とても寒い日のことだった。



色彩独奏短編集
李絳攸(12歳)・紅黎深(24歳) 編




 その日、李絳攸は一人で町に降りてきていた。道行く人々の波に押し流されないよう、一歩一歩しっかりと踏みしめながら、それでも体の小さな彼の歩みは中々進まなかった。

(どうしてこんなに人が多いんだ……!)

 心の中で不満を漏らすものの、理由は分かっていた。もうすぐ年末なのだ。新年に向け、今のうちに保存食を作り足したりするところが増えているのだろう。数年前はそんな当たり前のことですら自分には無縁のものだと感じていたのに、今はどうだろうか。家があり、養い親がいて、何不自由のない生活を送っている。
 絳攸はふと、足を止めた。手の中のものをじっと見る。
 そしてキッと表情を引き締めて前を向くと、さっきよりももっと強く、混雑をかき分けていった。

 ――しかし、一人対大勢の差に適うわけもなく。絳攸はあっさりと、一番初めの位置に帰ってきてしまった。進んでいたはずなのに戻っている。その理不尽さに波立つ心に、己の非は一切ない。たとえ自分自身の方向に関する認識の具合が原因なのだとしても、その存在を認めていなければ思考に浮かぶことはない。
 ただ、これでは目的地に辿り着くのは難しいだろう。賢い彼は同時にその事を理解してもいた。
 どうしようか、一旦邸に戻ろうか。でも――。
 軽い絶望と共に円を描き始めた少年の脳内に、一つの案が浮かんだ。絳攸は苦い表情でそれを選ぶ。本当はあまり気が進まなかった。



 そして、また世界の――というより地理の不思議さの壁を越えることができないでいた。新たに目的地とした場所は彩七区近くにあり、絳攸自身も百合姫に連れられて一度だけ訪れたことのある場所だ。その時も、こんなに単純な道筋なのかと驚いた記憶があるのに。何故着かないのだろう。

(……もう少し行ったところにあるのか……?)

 未だに辿り着いていないということは、そういうことでしかありえない。ならば歩くしかないか。絳攸は溜息をひとつ吐いて、もう一度「あれ」を握りなおそうとして、違和感に気付いた。

(ない……!?)

 手に持っていたはずのものは、いつの間にか消えていた。慌てて懐や袖口を探すも見つからない。どうやらどこかに落としてしまったようだ。最も考えられるのは――あの混雑だ。絳攸は世界が回る錯覚を覚えた。どうにも今日はついていない。

「あの」

 無理にでもあの行進の中を進むべきだったのだろうか。しかし、あれでは日が暮れても辿り着くことは出来ない。その判断は間違っていないと思えるし、己の力を過信してはいけないとも思う。

「……あの」

 だが、戻らないことには見つけられない。「あれ」が無ければとても困るのだ。仕方がない――

「…………あの」
「ん?」

 結論を出したところで、絳攸はようやく己を呼んでいるらしい声に気がついた。振り返ればそこには自分と同い年くらいの少年が一人、困ったような顔をして立っていた。思わず首を傾げる。どこかおかしい気がした。目の前の少年が手に提げた布袋から何かを取り出して差し出す。

「これ、落とさなかった?」

 絳攸は目を見開いた。それは紛れも無く、今から取りに戻ろうと思っていたものだったからだ。

「それをどこで!?」
「下町近くの通りで。君がこれを落としたとき、俺、丁度見ていたんだ。追いかけたけど人ごみで見失って……ごめん、もう少し早く届けたかったんだけど」
「いや、見つけてくれてありがとう。助かった」
「それは良かった」

 少年は微笑んで手の中のものを絳攸に渡す。掌にずっしりとした重みと微かに響く金属音が戻ってきて、絳攸は安心する。――財布を落としてしまっては何も買えない。

「本当にありがとう。名前を教えてくれないか?何かお礼をさせてくれ」

 ぐるぐると巡っていた嫌な考えが良い意味で消えたことが嬉しく、今日一番の笑顔で絳攸はそう問いかける。少年は少し驚いたような顔をして、しかしすぐに穏やかな笑みを浮かべた。

だよ」
だな。……?」
「うん、
「もしかして、商家の家か?」
「あ、知ってるの?」
「今から行こうと思っていたんだ」

 は不思議そうに絳攸の言葉に返した。

「え、でも方向が……」
「……!!ま、まあ、それはともかく!はこれからどこかに行くつもりだったのか!?」
「いや、西市に行った帰りなんだ。今から家に帰る。あ、じゃあ一緒に行こうよ」
「そうだな!同じ方向だし!!ああ、丁度いい!!!」
「…………うん、そうだね」

 先程より数段優しそうな目になった少年に、絳攸は何となくいたたまれなくなる。とにかく動いて気を紛らせたくて、の手を掴むと早足で歩き出した。

「君の名前は教えてくれないの?」

 あ、と思わず口に出した。そういえば言っていなかった。

「すまない、忘れていた。俺は李絳攸だ」

 少年が目を丸くする。まるで「李絳攸」という名前に聞き覚えがあるかのような反応だ。疑問に思わないでもなかったが――絳攸は、自分の存在が貴族など上流階級においてどのように受け止められているのかを知っていたので、少し悲しくなった。
 ――紅家の養い子の、李性。
 名は、この世で最も尊敬する人から与えられた至上の喜びで、一番の負い目だった。



「着いたよ」
「ああ……この道だったのか」

 絳攸の歩いてきた方向を少し戻り――どうやら全くの逆方向を進んでいたらしい――東市の中でも彩七区に近く、信頼も高い店の集まる中心に佇む一軒の商家の前での歩みは止まった。絳攸は建物を見上げる。老舗らしく、他の店と比べて威圧感のようなものが漂っている――ような気がする。
 心なしか一歩引いてしまった絳攸に構うことなく、は開け放された正面から堂々と入っていった。
 慌ててその後を追って中に入ると店内は広く、幾つかの卓と椅子があり、そこに商人風の人と商談をする人々の姿があった。商人は時折店の奥に消えては何かしらのものを持ってまた現れる。見本のようなものだろうかと絳攸は考えた。

「ただいま戻りました」
「おや、おかえりなさい、坊ちゃん。意外と早かったですね」
「うん、お客さんを案内してきたから」

 くるりと振り向いたに肩が跳ね上がる。は店の中を見回すと、絳攸を見て少し考え、言った。

「店内はもう満員みたいだね。じゃあ、悪いけど俺の部屋でお茶でも飲まない?」
「え……」
「大丈夫、押し売りはしないよ」

 どうしようか、と一瞬迷う。しかし確かに卓はどれも商談中の人々で埋まっている。このまま立って話してもいいのだが、それは家の体面に関わるのだろう。の言葉に後押しもされ、絳攸は頷いた。



 そうして意外に殺風景な彼の部屋で、絳攸は自分が欲するものを言った。は驚きに目を丸くしている。何か変なことを言っただろうかと不安になったが、要求したもの自体、絳攸自身聞きなれないものではあったので、驚かれるのは自然なことだとすぐに思い至った。

「……ダメだろうか」
「あ、いや、駄目じゃないんだけど……。え、あれ?なんでそれがここにあるの……?」
「……?俺も文献から知ったものだし、本当にあるのかも分からないものだから取り寄せるのは難しいかもしれないんだが……どうか、頼む」

 頭を下げる。結果、卓の上の饅頭との距離が縮まって甘い香りが漂った。ややあって、が口を開く。

「……誰かにあげる?それとも、自分のため?」

 今度は絳攸が驚く番だった。

「どういうことだ?」
「なんとなく、絳攸は自分のために持つようには見えないからさ」
「まさか、はそれを知っているのか!?」
「うん、実は。それで、どんな効果が欲しいの?」
「……決めてないんだ。ただ、れい……狙われやすい立場にいる人に……何か少しでも役に立てば」

 ふむ、と顎に手を当てて思案するに、やはり無理なのだろうかと少し諦めの気持ちが湧いてくる。読んだ本によると、どうも『それ』は遙か東の大陸のものであるらしいから、もしかしたら取り寄せすらできないのかもしれない。東市は物価が高いのであまり来たくなかったが、そう考えると西市に行ってもどうにもならなかった可能性の方が高いような気がして、結局回り道をしてしまったのだなと気落ちしてしまう。
 伺うようにおそるおそるを見ると、そんな自分の視線に気付いたのだろうか、一瞬「しまった」というような表情をした後、苦笑して部屋の扉に顔を向けた。

「誰かいる?」
「――は、ここに」

 待機していたらしい家人が頭を下げる。

「出来るだけ刺繍が細かくて厚みのある布を用意してくれる?大きさはええと……一尺四方くらい」
「かしこまりました」
「……?」

 振り返ったは、椅子の背もたれに体を預け、読めない笑顔を浮かべた。

「絳攸が探しているものは、大体『お守り』と呼ばれるものの類だね。東の国ではそう呼んでいる。小袋に護符や神聖とされるものを入れて持ち歩く。効果は身代わりから安産祈願まで幅広い。作る神社……廟ごとに得意とする分野があったりもするかな」
「随分詳しいんだな」
「うん、まあ。その辺は色々事情があってさ。で、取り寄せることも多分できるんだけど、海を渡らなきゃいけないし、色々問題もあるからそれこそ国家規模の費用がかかると思うよ」
「……やっぱり、そうなのか」
「そうなんだ。こればかりはどうしようもない。――で、だ」

 はふふふと笑い、何か企んでいそうな――小さな悪戯をする前の百合姫のような――笑みを浮かべた。

「国内では作っていない、輸入は無理。じゃあ、作ろうか」
「…………は?」
「だから作ろうよ、『お守り』をさ」
「俺たちが作って効果があるものなのか?」

 そういうものは、『そういう人』が作るからこそ効果を発揮するのではないのだろうか。そう思い問うと、はあっさり肯定した。

「そうだね」
「じゃあ意味がないじゃないか」

 仕方がない、手に入れるのは諦めよう。自分の手持ちではどうにもならないのだし、と卓に置いた袋――財布を袖にしまい、落胆して溜息を付く。
 の言葉を信じるなら、それなりの効果を持たせるためには例えば彩雲国だったら縹家のような、神性のある家あるいは人に頼むより他ないのだろう。しかし絳攸は縹家との関わりを持っていないし、たとえ持っていたとしても縹家が一個人の要望に応じるかといわれればかなり怪しいところである。

 ――残念だな。
 文献を読んでいて、これだ、と思ったのだ。何の力も持たない自分の代わりに大切な人を護ってくれるもの。安全でいて欲しい、何の心配もなく暮らして欲しい、けれどそのために自分ができることは何もない。それが悔しくて朝から夜まで勉強に没頭し続け、頭を休めようと手を伸ばした異国見聞録に書いてあったのが――その、『お守り』だった。文献を読んでいても立ってもいられなくなり財布を引っつかんで何とか家を出たのだが、現実はやはり厳しい。実体験から分かっていたことではあったが。

「要は気持ちが大切なんじゃないかと思うよ」

 だから、そんな絳攸の気持ちにさも気付いていないかのごとく飄々と言ってのけたを、気付いたら睨んでいた。必要なのはこんな自分の気持ちなどではなく、確かな効用なのだ。

「気持ちじゃ駄目なんだ」
「何故?こんな真冬に西市と東市をハシゴするだけの想いがありながら」
「想いだけでは何も守れないだろう!」

 思わず大声を上げたことに驚いたらしく、は眼を見開いて自分を見る。そしてすぐ、何かを探るかのように表情を消して絳攸を見つめてきた。その読めない、底知れぬ瞳がどこか気味悪く感じられて絳攸は視線を逸らしたくなったが、この場で引くことは出来ないと思い、そのままずっと睨み続けた。

「………様」

 そのとき、恐る恐る家人がに声をかけた。先ほど指示されたものを持ってきたらしい。は一瞬で表情を戻すと、何もなかったかのように笑顔でそれを受け取り、また新たな指示を飛ばした。
 家人が持ってきたのはとても豪奢な布で、赤い下地に金糸、銀糸などで細かな模様が刺繍されていた。思わず目を奪われたのに気付かれたらしく、目の前の彼がくすりと小さく笑うのが聞こえた。

「――『お守り』にどれほどの実用性があるのか、『私』は知らない」
「…………は?」
「いくら霊験あらたかといったところで偶然の可能性を否定することはできないと思う。けれど何か起こったとき、側にお守りがあるのなら、ああ、このお守りが守ってくれたのだなと考える」
「……それは………でも」
「うん。この国には神秘の力が存在している。だからそういう力を持つ人に頼むことが出来れば、あるいは本当に確かな効果のあるお守りが作れるかもしれないね」
「…………そうか」
「そう。……あ、裁縫箱がきたみたいだ。じゃ、お守り作ろうか」
「は!?」

 彼は自分が言ったことを覚えていないのか。今まさに、縹家に頼むより他ないのだと言ったばかりだろうに。
 は言った。

「お金は取らないよ。――折角懐かしいものに指先だけ触れたんだ。少しだけ、楽しませてよ」

 微かに眉尻を下げて、寂しそうに言うものだから。絳攸はそれ以上、何も言えなくなってしまった。



 厚みのある布に針が上手く通ってくれない。四苦八苦しながら、絳攸は最後の仕上げとばかりに気合を入れて針を突き刺し、グッと引いた。

「できたっ!!」
「おめでとう。じゃあ、それを裏返して布の表を出して」
「ああ、なるほど……縫い目が見えなくなったな」

 裏返すと、綺麗な刺繍の真っ赤な袋が出来上がった。指が3本入るか入らないかくらいの小さな袋だ。

「じゃあ次は、そうだな……窓際の机案に料紙があるから、あげる人への気持ちを書いて。それを小さく折って袋に入れて、見られないように口を結ぼう」
「書くことは何でもいいのか?」
「いいんじゃないかな。安全に暮らしてくださいとか、大好きですとか何でも」

 本来はお札とかを入れるんだろうけどね、と笑って言うの手元には、既に3つの袋が出来上がっていて、今縫っているものを含めれば4つになる。その早さに多少悔しさを感じたが、気を取り直して机案に向かい何を書こうか考えることにした。安全に暮らせるように、他人に迷惑をかけないでください、百合様を大事にしてください、いくらでも言葉は思いつくのにどこか違う気がする。
 ふと机案の正面にある窓の外を見た。温かな室内と違って、裸の木々が容赦なく寒風に揺られている。それは絳攸にとって決して他人事でない風景だ。寧ろこんな温かい部屋の中にいることが、『あの時』の絳攸にとっては考えられないことだった。

(本当に色々いただいたんだな……黎深様や、百合様に)

 食べ物も家も着物も名前も、全てもらいものである。それがなければ絳攸は真冬の市に立つことすら出来ず、豪商家に入ることも出来なかっただろう。

(……全部、俺の力じゃないんだな)

 つきり、と胸が痛んだ。申し訳ないやら悔しいやらで絳攸は頭を抱える。よくよく考えればこのお守りだって、きちんとした物を作るには他人の神祇の力を借りるしかないのだ。これ以上他人に頼るというのか。

(返したいのに)

 もらった色々なものを返したい。欲を言えば自分自身の力で返したい。

 絳攸は料紙に筆を走らせた。書かれたのは全く利益にならない言葉で、おそらく持っていても何ら意味がない、何の役にも立たないお守りになることが確定した。
 やってしまったな、と少し後悔もするが、不思議と少し心が軽くなったような気がする。

「書いたぞ」
「じゃあ墨が乾いたら小さく折って袋に入れて。口はちょっと変わった縫い方をするから俺がやるよ」
「そうなのか。頼む」
「まかせなさい。……あ、いや、やっぱり期待しないでほしいな。裁縫得意なわけではないから」

 あれだけの速さで縫っていながら何を言う、と思わないでもなかったが、比較対象を知らないのでそういうものなのかと思うことにした。冬のやや乾燥した室内で墨はすぐに乾き、絳攸は料紙を丁寧に折ると袋に入れ、それをに手渡した。は縫っていた袋を卓に置くと絳攸のお守りの口を塞いでいく。裁縫箱に入っていた細い白糸を輪のようにして縫い付ければ、文献で見たものとは違う「お守り」が出来上がった。

「はい、完成だよ」
「……これがお守りなのか」

 君の知っているものとは少し違うかもしれないけれど、と前置きして、は頷いた。

「大好きな人にあげると良い。きっとよろこ―――ぶっ!?」

 ガツ、という嫌な音と共にが前のめりになる。どうやら何かが当たったらしい。床に落ちたものを見ると――扇子だった。絳攸は背筋に冷たいものが流れるのを感じる。決して寒いからではない。

「……頭がへこんだらどうしてくれるんです、黎深さん」

 彼は恨みがましそうな目で室の入り口に目をやる。そこには案の定、己の養い親が憮然とした表情で佇んでいて、絳攸は文机正面の窓から飛び出したくなった。
 養い親――紅黎深は無言で室に入り一直線に絳攸の前へと歩いてくる。途中、ごく自然な動作でが差し出した扇子をもぎ取るように掴み、広げ、顔の下半分を隠した。
 歩幅の大きい黎深はすぐに目の前に来て、無表情に絳攸を見下ろす。邸を抜け出したこと、勝手に東市まで来たこと――怒られる理由がいくらでも浮かんできて、遣る瀬無くなった。
 うつむいて、もうすぐ降りかかるであろう叱責の言葉に身構える。

「…………」
「……。………?」

 しかしいつまで経ってもそれがやってくることはなく、おそるおそる上を向くと、黎深の視線は絳攸にではなく、どこか別のところに向いているようだった。不思議に思いその先を探ると、それが絳攸の持つ「お守り」であることに気が付き、半ば反射的に、絳攸はそれを黎深に差し出した。

「あっ……あの……これ、黎深様に………」

 受け取って欲しいと思う反面、もしかしたら受け取ってくれないかもしれないという考えが拭えず、絳攸は差し出した手はそのままに俯いてしまう。拒否されるのは怖かった。だから、黎深が手の中のものを引っ手繰るようにして受け取った時は驚きのあまり体が固まってしまった。

「素直じゃないなあ……」

 が低く呟いた言葉に凄まじい眼光で返事をした黎深は、お守りをしげしげと眺めて言った。

「趣味が悪い」
「………!」

 その一言は絳攸の心に酷く響いた。折角作ったのにと気分は落ち込んでいく一方、ふつふつと言いようのない怒りも湧いてきた。本当に、慣れない裁縫も頑張ったというのに。

「……じゃ、返してください」
「何だと?」
「趣味悪いんでしょう。返してください」
「受け取った瞬間から私のものだ。もはやお前にどうこう言う資格はない」
「でも!いらないんでしょうっ!」

 ますます悲しくなってきて、絳攸は慌てて目元を拭った。情けないやら悔しいやらで何が何だか分からなくなってくる。更に言えば黎深の考えていることも分からない。いらないのならそう言ってくれればいいのに。そうすれば、少しは諦めもつくというのに。

「あ、黎深さんのお茶?ありがとう。あとお茶菓子のおかわり持ってきてくれる?うん、何だか今無性にやけ食いしたいというか、ちょっと背を向けたい出来事が」

――ああもう、こんな時に限ってはのんきに茶菓子を要求しているし!
 絳攸はますます混乱して、人前で大粒の涙を流している自分の姿も気にしないまま黎深を睨み付けた。それでも目の前の養い親はどこ吹く風といった様子で、未だお守りを眺めている。

「…………ふん」

 裏を見、表を見、一通り眺めたところで、黎深はそれを懐にしまった。

「……!」

 その行動が信じられず、絳攸は目を見開く。思わず涙も引っ込んだ。

「れ、黎深様……?」
「別に、いらないとは言っていない」

 憮然とした表情で言い捨てると、黎深はそのまま、卓の上に用意された茶を乱暴に飲んだ。

「お茶菓子は花饅頭です」
「帰る。三つ包め」
「冷めますけど大丈夫ですか?」
「構わん」
「じゃあ、もうすぐ二つ蒸しあがると思うので少し待っていてください」

 絳攸は呆けたままその光景を眺める。今更ながらに気が付いた、が黎深と知り合いだったという事実でさえもどこか遠い話のように思えてくる。やがて饅頭が蒸しあがったようで、持ってきた家人に包むよう指示すると、は絳攸の側に来た。
 奇妙だ、と思う。目の前にいるのは己と身長もさほど変わらない、明らかに同年代の人物だ。それなのに何故、黎深とごく自然に会話することができているのだろうか。
 絳攸は、黎深と会話のできる人物を百合姫と一部の親族以外にまだ知らない。

「大丈夫?」
「………え?」
「いや、黎深さん帰るみたいだから……帰り支度、手伝おうかなと」

 そこで初めて絳攸は、が自分の上衣を持っていることに気が付いた。途端に堰きとめられていた川が溢れるように再び涙が溢れてきて、泣き止もうにも何故己が泣いているのか分からないのでどうすることもできず、絳攸はただただ困惑する。泣き顔を見られて恥ずかしいと思うし情けないとも感じるのに、止まらないので結局羞恥で顔が熱くなる。
 の姿もにじんで見えた。

「……んー」

 彼が小さく息を吐くのが分かって、絳攸は今すぐこの場から消え去りたくなった。ただでさえ黎深に呆れられ――絳攸は黎深の一連の態度をそう解釈した――、あまつさえ人前でみっともなく涙を流してしまっているというのに、この上にまで溜息をつかれたのではたまったものではない。
 走ろう。そして速やかにこの邸から出よう。絳攸はそう考え、袖で顔を隠すとさっきから棒のように動かない足をなんとか走らせるべく意識を向けた。


「……何だかんだ言って、やっぱり生きているんだね」


 突然降ってきた言葉に驚き、思わず袖から顔を上げると、柔らかな布で視界を遮られる。顔を隠すようにして頭の上からかけられたそれが自分の上衣であることは、焚き染められた香の匂いですぐに分かった。

「必死だし泣くし貶されるし落ち込むし喜ぶんだ。うん、うん」
「………?」
「うん。そっか。………そっか。…………同じだね」
「え!?」

 絳攸が驚きの声を上げると同時に、上衣ごしに抱きしめられた。

「ど、どうしたんだ、!?」
「…………」
「あ、ど、どこか痛いのか!?えっと、それとも……お茶を飲みすぎて腹をこわしたとか!?」

 何を言っているのだろうと自分でも思う。それでも、絳攸には今の状況が理解できなかった。

「絳攸」
「はいっ!」

 だから、呼びかけられて咄嗟に敬語が出てしまうのは、混乱しているせいなのだろう。

「なんか、ごめん。今までごめん。あと……ありがとう」

 彼の言葉は最後までよく分からないままだった。



 それから、何故抱きしめたのか、とか、何故謝ったのか、などの疑問点を全てうやむやにされつつ――なぜか絳攸には、黎深も一緒になってそれらの出来事をなかったことにしようとしているかのように思えた――や商家の者に見送られながら、絳攸は黎深とともに待たせてあった軒に乗り込んだ。
 沈黙が痛い。

「……」
「……」

 お互いに黙り込んだまま、車輪が石を弾く振動だけが伝わってくる。このままでは邸に到着してもこの空気が続いてしまう。それは百合姫に申し訳がないと、絳攸は残された勇気を振り絞った。

「あの、黎深様………さんって、どういう人なんですか……?」
「………お前はどう思った」
「え?」

 予想外に質問を質問で返されたことで絳攸は一瞬口ごもるが、すぐに答えを返した。

「……変な人だと……あ、いえ、別に変な意味ではなく!黎深様のご友人ですし、立派な……」
「友人ではない。友人の友人だ。それと、奴は変な意味で変な人間だからお前の考えは間違っていない」
「はあ……」
「……あいつは」

 ぽつりと黎深が漏らした。珍しいことだと、思わず絳攸は耳を澄ませる。

「外見と中身が違うだけだ」

 それって大変なことじゃないのか、と絳攸は思ったが、先ほど最後の気力を使ってしまっていたのでそれ以上追求することができなかった。
 だが分からないことをいつまでも放っておくわけにはいかない。絳攸は体力が戻ったらすぐに、それこそ今夜にでも彼について黎深に問いただそうと心に決めた。帰って少し休めば可能のはずである。



 しかし、軒を降りた黎深の腰に下げられた「お守り」を見て――絳攸の頭から、疑問は全て消え去った。
 痛いほどの寒ささえも一瞬、感じなくなった。

「黎深様、それ……」
「これは持ち歩くものだと聞いたが」
「あ、はい。確か本にはそう書いて……じゃなくて。身につけて……くださるんですか?」
「そういうものだろう」

 無表情に言ってのける黎深に肩を落とす。絳攸が聞いているのはそういうことではない。

「そうですけど、そうじゃなくて。……持って頂けるんですね」
「それがどうした」
「いえ、ですから……。……やっぱりいいです。ありがとうございます」

 このままでは押し問答になるだけだと結論付け、絳攸は会話を打ち切った。とにかく黎深はお守りを捨てずにいてくれている。そのことだけで十分だった。十分すぎるくらい、嬉しかった。

――今度は百合姫にも渡そう。そして、二人の許可が得られれば自分用にも同じものを作って。

 その夢のような光景を手にすることが出来たらどんなに幸せだろうか。


 絳攸は、今度は何か手土産でも持って礼を言いに――に会いに家を訪れたいと思った。
 結局その願いが叶うことはなく、彼と再会するのはそれから数年後――絳攸が史上最年少での国試及第を果たした後のことになる。





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2008.9.11
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