抜けるような青空、流れる白い雲。
 豊かな緑に囲まれた、その湖水はどこまでも澄んでいる。
 湖面に聳える白亜の遺跡に人々は集い、営み、そして生まれる感情のうねりが城に命を吹き込んでいく。
 ――王子軍、その本拠地。

 ファレナ女王国南西に位置するセラス湖に突如として出現した古城である。
 女王アルシュタート・ファレナスと、夫にして女王騎士長であったフェリド・ファレナスの死後勃発した内乱において、新女王リムスレーア・ファレナスおよび新女王騎士長ギゼル・ゴドウィン率いる女王軍に対抗するべく、王兄・ファレナスを中心に結成された王子軍。
 結成当時の規模はいまや面影なく、軍に従事するもの、そうでないもの、立ち寄っただけの商人、それら全てを受け入れ、城は大きくなっていた。

 いつ戦いが始まるか分からない。もしかしたら明日かもしれないし、一ヵ月後かもしれない。
 小康状態に陥った戦況に不安を感じながら、それでも人々は笑顔だった。
 彼らは皆一様に、頂点に立つ人物を信頼していた。あの方がいるなら大丈夫、あの方のためならいつだって頑張れる――それは決して、「彼」の外見や肩書きによって作られたものではない。
 「彼」は、軍主・ファレナスは、真実、己の力によって信頼を勝ち取っていた。
 類稀なカリスマ性、人心を捉えて離さない魅力。自分の持つ全てを彼は自覚し、利用した。

 ニルバ島にて群島諸国連合の使節代表であるスカルド・イーガン提督と縁を築いてより一月。ゴドウィン家の支配下にあるドラートに小さな動きが見られる。
 そろそろ束の間の平穏も終わりだろうと、幹部の誰もが思っていた。
 だから、笑っている。
 この平穏を胸に抱き、帰結する世として心に刻む。
 それこそが――望む未来だと信じて。



最大にして最低限の愛




 王兄・ファレナス。ファレナ女王国でその名を知らないものは、おそらく存在しない。
 女王軍に対する王子軍の軍主として。それ以前は、王位継承権を持たない無位の王子として。
 あるいは――「極悪王子」の異名と共に。

「つーか、暇すぎて欠伸でます。ギゼルの野郎もちんたらやってないで早く行動起こせばいいのに。使えない」

 セラス城の一角、湖に臨むテラスを備えたレストランで、銀色の髪を風に遊ばせ、国宝の三節棍をいじりながらは言い切った。
 テラスにいる他の客は、敵対勢力の首領であるギゼル・ゴドウィンが「野郎」「使えない」と言われたことに何事かと体を強張らせたが、言葉を発したのが彼らの軍主だと知るやいなや、「ああまたか」といった風に各々の時間を取り戻した。
 その行動を逐一観察しながら、は向かいに座る人物に目を向ける。
 色素の薄い茶髪に蒼穹を思わせる碧眼。全体的に色調を抑えた身軽な服装のなかで一際目を引く赤いハチマキ。椅子に立てかけられた双剣が微かに音を立てる。
 彼は群島諸国出身の青年で、名をという。ニルバ島ではスカルド・イーガンの傍らにあり、幸か不幸かに気に入られてしまったがためにこの城まで引き摺られてきたという経緯の持ち主である。
 基本的に無口なその青年は、の言にさして驚くこともなく、静かに紅茶のカップを傾けた。

「先生もそう思うでしょ。動きを察知されるなんて、情報統制がしっかり出来てないんじゃないか、女王軍」
「…………」
「そもそも俺達をこの規模になるまで抑えられなかったことが駄目だ。本当にこの国を奪う気があるのなら」

 は三節棍を組みなおし、ヌンチャクから棍に変形させると、の額に突きつける。

「王子軍(おれたち)なんか軽くいなさなきゃ意味がない。そう思いませんか、先生」

 好戦的な色を双眸に込め、は笑みを浮かべる。
 は微かに溜息を付いて、口を開いた。

「……ギゼルとやらに直接言ってやれ」

 ――俺に言われても困る。
 言外にその意を含ませた言葉に、は嬉しそうに微笑んだ。
 もともとは端正な顔立ちをしている。それを自覚した上で、どう動かせばより効力を発揮する表情を作れるか日々模索している彼の笑みは、テラスでの動向を密かに伺っていた人々の心を一瞬にして鷲づかみにした。
 ほう、と感嘆の溜息がそこかしこで零れるのを一つ残らず聞き取ったは、三節棍をヌンチャクに戻すと折りたたんでテーブルに載せる。

「俺としてもそうしたいんですが。あいつ、ソルファレナに引きこもってるんですよね。こっちはほぼゼロの状態から成り上がってる最中なんで王都を攻めるのは流石に時期尚早だし」

 ――というかわざわざ俺から言いに行くなんて面倒くさいこと、ギゼルごときにする義理ありませんよ。
 「ギゼルなんかよりこの間仕入れた稚魚の生育具合の方がよほど気になりますね」と、どこまでも尊大なの態度に、は一瞬だけ眉を動かす。
 向かい合った二対の碧眼は、聞こえてきた声に逸らされた。

「――王子、王子!こちらにいらっしゃいましたか!」
「……リオン。何があった?」

 肩に届かない程度の黒髪を揺らしながら駆けてきた少女の姿を不思議そうに見ながら、は問いかけた。女王騎士見習いにして、幼いころからの従者を勤めてきたリオンである。彼女はが同席しているのに気付くと一瞬の躊躇いを見せたが、の頷きに、肩で息をしながら報告を始めた。

「酒場、で……っ、……言い争いが起きて……」
「またか。リオンが来るってことは俺に関する揉め事だな。誰だか知らないけど、不愉快極まりない」

 一度徹底的に懲らしめる必要がある、と愛用の武器を片手に備え、は立ち上がる。

「じゃ、行くぞ」
「あ、ま、待ってください王子!続きが……」
「え、まだ何かあるの?」

 意外そうに振り向いたに、リオンは申し訳なさそうに俯く。

「はい、あの……言い争っていた者達が段々エスカレートして、物を投げつけあい……」
「請求書は細かく作ってそいつらに渡そう」
「運悪く、投げたものが酒場で演奏の練習をしていたコルネリオさんに当たってしまい」
「『凡俗が!』って叫んでるだろうね」
「演奏が中断、ドレミの精たちは混乱」
「…………」
「そこに便乗したレーヴンさんが乱入して」

 なおも続く酒場の惨状を、はリオンの眼前に手のひらを広げることで制止する。
 そして額に手を当てて溜息をついた。リオンも、困ったように嘆息する。
 はそんな二人を見て常人には見分けられないほど僅かに目を細める。目の前の光景は、自身の過去でもあった。今は遥かに遠い、空と海に抱かれ駆け抜けた時代。

 とリオンの背中を見送り、冷め切った紅茶を全て飲み干した後、は双剣を手に取った。



 普段は、大人たちが静かに語らう場として機能している、昼の酒場。
 しかしその様相は一変し、今やテーブルが倒れ、椅子は折れ、酒瓶の飛び交う騒動の中心となっている。

「……あんなガキの軍主に一体何ができるってんだよ!!!」
「貴様、殿下を愚弄する気か!?」
「はっ!お前らはデンカ、デンカって言って持ち上げてりゃ満足なんだろ、この太鼓持ち集団が!!」
「なんだと…っ!」

 ヒートアップする口論。つかみ合っているのは傭兵と、王子軍結成時に合流したファレナ国軍の兵士である。
 周囲ではパニックに陥ったドレミの精たちが棚のビンをなぎ倒している。昼間から酔っているのか、顔を赤くしたレーヴンとノルデンが笑いながら囃し立てている。
 あまりに低俗な光景には一旦踵を返しかけ、しかし口論の原因が己であることを聞き逃すことも出来ず、眉間にしわを寄せ、心底嫌そうな表情を全く隠さず全面に押し出し、酒場に足を踏み入れた。
 騒ぎの元に向かいながら、逃げ遅れた人間がいないか確認するため視線を酒場全体にまわす。大部分はすでに酒場を出ており、機会を逃した人々もカウンターに隠れている。
 この分なら人的被害は少ないか、と思いかけたところで、は、酒場の隅でジュースを飲んでいる人物に目を留める。大物と言うべきか、空気の読めない粗忽物と言うべきか。だが、それが誰であるかを理解した瞬間、は怪訝そうに眉を寄せた。

 その人物は、名をという。

 彼女がいつから王子軍に加入しているのか、詳しいことをは知らない。もちろん軍に所属する全存在の加入経緯は洗っているが、明らかにシロだと判断された者についてまで覚えている余裕などない。
 知っているのは彼女が女であることと、ある人物を探して加入したらしいこと――それくらいだ。
 その程度の認識なので、この酒場にいる理由もさっぱり分からなかったが、目を凝らせば彼女の周りに薄く魔力の結界が張られていることに気付く。おそらく何らかの紋章魔法を使って身を守っているのだろうとは判断し、周囲への無関心とも言える態度に納得する。彼女は己の安全を確信しているのだ。

――ならば、良い。
 
 は口角を吊り上げる。目に獰猛な獣の光を宿して。そうして息を吸い込み――

「ごちゃごちゃうるせーよ、この馬鹿どもが!!!」

 力の限り、叫んだ。



 一瞬にして静まり返った酒場の中を堂々と歩きながら、は騒動の原因である傭兵と兵士の前に仁王立ちになると、冷め切った視線を彼らに落とした。
 二人は認識が追いついていないのか目を丸くしている。しかし、には関係ない。

「お前らちょっと湖潜って魚獲ってこい。夕食分の」
「え?」
「は?」
「『え?』でも『は?』でもねえよ。魚獲ってこいっつってんの。これだけ面倒くさい真似しておいて、拒否するわけないだろうな」

 切れの悪い返事に、両手で二人の襟首をで掴み、ぎりぎりと締め上げる。
 そのままにっこりと微笑めば、傭兵と兵士は状況も忘れてに見惚れる。
 その表情の変化を見逃さず、すかさず手を離し、傭兵を足で踏みつけ、兵士の背に三節棍を立てる。
 二人は流石にその状況から抜け出そうと抵抗を試みるが、はそれを許さない。そして、許さないだけの力を、これまでの逃亡と抵抗の日々で手に入れてきた。それに気付いたのか、足元の彼らが愕然とした表情を見せる。
 はくぐもったうめき声を上げる二人を意に介さず、酒場をぐるりと見回して溜息を吐いた。

「お前らのおかげで、少なくとも、今日酒場に来ようと思っていたやつの予定が変更になったわけだ。
ついでに掃除と修理に人手が駆り出され、損失額の計算で事務担当の就寝が遅くなる」
「……」
「……」
「こんな有様だ、力のある奴らも何人か回さないといけない。ドラートに動きがあるってんで、遠征予算の組み立てを急ピッチで進めている事務方は追加の仕事に仮眠返上だな。……おいこら、結構な打撃だぞ」

 分かっているのかと凄めば、二人は伏せたまま顔を青くしてブンブンと首を上下に振った。

「じゃあさっさと湖に落ちて来い。必要数はレストランの奴にでも聞け。達成するまで戻って来るな。
……ああ、あと」

 この上まだ何かあるのかと、もはや顔色を失くした傭兵と兵士は力なく床に身を任せる。
 傭兵の上から足をどけ、三節棍を控えていたリオンに投げ渡すと、は二人の前にしゃがみ込み、再び襟を掴むと強引に目線を合わせた。

「お前らが所属している軍の軍主は誰だ?」
「……で、殿下です」
「……王子殿下、だろうがよ」
「そうだな。王位継承権のない第一王子で眉目秀麗かつ文武両道の、この俺だ」

 あまりの自画自賛振りに、周囲の野次馬の大部分は何とも言えず苦笑する。
 しかし誰も否定しない。事実だからだ。

 初代女王の再来とも言われるほどの美貌、しかし決して女性的とは思わせない不思議な魅力。
 齢5つにして既に政務の一端を担ったほどの明晰な頭脳と、王家としての矜持の高さ。
 王子軍に所属する人間ならば知らぬ者はない、磨き上げられた武力。

 そして――それら全てをを台無しにし、同時に引き立ててているのが、この性格であった。

 ソルファレナ中の無頼漢に一人で喧嘩を売り、素手で倒し、あまつさえ支配下においたという暴力性。
 たとえ他国の王侯貴族であろうとも、気に入らなければファレナに決して害を及ぼさぬよう周到に準備を重ねた上で、精神的・社会的に落とし込んでいくという悪質さ。
 時には自らの容姿をも利用して相手を追い詰めていく様は、王宮だけでなく国民の語り草となっている。
 結果的に他国でつけられたあだ名が「極悪王子」だ。

 王族にあるまじき行動の数々。人々がリムスレーア姫の誕生に安堵の息を漏らしたのは言うまでもない。
 だが、それでもファレナの民は、のことを愛している。の、国民に対する愛情を微塵も疑っていない。
 第一王子は、人生の全てをファレナのために捧げている――その事実を、知っているからだ。

 傭兵と兵士は、軍主であり、王子である人間から向けられる鋭い視線に身を竦める。
 そんな彼らを見て、は口を開いた。

「確か、『俺に何ができる』って話だったよな。教えてやろうか。
……俺は一人で10万20万を殺せるほど人間離れしちゃいねえよ。けどな――」

 ニィ、と口角を吊り上げたその表情は、まさにあだ名に相応しいものだった。

「『お前ら』が手足として動く限り、『俺達』に負けはあり得ない。何せ軍主が俺だからな。よく覚えておけ。
――俺と軍に従い、尽くせ。そうすれば、全てを取り返してやる。

それでも何か言いたかったら、直接俺のところに来い。喧嘩はいつだって受け付けてる」

 言い切って、は立ち上がる。
 傭兵と兵士は数秒呆然としていたが、ややあって、おもむろに立ち上がり、酒場を後にした。
 野次馬の数も次第に減っていく。

 は、損害を確認するためにもう一度酒場を見回した。当然だが、が説教している間に、ドレミの精やコルネリオ、レーヴン、ノルデンらは消えうせている。
 だが、一人だけ残っているものがいた。である。
 相変わらず隅のテーブルでジュースを飲んでおり、目の前で繰り広げられた騒動にさして驚いた様子もなければ、「極悪王子」の言動に気分を害した風でもなく、ただ淡々とを見ている。
 そしてジュースを飲み干すと、何かに祈るように両手を合わせ一礼し、席を立った。
 そのままの横を通り過ぎるが、酒場を出ようとする直前、何かに気付いたように振り返った。

「ビンが、たくさん割れました」
「……見れば分かるけど」
「ああ、いや、そういうことではなくて、ええと……歩くとき、気を付けてください」
「はあ?」
「いえあの、サンダル……?貫通するかもしれないと思って」

 「では」と言って何事もなかったかのように去ったを、ポカンとした表情で見送ったは、ハッとして自分の足元を見た。そして呟く。

「……そんなにヤワな代物じゃないから、これ」

 リオンが三節棍を渡しながら、堪えきれずに噴き出した。



 大窓から吹き入る風が、湖の反射光にきらめく銀髪を無造作に撫で上げる。
 城の最上部に一人で佇みながら、は息を吐いた。
 ――否、一人で、というのは正確ではない。背後にある扉の向こうには、『約束の石版』を管理する魔女・ゼラセと、考古学者だというツヴァイクや、シンダルの遺跡に並々ならぬ執着を見せるローレライらがいる。
 けれど石版の間から滅多に出てこないから、ここは、たとえ擬似的なものであっても、が『独り』になれる唯一の場所だった。
 その静寂に、音も、気配すらも消して、一人の青年が侵入してくる。
 胡乱な目を向けたは、それがであると分かった途端、わずかに目を見開く。
 の隣に立って大窓から城と湖を見下ろし、数分。前触れなく、が呟いた。

「稚魚は、順調に育っているそうだ」
「……わざわざ見に行ってくださったんですか。ありがとうございます」
「放流した魚達も湖の生態系を壊すことなく増えている」
「まあ、調べ抜きましたからね。在来種との相性は抜群のはずです」
「魚の供給量も安定してきたとレツオウ殿が喜んでいた」
「…………何が言いたいんですか」

 溜息を吐いて、は湖に目を下ろした。城からさほど離れていない位置に小さなボートが一艘、場違いに浮いている。乗船している人までは流石に分からないが、おそらく騒動の二人だろう。
 もそれを見たのか、気配だけで笑うという離れ業をやってのけた。

「相変わらず、甘いな」
「それが俺のスタンスで、『求められていること』ですから。……先生、やけに機嫌が良いですね」

 いつになく饒舌なを不思議に思ったのか、が小首を傾げる。
 誰かが見れば間違いなく頬を染めたであろうその仕草に何の反応も返さず、は答えた。

「久方ぶりに旧知と話した」
「そうでしたか。……ああ、旧知と言えば」

 の言う『旧知』が誰か、などという愚問をは口にしない。横に立つ人物の実年齢が外見とかけ離れていることを知っているから、誰と顔見知りであっても、それは決して驚くようなことではない。

「先生は、『』という人物の後見人でしたね」
「まあ、書類上は」
「ならば人となりくらい知っているでしょう?……何なんですか、あいつ。本当に『一般人』ですか?」

 彼女が身辺調査で『明らかにシロ』だと断定された理由――それは、『』が後見人として名乗りを上げたからだ。正しくは、の素性について保証する、と自らの名において宣言したためである。
 群島諸国筆頭、オベル王家の血を引く、150年前の生きた英雄。その人物が名を出してまで守った一般人。
 信じられないほど胡散臭かったが、それ以上言及することもできずに調査は打ち切られた。
 オボロの悔しそうな表情が珍しかった。しかし、は特に興味を抱かなかった。
 にとって必要なのは、『それ』がファレナに害を及ぼすか、及ぼさないか、ただその一点のみだ。

 だが――

「俺は、自分の外見と能力がとんでもなく良いことと、中身とのギャップが激しいことくらい自覚してます。それを利用してきたし、これからも利用していくつもりです。だけど、あいつ――『』に、通じていない」

 根拠があるわけではない。本人から話を聞いたのでもない。ただ直感で、は確信していた。

「先生に通用しないのは理解できます。あなたは色々と規格外ですから。だけど、あの女は違う」

 『一般人』なんでしょうと、少しも信じていない口調で言い放つ。真実ただ人ならば、視認が難しいほど薄い上に強度を保った結界など、展開できるはずがないのだ。
 は、数瞬口を閉ざし、と目を合わせると、言葉を探すように紡いだ。

「……これは、個人的な見解だが」
「構いません」
「おそらく、驚いてはいたと思うぞ。ただ、その後――『そういうもの』として受け入れたのだろう」

 『アレ』はそういう性質のものだ、と。
 言われた言葉を理解し、は顔を顰めた。

「受け入れた?『そういうもの』?……じゃあ、別の方向から突くしかないってことですか」
「いや」

 は、言いたいことが言葉にならない歯痒さを感じていた。いつだって、『アレ』の話をするときは表現に困る。忌むべきものではない――けれど、決して喜ばしい存在でもない「それ」を、どう言えばいいのか。

「無駄だろう。『アレ』は全てを受け入れる」

 その言葉に、は激昂した。
 拳で壁を殴り、を睨みつける。荒くなった息を深呼吸することで落ち着かせ――鼻で笑った。

「『全て』、ですか?――そんな人間いてたまるか」
「…………」
「俺といくつも違わない人間がそんな性質、持てるはずがない。そんな容量を持つ存在を、俺は人と認めない」

 は黙ってを見つめる。その眼がどのような感情を映しているのか、には分からなかった。ただ感情の赴くままに言葉を投げつける。
 気に入らなかった。この状況も、の語るの性質も、それに激する己自身も、何もかも。
 「ただ国民のために在れ」という王家の中で築き上げてきた『象徴としての王子』を、崩すことができる得体の知れない何かが、『一般人』の少女から漏れ出ている。
 その事実は、否応なくに危機感を抱かせた。

「――そんなもの、ただの、化け物だ」

 そう言い捨てて、は踵を返す。

「くだらない話をしました。時間をとらせてすみません」
「……いや」
「ドラート進攻のための会議があるので失礼します」
「ああ。――
「なんでしょうか」

 振り返ることなく答える少年に、はいくつかの思いを込めて声を掛けた。

「いつか、話してみると良い――と」
「言われなくてもそうします。化けの皮を剥いでやりますよ」

 一瞬だけ振り返った際に見えた凶悪な目つきに、幾分の身を危ぶみながらも、は黙って頷いた。



 が去った後の空間に、再び静寂が広がる。
 は窓の桟に両腕を預け、背中で風を受け止めた。

 ――『アレ』が動いている限り、の性質は本人の意思と関係なく『アレ』の性質に引き摺られる。
 ――に対する一切の悪感情を抑制し、ただ愛おしむ感情だけを与える。
 なるほど、確かにぞっとしない。特に、負の感情を利用するにしてみれば、天敵もいいところだ。

 けれど、あの少年ならば。
 太陽に愛されたこの国で、日陰に生きながら灼熱の激しさを身の内(うち)に抱き続けている、彼ならば。
 あるいは、『アレ』のことなど奇麗に無視して、本質を見つけることができるのではないか。

 そんな夢のような確立を、は結構信じていた。同じ星を戴く者の直感とでもいおうか。

「あとは、お前が早く見つかればいいんだがな。……なあ、『お父さん』」

 お前の『娘』は、大分厄介な奴に目を付けられたぞ、と。

 体を反転させて湖に向き合いながら、はこの日初めて、気配だけでなく苦笑した。
 吹く風の中に微かに別の匂いが混ざったような、懐かしい感覚が脳裏を過ぎる――





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2011.2.1
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