彼女は、どこへいったのだろうか。



色彩独奏短編集
劉輝(10歳〜) 編




 その日、第六公子・紫劉輝は、庭院を散策していた。
 ずっと幼い頃から毎日のように降りていた庭院である。どこに池があるのか、木が植えてあるのか、花が咲いているのか、全て体に染み付いている。池に落とされ、木に縛り付けられ、棘のある花を素手で摘んで来いと言われ――およそ良い体験とは言いにくい出来事ばかりが思い出されるが、彼にとっての不幸は、それが「記憶していること」であり「思い出」ではないということだ。なぜなら彼の手首には荒縄の痕が痛々しく残っており、着ている衣服からは微かに水草の臭いがするから――つまり、現在進行形で、この小さな公子は繰り返される悪夢に耐え続けているのだった。

(……でも、邵可がいるから)

 キュ、と摘んだばかりの小さな花を握り締める。
 暗闇の中を手探りで歩き続ける自分に、唯一手を差し伸べてくれた人物を思い浮かべる。そうすると、それだけで心が温かくなることを、この幼子は誰に教えられるでもなく知っていた。
 手の中にある小さな黄色い花は、その人が――府庫の主、紅邵可が教えてくれた花の一つだった。小さくて弱くて、けれど懸命に、美しく咲いている。劉輝は、この花が好きだった。

(邵可、よろこんでくれるかな)

 今日は一緒にお茶を飲もうと誘われている。正直なところ邵可の茶は苦手だが、一緒に出される点心は大好物である。今日は朝餉を用意してもらえなかったから、お腹も空いている。
 一刻も早く府庫に行きたくて、劉輝は近道をすることにした。
 庭院を突っ切り、花の生垣をくぐりぬけ、池のそばを通り、並び立つ桜の木を過ぎようとして、目の前の違和感に足を止めた。
 桜の花びらが舞い散る中、鮮やかな朱色の簪(かんざし)が陽の光を反射している。

「おねえさん……だれ?」

 問いかけた公子の言葉に、優雅な仕草で振り返った女性は一瞬だけ目を見開き――
 ふわりと、柔らかく微笑んだ。



 朝廷の部署が一つ、府庫の主である紅邵可は、劉輝の話を黙って聞き、目を伏せると声を漏らした。

「簪姫(シンキ)……カンザシ姫、ですか」
「うん、そう言ってた。すっごく優しくて、なでてくれたの。あと、ほら、これ!」

 劉輝は桜の小枝を邵可に見せた。

「好きな人のところに行くっていったら、これくれてね、『卓に飾ってください』って」
「おや……これは、まるで府庫の中にも春が来たみたいですね」
「あ、僕もお花持ってきたの。これも飾って!」
「ありがとうございます。こちらもとても綺麗ですよ」

 ふふ、と、劉輝はくすぐったそうに身を竦めて笑った。
 邵可に褒めてもらうことが、劉輝はたまらなく好きだ。ほとんど顧みられることのなかった末の公子にとって、「自分」を真っ直ぐに見てくれる存在、己を肯定する他者の言葉は、心のどこかを羽でなでられたようなむずがゆさと心地よさを伴い、目の前の世界を鮮やかに色付かせるに足るものだった。

「彼女にお礼を言わなければなりませんね」
「お礼……?……お礼って、なあに?」

 与えられることも、まして与えることもない小さな公子は、聞き慣れない言葉に首をかしげた。
 そんな劉輝を少し悲しそうな表情で見つめた邵可は、桜の小枝を指す。

「何かをもらったり、嬉しいと思うことをしてもらったり……他人が自分のために『何か』をしてくれたときに。
あなた自身の言葉で『ありがとう』と伝えることですよ」
「うれしいこと……」

 桜の小枝と茶器、そして邵可の顔を順番に見比べた劉輝は腕を組み、少し考えた後、顔をパッと輝かせた。

「お礼言わなくちゃ!」
「そうですね。……主上が新しく妃嬪を迎えられたという話は聞きませんが、万が一ということがあります。
後宮に珠翠という女官がおりますから、訪ねて御覧なさい。珠翠には私から話しておきます」
「うん!」

 それから、「お茶を飲んだらお勉強しましょう」と促した邵可に頷き、一気に茶を飲み干した劉輝は、あまりの苦さに眉を八の字にしながらも、卓に置かれた桜の花を見て――蕾が綻ぶような笑顔を浮かべた。



 幼い公子、紫劉輝が行動できる範囲は限られている。
 己を鬱憤発散の道具としてしか見ようとしない兄達から隠れ、汚物でも見るような視線を向けてくる官吏を避けようとすると、自ずと通るべき道は宮城の隅か、庭院の木々の陰くらいしか残らない。
 父王の関心を得ようと媚びへつらう上級官吏。
 より強い権力を持つ者に巻かれようと、日々せっせと贈り物をする下級官吏。
 父王亡き後、幾人かの公子のうち誰が立つかを見極め、「我こそ王を最初に見出した者よ」と声高に叫ばんとする全ての官吏。
 王の関心を自身に向けようと嫌になるほど陰湿な争いを繰り返す後宮の妃達。

 全てが「紫劉輝」という人間を「価値のないもの」と判断し、切り捨てた。
 兄である公子達は切り捨てた上で、「道具」としての価値を見出した。

 だから劉輝は、数日後、二度目に会った時の簪姫の言葉をすぐには飲み込むことができなかったのである。
 公子の居住空間よりもずっと奥、禁苑に程近いところに位置する、父王のためだけに存在している名ばかりの楽園、後宮。珠翠という女官に連れられたのは劉輝の室の何倍も豪奢で大きな室だった。

――ようこそ、劉輝様。

 そう言って、やはり柔らかく目元を和らげた簪姫は、椅子から離れ、劉輝の前にしゃがみ、目線を合わせた。
 劉輝としては、初対面の時はともかく、己の素性を知ってまで好意的に接してくると考えていなかったため、どう対応して良いのか分からなくなる。

「あ、あの……えっと……に、女官じゃないの、だな」

 精一杯「公子らしい」言葉遣いにしてみるものの、上手く言葉が出てこず、劉輝は鼻の奥がツンと痛くなるのを感じた。礼を言いに来たはずなのに、なんだかどんどん遠のいている気がする。
 簪姫はその様子に少し困ったように微笑んで、小さな口を開き、宝林二十七員の一人だと告げた。

「宝……林?」

 以前、邵可に朝廷の仕組みを教わったとき、後宮の階級についても聞いたことがあった。
 確か、皇后・夫人・嬪・?、・美人・才人・宝林・御女・采女が妃であり、皇后は王と同列だが、それ以外は厳密に位が定められており、中には後宮の侍女より位の低い妃もいるのだとか。
 そう言うと、簪姫は少し困ったような顔をした。どうやら彼女は、あまり高い位にはいないらしい。

 ふと、白魚のような手が劉輝の頭に伸びてきて、思わず体を縮ませる。先ほどの態度が気に入らず、叩こうとしているのかもしれない――そんな予想とは裏腹に、簪姫の手は優しく、劉輝の頭を撫ぜた。
 髪を梳く手に自然と瞼を閉じかければ、カサリと擦れる音がして、彼女の手に木の葉がおさまっていた。

――髪を梳きましょう。

 随分と歩いてきたのでしょう、疲れてはいませんか。そう言って初めて会ったときのようにふわりと微笑まれ、劉輝はとうとう――。
 堪えきれずに、泣き出したのだった。



 劉輝が簪姫の下へと通うようになって幾月が過ぎた。初めは剣呑な視線を向けていた珠翠以外の女官達も、行き先が簪姫の居室だと知るや否や視線を嘲笑に変え、やがて元の通り、末の公子など初めから存在していないかのように振舞っていた。
 それで構わなかった。
 下手に彼女らの関心を引くとロクなことにならない――そう思えるくらいには、劉輝は聡い子どもだった。

 朝餉が出されなかったときは簪姫のもとへ行った。劉輝の生活を聞いた彼女が心配して、劉輝の分の食事を用意してくれているからだ。
 兄達に無体を働かれたときは邵可か簪姫のところへ駆け込んだ。二人とも、優しく手当てしてくれる。
 辛くて、苦しくて、どうしようもないときは簪姫を頼った。劉輝が眠るまで、傍で手を握っていてくれるから。
 簪姫は名前の通り、たくさんの簪を持っていた。桜、牡丹、薔薇、飾り紐、色とりどりの玉――その細かな造形は、劉輝に新しい世界を教えてくれる。

 彼女はまた、様々な物語を聞かせてくれた。

 いたずら好きの妖。
 十人の子ども。
 茶州の禿鷹。
 病気が治る、不思議な果物。
 かまどに恋をした雪玉。
 恋人を亡くした藍州の姫君。
 願いを叶える茶器。
 落ちてしまった卵。

 邵可との勉強で話題に出た話もあれば、全く知らない物語もあり、劉輝は夢中になった。

 そうしてその日もいつも通り、簪姫のいる後宮へ向かおうとして――劉輝は己の失敗を悟った。
 この数ヶ月は本当に楽しく、毎日が充実していた。それが兄達の前で出てしまったのだろう。
 伸ばされる腕、容赦なく落とされる手のひら。痛みに反応することも、涙を零すことも無く、劉輝は耐え続けた。我慢していれば兄達が飽き、終わりが来ることを知っているからだ。
 そして常と同じく、劉輝は使われていない地下書庫に閉じ込められたのだった。
 じわりと、枯れていたはずの涙が溢れてきた。
 ――きっとまた、兄の気が変わるまでここに――。

「――いやあ、貴重なシーンだったなあ。ご機嫌麗しゅう、劉輝公子」
「…………え?」
「お怪我は……って、結構ひどいですね。痛くありませんか?」

 急に光が差し、劉輝は信じられない光景を目にしていた。
 いつだって、閉じ込められた扉を開くのは清苑だった。しかし彼が流罪になった今、この扉を開ける者など誰もいなかったというのに。一体誰が――。
 少しずつ慣れてきた目で高い位置にある扉を見れば、見知らぬ少年が立っているのが分かった。
 黒髪をまとめ、黄土色の進士服に身を包んでいる。双眸が楽しそうに歪んでおり、劉輝は警戒心を抱く。

「……誰だ。名乗れ」
と申します、公子。偶然にも貴方が地下室にお入りになるのを目撃しまして。この室は外側からしか開けられませんし、お怪我もなさっていたようでしたので、はて、どうしたものかと考えた末このように」

 と名乗った少年は、コツンと扉を叩いた。

「おそれながら、手当てだけでもと開けさせて頂きました」
「いらぬ。去れ。ぼ――余は、手当てなんか」
「申し訳ありませんが、怪我をしている子どもを放っておく趣味はないのです」

 そう言って地下室へ降りてくるに、劉輝は座り込んだまま後ずさる。警戒の色を隠さない劉輝には困ったように眉尻を下げ、少し唸った後、懐に手を入れて何かを取り出した。

「これ、何に見えます?」
「なにって……うわあ!」

 劉輝がその『何か』に気を取られた一瞬のうちには距離をつめ、すりむけた頬に濡れた手ぬぐいを当てた。張り詰めた糸のように走る痛みに劉輝が悲鳴を上げると、傷の上を乾いた布がそっと撫でる。

「とりあえず、傷口だけ洗っておきます。後は放っておいても治るでしょうが……心配なら、誰かに処置してもらうとよろしいでしょう」
「え、あ……」
「このまま地下室におられますか?それとも外に?足が痛むのならば手をお貸ししますが」

 薄っすらと明るくなった地下室で、劉輝はぼんやりとの顔を見上げ――二つの瞳が逸らされず自分に向けられていることに気がついた。

 ――ああ、この少年にも僕の姿が見えている。

 そう思った途端に凝り固まった警戒心が解けていく。邵可と簪姫に相当毒されてしまったのかもしれないと、頭の中のどこか冷めた部分で考えた。
 口をついて出た言葉は、清苑にしか言ったことのない本心だった。

「……外に、出たい」



 地下室は、朝廷と後宮の境にあった。官吏が来ず、後宮から出ない妃の目に留まることもない場所だ。
 は劉輝の服に付いた埃を払うと、泥や血で汚れた顔をもう一度拭った。
 「予想以上だ」と、小さく呟かれた声に顔を上げれば、目の前の年若い官吏は苦笑して、先ほどの『何か』を劉輝の前に差し出した。

「差し上げます」
「これは……なに?」
「『お守り』と言います。私の手製なので大したものではありませんが。とはいえ、悪夢の国試組筆頭のような方が二名ほど同じものを持っているので、少しは魔除け効果があるのではないかと」

 魔除けというか人避けですかね、と付け加えられた言葉と一緒に、『お守り』は劉輝の掌におさまった。
 赤地に金糸で刺繍の施された小さな布袋をまじまじと見つめる。

「蝶と花の模様だな」
「え?……ああ、確かに。へえ、意外に細かい」
「知らなかったのか?」

 まるで興味がなかったのだとでも言いたげな表情に驚いて見せれば、は気まずそうに目を逸らした。
 繊細な刺繍の施された小さな袋を見つめていると、ふと、脳裏に浮かんでくるものがあった。
 桜舞う中で見た光と似ている。これは――

「カンザシ姫の簪と同じだ」
「……まあ、誰だ、とは問いませんが。珍しい簪をしていらっしゃる方ですね。普通は玉とか飾り紐とか」
「ああ。でも、とても綺麗なんだ。……えっと、その」

 言いよどんでいると、腰を屈めて目線を劉輝と同じくしたが首をかしげ、ついで、地下室で見たときのような笑みを浮かべた。邵可や簪姫の笑顔は優しさに溢れているが、どうにもこの少年の笑顔にはからかいや愉悦のようなものが透けてみえる気がして、劉輝は眉を顰めてうつむいてしまう。
 『それ』をどうしようが勝手だと、は笑ったまま言った。

「……いいのか?」
「いいんじゃないでしょうか?」

 その言葉に劉輝は表情をパッと輝かせる。ありがとう、と言うと、は初めて微笑んだ。

「カンザシ姫はきっと喜ぶのだ!模様も似合っているし、魔除けや人避けの効果があるのなら――」

 ふと、劉輝の顔から笑みが消える。後宮を見つめて、搾り出すように声を発する。

「――ぜったいに。もう誰も、カンザシ姫を嘲笑ったりしない――」

 は何も言わず、その横顔を見つめていた。



 そして第六公子・紫劉輝の小さな楽園は、崩れ始めた。



 最初の崩壊は、「お守り」を渡した際に簪姫が見せた表情だった。
 雪のような肌も桜色の頬もみるみるうちに青褪めていき、簪姫は両手で顔を覆った。倒れこむように長椅子に腰掛け、「お守り」そっと握りこんだ両手を胸に押し当て、静かに泣いた。
 訳が分からないまま、ただうろたえるばかりの劉輝を抱きしめ、簪姫は普段通りの優しさで、もう、ここに来てはいけないと告げた。

 自分は嫌われてしまったのか、なにか気に障ることをしてしまったのか、涙を流して問い続ける公子にゆるゆると首を振り、髪が解けるのも構わずに引き抜いた簪を小さな手のひらに乗せ、美しい妃は言った。

「――お守りをくださった方にお渡しください――」

 涙を流したまま微笑んだ、その表情は見たことが無いほど幸せそうで、劉輝は胸中にこごる感情を持て余したまま自身の室へと走り、蝶と花の簪を抱いて泣きながら眠った。

 次の日の朝、腫れた目を擦り、珍しく用意されている朝餉を機械的に嚥下していた劉輝は、第二の欠落を知った。否、正確に言えばその崩壊は、劉輝が簪姫のもとへ通っている間に始まっていたのだった。
 暫く前から不自然に慌しかった朝廷の波は、穏やかな府庫の主にまで影響を及ぼしていた。

「邵可は……いないの?」

 黙々と府庫の整理をする官吏に問えば、彼は目線すら向けることなく「暫く出仕しないそうです」と言った。
 邵可の人となりを知っていれば、理由無く出仕を止めるような人間でないことは分かる。何か事情があるのだと、それは劉輝にも分かることではあったのだが――簪姫に拒まれた傷が静かに血を流し始めたのを感じた瞬間、心のどこかが凍りつく音が聞こえたのだった。

 最終的な決壊は、父である彩雲国国王・?華が倒れたとの知らせであった。もともと面識も殆どなかった父親ではあったが、唯一、己と朝廷を繋ぐ糸だった血縁が揺らいだことで、辛うじて保たれていた、玻璃のような劉輝の世界はこのとき、粉々に砕け散ってしまった。

 そして劉輝は、その後の記憶を――はっきりとは、覚えていない。





 目を覚ますと、女の肢体が目に入った。靄がかかったように不明瞭な頭をゆるゆると働かせる。そうして、先刻、気まぐれにこの女官を訪ね、流されるまま情事に耽ったことを思い出した。
 室はしんと静まり返っている。耳を澄ましても何も聞こえないことから、どうも人払いをしていたようである。
 劉輝は女官を起こさぬようにそっと寝台から降り、薄い上衣をまとって回廊に出た。階(きざはし)に座り込んで空を見上げると、やや薄暗い中で朧月がわずかな光を地に降ろしていた。夕方から夜に変わる刻限だ。今更女官の室に戻る気にはなれず、かといって居室に戻り夜を待つこともできない――劉輝は一人きりの暗闇が苦手なのである――。このままここで明日まで時間をつぶそうかと考えたが、それも退屈である。

 結局劉輝はふらふらと後宮をさまようことにした。女官が扉や柱の影でクスクスと笑う。14歳を迎えた劉輝は、女官達の視線に含まれるものが「何」であるか、正確に理解していた。
 羨望、好意、そして欲情――。劉輝はそれらに冷ややかな視線を向ける。気が向けば、戯れに抱いた。
 行為の最中は全てを忘れることが出来る。たとえその後、言いようの無い虚無感に包まれるとしても。

 回廊を折れ、東屋に向かうも留まる気は起きず、また歩き出す。
 何も考えずに気分の赴くまま足を進めると、ふと、眼前に見覚えのある景色が広がった。それと同時に話し声が耳に入り、声の主が誰であるのかに思い当たった瞬間、劉輝は思わず身を隠した。
 小さいが整備された中庭、それを見下ろせる回廊の隅に備えられた椅子に座って会話をする人物。
 一人は艶やかな黒髪に色とりどりの簪を挿した女性。一人は短髪をそのまま流している、官服を着た青年。

「カンザシ……姫……」

 呟いて、座り込む。会わないように細心の注意を払っていたはずだが、気が緩んでいたのだろう。気がつけば、ずっと通っていなかった道を辿ってしまっていたのだ。
 己の行動が信じられず呆然とする劉輝の耳に、二人の声が届いた。

「――では、貴女はこのまま、劉輝様のために命を捨てるの?」

 どこか女性じみた口調だったが、声は紛れもなく男のもので、それが青年の発したものだと分かる。
 自分の名前が出てきた瞬間に肩が跳ね、耳はますます音を拾おうと必死になる。

「ええ」

 ややあって答えた言葉は、聞き違えるはずのない、簪姫の声だった。

「貴女に拒否されたことが原因で劉輝公子は自堕落になった、って噂があるよ」
「……そうね」
「どうして?」
「……………」

 再び少し間を空けて、簪姫は一つ一つの言葉を噛み締めるように紡いだ。

「……本気で、愛してしまったから」
「だから離れたの?」
「ええ」
「彼は多分、貴女にずっといてほしかったと思うけど」
「そうでしょうね。とてもお優しい方だから」
「そうじゃない!」

 そうじゃないんだ、と何度も繰り返す青年に、簪姫は静かな声で言った。

「私は恵まれていたわ。貴族として産まれて、何不自由なく育てられた。欲しいものは大抵手に入ったし、大好きな奥様の侍女として仕えることもできた。今はこうして後宮で、優雅な生活を送っていられるわ。
けれど、手に入れてはならないものがあるの。――越えてはいけない一線があるのよ」
「……っ!それでも、私がお守りを渡したのは、貴女を死なせるためなんかじゃない!」

 青年は「どうして」と言った。その声は明らかに震えていて、ああ泣いているのかと、無感動に劉輝は思う。

「――愛しているわ、劉輝様を。だから、私はここで――この命の全てをかけて、お守りするの」

 簪姫はそう言って、空気を変えるように「刺繍はいかが?」と言った。
 何故だか胸が締め付けられたように息を吸うことができなくなり、わけも分からずに涙が溢れた。
 人が来る気配を感じ、逃げるようにその場を後にしたが、あとからあとから流れる涙に幾度も足を取られ、何度もつまづいた。
 暗い自室で簪を探す。抱いて眠る寝台には、劉輝一人しかいなかった。


 そして、その夜、簪姫は捕らえられた。罪状は兄公子の殺害未遂。
 更に数日後――劉輝は、牢で自害した簪姫と、何らかの毒で殺された兄公子の姿を目にしたのだった。





 ふわり、ふわりと、まるで雪のような桜の花びらが視界を埋め尽くしていく。
 劉輝はその中に立ち、蝶飾りを陽に透かした。嵌めこまれた小さな玉がきらきらと輝いている。
 蝶が羽を休めていた簪は、無い。決心するまでに何年もかかったが、『』に渡してしまった。
 結局、劉輝は最後まで簪姫の心を理解できないままだったが、それでも、こうすることが一番いいのだろうと、それだけは何となく分かったのだ。

「約束だから……」

 己と簪姫が唯一交わした約束。一方的に結ばれたものだったが、唯一の絆でもある。
 ――あのとき。

 あのとき、二人の前に飛び出して、自分も簪姫を愛していると言っていれば、何かが違っていただろうか。

 頭(かぶり)を振る。過ぎたことだ。今更考えても何にもならない。
 それに――おそらく、自分の感情と彼女の気持ちは、同じものではない。

 劉輝は頭上を見上げる。満開に咲き誇った桜だけは、簪姫に初めて会った日と同じだ。
 ふと、桜吹雪の向こうに人影を見つけ、驚く。こんな辺鄙な場所に来るのは自分と簪姫くらいだと思っていた。

 舞い踊る花びら。かすむ視界。陽光。朱色の簪。蝶の飾り、そして――薔薇。

 一つ一つを認めるたび、劉輝の目が見開かれていく。だが、次の瞬間、呆気に取られた。
 人影は何やらしきりに飛び跳ねている。どうやら桜の枝に手が届かないらしい。その光景が可愛らしく、おかしくて、劉輝は小さく噴出し、ならば自分が取ってやろう、と思った。
 不思議と簪姫に重なる小さな影。彼女にしてやれなかったことを、この娘にしたならば、あるいは。
 どこかの世界に眠る彼女に、届くだろうか。

「……届かないだろうな」

 劉輝は困ったように笑って、蝶飾りを袖に入れた。相変わらず人影はぴょこぴょこ跳ねていて、微笑ましさに心が軽くなっていく。
 桜の中、静かに微笑んで立っていた簪姫。
 桜の下、必死に飛び跳ねて、桜の枝を取ろうとする、名前も知らない姫。

 ――ああ、もう、彼女はいないのだ。

 心の中の『簪姫』を、薄い絹で何重にも包み、奥底へと沈めていく。
 ようやく、この花の牢から出ることができるだろう。


 視界を遮る花霞、その向こうへと、王は静かに足を踏み出した。



 そして、彼の物語が始まる。





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2009.11.21
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