3. おかしい。 おかしすぎる。 引っ越してから一週間が経った。 初日と翌日に有り得ないくらい濃い日を過ごしたせいか、それから後は至って穏やかな日々が続いた。 街で高校生に会うたびにやたら頭を下げられたりしたが、それはどうしようもないので放っておこう。 「猿でもできるエア・トレック」という本を買って河原で練習しているうちに壁のぼりが出来るようになったとか、 そういうことはどうでもいいのだ。 重要なのは、私はこの一週間、飲まず食わずで生きているのだということだ。 「ありえない」 そう言いながら私は買ってきたコーンフレークを食べる。ここにきて初めての食事だ。 どうやら人間の3大欲求の一つである「食欲」が欠けてしまったようで、空腹を感じない。 だが、その代わりに、満腹感も得られなくなった。 私はセーラー服に着替え、筆記用具のみを入れたバッグを持って家を出た。 今日が登校初日だ。 道のりは父親が地図を描いておいてくれたので迷いはしないはずだ。多分。おそらく。きっと。 エア・トレックを履いて坂道を下った。 職員室で学年主任のオリハラ先生の前に立って、校則などの簡単な説明を受けた。 「――と、まあこんなところだ。何か質問はあるか?」 「一ついいですか?」 「何だ」 「エア・トレックでの登校の許可を貰いたいのですけど」 オリハラ先生は訝しげな表情になって、「ダメだ」と言った。 「エア・トレックは危険だ。この間も死人が出たそうだからな」 「でも、理由があるんです」 「言ってみろ」 「私は引っ越してきたばかりで道をよく知りません。なのでいつか迷います。 遅刻を防ぐためにも、スピードのあるエア・トレックは必要なんです。 それに私の持っているものはファッション性の強いものなので危険はあまりないと思います」 一気にまくし立てる。 そうなのだ。遅刻は何としても避けたい。これも元・進学校ゆえか。 「ふむ…そういう理由なら…。……校長に聞いてみないと何とも言えんが、まあいいだろう。遅刻は困る。 校長からの正式な許可をもらうまでは俺が許可する」 「ありがとうございます」 許可ゲット。 「それで、君のクラスだが…」 オリハラ先生は何やら書類を見て溜息をこぼし、職員室を見渡して、また溜息をついた。 「君のクラスは2年1組だ。担任は富田先生。まだ来ていないようだがな」 ということは、南樹や美鞍葛馬やオニギリと同じクラスなわけだ。 本当に、どこまで都合がいいのだろう。 そんなことを考えていると、職員室のドアが勢いよく開いた。 「ごっ…ごめんなさい!私、寝坊しちゃって…!転入生さんはどこ!?まさか私があんまり遅いから帰…」 「いや、いますからココに」 オリハラ先生の的確なツッコミが入る。 入ってきた女性――富田毬は私を見つけると急いで寄ってきてお辞儀をした。 「たっ担任の富田毬です!さん…であってるわよね?」 「はい。よろしくお願いします」 ピンクハウスの一歩手前のような服を来た富田毬は可愛い。とても教師には見えない。 富田毬はにっこり笑って、 「じゃあ、さっそく教室に行きましょ!」 と言った。 教室のドアの前の廊下に立って呼ばれるのを待つ。 暫くして「さん、入ってきてー」と言われ、引き戸に手をかける。 手が震える。心臓が速鐘のようだ。こんなに強い緊張を、私は未だかつて経験したことがない。 扉を開けた。 途端、 「いよっしゃあ!女子だ!これで掛金は俺のもんだ!!」 「ずりいぞイッキ!…くっそー、俺も女子にしときゃよかった…」 「誰だよ『ぜったい男子!』なんて言ったの!」 「あたしだけど。何か文句ある?」 「い、いえ…」 唖然とする。 作中でオリハラ先生が1組の事を「東中のアフガニスタン」「無法三角地帯」と評していたのがよく分かる。 結局自己紹介はあまり聞いてもらえず、私は窓際の一番後ろという、絶好の居眠りポイントをあてがわれた。 友達、できるかな。 休み時間お決まりの質問タイム。 自己紹介を聞いてもらえずとも質問はあるらしい。 「さんってどこから来たの?」 「200キロくらい南のとこだよ」 「ふうん…。じゃあ今はどこに住んでるの?」 「アパートに住んでるよ。ええと、名前なんだっけ」 「中山だよ。よろしくね」 「こちらこそ」 性格の良さが売りの中山さん。何だか本当に良い人だ。 「ねえねえ!ちゃんって呼んでいい?私、安達絵美理!絵美理って呼んで!」 「あ、うん」 「それでね、ちゃん転校してきたばっかだから知らないと思うけど、東中には『ガンズ』っていうのがあって」 「ガンズ?」 知らない振りをしてみる。 「うーん、この学校を仕切る人っていうのかなあ。でも、他の学校から守ってくれたりもするんだよ!」 「へえ」 「で、あそこに頭にカラス乗っけてる人がいるでしょ?あれが『ベビーフェイス』の南樹。すっごく強いんだよ」 「頭からカラスが生えてる…」 「ときどき他の学校と対決したりもするから、そのときは一緒に行こうね!」 「いや、喧嘩はちょっと…」 そんな感じで休み時間が終わった。 後の授業は大抵寝ていた。 さすがに社会や理科は中学校の範囲なので思い出すためにもちゃんと受ける必要があった。 数学と英語は一応高校生だったので何とかなるだろう。 南樹と私にはさしたる接点もなく、ただ時間だけが過ぎていった。 中山弥生と安達絵美理という友人を得て、他校との喧嘩に巻き込まれることもなく、季節は変わった。 期末考査は高校生の意地で学年1位をとった。 2学期が終わり冬休みになって、そして1人の正月が過ぎて3学期になった。 相変わらず空腹をおぼえることはなく、冷蔵庫は空のときが多くなった。 河原での練習は回数を重ねるごとに少しずつ上達し、たまに坂東ミツルが来た。 走るスピードが速くなって、壁のぼりになれた、その程度の成果だったけれども。 私は、異常なまでの力の強さと体の軽さが自分にあることを知った。 体の軽さはともかく、力の有効利用する手段は見つからなかったが、件のスカルセイダースには効いた。 彼らは相も変わらず私に頭を下げた。リーダーに勝ったのがよほどショックだったらしい。 私に起こった異様な変化について最初は驚いたが、今は気にしないことにしている。 なぜエア・トレックがあるのかとか、何で体が軽いのだとか、どうでもいいじゃないか。 そのうち何か起こるだろう。なければこの状態で一生を過ごすだけだ。 それも悪くない。 ああ、あともう一つ。 年末ジャンボ宝くじ、2億円当たりました。 「当分仕送りはいらないな」 そんなわけで両親に電話をして仕送りをとめてもらった。 電話機は無いので携帯で。世界携帯ありがとう。 時の流れはとても早く、もう2月だ。 去年の終わりごろから弥生と絵美理の様子がおかしくなったが、夜王が活性化でもしたんだろう。 私は帰宅部なので、夜王の被害に遭うことはなかった。 いつものようにセーラー服に着替え、筆箱とノートしか入っていない鞄を持つ。教科書は全て学校にあるのだ。 エア・トレックを履いて学校に向かった。 一度もカスタマイズとかメンテナンスとかしていないけれど、大丈夫なのだろうか、このエア・トレック。 「あ、おはよう」 「おはよう、弥生」 教室に入ると弥生が声をかけてくれた。今日も彼女の下方ツインテールは絶好調だ。 私は教室を見渡す。 雰囲気がいつもと違う。皆、うきうきワクワクドキドキハラハラ。そんな感じだ。 「おっはよー!」 「はよ、絵美理。今日何かあったっけ」 「へ?何かって?」 「いや、雰囲気が何かいつもと違うから」 「ああ」と弥生が手をポン、と叩いた。 「今日は年に1度、東中と西中の縄張り争いがある日なの。それで皆楽しそうにしてるのよ」 「そうそう!私達は部活で行けないんだけど、、暇なら行ってみれば?強いよー、イッキ君は」 「暇だったらね」 ゾク、と背筋に冷たいものが走った。 私はとうとう入り込んでしまったのだ。 「流れ」に。 --------------- 前回が長かったので、今回は少し短いです。 エア・トレックって運動神経抜群でない限り、覚えるの大変そうですよね… 2004.7.30 back top next |