ずっと、彼とこのままでいられる事を願う。



色彩独奏短編集
黄鳳珠(25歳)・紅黎深(25歳) 編




 黄鳳珠は悩んでいた。その明晰な頭脳を持ってしても解けない難問に頭を抱え、貴陽にある黄家別邸の自室をぐるぐると歩き回っていた。その様子を見ていた家人がおそるおそる声を掛ける。

「若様、夕餉の用意が整いましたが」
「……すまない、今日は食欲がわかない」
「かしこまりました。あの……ご無理はなさらないでくださいね」

 こうして悩んでいる時の主人が寝食を忘れがちになることを知っている家人は、そっと鳳珠を気遣った。しかしそれに対し「ああ」と生返事を返した主は、今度は椅子に座って指先で机案をたたき出す。家人はその様子に小さく溜息を零し、あとで軽食を部屋に置いておくことにした。



 黄鳳珠は今年に入ってから最も大きな悩みを抱えていた。
 手の中に小さな袋がある。厚い赤色の生地に金色の細かな刺繍がされたそれは、中に何か入っているのか、平たく、口の部分に封がしてある、およそ実用性とは無縁のものである。中身が何なのか鳳珠に知るすべはない。これを渡される時にが『中は見ないでくださいね』と言ったことで、律儀な彼は好奇心を泣く泣く封じ込めたのだ。友人の願いを無下にするほど非情になることはできなかった。

「『お守り』と言っていたか……」

 それがどのようなものなのか、鳳珠は知らない。尤も「お守り」を提案した絳攸ですら紅家所蔵の文献をそれこそ必死に、ひたすら漁った末に存在を知ったのだから、当然といえば当然である。
 得体が知れない。だが、「守り」という名を信じるならば、決して悪いものではないのだろう。もっと言うなら、が自分にくれたものが悪いものであるとは考えられない。――否、考えたくない。
 鳳珠はそうやって、お守りを、「が自分のためにくれた、よく分からないが、おそらく良いもの」と解釈した。だから、次に取る行動もおのずと決まった。
 返礼である。

「…………何を贈ろうか……」

 声に出しても一向に浮かんでこない己の頭に落胆して、鳳珠は手を組んで額を乗せた。結ぶことすら叶わない髪が落ちてきて鬱陶しい。邪魔にしかならないので、鳳珠はこの髪をあまり好いていなかった。

 は何が好きだろうか。何を贈れば喜ぶだろうか。嫌いなものはあるだろうか。
 思えばこれらの疑問の答えも、鳳珠は知らない。いや、油を使った料理が苦手であることは知っている――何度か夕食を共にしたから。けれど、それが何になるだろう。知りたいのはそんな情報ではない。
 好きなもの、嫌いなもの。知り合ってそれほど経っていないが、それなりに交流を重ねてきたはずだ。だというのに全くといっていいほど情報を持たないという事実に気付いた時、鳳珠は愕然とした。
 そして次に、知りたいと思った。
 思えば己の顔を見て平然としていた彼を前に、嬉しさから衝動的に友人の申し出てから幾年、彼の、「彼自身」の話を聞いた覚えがあまりない。

 ――知りたいと願うのは人の常だ。それが自分にとって重要な存在であればあるほどに。

 それからの鳳珠の行動は早かった。家人を呼び、軒の用意を言いつけると、手早く着替え、手土産の唐菓子を絹に包み、付けている仮面を一番新しいものに交換して邸を出た。

 ――知らないことは本人に聞けば良い。

 鳳珠の頭に、「教えてくれないかもしれない」という考えはなかった。とにかく必死だったのだ。





「欲しいものですか?」

 は目を見開いて鳳珠の顔を――正確には、仮面を見つめた。ちなみに今日着けているものは、先日何の前触れも無く黎深が送りつけてきたものだ。外つ国から渡ってきた名匠の作品らしいが、彩雲国にはない柔らかな曲線を持つこれを、鳳珠は珍しく気に入っていた。

「先日『お守り』とやらを貰ったからな。こちらも何か贈りたいと考えたのだが……」
「大したものではないので捨て置いてくださって構わなかったんですが」

 そう言って苦笑するに、そういうわけにもいかないと返す。

「礼は何にもまして尊重されるべきものだろう。それに、まあ……う……」
「……?」
「……嬉しかったしな」

 鳳珠は顔を逸らし、仮面を被っていてよかったと心から思った。

 『黄鳳珠』という男の人生は、ある意味波乱万丈である。人並みはずれた容姿で、それなりに賢くもあったがために、幼い頃は神童と呼ばれ、鬱陶しいほどもてはやされてきた。学術面は鳳珠自身の努力の賜物だったのだが――全ては容姿という、自分ではどうにもならないものの前に「才能」の一言で片付けられたのである。
 可愛い、美しい、素晴らしい――そんな賞賛を受け、本人は順調に眉間の皺を増やしながら幾年月。黄家の人間として領地の見回りにと外に出れば誘拐され、用心から護衛を増やして邸の離れでくつろげば、何を思ったか、その護衛が目の色を変えて襲い掛かってきた――鳳珠にとって屈辱的な意味で。青筋を浮かべつつ自分の身は自分で守れるようにと気孔術を習い、護衛を全員解雇して再び領地の視察に赴けば、謎の領民集団昏倒事件が発生した。後に己の顔が原因だったと知ったときの絶望は計り知れない。
 当然友人が出来ようはずもなかった。友人になろうとしたものは大抵、友情を変な方向に進化させるか、自ら去っていくかのどちらかだった。

 紅黎深がある日仮面を投げつけてくるまで――否、国試で十三号棟に入るまで――鳳珠はごく限られた親族以外の交流を持たなかった。友人など御伽噺の中にしかいないとさえ考えていた。
 だから国試で知り合った人々は、紅黎深も含め、鳳珠にとって大きな存在なのである。
 そしては、鳳珠が国試以外で得た、最初の友人だ。随分と年下ではあるが、自然体で接してくれる彼の存在は、鳳珠に一種の安らぎと感動をもたらしていた。

 『黄鳳珠』という男の朝廷内での評判は、「顔面凶器の新進士」である。
 ただし、同じ人物について、友人という存在に対する免疫が弱く、無意識に甘やかしてしまう性質の持ち主だということは――今のところ、あまり知られていない。

 つまり、彼は今、非情に浮かれているのである。

「……?どうしたんだ?」

 そして、そんな自分自身をを誰よりも理解している自律の新進士は、友人が無言であることを殊更心細く感じた。知識と人生経験は人並み以上でも、対人関係については初心者なのだ。
 動きを止めていたは、鳳珠の言葉に大きな反応を示した。

「……っ!……ああ、吃驚した。すみません、鳳珠さんの言葉がちょっと意外だったので、驚いてしまって」
「ああ、いや、大丈夫だ。私も少し驚いている」
「じゃあ、お互い様ですね」

 あはは、とは朗らかに笑った。一度質問を投げかけてしまった以上、二度聞くことは躊躇われて、鳳珠は出された茶を飲みながら友人の答えを待つ。
 彼も質問を忘れたわけではないようで、目線をやや下に向け、無表情になる。「」が考え込んでいるときの癖である。端から見ればただぼんやりしているようにしか見えないが、その実本気で思考を巡らせているときの姿なのに他ならないのだと、観察に長けた鳳珠に分かるくらいには一緒に過ごした。

「では」

 ややあって、が口を開いた。

「『贈り物』にはならないのですが……お願いしたいことがあります」
「なんだ?」
「――薔薇の入手を」
「花は家でも扱っていなかったか?」
「造花は扱っていますが、生花はないんですよ」

 将来的に扱う予定はあるが、今はまだないのだと友人は言った。

「贈り物にならない、ということは、誰かに贈る予定だということか?」
「そうとも言える……かもしれません。そこのところはちょっと微妙です」

 ふむ、と、鳳珠は腕を組んだ。薔薇の入手――時期はとうに過ぎているが、種類が豊富なので何か一種類くらいは咲いているかもしれない。『贈り物』にならないのは多少不本意だが、が商人であることを考えると、自家で扱っていない商品を卸すことはある意味『贈り物』近いものがあるような気もした。

「良いだろう。全力を以って、素晴らしい薔薇を用意してみせる」
「……ありがとうございます」

 そう言ったの表情が、本当に嬉しいのだと物語っている。
 鳳珠は、仮面の下でほんの少し、眉を顰めた。





 自宅の邸に戻ってきた鳳珠は、書斎にしている離れで地獄絵図を目にすることになった。
 硯は壁に投げつけられて墨が飛び散っており、筆は折られて床に散乱している。本は出かける前に片付けておいたので被害はなかったが、書きかけの書類と手紙は紙ふぶきにされていた。
 窓に嵌めこんである玻璃は見るも無残な姿である。ついでに木枠もひしゃげて床に落ちており、障害物のなくなった風が室の中に吹き込んで非常に寒い。
 鳳珠は額に手を当て、家人に尋ねた。

「……状況を説明してくれ」
「は、はあ……それが、若様が出られてから入れ違いに紅家御当主様がいらっしゃいまして……」
「もういい、分かった。で、これは黎深が暴れた後なんだな。奴は今どこにいる」
「奥方様が迎えに来られたのですが、帰らないとおっしゃられて、今は客間に……」
「子供かあいつは!」

 家人の口から出る友人のあまりに大人気ない姿に、鳳珠は仮面を懐にしまって踵を返すと、急いで客間へ向かった。
 非情に会いたくない人物もいるようだが、この際一言文句を言わなければ気がすまない。



「黎深!貴様、人の邸に何をしてくれ……ここもか!」

 勢いよく扉を開けた鳳珠の目に、調度品が殆どなくなった客間が目に入った。もはや怒りを通り越して何かの境地に達しようとしていた彼の精神に、涼やかな声が刺激を与える。

「ごめんなさい、鳳珠さん!この人、何を言っても止まらなくて……。調度品は後で全てお返しします!」

 黎深の妻――百合姫が眉尻を下げて謝る姿に、鳳珠は言葉に詰まり、慌てて仮面を被りなおした。振られて以降会わないようにしていたというのに、何故このような状況下で再開せねばならないのか。
 お互いこの状況を整理することで精一杯で、他の事を考えられないのが唯一の救いである。

「い、いや……貴女が謝罪する必要はない。ただ、あいつはどうしてこんなに暴れているんだ?」
「……それは……」

 百合姫の表情が曇る。彩七家である黎深や己には、立場上言えないことも多い。それは鳳珠も身に染みて分かっていることだったので、百合姫の表情から、この騒ぎはそういった類のことなのだろうと推測した。
 問いかけに答えなくても良い旨を伝えようとした時、百合姫が口を開いた。

「たぶん、鳳珠さんには伝わっていると思いますけど……去年の夏、黎深の兄君……邵可様の奥様がお亡くなりになって……」
「そのことは聞いている」

 一時期騒がれた出来事であるが、事実上勘当された家の話題ということもあって、紅家の名声とは裏腹に、極端に話題に出ることの少ない情報ではある。

「今日、その後始末が終わったんです」
「……なるほど」

 鳳珠はため息をついた。そして同時に、なんとなく理解した。
 つかつかと黎深に歩み寄ると、最後に残っていた壷に掛けた手を叩き落し、脳天に拳を落とす。

「八つ当たりなら十分だろう」
「全く足りん」

 表情だけはいつも通りの黎深に、よほど酷い『処分』をされたのだろう元家人達が一瞬だけ哀れになる。

「……お前にも薔薇、分けてやるから。と一緒に墓参りに行ってこい」
「!」

 動きを止めた黎深にもう一度ため息をついて、鳳珠は壷を元の位置に戻した。
 と紅邵可の奥方――薔君が顔見知りであることは、以前に一度だけ聞いたことがあった。また、耳聡い家のことである、薔君の死も紅家の動向も、鳳珠より詳しく掴んでいるのだろう。
 黄鳳珠という人間に友人が少ないように、という人物もまた、家の人間を除けばその交友関係は殆どないと言っていい。そんな人間にとって一定以上の親密さを伴う顔見知りの存在がどれ程大きいのか、そしてその死の衝撃がどれほどのものなのか、皮肉なことに、鳳珠はよく知っていた。

 薔君の死。黎深の暴走。季節はずれの薔薇の依頼。の言葉。
 これらのことが何を指し示すのか、今更考えなくとも理解している。

「お前といいといい、私の友人は回りくどくて変な人間ばかりだ」
「貴様も立派に変人だ馬鹿め。いっそ名前変えてしまえ、『変人』にしてしまえ、『奇人』でもいい」
「考えておく。……ああもうさっさと帰れ!!」
「薔薇はいらん」
「何だと?」

 黎深は袖口から扇を取り出し、鳳珠に突きつけた。

「何故なら私も薔薇を用意するからだ!貴様なんかよりも美しく、素晴らしく、姉君にふさわしいものをな!!」

 その瞬間なにかが切れ、鳳珠は喧嘩を買うことにした。
 得意げに差し出された黎深の扇を手で払いのけ、仮面を取って絶対零度の美貌を凄ませる。それだけで黎深には、鳳珠が兆戦を受けたことが分かったようだった。二人同時に顔を背けると、鳳珠は仮面を被り、黎深は百合姫を呼んだ。

「帰る!!!」
「はいはい……迷惑を掛けてしまって本当にごめんなさい、鳳珠さん」
「あ、いや……大変だと思うが、無理はするな」
「ふふふ。ありがとうございます。では、これで」

 柔らかな笑みを浮かべて退室する百合姫を見送って、鳳珠は散らかった客間の椅子を立て、腰を下ろした。
 百合姫と会話するのは――未だに、少し、苦手である。

「若様……お疲れ様でございます」

 年老いた家人が茶を差し出す。無言でそれを受け取ると、一気に飲み干した。

「……家に、苛々に効果のある茶か何かあるかどうか聞いておけ」
「かしこまりました」

 そして、黄鳳珠は自室に戻ると、季節はずれの薔薇を手に入れるため、筆を執ったのだった。





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2009.10.25
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