物語の終わりを教えよう。
 つむいだ物語を数えよう。
 それはある時に道から外れてしまった話で、修正されないまま次々に積み重ねられた話でもある。
 だから彼女は――物語の始まりを作ってしまった彼女は、自らを以て幕を引いたのだ。



色彩独奏競争曲番外・小組曲「簪姫」
観客 編




『物語・簪姫』
 むかしむかしあるところに、簪姫というお姫様がいました。
 簪姫は気立てがよく聡明で、とても美しかったため、二番目の王子様の女官として働くことになりました。

 ある日、簪姫は一番目の王子様と出会いました。
 一番目の王子様はとても優しい人でしたが、周りの悪口にいつも悩んでいました。
 簪姫は哀れに思い、そっと手をとって優しく言いました。
 「王子様は何も悪くありません」
 一番目の王子様の目に涙がたまります。それまでの我慢がついにあふれてしまったのです。
 「あなたは誰ですか、美しい人。どうかずっと私のそばにいてくれませんか」
 簪姫は一番目の王子様の言葉に返事をすることができませんでした。
 それもそうです、簪姫は二番目の王子様の女官です。そばにいることはできないのです。
 しかし簪姫は、そう告げることもできませんでした。
 簪姫もまた、優しい一番目の王子様に惹かれていたからです。

 それから何年かが経ち、簪姫はその美しさを見初められ、王様のお妃様の一人になりました。
 王様は簪姫にいいました。
 「どうか我が子らを守ってほしい」
 王様には六人の王子がいましたが、残っているのは一番目と三番目と四番目、六番目でした。
 一番目の王子様はすこし悲しそうな顔で、簪姫がお妃様になったことを祝福しました。
 三番目と四番目の王子様は簪姫の位が低いことを馬鹿にして帰っていきました。
 六番目の王子様は、何日経っても来ませんでした。
 しかし、それからまたしばらく経って、六番目の王子様は女官に手を引かれてやってきました。
 服はぼろぼろで傷だらけ、かすかに水のにおいがします。
 かわいそうに思った簪姫は、それから六番目の王子様の世話をするようになりました。


 ここで少し、簪姫の故郷についてお話ししましょう。
 簪姫には故郷がふたつありました。
 ひとつは彩雲国です。もうひとつは日本という、簪姫の心の中にある国でした。
 だれも知らない日本のことを、簪姫は信じていました。
 自分は日本に生まれ、日本で育ち、ある日彩雲国に来たのだと。しかしだれも信じませんでした。

 大人になるにつれて、簪姫は人前で日本の話をしなくなりましたが、その代わりに本を書きました。
 日本にあるもの、行われていること、地形など、とりとめもなく書きました。
 誰にも見向きされない本でしたが、ある家のご当主様だけは面白がって買いました。
 簪姫はまた、さまざまな話を子供たちに聞かせました。
 それらは全て日本で話されている物語です。中には日本ではない、別の国の物語もありました。
 お城に来る前に仕えていた家の子供は喜んでくれました。
 お城の六番目の王子様も目をかがやかせて続きをねだりました。
 けれどもやはり、周りの大人たちからは見向きされなかったのです。
 しょせん世間知らずの妃が作った夢の話だといわれてしまえば、簪姫に言い返すすべはありません。
 だって日本はどこにもないのです。


 やがて仕えている女官からも愛想をつかされてしまった簪姫でしたが、一番目の王子様だけは味方でした。
 「ぼくはあなたを信じている。日本という不思議な国をあなたが信じるなら、ぼくも信じよう」
 一番目の王子様はそう言って簪姫をなぐさめてくれました。
 一番目の王子様はずっと簪姫をおもってくれていたのです。
 簪姫も、一番目の王子様への恋心を忘れてはいませんでした。
 簪姫は物語を一番目の王子様に語りました。一番目の王子様は優しく聞いてくれました。

 あるとき、簪姫はふしぎな少年に出会いました。
 少年は簪姫の話す物語をすべて知っていました。
 まだ話したことのない物語も知っていました。
 日本のことも知っていました。
 簪姫は嬉しくなって、たくさんの物語を少年に話しました。少年もいろいろな話をしてくれました。
 ですがある物語を話したとき、ふたりはあることに気付きました。
 おなじ話をしているはずなのに、ふたりの語る物語にはちがっているところがあったのです。
 簪姫は自分のおかした間違いに気がつきました。
 とてもとても大きな間違いを、間違ったまま、放っておいてしまったのです。
 「そんなこともありますよ」
 と少年はいいました。けれども簪姫はゆるせませんでした。
 簪姫は物語が大好きでした。
 だからこそ、間違ったままにしておくことができなかったのです。

 物語を正そうとした簪姫は、牢屋に入れられてしまいました。
 優しい一番目の王子様も、簪姫をかばおうとしたためにつかまりました。
 簪姫は一番目の王子様にあやまりました。
 まきこんでしまってごめんなさいと、何度も何度もあやまりました。
 一番目の王子様は簪姫の手を優しく取っていいました。
 「あなたは何も悪くありません。ぼくは後悔していません。ぼくはあなたをあいしています」
 簪姫の目から、しんじゅのような涙がこぼれました。

 もうひきかえせないことは、ふたりとも知っていました。
 明日には処刑されてしまうでしょう。
 けれども二度とはなれたくありませんでした。
 簪姫はかくし持っていた毒の針を、一番目の王子様に差し出しました。
 優しい一番目の王子様は、みずからの守り刀を簪姫に渡しました。
 そうしてふたりは手をつないで、いっしょの時間、おなじ場所で、永遠に離れない誓いを立てました。

 簪姫は物語を正すことができたのでした。





「最後の一文が意味不明だなあ」

 あははと笑って、私は書き上げた物語を火にくべた。この話が人の目に触れることのないように、念入りに、全てが灰になるまでを見届ける。

 白雪姫に灰かぶり姫。
 十人の子供。
 病気が治る、不思議な果物。
 かまどに恋をした雪玉。
 願いを叶える茶器。
 落ちてしまった卵。

 スノーホワイトとシンデレラ。
 十人のインディアン。
 不思議なリンゴの木。
 アンデルセンの雪だるま。
 アラジンのランプ。
 ハンプティ・ダンプティ。

 彼女が語った物語は、全て懐かしい童話ばかりだった。それは私が『私』だから思えることで、彩雲国の人々にはさぞかし不可思議な話だっただろう。
 日本に生まれ、日本に育ち、ある日突然彩雲国にやってきた簪姫。彼女は『簪姫』であると同時に『日本人』でありたかったらしい。今までの人生を否定したくない――と、最初で最後の会話の中で言っていた。

『私、彩雲国物語が好きだったの。秀麗や劉輝たちが成長していくのを読んでいるのが楽しかったわ』

 そう語った彼女は、自らの行動を『罪』だと言った。

『第一公子は死ぬはずだったのに。私、彼を生かしてしまった。好きになってはいけなかったのに』

 越えてはならない一線だったのだと、彼女は泣いた。

『第六公子――劉輝様のことだってそう。愛着を持ってはいけなかったのよ』
『生きるうえで生じた感情の揺らぎを抑えろっていうのも変な話だと思うけど』

 反論してみるものの、実のところ私も、彼女の行動が引き起こした事態をどう見るか悩んでいた。朝廷内で第一公子擁立の動きが盛んになっていたのだ。それもそのはず、母親の身分も生まれた順番も、全てにおいて第一公子のほうが、第六公子・紫劉輝に勝っていた。
 迷いが表情に出てしまっていたのか、簪姫は静かに笑った。

『ごめんなさい、こんなつもりじゃなかったの』
『…………』
『自分の罪は、自分で決着をつけなきゃいけないわね。
間違ったことをしたつもりはなかったのに――どうしてかしら。人を愛するのがこんなに難しいだなんて』

 それから少し会話をして、彼女は気分転換に刺繍でもどうかと提案した。
 場違いなほど穏やかな提案に戸惑っていると、彼女は小さく呟いた。

『ロミオとジュリエットなんて、柄じゃないのにね』



 何が正しいことだったのか、未だに私は分からない。
 そもそも正しい選択肢があったのかどうかさえ疑わしい。
 ただ、物語の始まりを紡いだのは確かに彼女で、彼女は散々そのことに苦しんだあげく、自分もろとも幕を下ろすことを選んだ。その事実だけが目の前に横たわっている。

 龍山の一角、薔君の眠る墓の前で、私は紫劉輝から渡された薔薇の簪を右手に、桜の枝を左手に握っていた。弼家に入ったばかりで、右も左も分からずに泣いていたあの頃、薔君――薔薇姫と交わした約束が頭の中に蘇る。

『カンザシのことを頼むぞ。あれはお前と同じ存在じゃ』

 その意味を深く考えることを、今はしない。ただ、約束を破った罪悪感だけで立っている。
 結果として簪姫は死んだ。本来の世界に帰ることもなく、牢獄で、愛した人と一緒に。
 それが幸福なのか不幸なのか、これも私には分からない。
 ただ――

「あなたの簪を彼女が持っていた。それが全ての答えではないでしょうか。ねえ――紅仙」

 そう呟いて桜を墓の前に供え、簪を石畳の隙間に突き刺した。
 羽を休める花を失くした蝶は、今、どこにいるのだろう。
 ずっと彷徨っているのだろうか、それとも――

「新しい花を見つけることができたのかい?」

 ひらひらと、七色に光る蝶が簪の薔薇にとまる。
 どうしてかその光景が無性に悲しくて――

 私は再び、龍山の桜の下で泣いた。





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2010.4.26
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