

医務室のベッドを一つ占領しているのだって、本当は他にもっと救うべき兵がいるのだろう。

しかし、謝ろうにも言葉が喉でつかえてしまった。

シュウは左手を降ろすとの肩に乗せた。


「無事でよかった」


ため息とともにそう言った。一度泣いてから涙腺が一時的に弱くなっているはそれだけで泣きそうになる。


「ごめんなさい」


今度はつかえることなく言うことが出来た。






シュウはが無事であることを確認すると、足早に医務室を出て行った。

そのあまりの慌しさにホウアンとが呆然としている中、こらえ切れないように笑う声が聞こえてきた。


「…っく、アハハ…!まだまだ青いね、シュウも」

「アンタより年上だろ」

「精神的にはそこそこ張り合えると思うよ」


シュウが出て行ったカーテンから、とルックが入ってくる。


「だけどは災難だったね。の目が覚めたって言うのに和平交渉中だなんて」

「…、アンタ、パーティーに含まれてなかった?」

「うん。だけどのほうが大事」


2人は会話しながらのベッドの脇に備え付けてある椅子に座る。

和平交渉、という単語が聞こえてきたのだが、すると自分はどれだけ眠っていたのだろうか。

そんなことを考えるをよそに、に微笑んだ。


「おはよう、。1週間ぶりの目覚めの気分はどう?」

「一週間?」

「そ。何だかすごく消耗してたらしいよ?ルックが何回か回復魔法かけたけどダメだったし」

!」

「あれ、ルックってば。もしかして照れてる?かーわいー」


は笑いながらルックをからかう。しかしセリフが棒読みだ。

ルックはバツが悪そうに顔を背ける。そしてふと気付いたように声を上げた。


「ああ、でも案外一番心配してたのはアイツかもね」


はその言葉に疑問を抱き、聞き返す。


「アイツ?」

「シュウだよ。まったく、軍師が何やってんだか。軍主の楽天ぶりだけでも大変だっていうのに」

「あはは。まあ、珍しいものが見れたからいいんじゃない?」

「アンタもトウタが来るまで調子悪かったくせに」

「……裁くよ?」

「やれるもんならね、ここで」


とルックの口喧嘩をは眺める。一週間も寝ていたせいだろうか。全てが懐かしく思える。

大変ほほえましくその光景を見守っていたら、埒が明かないと思ったのか2人は早々に喧嘩をやめた。


「さて、と。じゃあ、何があったか話してくれるかな?」

「え?」


予想していなかった質問には内心慌てる。

おそらく怪我の原因について話せということなのだろう。

しかし、何と説明すればよいのだろうか。奇襲を防いでいました、とか――それは怒られるような気がする。


「ええと、あの、その、あー…」

「何でも、兵士にだまされて最前線に行ってたとか聞いたんだけど」

「…え」


ルックの言葉に大いに驚く。奇襲のことは知られていないらしい。


「それ、誰から…」

「サスケだけど」


ああ、と納得する。この際このまま、最前線にいて怪我したということにしておこう。

奇襲のことなど彼らは知らなくていいのだ。彼らにとってあの夜はルカの夜襲以外に何もなかったのだから。


「大体その通りだよ。最前線に行って怪我して部屋に戻った」

「何で医務室に行かなかったのさ」

「いや、満員かな、と」

「…はぁ。最前線で生き残ってたのは忍者とだけらしいよ。それはその紋章の力?」


ルックはの右手を指す。


「…うん、そうだね」






とルックは去り際にシュウからの伝言を伝えてくれた。曰く、傷が癒えるまでは絶対安静、だそうだ。

はその言葉に苦笑する。

右手に目を落とす。先ほどのルックとの会話を思い出す。

あの強力な複合魔法を防いだのは確かにこの紋章だ。――自分を、宿主を守ってくれた。

そう思うと急に紋章が頼もしく、また大切に思えてきて、は右手の甲に唇を寄せた。

ホウアンに支えられながらベッドに横になる。


「ホウアン先生」

「何ですか?」

「どうして回復魔法が効かなかったんでしょうか」

「おそらく…としか言いようがありませんが、あなたが消耗しすぎていたんでしょうね。

稀にあるそうです、そういった拒絶反応が。詳しい原理は分かりませんが」

「へえ…」


ということは、今なら紋章で傷を治すことも可能なわけだ。

そしては気付く。


「あの、私ペンダントを持ってませんでしたか?」

「ペンダント?ああ、それならあなたの首にかかっていますよ」

「え。あ、本当だ」

「大事なものなんですね。先程魘されていたとき、それを握り締めていましたよ」

「魘されていた?」

「はい」


そういえば何か夢を見ていた。

もうあまり思い出せないが――殺していた、ような気がする。紅い炎と赤い朝日を見ていた気がする。

奇襲のときの夢を見ていたのだろう。それで魘されていたのだ。


「トラウマになるかな」

「はい?」


何でもないです、と笑って返した。











それからまた一週間ほど医務室で療養生活を送ることになった。

帰って来たとナナミがお見舞いに来てくれたり、ビクトールと複雑そうな顔のフリックが来たり。

大体皆すぐに帰ったが、ルックととシュウは比較的長めにいた。

暇つぶしにどうぞ、と第一発見者シロの飼い主のキニスンが本をくれたが、読めないので意味がない。

それをルックたちに話したら、呆れた顔で、代わる代わる教えてくれると言ってくれた。


「…で、ここがこうなる」

「……英語みたいだ」


意外にもルックが一番教え方がうまかった。

というよりも、アルファベットが違う文字に置き換わっているだけで、文法は英語とほぼ同じなのだ。

単語の意味も元いた世界と同じ。『デスク』に相当する単語の意味はやはり『机』なのである。

書き言葉と話し言葉が違うというのもおかしなものだが、深読みするともしかしたら、

自分が今聞いている言葉は日本語ではなく、紋章によって翻訳された多言語なのかもしれない。

深読みするときりがないと思ったはかぶりを振って思考を中断させた。


あとはいくつかの特殊な単語を覚えればならないのだが、これが難しい。

書く方は不慣れなのでどうやっても悪筆にしかならないが、読む方は絵本程度なら何とかなるようになった。

療養2日目あたりで傷を紋章で癒したのだが、それでもシュウは安静にしておけと言った。

なので兵士達を弔うために置手紙を置いて2日留守にして帰ってきたら、シュウに再び怒られる羽目になった。

手が泥だらけの理由を聞かれ、しどろもどろに誤魔化したことは記憶に新しい。






今まで着ていた、からもらった服は切り裂かれ、おまけに血で汚れてどうしようもなくなったので、

部屋に備え付けてあるワンピースをとルックに頼んで取ってきてもらった。

それを着て部屋に戻ると、血だらけだったであろうベッドは片付けられ、新しいベッドが置かれていた。

ただ壁に飛び散った血は拭いても染みになったらしく、ところどころが黒ずんでいる。

ホラールームと化した自室を眺めては苦笑する。

首から下げたペンダントをはずす。家紋らしき模様の下に字が書いてあった。


「クロ、ビ……クロービス?」


不思議な既視感に思わず息を呑む。

ともかくも行ってみようと思い直し、右手をかざした。


「ルルノイエ」


視界が白に染まった。






現れたのは街道に面した薄暗い裏通りだった。街道に出なかったことには安堵する。大騒ぎは好まない。

裏通りから出て、歩いている人に声をかける。ちょうど綺麗な女性が通りかかったので声をかけた。


「すみません」

「…何かしら?」


女性はを不審そうな目で見る。はペンダントを出して尋ねた。


「この辺に、クロービスさんの家はあるでしょうか」

「クロー…ああ、ハルモニアから来た貴族の人のことね。

それなら二つ目の角を右に曲がった突き当たりにあるわ」

「ありがとうございます」


道を教えてもらい、は街道を歩く。どうやらここは高級住宅街らしく、周りの家々は皆立派なものばかりだ。

その中で目的の家は周りの家々よりはやや小さ目といえたが、それでも大きいことには変わりなく、

前庭から家までの距離も相当のものだった。門兵までいる。

は立ち止まった。


――何と説明すればよいのだろう。息子さんは亡くなった、と言えばいいのだろうか。


そもそも殺したのは自分なのだ。果たして自分が伝えてもいいことなのか。

しかし、ここで悩んでいてもどうしようもないのだ。兵士――本人に頼まれたのだから。

は意を決して門兵に話しかけた。


「すみません」

「何だ」

「クロービスさんのお宅でしょうか」

「そうだが、お前は?」

「……この家の息子さんから、届け物を頼まれました」

「届け物?」

「これです」


はペンダントを兵に見せた。兵はそれを見ると驚き、「少し待ってろ」と言って家へ駆けていった。

少しして兵がロープ片手に戻ってきたときは少しまずい事態になったと思った。

は手をロープで縛られて、家の中に連行されていった。






煌びやかなホールに通される。

そこには老婆と綺麗な女性と小さな子供が立っていた。

皆金髪に碧眼である。ハルモニアでいう一等市民だ。

小さな子供は怯えて女性のドレスを握り、老婆と綺麗な女性はを睨んで静かに立っていた。


「ペンダントを」


女性が透き通った声で言った。

兵士はのワンピースのポケットからペンダントを取り出して女性に渡す。

女性はしばらくそれを眺めて、の前に来ると言葉を発した。


「このペンダントはクロービス家の者である証。これを手放すのは死ぬとき以外に有り得ません」

「………」

「息子はハイランド軍で部隊長を務めているはずです。何故、あなたがこれを持っているのですか?」


恐ろしく静かで冷たい声だった。

しかしそれは、の返事に対する予想と、その予想による悲しみ故であるように思えた。

は静かに告げる。


「息子さんは戦死なさいました」

「―――」


女性が息を呑む音が聞こえた。手で戻るよう合図し、兵を家から出した。

震える手で顔を覆い、床に膝をつく。


「……なんてこと………あの子が、ああ……」


しかし女性は顔を上げるとに問うた。


「……ですが、わたくしは同盟軍と息子の部隊の衝突の知らせを受けておりません」

「同盟軍への奇襲でした。また、同盟軍は本隊を出していなかったので」

「…………そう、ですか」


少しの間、女性は床を見つめていたが、やがて顔を上げるとに再び問いかけた。


「…誰が……誰があの子を殺したのか、あなたは知っているのですか」


女性の瞳は怒っているようには見えなかった。代わりに感情を読むことも出来なかった。

は浅く息を吸い、口を開く。


「―――私です」






女性は目を見開いてを見た。信じられないと目が語っている。

それもそうだろう。何せ、戦争の敵国である同盟軍の人間がここにいるのだから。

なにより、目の前の人間は息子を殺した張本人なのだ。


「奇襲を受けたとき、同盟軍はルカ皇子からの夜襲も受けていました。ですので、奇襲軍は」

「あなたが…奇襲軍を食い止めたと、そうおっしゃるのですか」

「…どうなんでしょう。息子さんは兵を一人でも多く生かすために一騎打ちを望まれました」

「そして…負けたのですね」

「――はい」


は小さな少女を目に留めた。

おそらく2歳かそこらの小さな少女は、ことの次第が飲み込めずに、ぬいぐるみを持ってきょとんとしている。


「……」

「……」


沈黙が降りる。息子の死を涙も流さずに受け止めるこの女性は何て強いのだろうと思った。

自分を恨むだろうか。憎むだろうか。――殺そうとするだろうか。

ロープで縛られた手が擦れて悲鳴を上げている。だが、解いてくださいと言えるはずもない。

暫くして女性が口を開いた。


「あの子は…」

「はい」

「あの子は最期に、どんな表情をしていましたか」

「表情…ですか」

「険しかったですか、あなたを憎んでいましたか、恨みながら死んでいきましたか」


無機質な声がホールに響く。女性の表情は俯いていて見えない。

兵士の最期の顔。忘れない。今でも覚えている。彼は――


「笑っていました。最期だというのに、苦笑したり、他人の心配をしたり」


彼は笑っていた。苦笑して、アルベルトの心配をして、の心配をして、気遣いながら死んでいった。

女性はその言葉に肩を微かに震わせた。パタ、パタと女性の顔の下の床に涙が滴る。

は女性の前の床に膝をついた。遺族にとってみれば、身内を殺した相手を恨むのが一番楽なのだろう。

悲しみも憎しみも全て、自分に押し付けてくれればいい。時間がかかってでも、受け止めるから。

そう、言おうとした。


「……………あなたを許します」

「え…」


女性の言葉に耳を疑う。――彼女は今、何と言った?


「ハルモニアからこの地へ来て…息子が兵士になると言い出したとき、言われたんです。

もしも自分が死ぬことになっても、相手を恨まないでほしいと。そのときは何を馬鹿なことを、と思いました。

恨まないなんて出来るはずがない。愛する子供を奪われた親の悲しみと憎しみは、きっと相手に向かうと」

「……恨んでください。私はあなたに、恨まれるだけのことをしました」


女性はゆるゆると首を振った。


「相手を全て悪いと思うことはとても楽です。実際、遺族からすれば相手が悪い。でも、あなたは違う。

あなた、息子のことを語るときのご自分の表情がどんなものか知っていますか?

とても悲しそうですよ。申し訳なさそうで、…まるで叱られる直前の小さな子供に見えます」

「………」

「――私は、あの子が兵士になると言ったときから、おそらく心のどこかで息子が死ぬことを予想していました。

息子はつねに死と隣り合わせになると。…それが、兵士になるということだと」

「………っ」

「覚悟はしていました。同時に、心のどこかで相手を恨む準備も。でも、事実は小説より奇なり、ね。

恨むべき相手は馬鹿正直に息子の頼みを叶えにきて、申し訳なさそうに項垂れて――」


ふわり、と良い香りがして、女性の腕がに回され、抱きしめられた。

肩がどんどん濡れていく。女性が泣いている。――いや、『母親』が泣いている。




「あの子を看取ってくれて…ありがとう」




何故この人はこんなに強いのだろう。その細い体のどこに、これほどの強さを隠しているのだろう。

息子が兵士で、覚悟をしているから。それもあるのかもしれないが。

しかし根本的な強さはこの女性特有のものだ。


――ああ、似ている。


かの兵士と母親は似ている。この人がいたから彼はあのように育った。強く、優しい人に育った。

少女が母親の傍によって尋ねた。


「ねえ、お兄ちゃんはまだ帰らないの?」











今夜は泊まっていってください、との女性の申し出をありがたく受けることにした。

置手紙も何もしてきていないが自分は哀しいことに、普段からあまり人と関わらなかったので大丈夫だろう。


「クロービス家は分家なんです。今、本家の方が旅の途中で寄ってくださっています」


と女性は言った。

そして、あなたはお客様ですから、紹介します、と言って、を彼の人の部屋まで案内した。

コンコン、とドアをノックして中の人物に呼びかける。


「ナッシュ様、いらっしゃいますでしょうか。もうお客様を紹介したいのですが」


聞こえた人名に耳を疑う。

ガチャリとノブが回って、中から青年が現れた。

金髪に青い目、深緑を基調とした服。年のころは、女性の息子――あの兵士と同じくらい。

青年はを目に留めるとにっこりと微笑み、手を取った。


「初めまして。ナッシュ=ラトキエです。よろしくお願いします――」


そしての耳に唇を寄せて、



「――異世界のお嬢さん?」



と言った。





は戦慄した。















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2004.9.26
2006.9.14加筆修正

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